1-1 魅了の《香り》
――魔法管理局
女だ。女がいるぞ、という野太いざわめきに、フィリクスは後ろを振り返った。
渡り廊下の先には、金髪の女性が立っていた。
その大きな瞳は、真っ直ぐ自分に向けられている。
「え。うそでしょ」
と、フィリクスは思わず後ずさった。
胸元のケープをそっと握る。
彼女には見覚えがあった。
昨日、退勤時に後ろからぶつかってきた人だ。
人と充分距離を取って歩いていたのに、ぶつかってきたのが不思議だった。
すみません、と言った彼女の瞳がゆらりと揺れたのを見て、嫌な予感はしたのだ。
けれど、魔力の《香り》を抑える魔道具のケープも羽織っていたし、すぐ逃げたから大丈夫だろうと腹をくくっていた。
が、それは間違いだったらしい。
「フィリクス様っ。やっと見つけましたわ」
砂糖菓子のような甘い声で名を呼ばれ、ぞわりと悪寒が走る。
ここからは女性禁制区間ですよ、という制止も、彼女の行く手を阻む手も、ゴリラのように払いのけ、猛スピードで彼女が迫ってきていた。
「フィリクス逃げろ!」
同僚の声にはっとして、逃げようとしたがもう遅い。
「わ…っ!」
金髪女に後ろから抱きつかれ、フィリクスはそのまま床へ倒れた。
振り向きざま、上気した頬と開ききった瞳孔が目の前に映る。
酔ったように揺れている瞳は、完全に理性を失っていた。
魔力には《香り》がある。
その中でも、フィリクスの《香り》は特異だ。
――異性を魅了する《香り》。
おかげで、特殊な魔道具である防香ケープを身に着けなければ自由に外も歩けない。
そのケープだって万能じゃない。
《香り》に敏感な者や、魔力量が少ない者には意味がないことがある。
彼女は、その類だったんだろう。
まったく運が悪い。
好いてもいない人から異常に好かれても、恐怖以外のなにものでもなかった。
「フィリクス様、お慕いしています。
こんな気持ち、初めてなのですっ」
まあ、ただ《香り》に当てられてるだけですけどね。
と、強引で極甘な声にうんざりする。
「ちょっ、どいて」
もがけど騒げど、妙な拘束術でも使っているのか腕を振りほどけない。
蹴り飛ばしたら手っ取り早いのだろが、女性相手に乱暴をするのは憚られた。それに、貴族の令嬢だったらかなり後が面倒くさい。
質感からして、彼女のドレスは高価そうだった。
それを職場に着て来れるのだから、高位貴族には違いない。
もし、公爵令嬢だったら……
苦い思い出が蘇り、血の気が引く。
以前、公爵令嬢を魅了してしまった時は大変だった。
公爵家の激昂を買ったフィリクスは『誑惑罪』に問われ、連行された後に拷問を受けた。
正気に戻った公爵令嬢がすぐに父親を説得してくれたから助かったが、そうでなければ死んでいたかもしれない。
思い出すだけで息がしづらくなる。
あんな思いはもうごめんだった。
この状況を打破したら、すぐにここから逃げなければ――
フィリクスは大きく息を吸い込む。
「助けてダルセイン様ぁああああ!」
叫んだ上官の名に彼女が怯み、その隙になんとかもがき出る。
転がるように廊下を走り、階段をかけ降り、魔法管理局の玄関へと飛び出す。
ここにはしばらく戻って来れない。
この後どこへ向おうかと逡巡して、そうだ、と思いついたのは、王都の西端にある森だった。
ティルフォレの森。
王都からほどよく離れたその森は深く、土地も広いと聞いたことがある。
そこなら、例え局員が来ても隠れやすいだろう。
よし、と意気込み、フィリクスはティルフォレの森へと向かう。
《香り》のせいで拷問なんて、まっぴらごめんだった。
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