表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

モーテル8号室

モーンガータ

作者: 穹向 水透

42作目です。精神的にちょっときついけど頑張ります。



 海は広いな大きいな。その通り、海は広くて大きい。広くて大きいから、神でさえも見逃すような場所が出てくる。それは眼を凝らさねば見えないジャングルや雪原ではなく、また視る者と同じか、それ以上の高さにある雲でもない。そう、それは海の真ん中、所謂、絶海にあるのだ。何故、偉大な存在が見逃すか、それは固定観念からだ。何処を見ても雑に絵の具で塗ったような海原なんて、神でさえ具には見ないのだ。

 この島だって視野から外れた場所のひとつだ。宛ら夢の中にあり、誰かが意図的に隠したような島だ。酷く小さく、周囲を岩礁に囲まれている。簡単に言えば正方形に近く、原始のテスクチャーのように驚くほど平坦だ。島は大半が砂浜で、中心の一部分のみが緑色だ。緑色の大地には数本の椰子が背を伸ばしており、ココナッツも確認できる。そして、その椰子たちに囲まれるように建っているのが灰色の古呆けた納骨堂である。歴史的価値は少しもないただの納骨堂だ。

 この正方形の島の狂った特徴と言えば月である。いや、月と偽の月である。まず、東を見ると月が灯っている。さて、西を見よう。そこにも月が灯っている。南と北も言わずもがな、月が白く冷たく灯っている。月は各々、真っ黒な海面に光の道を作り出している。ここの月は本物であれ、偽物であれ、満ち欠けはしない。だからこそ、ここが夢か趣味の悪い箱庭かと疑わないといけないのだ。この絶海の孤島は現実から歪曲し、追放されたから、こんな死後のような月光に照らされているのだろう。

 今、この島には四人の人間がいる。誰も来た際のルートなど憶えていないが、それぞれが酷くちぐはぐしていて、とても共存は叶わないような連中であった。月の光がなくとも簡単に狂うような、そんな風な。

 空木淘(うつぎ とう)はコンピュータ弄りに時間を割くことを厭わない大学生だ。よれよれのシャツに、よれよれのズボン、洒落た風に見せたくて茶色にした髪。探すまでもないような青年だ。彼は東の砂浜にぽつりとあった背凭れのイカれた椅子に腰掛けて、望み薄だが朝を待っている。

 ジェリックは西の岩場で寝転んでいる男だ。悪魔を崇拝する頬の小洒落たタトゥーが特徴で、常に上半身を露出した状態でいる。筋肉質な身体をしているが、菜食主義者だということだ。なお、寝転んでいるのは他でもない、空木同様に朝を待っているのだ。

 ()という襤褸の布を纏った男は北を眺めている。彼は足の指に偽造パスポートをいくつも挟んで、満ち足りたインフラのある懐かしき生活を回顧しているのだ。何処にも行けないというのは構わないが、彼の唯一の懸念は、寝る前の睡眠導入剤の不足だ。

 デイジーというドラァグクイーンは南の砂浜で上体起こしをしていた。不摂生で弛んだ身体を、かつての華々しい時代まで引き戻そうとしているのだ。このどうしようもなく孤立した島において、積極的に狂っているように見えて、最もポジティブに、自分を見失っていない人間だと言える。上体を起こす度に月が見えるので、デイジーは舌打ちをした。あの真っ白なお化けにはわからないだろうが、その光で花は開かないのだ。そして、デイジーもまた、東と西同様に朝を待ち続けている。

 今のところ、中央の納骨堂には誰の骨も納められていない。あるのは誰かの死んでしまった身体のみだ。ネームタグによれば、ル・テという人物らしい。まず眼を引くのはアルビノであるために真っ白な皮膚と髪。次に男と女の両方の特徴を持った身体だ。しかし、どんな人物だったのか、死んでしまった今は確かめようがない。ル・テの死因はよくわからない。それがわかるほどの頭を持ち合わせた人間がいない所為でもあるが、取り敢えず、外傷は見られず、恐らくは病気だと思われた。

 ル・テを発見したのは空木だった。このおどおどした青年は島で眼を醒ました後、すぐに探索に向かった。そして、その探索の途中で意を決して納骨堂に入り、ル・テを発見した。空木はネクロフィリアの気があり、命の飛んだル・テを襲おうとしたが、両性具有の姿を見て止めたようだ。

 同時刻、蘇は枝で水面を叩いていた。バタフライ効果というものを過信している蘇は、自身が起こした波紋がいずれは津波となり、そのスタート地点を辿ろうとする人々によって見つけてもらえると思ったのだ。蘇は教養がなかった。それは蘇の生まれた環境に問題があったが、それにしたって蘇は学問を毛嫌いして、ただ怠ける生活を送っていた。だからこそ、自堕落に路地裏で寝て起きる日々を送ることになってしまったのだろう。

 ジェリックはヤドカリを掴むと、月に向かって投げつけた。彼は短気なタイプで、すぐにものを投げる癖があった。その内に自分の首でも引っこ抜いて投げてしまいそうな勢いだった。ジェリックには気に入らないことが多かった。まず、こんな島にいることもそうだが、加えて見ず知らずの胡散臭い連中と同じ地にいるのが耐え難かった。そして、ココナッツしか食料といえるものがなかったことだ。ライターは持っているが、それでヤドカリを焼いて食おうというのはジェリックのジェリックがそれを許さないのだ。プライドの高さは彼の短所だ。

 デイジーは空木の後を追って納骨堂へ向かった。心臓に剛毛が生えたデイジーには死体も悪魔も平気だった。生まれた時に恐怖という防御システムを母親の子宮に置いてきたらしい。空木を追ったのは、シンプルに空木のことがタイプだったからだ。納骨堂の入り口からそっと中を覗くと、空木が死体に口付けをしようとするシーンだった。デイジーはそこにも惚れた。どんな形であれ、愛するということは生物の最も高等な性能なのだ。デイジーから見て、空木は眠った白雪姫を起こしたい王子だ。けれど、その王子は口付けの寸前で顔を離した。そして、納骨堂から走り去っていった。デイジーはよくわからなかったが、納骨堂に入り、ル・テの華奢だが撓る身体に体重を掛けて、壊れそうなほどに愛した。やはり、愛の形態に制限はないのだと確信しながら。

 さて、夜が始まり、月が冷たく灯ってから、四人が知っているだけでも二十時間が経った。依然として夜の帳は下りたままで、月も交代する気配はない。つまり、狂ったように夜が続いているのだ。

 蘇は狂った夜の月を見上げながら、海水を飲んだ。無知故に海水が安全な水だと思ったのだ。魚が住める水を人間が飲めないわけがないという考えだった。蘇は自分の賢さに感謝しようと思った。何故なら、自分以外の連中は海水の存在に気付いていないようで、ひたすら喉の渇きに苦しんでいるからだ。

 蘇が他人を嘲り嗤っている頃、空木は岩場で湧き水を発見した。指につけて舐めてみたが塩辛くはない。恐らくは真水だろうが、そうでなくても喉の渇きは押し寄せていたので迷わずに飲んだ。少なくとも妙な味はしなかった。この湧き水が安全か否かは知らないが、もし有毒で死ぬようなことがあってもいいと思った。死ねば月はひとつに戻ると思ったからだ。

 ココナッツが柔い砂地に落下した瞬間を目撃したのはジェリックであった。何となく椰子を呆然と眺めていたのが、怠慢な菜食主義者である彼にはラッキーだった。自ら幹をよじ登って実を手に入れるなんてのはとんでもない苦行である。自分のような人間が、何故、こんな島でそんな卑しいことをしなければならないのか。動物であれ、植物であれ、育てるという労働は下層の者どもの役目なのだから。落下したココナッツを抱えて、ジェリックは既に安住の地と化した岩場に腰を下ろした。三方向が岩に囲まれ、一方向は黒々とした海で、そこには冷たく白い道が作り出されている。この狂気とともに降り注ぐ光に頭がおかしくなりそうだったが、ココナッツのお陰で正気を保てている。狂気の源は月光ではなく、食べるものがないという窮地の方だ。人間は衣・食・住のひとつでも欠ければ狂うのだと、ジェリックは実感した。

 息も絶え絶えになるほどに愛をアピールしたデイジーは納骨堂の中で煙草を吸った。残りは五本で、何となくカウントダウンのように見えた。デイジーは死ぬのなんか怖くはなかった。死ねば何もかもの柵から解放されて、本当の自由な自分へと変われるのだから。自分の横で眼を開けない真っ白な両性具有の人物は、比喩するほどもないが、天使であった。この混沌とした身体は天から遣わされた者の真髄で、きっと、自分をあの混沌とした自由な世界へ連れてってくれるのだろう。自由というのは得てして混沌としている、そんなことは羊水でちゃぷちゃぷしていた頃から知っている。しかし、本当に天使だとして、何故、この寂れた納骨堂で横になっているのか。何故、胸の上で左手と右手を重ねているのか。わからない、と心の中で呟きながら煙を吐いたのだった。

 最早、誰も朝の到来など期待していなかった。極夜になるほど極地ではないし、ならば、神の死角にあって、物理や科学の世界を超越した夢や幻の島であると認識し始めたのだ。

 空木は服を脱いで海に身体を浸けた。月の光は冷たいが、気候は寒冷ではなく、寧ろ、温帯にあるようで過ごしやすい。海も海水浴するのに充分すぎるほどの水温で、空木は勢いよく潜った。昔取った杵柄というやつで、するすると空木は泳いだ。幼少期に通わされていたスイミングスクールが案外役に立っている。少し泳いでわかったのは、付近の海は遠浅で、下は砂地であること。そこには無数の海草が生えているが、魚は一匹も見当たらなかった。ただ、蟹はやたらと見た。蝤蛑(ガザミ)というなかなかゴツゴツした蟹である。食用であるというのは知っているが、それを捕まえられるほどの技能はない。何故なら、スイミングスクールでそんなことは教わらなかったからである。

 蘇は海から離れて緑の地を踏み、中央の納骨堂に入った。薄暗い納骨堂で眼を引くのは、やはり、倒れているル・テの姿である。蘇は思わず近寄り、その頬を舐めた。さて、味はなかったので、つまり、これは生き物ではないということになる。恐らくは大いなる悪魔が遣わした夢魔の類いだと考えた。これと関わっては朝を待つも何もない、そう思った蘇はル・テを一瞥するとすぐに納骨堂から出て行った。扉も閉めようと思ったが、どうやらイカれているらしく、扉はびくともしなかった。仕方がないので、取り敢えず、中の夢魔から最も遠いだろうと思われる、さっきまでいた北の海岸へ逃げ去った。

 ジェリックはココナッツに苦戦していた。何しろ、道具なんかないので、岩に打ち付けるくらいしか食べるための術はなく、しかも、ココナッツが異様に強靭なのだ。苛立ちさえ月の狂った光に冷やされて、無心でココナッツを岩に打ち付け始めた。割れろ割れろ割れろ、と念じながら、同時に心の隅に、これはイミテーションなのではないだろうか、という疑念を生じさせながらココナッツを打ち付けた。

 散策していたデイジーにはバスンという音が連続で届いていた。それは岩の向こうから聞こえるようで、デイジーは岩を乗り越えて、その音の正体を確認しようと思った。岩の上はなかなかの見晴らしで、ここからだと月がふたつ同時に確認できる。それはつまり、月がひとつであり、他は錯覚である、という疑念を打ち払ってしまう絶望の景観でもあったが、デイジーは端からそんな疑念を持ち合わせていない。さて、音の正体は、筋肉質の上半身を露にした男が岩にココナッツをぶつけている音だった。上から眺めていたが、ココナッツと岩は絶妙な音を奏でている癖に、全く割れる気配がなかった。デイジーは岩の上、男の見えない位置で声も出さずに笑った。デイジーには、あれがイミテーションである自信があった。何故なら、椰子の樹を触った際、明らかに作り物の感覚があったし、実は、あの椰子は軽々と抜けるのだ。抜いてみればわかるが、根は張っていない。どう見てもイミテーションなのだ。それを知らずにココナッツを馬鹿みたいにぶつける男を笑わずにはいられなかった。大してタイプでもない男だし、殺してしまおうか、と考えたが止めた。人間というのは、いつ光輝くかわからないものだし、不殺というのも愛の形態のひとつだからだ。

 蘇は東西南北がわからない程度には教養がない。あっち、こっちで事足りる環境で生きてきたからだ。蘇は北の海岸へ走ったつもりだったが、全く見慣れない景色に辿り着いた。そこには背凭れがガタガタの椅子があり、青年が座っていた。少し髪が長い青年で、月の光に輝いていた。海に入ったに違いない、と蘇は思い、青年に近寄った。この暗澹たる海の情報はせめて知っておきたいと考えたからだ。蘇は青年の耳元で、青年よ、と囁いたが、返事はなかった。耳を澄ませば、青年は寝息を立てていた。蘇は少し苛立ったが、あくまで冷静に青年のもとを離れた。そして、なるべく波打ち際を歩きながら自分の知っている景色を目指した。

 依然として灯る月光の庇護下で空木は眠った。夢を見ることが可能ならそうでありたいと望むが、残念なことだ。夢という世界に入るのには巨大な南京錠付きの門を潜らねばならない。その鍵は公然の保管場所に秘密裏に隠されている。それを取り出せるのは、自分自身の自分が知らない領域の自分だけである。そいつに鍵を渡してもらって、南京錠を無効化した後でやっと夢に入場できるのだ。けれど、この冷たい月光の注ぐ島においては、関知不能領域の自分でさえも眠り、誰も鍵を取り出せない。だから、夢の外側の、羊水が溜まったような場所で、ずっとずっと、ちゃぷちゃぷしてなければならないらしい。そして、鍵穴に近付いてみて更に絶望する。いつもの既知の鍵穴と形状が異なっている。胎児のような夢は、今や歪んで畸形児となってしまったらしく、それに伴って、鍵穴も捻くれたものになってしまったようだ。つまり、もう夢には、あの逃避行の遊園地には、どうやっても入場できないということになる。仕方がないので、夢から脱出しようと、羊水溜まりの壁にくっついたドアへ向かった。このドアは空青でできているが、それは大した情報ではない。ドアは簡単に開く、筈だった。そう、ドアはびくともしない。あの納骨堂の入口が完全に狂っているように、ドアは押せど引けど動かない。つまり、つまりは、自分はこの羊水溜まりに取り残されてしまったらしい。空木は笑った。もう笑うしかなかった。現実にも夢にも裏切られ、もうどうすることもできない。そして、死ぬにも死ねない。誰か、慈悲を纏った誰かが、あの強靭なココナッツで殴ってくれたりしないだろうか。空木は笑って、噎せ込んだ。

 ジェリックはココナッツを海にぶん投げた。月に当たればいいのに、と思いながら。徐に海から上がってきた蝤蛑を彼は踏み潰した。ああ、憎たらしい。月には兎がいるんだったか、嫦娥がいるんだったか、そんな話を聞いたことがあるが、そいつら共々、散ってしまえばいい。どうして、あんなに円いのか、こちらを嗤っているように円い。お前がいるために太陽は昇らないのだ、ジェリックはそう叫んだ。それは宛ら月の光に変化を齎された人狼のように、凶悪で狂気的だった。憎さは天を突き、今にも火を噴きそうだ。彼は岩場から下り、納骨堂へ入った。そして、そこに横たわるル・テの腹部を踏みつけた。肋骨が砕け、内臓が悲鳴を上げたが、そんなことはどうでもよかった。もうこの身体は死んでいるのだから、何をしても許される。何をしても、誰も咎めない。そう、あの月の下では何人たりとも他人を責められない。ジェリックはそんなことや譫言を叫びながらル・テを攻撃した。しかし、唐突に意識は暗転した。

 デイジーはジェリックが狂っている様をずっと見ていた。世にもおかしな光景だと静かに手を叩いて笑った。ああ、愚かだ、と思いながら仰向けになった。月の煌々とした光の所為で星は輝けないらしい。そう思うと、あの月はとても憎たらしい。一介の衛星ごときが偉大なる星々を邪魔していいものか。そんなことを思いながら歯軋りをしていると、不意にジェリックが岩場から消えて、納骨堂の方へ向かうのが見えた。デイジーもそちらへこっそりと向かい、中を覗くと、ジェリックが美しき天使に暴力を振るっているところだった。デイジーは愛の形の自由を主張するが、自由の旗手である天使を壊させるわけにはいかない。静かに後ろから近付いて、興奮しているジェリックを一気に締め上げた。デイジーの方がジェリックよりも体格が良く、力もあった。デイジーはジェリックを落とすと、納骨堂の空の棺にぶち込んで、その棺の上に腰掛けた。デイジーは涙を流しながら、ル・テを抱え上げてキスをした。美しい顔は無事なようだが、腹部は無惨にも凹んでしまっている。それを見て怒りが込み上げたデイジーは棺を開けて、気を失っているジェリックの腹部を思いっきり踏みつけた。デイジーが履いているのはルブタンのハイヒールである。岩場をよじ登ったって壊れないタフなハイヒールだ。そんなもので踏みつけられたジェリックの腹部は、やはり見事に凹んだ。ル・テの酷い凹みよりも、深く深く、大きなダメージを残した。デイジーは棺の蓋を閉めて、納骨堂の奥深くに置いて、外へ出て行った。

 蘇は漸く自分の知っている景色に辿り着き、そこで蹲った。襤褸の布など纏わなくても平気なくらいの気温はあるが、それでも蘇は布を離せなかった。月を見る度、或いは黒々とした海を見る度に身体が震えるのだ。まるで蘇が騒霊となったかのようだ。蘇は自分の昨日までの、つまり、インフラの整った世界に生きていた記憶を漁る。自分はいつも通りに暮らしていただけだろう、と心の中で呟くが、その「いつも通り」の中にターニングポイントがあったかもしれない可能性を蘇は見なかった。視野が狭い蘇らしい回顧だ。しかし、蘇たちが、この正気を失くした島に飛ばされたことのきっかけなどわかる筈もない。何故なら、神すらそれを視ていなかったからだ。神が視なかった事象は夢という他ない。神が唯一侵せないのが夢の領域だからである。そう、蘇の言う「いつも通り」の暮らしは、確かに「いつも通り」であった。ターニングポイントなどない、いつものようにだらだらと起き、だらだらと空を仰ぎ、だらだらと眠った。それだけのことである。だが、蘇は必死に不可解だった記憶を探り、捏造する。自分が自堕落だったと認めたくないからだ。蘇は咽び泣いた。あまりに醜い嗄れ声で、ガアガアと。

 さて、不動にして不朽の月が冷徹に灯るのに、最早、誰も狂気など感じなくなった。確かに狂気はあるが、人々は狂気を正気と見なすことで心の安寧を図ったのだ。東には夢の牢に幽閉された囚人、西には潰された蝤蛑の骸、北には嗚咽と懺悔の醜い鳥擬き、南には鼻唄を奏でて夢の現を生きる者、そして、中央には腹部の凹んだ身体がふたつ。古来より月は狂気の存在で、確かにそうだと言えるくらいに、無様な状況である。

 ジェリックが眼を醒ますと、真っ暗な月光さえ届かない納骨堂の奥であった。上体を起こすと、腹部から抉られたような痛みが流れてジェリックは唸った。誰にやられたのか判然としないが、後ろから首を絞められたのはわかる。何とか立ち上がり、納骨堂から出ようとして、入口付近に転がるル・テを見た。こちらも腹部が凹んでいる。ジェリックはこのル・テの腰辺りにあるものを見つけた。それは解放の道具とも言えるもので、手に取って確かめてみれば、充分に役を果たしてくれる代物だった。早速、手に取って、納骨堂から出た。緩やかな潮風が肌を撫でて気分が良い。ああ、素晴らしい、ジェリックはそう呟くように叫んだ。

 東の椅子の上、まだ夢の無期懲役を課せられた青年は、粘度の低い羊水のような空間に漂っていた。今は死を待つ精神の殻である。そして、徐に素数を数え出して、7を頭に浮かべた瞬間、凄まじい熱を感じた。同時に羊水が一瞬にして消えて、一気に夢ですらない精神の暗黒へ、空木は7を連呼しながら、その無限の深淵に消えていった。

 南の海岸で知りもしないフラダンスを踊っていると破裂音が聞こえた。それは耳慣れない音で、デイジーは好奇心に駆られてそちらへ向かった。音は東の海岸から聞こえて、デイジーがそこへ赴くと、上半身裸の男が椅子に座った青年の頭を撃ち抜いているところだった。男が持っている銃は、何故か銃身が白く塗られている。デイジーは男に音もなく近寄ると顎にアッパーを食らわせた。男は例のココナッツに苛立っていた男で、躊躇いもなく銃弾を発射した。しかし、デイジーは弾を躱して、男の凹んだ腹部に攻撃を加えた。ムエタイで培った俊敏さが役に立った。自分に素直になる前はそこそこ名のあるナックモエだったのだ。結果的に逃げ出して良かったとはデイジーも思っている。男はなおも起き上がり、デイジーを撃とうと引き金を引く。デイジーも全力で躱す。先に男の白い銃のリボルバーから弾が尽きれば勝ちだと踏んで、そろそろ尽きるだろうというタイミングで間合いを詰めた。そして、男が困り顔をした瞬間に一気に攻め込んだ。仕留めた、と思った瞬間、言葉と思考がぐちゃぐちゃになった。頭を突き抜けるトンネルが開通したのは何となくわかった。弾はまだ残っていたらしい、弾はまだ残っていたらしい、弾はまだ残っていたらしい。柵から解放されるかどうか、そこだけがデイジーの気掛かりだ。

 ジェリックは南から来た派手で大柄なやつを撃ち抜いた。格闘術を嗜んでいるのか、やけに一撃が重かったが、流石に素手は銃には勝てないのだ。ジェリックは首を絞めたのはこいつだと確信した。咄嗟に弾が尽きた振りをしたのはなかなかの判断だったと自分でも思う。もし、弾が尽きていたら圧倒的な力で捩じ伏せられていただろうというのは想像に難くない。弾はあとひとつだけあり、どう使うかジェリックは考えた。まず、島を散策することにした。他に誰かがいると厄介だからだ。ここで初めて島が正方形に近いと知った。北の海岸で何かが漂着しているのを見つけて駆け寄ると、それは漂着したのではなく、単に波打ち際で死んでいるだけだとわかった。まだ体温があり、たった今さっき死んだらしい。襤褸の布を纏っていて、前歯が欠けた醜い小男だった。外傷はないので、憤死か、或いは海水を馬鹿みたいに飲んだか、どちらかだとジェリックは思った。どちらにせよ、死んでいるのならどうでもいいのだが。

 島の散策を終えて、再び東の死体がふたつある海岸へ。ふたつの死体は確かに死んでいた。この狂った光の下では死体でさえも狂気に駆られて動きそうで不安だった。その不安が払拭されたので、ジェリックは納骨堂に向かった。どうせ希望もないのなら、棺を船にして脱出してやろうという魂胆だった。納骨堂には変わらず真っ白なル・テが倒れていた。冷静に顔を眺めると、非常識に美しい。幼い頃に読まされたクリスマスの絵本の天使のようである。あれが初恋かと振り返ることができる程度には余裕が出てきた。自分用の棺を引っ張り出し、納骨堂を振り返った。こうなったら、あの天使も連れ出してやろうと思った。もうひとつ、棺を引っ張り出してきて、そこにル・テを乗せた。腹部が無惨に凹んで変色しているのは自分の所為だと反省した。だからか知らないが、自分の腹部も同じように凹んでいる。恐らく、肋骨が数本折れているのだろう。なるほど、これが報いか、とジェリックは呟きながらふたつの棺を引っ張って海岸まで向かった。海岸は最も障害物の少ない東の海岸にした。死体がふたつあるのが嫌だったが、岩に棺を擦って壊すより全然マシだと思った。

 ふたつの棺を水に浮かべて、煙草を吸った。派手な方の死体を漁って手に入れたものだ。これが最後の一服になるかどうか、ジェリックにはわからなかったし、大して気にしてもいなかった。死ぬのは自然の摂理に素直なことで、この島以外なら何処でだって構わない。神すら見放すような島で死んだら救われないではないか。

 さて、いよいよ出航、いや、正確には漂流の時である。先にル・テの天使のような身体を寝かせた棺を水に乗せ、自分の棺に乗り込もうとしたが、ジェリックは何かが砂浜に落ちる音を聞いた。そして、すかさず、そちらに銃口を向けて、引き金に手を掛けた。ジェリックは彼が思っている以上に張り詰めていたのだ。どうせ、もうこの島に用はない、そう思って撃とうとした銃はジェリックに反逆した。そう、暴発したのだ。ジェリックの意識は絶望する間もなく吹き飛び、肉体は浅瀬に倒れた。彼の乗り込む予定の棺とル・テを乗せた棺だけがゆらゆらと光の道を進んでいく。砂浜に落ちたのはイミテーションのココナッツだった。ジェリックはこのまま呪詛を吐きながら朽ちてゆくのだろう。

 月の光が海上に作り出した道を辿ってゆく。四つのイミテーションの月が紙細工のように剥がれてゆく。納骨堂の上空で、今まで姿を晦ませていたジェニュインの月がちらりと顔を覗かせた。満ち欠けのしない月が本物である筈がないのだ。それも知らずに朝に焦らされ、希望を磨耗させていった彼らは愚かである。本物の月が君臨すれば、あの狂気の島でさえ紙細工となり、黒い海に沈んでいくだろう。まだ夜は終わらないにしても、これで狂気のレーゼドラマは最終章の最後の一文まで到達した。さぁ、歓喜するのだ。この狂った話の終わりに。

 無音のファンファーレが響く頃、ル・テは光に照らされながら揺蕩うばかりだった。ル・テの心臓は停止し、肉体的には死んでいるが、まだ精神的には生きており、不幸なことに痛みなどの感覚は消えていなかった。この理不尽はル・テへの月からの呪いかもしれない。だから、ル・テはデイジーに襲われたことも、ジェリックのストレスの発散に使われたことも、知っていた。死んでいる筈の眼を通して知っていた。抵抗もできず、この身体が壊されようとしているのを眺めるしかなかった。「ルナシー」という言葉があるが、それは月に由来している。月が与えるルナシーはル・テがしっかりと観測した。あとは水葬されたので、それに任せて精神的にもシャットダウンするだけである。この天使のような白い身体は、少しでも狂気を和らげようとしてくれただろうか。ミイラ取りがミイラになるように、観測する立場の自分も狂気に呑まれてはいなかっただろうか。ああ、しかし、狂気に囚われたから今はこんな様なのだ。ああ、死んでゆく。本物のモーンガータの上を、祝福されるように、無音で流れてゆく。どうやら、死は狂気より緩慢で、幾分か幸福なものであるらしい。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ