7-1 フレンチトーストの約束
◆◆◆
バターの溶ける匂いがしていた。
卵液につけられたパンが、じんわりふやけてきている。
テーブルには蜂蜜。後はフライパンで焼くだけ。
フィリクスが眉間にしわを寄せて呟いたのは、まさにその時だった。
「――早すぎるな」
その視線を追って、リュシアも窓の外に目をやる。
開けられた窓からは、湿った風が入ってきていた。
耳を澄ます。
虫の音も、鳥の囀りも聞こえてこない。
《香り》を感じないリュシアでも、森の様子がいつもと違うのは分かった。
「早いって、もしかして……」
「多分、魔法管理局だね。
もう森に入って来てるかも」
そう告げて、フィリクスはフライパンの火を消す。
「残念だけど、一緒に食べてる時間がないな。
後は焼くだけだから、良かったら食べて」
表情は優しいものの、外に向けられた視線はどこか冷たかった。
「後九日は捕まりたくないんでしょ。どうするの?」
「うーん。局の人間がいなくなるまで、森のどっかで隠れこうかな」
「それなら、いっそこのまま――」
思わず滑らせた言葉に、フィリクスの表情が一瞬止まる。
変なことを言ってしまった、と口を抑えたがもう遅い。
けれど、それは本心だった。
少し嬉しそうに笑って、フィリクスが首を振る。
「ううん、それはダメ。
もしここで見つかったら、それこそリュシアに迷惑かかっちゃう。
あ。もし捕まっても、リュシアが匿ってくれたことは言わないから安心して」
「っ」
そんなことは心配してない。そう伝えたいが、上手く言葉がでない。
口下手な自分に嫌気がした。
フィリクスが玄関へと向かうのを慌てて負う。
「あ、待っ――!」
伸ばした手は、フィリクスの裾をやっと掴んだ。
何かを言わなければ。何か。
「フ、フレンチトースト、一緒に食べるって言ってたのは?」
フィリクスがきょとん、とリュシアを見る。
何、子どもみたいなことを言っているんだろう。
口から飛び出した言葉に自分でも驚いて、恥ずかしさといろんな感情で胸の中がもみくちゃになる。だんだん顔が熱くなってきた。
フィリクスがはにかんで、リュシアの手を取る。
細くて長い指。少し骨ばった手からリュシアにはない力強さを感じた。
「そうだね。 じゃあ、また戻って来る。
今日が無理でも、絶対にまた一緒に食べよう。約束」
そう言って小指を結んだ。
そして、リュシアを家へ押し込める。
「じゃあ、また後で」
フィリクスがぱたん、と扉を閉める。
ふ、と小さくため息をついて、リュシアはキッチンへ戻る。
たった一日、二日いただけなのに、フィリクスのいなくなった家はどこか暗く感じた。
開いた窓から、風の唸る音が聞こえていた。
◆◆◆
リュシアの家を出ると、フィリクスは魔獣と戦っていた場所へと急いだ。
森の侵入者が魔法管理局なら、攻撃魔法の音がした方へ向かっているはずだ。
何としても、その場所よりもっと手前で魔法管理局に見つからなければ――
隠れておく、とリュシアには言ったが、そんな気は毛頭なかった。
魔獣戦があった場所から、リュシアの家まではかなり近い。
隠れれば、局の人間はリュシアの家を見つけるだろう。
魔法管理局の人間に、リュシアを会わせたくなかった。
魔力量の少ない人間なんて五万といるが、魔力のない人間は珍しい。
少なくとも、フィリクスは出会ったことがない。
魔力量が異常に多いフィリクスは、局の上層部に珍しがられた結果、人体実験の道具にされたことがある。
魔力のない人間だって、局に知られれば何をされるか分からない。
あんな思いを、リュシアにはしてほしくなかった。
誰も行かせない。
リュシアの平穏な生活を、自分が来たことで壊したくない。
そのためには――全員、一蹴する。
そして、できることならリュシアの家へ戻る。
そう決意して、フィリクスは冷たい風を切って走った。
◆◆◆
おおよそ十二人の局員たちと鉢あったのは、魔獣戦が起きた場所よりもっと森の入り口寄りだった。
フィリクスの姿を捕えた彼らが、ただちに構え出す。
鋭い視線が、フィリクスに向かっていた。
局員たちの足元に、拘束魔法の魔法陣が浮かぶ。
ざわざわと木々が揺れ、殺伐とした空気が満ちていた。
「フィリクス=ラウレント!
魔法管理局の名の下、お前を拘束する!」
先頭に立った局員の一人――ジェイドが声高らかに宣言する。
「そんな大勢で来ちゃって。
一緒に働いてる仲じゃない。そんな殺気立たなくてもさー」
フィリクスは耳をぽりぽり掻きながら苦笑する。
「ふざけるな!
お前のような庶民が、何度ダルセイン様の手を煩わせる気だ!」
「あー…ね」
ダルセインは、フィリクスも所属する魔法管理局魔法特務課の主任だ。と同時に、彼はエラディア王国の5本指に入る大公爵家、アストレイン家の子息でもある。アストレイン公爵は、現王の叔父だ。
貴族の同僚の中には、高貴な生まれのダルセインが、フィリクスの面倒を見せられているのを許せない人間がいた。
特に、先頭の魔法士――男爵家のジェイドはその傾向が強い。
日ごろから、フィリクスへの当たりもかなり強かった。
「そんなに急がなくても、後九日もしたら魅了はとけるよ。
その後なら出頭するから、それまで待ってもらえない?」
「お前が今回魅了したのはグランヴェル公爵家のご令嬢、アリシア様だ。
公爵家からお前を連行するようにと催促の依頼が来てる。
待ってなどいられるか!」
ああ、やっぱり公爵家の令嬢だったのか。
思わず肩が落ちる。
「ちなみに、どうやって俺の居場所を?」
「グランヴェル公爵の指示の下、ダルセイン様が広域探査機でお前の居場所を測られた」
「うわ。あれ一回百万円するんでしょ」
やけに局が来るのが早かったのは、そのせいらしい。
広域探査機は個々の魔力の《香り》を地図上に反映させる代物だ。
それを使われたら、上級魔法士などすぐに位置がばれてしまう。
「攻撃魔法を我慢したところで、意味はなかったってことだね……」
氷の牙が刺さったときのリュシアを思い出して、じわりと胸が痛む。
それならもっとガンガン攻撃魔法を使ったのに。
いや。もしそのことを知っていたら、きっとリュシアとは出会えていないけれど。
「――まあ悪いけど、捕まる気はないよ」
フィリクスの返答に舌打ちして、ジェイドが「打て」と吠える。
複数の魔法士から、光線が放たれた。
フィリクスを絡め取るための拘束魔法だ。
青白い光を放つ鎖がいくつも宙を舞い、フィリクスめがけて伸びてくる。
魔法管理局の魔法士がよく使う種類の中級魔法。
「これじゃ俺を捕まえられないって、分かってるでしょ」
と、フィリクスは手を上げる。
放たれた拘束魔法の鎖は、脆いガラス細工のように弾け飛び、地面に散らばって消えた。
「化け物め」
そう聞こえてきたのはどこからか。
「構わん、再度打て!」
ジェイドの声が森に響く。
無数の光線が、フィリクスを目掛けて伸びた。
11/9更新予定です(^^)




