男は「唐突ですが、話を聞いてくれますか?」と
深夜の中野坂上の交差点。男がタクシーに乗り込んだ。誕生したばかりの『失恋男』だった。「僕、さっきまで泣いてたんです」と女々しくいう男。そんな男にタクシー・ドライバーが伝えた話とは……。
深夜の午前2時半過ぎ。その男は中野坂上の交差点の手前で手を上げ、タクシーを止めた。午前2時半過ぎというのはタクシー・ドライバーにとっては迷う時間帯。
『そろそろ仕事を終えて会社に向かわないと帰庫時間に間に合わない。そうなると、帰庫時間超過の言い訳を一筆書かなければならない。一手間、増える』
迷いながらもタクシーは左に寄り、男を乗せた。そんなドライバーの一瞬のためらいも知らずに、男は行き先を告げた。
「お待ちどうさまです。どちらまで?」
「中野駅」
男は、はっきりとそういった。タクシーは後続の車の気配りに感謝の意を込めハザードを2回ほど点滅させ、発進した。
スタートしてしばらくすると後部座席の男は突然、ドライバーにいった。
「唐突ですが、話を聞いてくれますか?」
確かに唐突だった。ドライバーは何事が始まるのかと一瞬身構えた。社内で犯罪が実行されたときに、外部に異常を知らせるためのエマージェンシー・ボタンにタクシー・ドライバーは右手の人差し指を乗せ、男の言葉を待った。
「実は……」
タクシードライバーのエマージェンシー・ボタンの上に置いた右手の人差し指に力が入った。
「ついさっき、恋人に振られたんです!」
男が最後に発した「……たんです」が、タクシー・ドライバーの耳の奥でしばらく繰り返された。タクシードライバーはどういうリアクションをすればいいのか、迷った。返答によっては、最悪の事態を招きかねない。永遠に続くのではないかと思われた最悪の瞬間を、脳の海馬の記憶を瞬時にめぐらせながら解答を準備した。
「そりゃあ、おめでとう!」
と、タクシー・ドライバーは全身の力を振り絞って答えた。ともすれば失恋男が暴れだすかもしれないとういう危険を犯しての、一言だった。
「本当に、さっきまで泣いてました」
男はわずかに、気持ちが高ぶっている。
「女性には何んといわれたんですか? 別れの言葉は……」
「一言、『嫌いになった』って」
「えっ?」
タクシー・ドライバーは聞き返した。
「嫌いになった! って」
意気消沈していた失恋男の声がわずかに大きくなった。タクシー・ドライバーは『意外と元気なんだ。しかも冷静。良かった』と思うと同時に、次の質問を投げかけた。
「付き合って何年ですか」
「一年半です」
「彼には彼女にそういわれる原因は、何か思い当たるんですか。たとえば、浮気とか」
タクシー・ドライバーはマイナスの方向へと集中しているだろうと思われる失恋男の気持ちを分散させるために、質問を続けた。
「確かに浮気とかもありましたけど。でも……」
次の瞬間、タクシードライバーの海馬から、ある記憶が色を伴って鮮明に蘇った。
あれは下北沢の近所の代田の淡島通りがすぐ側を通る、アンバーな色の電灯が脳裏に残る、古い寿司屋の4人がけの席だった。
「僕は、三者会談をしました。すし屋で」
「ええ! 三者会談ですか!」
「そうです。別れた女は、その後、周囲の友達から伝わって来たんですけど、踏み切りで電車に飛び込もうとしたそうです」
そういいながらタクシー・ドライバーは、当時よく渡っていた小田急線の踏み切りを思い出していた。今では高架されていて、もう、その踏み切りは存在しないかもしれない。
「ヘビーですね、それは」
男の意識が集中していた一点から分散の方向へと動いた。
「今はどうなっているんですか。その時、選んだ彼女とは?」
「結婚して子供もできて……。でも、5年前に彼女はガンで他界しました」
「そうだったんですか、失礼なことを聞いて」
「亡くなったころは、美しいものを見ても美しいと思えず、おいしいものを食べてもおいしいと思えず。美しいものは美しいと、おいしいものはおいしいと思えたのは、愛する人がいたからなんですね。愛する人に、そのことを伝えたかったんですね」
「ああっ、初めて聞きました今の話。感動しました。また、泣けてきました……」
「申し訳ない。もうすぐ、中野駅ですよ」
「駅に着くまでに、泣き止みますから……」
深夜の中野駅前のロータリーには客待ちのタクシーがまばらに止まっていた。何気なく見上げた夜空の高層ビルの上には、上弦の白い月が浮かんでいた。