プロローグ
――魔法管理局
女だ。女がいるぞ、という野太いざわめきに、フィリクスは後ろを振り返った。
渡り廊下の先には、金髪の女性が立っていた。
その大きな瞳が、真っ直ぐ自分に向けられている。
「え。うそでしょ」
と、フィリクスは思わず後ずさった。
彼女に見覚えはあった。
昨日、退勤時に後ろからぶつかってきた人だ。
人と充分距離を取って歩いていたのに、ぶつかられたのが不思議だった。
すみません、と言った彼女の瞳がゆらりと揺れたのを覚えている。
嫌な予感はしたのだ。
けれど、魔力の《香り》を抑える魔道具のケープも羽織っていたし、すぐ逃げたから大丈夫だろうと腹をくくっていた。
が、それは間違いだったらしい。
「フィリクス様っ。やっと見つけましたわ」
砂糖菓子のような甘い声で名を呼ばれ、ぞわりと悪寒が走る。
ここからは女性禁制区間ですよ、という制止も、彼女の行く手を阻む手も、ゴリラのように払いのけ、 猛スピードで彼女が迫ってきていた。
「フィリクス逃げろ!」
同僚の声にはっとして、逃げようとしたがもう遅い。
「わ…っ!」
金髪女に後ろから抱きつかれ、そのまま床へ倒れこむ。
振り向きざま、目の前に飛び込んできたのは上気した頬と開ききった瞳孔。
酔ったように揺れているそれは、完全に理性を失っていた。
魔力には《香り》がある。
その中でも、フィリクスの《香り》は特異だ。
――異性を魅了する《香り》。
おかげで、特殊な魔道具である防香ケープを身に着けなければ自由に外も歩けない。
しかも、ケープも万能じゃない。
《香り》に敏感な者や魔力量が少ない者には意味がないことがあり、 彼女もその類だったことは察しがついた。
まったく、運が悪い。
好いてもいない人から異常に好かれても、恐怖以外のなにものでもなかった。
「フィリクス様、お慕いしています。
こんな気持ち、初めてなのですっ」
まあ、ただ《香り》に当てられてるだけですけどね。
と、強引で極甘な声にうんざりする。
「ちょ…っどいて……」
もがけど騒げど、妙な拘束術でも使っているのか腕を振りほどけない。
蹴り飛ばしたら手っ取り早いのだろが、女相手に乱暴をするのは憚られた。
それに、貴族の令嬢だったらかなり後が面倒くさい。
質感からして、彼女のドレスは高価そうだ。それを職場に着て来れるのだから、高位貴族には違いない。
もし、公爵令嬢だったら……
苦い思い出が蘇り、血の気が引く。
以前、公爵令嬢を魅了してしまった時は大変だった。
公爵家の激昂を買ったフィリクスは『誑惑罪』に問われ、連行された後に拷問を受けた。正気に戻った娘がすぐに父親を説得してくれたから助かったが、そうでなければ死んでいたかもしれない。
思い出すだけで、未だに息苦しさが襲う。
あんな思いはもうごめんだった。
この状況を打破したら、すぐにここから逃げなければ。
フィリクスは思い切り息を吸い込む。
「助けてダルセイン様ぁああああ!」
叫んだ上官の名に彼女が怯み、その隙になんとかもがき出る。
転がるように廊下を走り、階段をかけ降り、魔法管理局の玄関へと飛び出す。
ここにはしばらく戻って来れない。
この後どこへ向おうかと逡巡して、そうだ、と思いついたのは、王都の西端にある森だった。
ティルフォレの森。
王都からほどよく離れたその森は深く、土地も広いと聞いたことがあった。
そこなら、例え局員が来ても隠れやすいだろう。
よし、と意気込み、フィリクスはティルフォレの森へと向かう。
《香り》のせいで拷問なんて、まっぴらごめんだった。