第一章 はじめから
Strings 第一章 「はじめから」
高々と立ち並ぶビルに、赤い航空障害灯が暗闇のなかで点滅している。
アスファルトと排気ガスの混じったようなにおいのする風が吹き、車のエンジンとクラクションの音が、まだ肌寒い都会の空に響いていた。
3月14日の夜である。
ーーーマンションの屋上。
街の営みと手すりから微かな金属音が響くなか、一人の青年が落下防止の為につけられた柵の向こう側に、その意味に背くように立っていた。
ひねくれた癖のある黒髪、白いパーカーの上には防寒用の黒いジャケット、渋みのある緑色のカーゴパンツと、そのポケットからは白いイヤフォンが上に伸びて耳にかけられ、黒いスニーカーの爪先の一部はマンションの外側に飛び出していた。
その目から光はなく、自分の背丈よりもはるかに高い人工物から、街を一望できるてっぺんから、ただ産み落とされたこの世界のことを見下していた。
人間が作り出した物から落ちて人間が命を落とす。
そんな思いつきの皮肉すら薄れ消えるほど、彼にはおよそ”生”と呼べるものへの興味は底をついていた。
青年は、自らその生涯を終わらせようとしているのである。
「はぁ…はぁ…」
息を切らす声と階段を駆け上がる足跡が響く。
「もうっ…なんて日なのよっ!」
今置かれている状況に愚痴をこぼしながら、一人の少女が緑色に光る非常口、マンションの屋上へと繋がる扉を目掛けて走り込んだ。
青年がイヤフォンの接続されたスマートフォンが入ったポケットに手を伸ばし、画面を操作する。自分の人生最後に聴く音楽を再生し、再度スマートフォンをポケットにしまい込んだ。
屋上に吹く冷たい風がイヤフォンの配線を揺らしたその時ーーー
バタンッ!
屋上へ繋がる扉が勢いよく内側から開き、息を切らした少女が飛び出してきた。
音のした背後を振り返り、目を見開く青年。
「はぁ…はぁ…あっ!見つけた!」
一瞬あたりを見渡し、青年を目で捉えた瞬間、少女はそう声を上げると全速力で青年を目掛けて駆け出した。
まるでこれから青年が何をしようとしているのか、何が起こるのかが分かっていたかのように。
もう一度、眼下を見据え、歯を食いしばる青年。意図していないタイミングと事態だが、目的は変わらない。
しかし、その高さに気圧されながら、街の明かりを目に映す。
タッタッタッタッ!
背後から感じる少女の近づく足音ーーー
青年に向けて真っ直ぐに伸びる腕ーーー
黒いスニーカーは地面を蹴り上げ、青年はマンションから飛び降りた。
額に浴びる風、浮遊する足、そして浮き上がったパーカーのフードをーーー
ポフッ
少女の手が掴んだ。
グッ!
青年の体が急停止し、上に引っ張られたフードがその首を締め付ける。
地面に叩きつけられて死のうが、首を吊って死のうが青年には関係なかったのかもしれないが、地面はまだはるか遠く、首を締め付けて逝くには、パーカーのフードでは縄よりも長さが足りなかった。
しかし、引っ張られた服により顔が圧迫されて呼吸が苦しくなっていることには間違いはなく、少し赤くなった顔で青年は自分のフードを掴んでいるであろう少女を見上げる。
「なにやってんのよ!バカ!」
青年は罵られた。その「バカ」にはどんな意味が込められているかはさておき、柵から上半身を乗り出して、歯を食いしばりながら、しっかりと少女の手には白いフードが握りしめられていた。
もう一方の手も伸ばし、フードを握りしめ、両手で青年の落下を食い止める。しかし、少女一人の力では、青年を柵の内側まで引き上げるには難しそうだ。このまま少女の力が限界を迎え、手を緩ませ、青年が地に落ちるのもそう長くはかからないであろう。その時だった。
「…ッ、大丈夫か!どうなった!?」
男性の低い声がした。しかし、マンションの屋上には、落ちかけた青年とそれを支える少女以外に誰もいない。
「なんとか間に合ったけど私一人じゃ無理っ…そろそろ限界っ…早くきて…!」
その男性の声に応えるように少女は声を漏らした。
「待ってろ!今すぐ行く!」
よく聞くと男性の声は少女の耳から発せられていた。
黒色の小型インカムのような通信機。少女の頬側に伸びる細長い形状をしており、緑色のライトが小さく点灯している。それを少女は左耳に装着し、おそらく通信相手であろう男と話していた。
グググ…
少女の力が限界を迎えようとしているのか、さらに少し前に身を乗り出す。青年一人を支える腕も限界なのであろうが、腹部に当てつけられた柵が、さらに少女を苦しめていた。
「くっ…!」
息を漏らす少女。そして青年もまた上に引き上げられた服が顔を圧迫し続け、微かに白目を剥いて涙を浮かべている。
互いがついに限界を迎えようとしたその時ーーー
バタンッ!
再度、屋上の扉が勢いよく開けられた。
「どこだ!」
通信機から聞こえた声と同じ声の男が二人を探す。
「こっち!はやく…!」
安堵と焦りの入り混じる声で少女は男に助けを求めた。
タッタッタッタッタ…
少女に駆け寄った男がさらに青年の服を掴む。かなり大きな手だ。
「よし、同時に引き上げるぞ…せーの!」
男の掛け声と共に勢いよく青年の体は上に引き上げられ、
ドスンッ!
マンションの屋上、その内側に重い音を立てて引き戻された。
先程まで首を締め付けられていたせいか、圧迫された苦しみから解放された息に身を委ね、自分の体を引き上げた少女が何やら、後から駆けつけてきた男に対して、遅いだ何だのと文句を口にする声を微かに聞きながら、成し遂げられなかった目的と、意図せぬ形で繋ぎ止められた命に打ちひしがれーーー
青年の視界は遠のく意識と共に暗転した。
ーーー固く冷たい感触が背中に不快感を与え、額に当たる風が青年の意識をゆっくりと覚まさせる。
ぼやける視界が都会の空と、その中心で屈みながら青年を見つめる人物をうっすらと捉えた。
「気がついたか」
先ほど少女と共に青年を引き上げた男が青年に語りかけた。
ゆっくりと上半身を起こした青年の目はまたしても光を失っていた。自分の命を救った人間に向けられる顔とは明らかに違う、ムスッとした表情で、声の主のほうを見る。
「…食え。チョコレートだ」
そう言って男は、未開封の板チョコを青年へ差し出した。赤いパッケージには「ミルクチョコレート」と書かれている。
場の空気に流されてか、青年は戸惑いつつも板チョコを受け取り、その右後ろからは、呆れ返った声が聞こえた。
「…ったく。私がいなかったらアンタ今頃アスファルトのベッドで永眠してたわよ」
先ほどの少女の声だ。状況が状況だったため焦りに焦った青年は、その姿をしっかりと見てはいなかったが、視界のぼやけも消えはじめ、自らの行為を阻止されてしまっているこの環境下では、嫌でも落ち着いて二人の顔を確認できた。
オレンジ色の長い髪、後頭部で一つに束ねられたポニーテール、焦茶色の動物の毛がフードや手首周りに付けられたモスグリーン色のコート、その下には白いTシャツが見え、紺色のジーパンを履いた少女が腕を組みながら、緑色の瞳で青年を見下し、立っていた。
その正面。口と顎に髭を蓄えた黒人の男性。スキンヘッドにオレンジ色のレンズをした黒縁のサングラス、その中の目は青年側からは見えず、濃い翡翠色のロングコートは風でなびき、その下のYシャツの襟元には、紫色をした石が装飾してあるタイループが顔をのぞかせ、手には黒いグローブをはめている。
屈んでいた男がゆっくりと足を伸ばし立ち上がった。座り込んでいるせいもあるのだろうが、青年から見た男はかなりの長身だった。おそらく190cm近くはあるだろう。
そして、腕に巻かれたコートを捲り、グローブの上に巻かれた時計を確認しながら、長身の男は言った。
「延命させてしまってすまないが、どちらにせよお前はもうじき死ぬことになる」
青年は片耳のイヤフォンを外して男を見上げた。
腕時計から青年に目を移した男は続けて口を開く。
「富野渚、お前の余命は残りあと…」
ヒュウウウウウ…
星の輝きが呑まれた都会の夜空に冬の尾を引いた冷たい風が小さく吹き込む。
「三年だ」
そう宣告した男のコートが、ヒラヒラと波打つようになびいていた。