女の変身セット一式
昼間は地味なOLをしている、銀座のホステスの変身セット一式。その変身セットの行方は……?
東日本大震災から1ヶ月ほどたったころのことである。ある平日の夕方、25歳くらいの女性がタクシーを利用した。タクシーは、夕方の混雑し始めた幹線道路を、目的地へと急いでいた。そんな時、女性がタクシー・ドライバーに質問した。
「最近、夜の銀座で“震災特需”が、もう始まっているんです。それで、お客さんが多いと、私がタクシーの手配をしなくちゃいけなくなるんですけど。先日、それで困って。私、普段は地味なOLをしてて、夜だけ銀座でホステスしてて」
「そうですか。もう、銀座では“震災特需”が始まっているんですか」
「それで、ひとつお聞きしたいんですけど。よく、タクシーが捕まらないときに商社の人とか『裏の番号を知ってるから』といって、タクシーを手配する人がいるんですけど」
「ああ、よくありますよね、そういうの」
「で、“裏の番号”って、なんなんですか、あれは?」
「そうですね。通常、タクシーを呼ぶときは、配車の部署の電話番号でタクシーを呼びますよね。でも、慣れたお客様の中には、配車のための番号じゃなくて、その会社の総務の電話番号に掛ける方がいるんです。本来は、お教えしないんですけど、何らかの事情で流れたんだと思います」
「それなんですか。なるほど」
「でも、『おかけ直しいただけますか』といわれることもあります。でも、実は、もっと確実な番号があるんです。それは、タクシーの運転手の個人の携帯の番号に直接電話するんです。これは、確実。よくご利用していただいているお客様に、直接お教えしていることが多々あるんです。これは、確実です」
「ああ、それですか、裏番号って。きっと、それだと思います。うちの彼氏は商社に勤めているんですけど、たまに“裏番号”でタクシーを呼んでます。それだったんですね」
そこで、本来ならタクシー・ドライバーは自分の携帯電話の番号を教えるところなのだが、彼は教えなかった。“慎重”になったわけでも、“面倒くさい”と思ったわけでもない。教えなかったのは、とどのつまり、仕事熱心でなかっただけなのだが。
「やっぱり。で、実は、ちょっと困って。それで、実は彼が呼んでくれたタクシーに乗って二人で帰るときに、私、荷物をタクシーの中に忘れたんです」
「じゃあ、すぐに見つかりますよ」
「でも、ちょっとまずくって。彼には、私が昼間は地味なOLをしてるこをと伏せてあって。実は、その荷物は、地味なOLの“変身セット一式”だったんです」
「それは大変だ。微妙ですよね……」
「そうなんです。いろいろ事情があって、昼間のことは彼には隠しているんで、その中身が彼にばれると、まずくって。今の運転手さんのお話だと、“裏番号”のタクシーの運転手さんと、うちの彼氏とは話が通じ合っている可能性が高いということですよね」
「まあ、そういうことが多々ありますよね」
「だとすると、忘れ物の中身が私のものだということが運転手さんにわかったら、絶対、彼に電話しますよね。逆に、私の方から言い出すと、もっとまずいですよね。墓穴を掘りかねないですよね……」
「そうですよね……」
これは難問中の難問。タクシードライバーも返答に窮した。解決策は見つからない。やっぱり彼女として取るべき行動は、“沈黙”を守り通すのがベストなのかもしれない。後は、“裏番号の運転手”の気転に期待するしかないだろう。気まずい空気が車内に満ち始めたのを感じたタクシー・ドライバーが、気転を利かせて口を開いた。
「人生、収まるところに収まるものですから、大丈夫ですよ、きっと……」
と……。ますます車内の空気が、暗くなった。