別れ際のキス
男と女の関係には、いろいろある。別れ際、女は男にキスをせがんだ。
新宿の繁華街も午後10時を過ぎると、チラホラと酔い客も家路を目指し始める。
大きな横断歩道の中ほどで、男女のカップルがタクシーを止めた。歩行者用の信号は赤の状態だ。他の客は、横断歩道を渡って来ない。タクシーとお客の間に、荷台に荷物を載せた老人が通り過ぎようと割って入って来た。カップルの男は前に立ったまま、老人をにらみつけた。老人は二度、自転車を進ませようとしたが、ついに、男の前に自転車を止めた。タクシーのドアが開いた。カップルは、止まったままの自転車の前をタクシーに乗り込んだ。
男がタクシー・ドライバーに言った。
「まっすぐ」
タクシードライバーは応えた。
「かしこまりました」
男と女は、車が走り出すとすぐに話し始めた。友人の批判をしている様子だ。突然、男が言った。
「運転手さん。環七を過ぎたところで、左斜めに入って」
「かしこまりました」
カップルは再び話し始めた。しばらく細い道を行き、大きな門の前で男が言った。
「運転手さん、ここで止めて。俺だけ降りるから。この人を世田谷まで。運転手さん、よろしくね」
「かしこまりました」
タクシー・ドライバーは応えた。男がタクシーを降りる間際、女が男の方に首を伸ばして、キスをせがんだ。男は軽く、女にキスを返した。男が降りた場所は、お寺だった。
タクシーは、女の目的地へと走り出した。すると女は、男の批判を始めた。
「あれで、お坊さんなんだからね、あれでよ」
「はあ……」
タクシー・ドライバーは意味もなく相槌を返した。
「偉そうに、何様だと思ってんだろうね」
「まあ……」
「あの人は、あのお寺の教育係だっていうんだから、笑っちゃうわよね」
「そうなんですか。最初は、どこかの組の人かと思いました」
「そうなのよ。新宿なんか特によ。あの人と歩いていると、すぐに誰かともめて」
「そうですか……」
「日本だけよ。宗教家が、死人でお金を儲けている国って。戒名で何十万ももらって、お経を読んで何十万、何百万ってもらって」
「そんなにもらうんですか」
「お気楽よね。一般庶民が一万円稼ぐのに、どれくらい苦労しているかって、知らないのよ、あの人たちは」
「はあ……」
別れ際の女からのキス。あれは何だったんだろうと、タクシー・ドライバーは思った。