妻の登山靴
駅前から、バックパックを背負った40歳前後の女性が乗ってきた。もう一度、会ってみたいと思わせたものは何だったのだろうか。
金沢駅のタクシー乗り場。その人は、トレッキング・ストックをサイドにセットした小柄なバックパックを右肩にかけ、タクシーに乗り込んできた。そして、座席の横にバックパックを置くと、目的地を告げた。車は、走り出した。ドライバーは、冗談のつもりで声をかけた。
「これから、白山ですか?」
女性は40歳くらいなのだが、以外にも生真面目に答えてきた。
「いいえ。白山には登りませんけれども、今、新潟の山から帰ってきたところなんです」
「そうでしたか。その山は標高はどれくらいなんですか?」
「1400メートルくらいです」
「失礼しました。私は、大学時代、ワンダー・フォーゲル部でした」
「そうですか。タクシーの運転手の方に、そんな方がいらしたとは、初めてです」
「登った山で一番高い山は、台湾の新高山です。真珠湾攻撃の時に使われた『ニイタカヤマ、ノボレ』のあの新高山です。現在の台湾では“玉山”、ユイシャンといいますけれども」
「それはすごいですね。あっ、そこを左です」
「失礼しました」
タクシーは女性に言われるまま、左に曲がった。
「ユイシャンの標高は3,996メートルで、頂上に4メートルの蒋介石の銅像が立っていて、4000メートルになっています」
「今も、登られているんですか?」
「最近は、金沢の医王山に登っています」
「医王山? ああ、あの小学生の時にハイキングで行きました」
「標高は1000メートルくらいですけれども。結構、登っている人が多いんです。トンビ岩とかもあっておもしろいですね。私には子供が男、男、女と三人いるんですけれども。長男と次男が高校生の時、次男が、『お父さん、感性を磨きたいんだけれども、どうしたらいい?』と聞いてきたので、すかさず、『山に行こう!』と提案したら、あっさりOKしてくれて。それで、男三人でテントを背負って八ヶ岳の赤岳に、一泊二日で登りに行ったんです」
「すごいですね。子供たちも素直について来たんですね。うらやましいです」
「このまま、まっすぐでいいんですか?」
「はい、しばらく、まっすぐです」
タクシーは住宅街の中を走って行く。
「八ヶ岳は、学生時代から一人でよく登っていて、子供たちには『お父さんの“青春の八ヶ岳”へ、登りに行こう』ということで」
「素敵ですね」
「妻は、8年前にガンで他界してるんですけれども。妻とは一緒に山に登ったことがないんです」
「亡くなられてるんですか‥‥‥、そうですか」
「でも、彼女は登山靴は持っていたんです」
「それは、いつかは一緒に登りたかったんでしょう」
「‥‥‥」
今度は,タクシードライバーが黙ってしまった。
しばらくして、車は目的地に着いた。降りるとき、その女性は、
「また、機会がありましたら、お話の続きを」
といって、庭の奥へと消えていった。