ナンパ
ナンパされて、そのまま結婚するなんて……、あると思います。
震災から一ヶ月ほどたったころ、東京も表面的には幾分、落ち着きを取り戻したよう見えたが、その傷の深みのほどは、わからない。ただ、人々の“活気を取り戻そう!”という気持ちは、みな同じだった。
日曜日の午前10時ころだった。明治通りから斜め左に新宿のホテル街へと入って行く路地に、タクシーが入った。一本目の路地を越えたころ、カップルの男性が手を上げ、タクシーを止めた。
男性の指示にしたがって、まず、女性が乗り込んだ。そして、男性もその後に続くのかと思われたが、男性は、その場に残って、女性だけを車に送り込んだ。男性の声に従って、タクシードライバーは車を出した。
斜めの路地から区役所通り、職安通り、そして明治通りを左へとタクシーは走って行く。
彼女の行き先を指示する声に、わずかながらナマリを感じたタクシー・ドライバーは、自分のことを話したくなった。
「私は、富山の出身なんですよ」
というと、彼女は、
「そうなんですか」
と、興味ありげに、声のトーンを上げた。
「もう、東京に出てきて30年になりますけれども。大学時代に彼女ができてなかったら、多分、田舎に帰って就職してたと思います」
「それって、ありますよね」
「でも、結婚した相手は、学生時代に知り合った彼女じゃないんですけれども」
「ええっ! それって……。人生って、そんなもんですよね」
「結婚した彼女は、新宿の喫茶店でナンパしたんです」
「ナンパ、ですか。その相手と結婚したんですか?」
ナンパした相手と結婚したということが、彼女には信じられないようだ。
「小田和正のあれですよ。“あの日、あの時、……”、っていう感じ」
彼女が歌詞の後を続けた。
「“あの場所で君に会えなかったら”っていう、あれですよね」
「そうです。まさに、“キセキ”ですか」
「ふーん、ナンパで知り合って、その相手と結婚するって、本当にあるんですね」
「運命を感じます。カミさん以外には、考えられないっていうか。だから、カミさんとの出会いは、キセキだったと思ってます」
彼女の声のトーンがわずかにさがった。
「今の彼とは、あんまり……。なんだが……」
タクシーは程なくして止まった。料金を払って降りる彼女に、タクシー・ドライバーは思わず声を掛けた。
「キセキはあります。絶対!」
彼女は、そういうタクシー・ドライバーに笑顔を残して、午前中の明るい光の中へと歩いて行った。