4 いますが、
ここの温室は、あそことは違った。あそこよりもっと、『作られたもの』であるという雰囲気を、色濃く残した温室だった。
月の光はかつてと同じように冴え冴えとしていたが、夏の昼の残熱のままに自分を包み込む空気は、どこか重くもったりとして、糸を引く液体のように自らの四肢に絡みついた。
息苦しく、顎を上げて喘いだ。反らされた喉に何かが食らいつく幻想に襲われ、すぐに身を引いた。
靴の踵が、籠った音を立てた。床を踏みしめる度に、規則的な振動は温室に広がった。
何故ここに来たのかは分からなかった。ただ、自然と足がこちらに向いていた。何とか理由をつけるとするならば、
――――月が出ていたからか。
誰も連れず、ただ一人で、温室を歩く。ろくに植物など見てはいなかった。探しているものは別のものだったが、見つけられなかった。
不意に立ち止まり、彼は、黙って天井を見上げた。ガラス張りの天井は、天穹に吊るされた白い玉の姿を、ありのままに伝えていた。
月の形はどこで見ても同じようだった。かつての温室で振り仰いだものと寸分違わないものが、そこには鎮座していた。
……満月だ。
自然と、脳裏に記憶が蘇った。昔の情景をそのままに辿ろうと、丁寧に思いを馳せようとしたそのとき、
温室の、扉が開く。
彼女は「あら、」と呟きかけ、それからはっと口を噤んだようだった。驚いたように瞼をもたげ、半開きになった唇は、そこから何かが飛び出ようとしたかのように戦慄いた。
滑らかな布地の白い寝巻き姿のまま、彼女は身を引くように、温室の扉を再び開き、踵を返そうとする。白い裾が翻った。
知らず知らずのうちに、待って、と呟いていた。彼女は息を飲んで振り返り、その場に立ち竦む。今にも泣き出しそうな目をしていると思った。遠くて、その瞳の様相など分かるはずもない距離なのに、何故か、明確な自信を持ってそう言い切れた。
「ひさしぶり」
そう囁くと、彼女は酷く嬉しそうに頷いた。一歩、二歩とこちらへ歩んできた彼女が微笑む。
足を踏み出して手を伸ばせば届く距離に、彼女がいる。言いようのないほどの懐かしさが腹の底から吹き出し、散々焦がれた熱情は渦を巻いて伸び上がる。
「アラル、わたしね、」
そう言いかけた、彼女の身体が、ちょうど光の射し込む位置へ差し掛かった。彼女の肢体は、冷えた光を反射し、眩いほどに輝いた。
丁寧に梳かされ、流れるように背を覆う金色の髪が、揺れた。
荒れたところのない白い肌が、身じろぎのたびに月光に照り映え、艶やかな生地で作られた寝巻きはむしろ質のいいワンピースのようにも見えた。
その頬は柔らかい曲線を描いた。その眼差しは突き刺さるように真っ直ぐ差し向けられた。その唇は淡い赤色をしていた。
目を細めて、嬉しそうに笑う。
そこにいたのは幸せな少女だった。
「違う!」
思わず叫んで、彼女を強く突き飛ばしていた。小さな体はいとも容易く宙を舞った。床を離れた足からサンダルが放たれた。愕然としたように、その青色をした目が、ゆっくりと見開かれる。
一瞬、空気が固まったような気さえした。彼女の腕が音もなく空を切った。その髪が扇のように広がり、服の裾はぱっと閃いた。彼女は月光の中に浮かび上がる。
瞬間的な幻惑は過ぎた。彼女は床に強く打ち付けられた。体の側面を下にするようにして地面に潰れたまま、彼女は小さく呻く。
「なんで、」
酷く怯えた目だった。それは今向けられた暴力に対するものではない。
「わたしが、なにか、悪いことをしたの?」
彼女の目の奥には絶望が渦巻いていた。容易く触れることも許されないような、深淵が、恐怖が、憧憬が、……。
それを見て、弾かれたように後ずさっていた。そこにいたのは紛れもなく『彼女』だった。
だから、名を呼ぼうとした。細く息を吸った。
「あいたかったよ」
――――リア。
そのとき、彼女は突如として表情を変え、大きく目を見開くと、困惑したように辺りを見回した。
「あれ? 私、いつの間にこんなところに来ちゃったんだろ」
そして、彼の姿を目に止めると、彼女は眉を上げて、それから安心したように照れ笑いを浮かべると、床に手をついて腰を浮かせる。
「あの、何かご存じですか、
皇帝陛下」
視界が、ぐるりと回った気がした。暗転。温室が消えた。立ち上がった彼女は溌剌とした表情のまま、ぞんざいな仕草で頭を掻いた。
「リア、」
息も絶え絶え、あの子の名前を囁いた。体がゆっくりと傾くのを感じたが、どうしようもなかった。手を伸ばしたが、彼女はその手を取らなかった。
彼女は、その呼びかけに混乱したように瞬きし、それから、酷く頭が痛むように、背を丸めて頭を抱えた。
床に倒れてから数秒して、彼女が隣に倒れ込んだのを、体に伝わってきた振動で知った。意識が途切れる寸前にそれを引き寄せ、両腕を回したところで、思考は完全に落ちた。
閉ざされた瞼を朝日が照らす。僅かに声を漏らして目を覚ましたディアラルトは、自分が来た覚えのない温室にいることに驚き、それから、腕の中で目を閉じて眠っているクィリアルテの姿を見つけて、口を開いたまま絶句した。
***
起きて、周りを見て、開口一番、私は絶叫した。
「ど、どどどどどどういうこっちゃあああああっ!?」
そばにいた皇帝は、自分も困り果てたと言うように、床に胡座をかいたまま、「うーん」と首に手を当てる。
「何が起こったのか分かんないけど、少なくとも俺は目が覚めたらここにいたんだよな」
「わわわ私もですけど、え、何で、ええ? じゃ、じゃあ、誰かが私たちをここに運んできたってことですか?」
「うーん……そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないよなぁ……」
要領を得ない皇帝に、私は「寝ぼけてますね」と診断を下し、それから周囲を見渡すと、ため息をついた。
「ここ、温室、ですよね」
聞いてくれ。何が起きたのか分からないが、目が覚めたら温室にいた。クレイジーだろ? 何を言っているのか分からないって? 安心してくれ、俺も分からない。ハハハ!
突如脳内に湧いてきたアメリケンなガイを押しやって、私は腕を組んだ。
私の寝室は自室とひと繋がりになっていて、要するにお城の中の角部屋の一室である。ちなみに最上階だ。
どう考えても自然と移動する距離ではない。断じてだ!
寝ぼけた頭を無理やり働かせながら、私は温室の床に尻をつけて座り込んだまま、ぼうっと皇帝を見上げていた。
「そういえば、皇帝陛下」
呼びかけると、皇帝はすぐに顔を上げて私を見て、首を傾げた。
「夜に何か言ってませんでしたか?」
「俺がか?」
「はい」
少し悩んで、皇帝は「いや、特に何も」と頭を振った。私もそれほど真剣に聞いたわけでもなかったので、「ですよね」と流す。
「何か覚えているのか」
皇帝の言葉に、私は低く唸って、腕を組んだ。
「覚えているかと言われると、まあ覚えてませんけど、何となーく薄ぼんやーりと記憶にあるようなないような……」
「夢じゃないのか?」
「うーん。そうですねぇ、多分夢ですね」
「夢なのか……」
寝起きで頭が働かないバカ二人が、床に座ったままむにゃむにゃと会話をしていたところに、陽気な鼻歌が割り込んできた。
ふんふん、と楽しそうに温室に入ってきたそのおじいちゃんは、私たちの姿を見るやいなや、ぎょっとして仰け反った。手にはじょうろがあるので、恐らく庭師か何かだろう。
「な……」
二の句が継げないように口を開閉させた庭師は、それから大きく息を吸って胸を膨らませた。
「何でこんなところにいるんですかーーっ!」
その声に寄ってきた使用人たちが私たちを発見するまで、さして時間はかからなかった。温室の入口でわらわらと群がる使用人たちの、その背後からメフェルスとフォレンタが両腕を振って全力疾走してくるのを見て、私たちは一斉に姿勢を正し、床に手をつくと、勢いよく頭を下げた。
そう、土下座である。
「クィリアルテ様!」
先に温室に飛び込んで来たのはフォレンタだった。床にひれ伏す私の体を掬い上げ、彼女は私の顔をまじまじと見た。
「どうされましたか」
低い声でフォレンタが囁く。どこか青ざめた表情だった。私は予想外の反応に、呆気に取られてぽかんとした。
「どうして、こんな、」
フォレンタは私の肩を掴んで、唇を震わせながら私の目の奥を見た。何を言っているのか分からないが、どうやら怒られなさそうな気配に私は安心して、目を細めて笑う。
「何か私も分かんないんだけど、起きたらここにいたんだよね」
誤魔化すように舌を出した。勝手に夜に部屋を抜け出して、温室で一夜を明かすなんて、絶対に怒られることだと思ったのだ。
「そうですか」とフォレンタは憔悴しきった顔で答えた。「探したんですよ」とも。
「朝になってみたら、クィリアルテ様も皇帝陛下もおられなくて、城中総出でお探ししました」
フォレンタは、私のむき出しの腕に触れて、「あまり冷えていませんね」と呟く。何故か背後で皇帝が激しく咳き込んでいた。
何はともあれ、とフォレンタは私の肩を抱いた。
「心配致しました、クィリアルテ様」
「フォレンタ……」
私たちは互いに見つめ合い、手を握った――。
「皇帝陛下ーっ!」
そんな感動的なやり取りの余韻を味わう間もなく、突撃してきたメフェルスのタックルによって、皇帝が吹っ飛ばされた。
「グボァ」と、およそ施政者には相応しくない声を上げて床にぶち当たる。そんな皇帝を見下ろして、自らは一切無傷のメフェルスが、両の拳を胸の前で握り締めた。心なしか、全身がわなわなと震えている気がする。
「……僕たちが、どれほど、心配したと、思ってるんですかー!」
叫んで、メフェルスは床に転がったままの皇帝に向かって突進し、その勢いのまま激しく抱きついた。「エグェッ」と、かなり致命傷に近い呻きを漏らした皇帝だったが、すぐに立て直し、首にすがりつくメフェルスの背に手を回した。
あらぁ……ここ、まさかBL世界だったとは知らなかったわ……。どうりで私と皇帝の恋愛フラグが立たないわけね……。
口元を手で覆いながら、皇帝とメフェルスの熱い抱擁を鑑賞していると、フォレンタが「また変なことを考えていますね」と白い目を向けてきた。
ご名答である。
***
私たちが夜中にいなくなったことに対しての追及は、ほとんどなかった。ありがたいと言えばありがたいのだけれど、あまりにもあっさりとこの件が流されたことに関しては、少し違和感があったのも事実だ。
フォレンタの手で身だしなみを整えられ、私は朝食の席につくべく、食堂へ向かった。
無駄に長い机の長辺に座った皇帝は、私が入ってきたのを見ると小さく笑った。私も笑み返して、向かいに座る。
「おはよう。よく眠れたか」
「おはようございます、良い朝でしたね。……温室でしたけど」
言ってから、私たちは同時に舌を出した。
和やかな雰囲気だった。もしこれが本当にロマンス小説の類だったら、ここで章が切り替わりそうなくらい穏やかである。
……あーあ、この章でも恋愛フラグ立たなかったわけね、と私は独りごちた。そもそも立てようとしていないことももちろんあるのだけれど、ほら、もうちょっとストーリーの強制力とかあっても良くない? 話が全然進展しないのだ。
春はパンゲアに来てわちゃわちゃして皇帝と仲良くなって終わり、夏もパンゲアでわちゃわちゃしてロズウィミア嬢と仲良くなって終わりということだろうか。まだ夏も半分くらいですけど。
これが、ゆっくりと親睦を深めてお互いに想いを抱くようになるための時間ならまだしも、なんというかそういうあれではないのだ。仲良くなったし(お友達の方向で)、親睦も深めたが、どちらかと言うと深まったのは皇帝に対する疑惑である。一体過去に何があったってんだ。
うーん、章の終わりっぽいし、暇だからそれっぽいナレーションを入れてみたらどうだろう。
ええと……。
あまり変化のない生活の中にも、確かに変化が訪れていることを、そのときの私は知るよしもなかったのだ――――。
あっ! それっぽーい!
まあ残念ながら私は現在にしかいられない訳だし、これもその視点から語ってるから、ここだけ未来からの視点が入るはずはないんだけど、でもこういうのが入るとそれっぽいよね! いいじゃん、格好良い。
私がご満悦で朝食を頬張っているのを、皇帝が気味悪そうに見ていたことに気がついたのは、それからしばらく経ってからだった。
***
温室事件からおよそ2週間。
どんな風の吹き回しだか分からないが、避暑地に行くことになった。まあこれから本格的に夏に入るしね。
しかし……。
「そんなに気軽に行って大丈夫なんですか……?」
「あんまり大丈夫じゃない」
出発前の馬車の中。引きつった顔で、私と皇帝は震えていた。
いきなり避暑地。特に予定もしていなかったのにいきなり休養。おかしい。あのメフェルスが、許可するはずがない。なのに発案者は当のメフェルスなのだ。
皇帝が勝手に執務室を抜け出して散歩に行っただけでも、メフェルスは鬼のような形相で追ってくる。それをいつも見ていれば尚更疑問に思うというものである。
……まったく、見た目だけなら本当に穏やかで優しそうな青年なのに、皇帝のサボりに関してやたら厳しい男だ。見た目は当てにならないことはここに来てすぐ分かった。多分その恐ろしさは皇帝が一番知っていることだと思う。
「俺は帰ってきたら殺されるのか……?」
「そうかもしれませんね……」
そして、メフェルスの提案に対して、フォレンタもあっさり頷いたのだ。
私が勉強すると嘘をついておやつを食べているところを発見したときのフォレンタを思い出す。殺されるかと思った。彼女は盗み食いだけであれほど不穏な空気を漂わせるというのに、……まさか特別企画『いきなり避暑地』を容認するとは。
「俺はとうとう見放されたのか」
「ま、まさか追放!?」
「嫌だ……」
「怖い……」
……何が怖いって、そんな厳しいメフェルスとフォレンタが、妙に優しいことなんだよー!
「あら、そのようにお二人で震えて……。寒かったでしょうか」
フォレンタが、毛布を手に馬車の中へ頭を覗かせた。棘のない口調に、私と皇帝が一斉に竦み上がる。
「全然!」
「寒く!」
「ないです!」
ぶんぶんと首を横に振りながら二人で答えると、フォレンタはゆったりと目を細めて微笑み、「お使い下さい」と言って別の座席に毛布を置くと、そのまま馬車を出た。
「ひぇええー! 皇帝陛下、何かフォレンタが優しいんですけど……!」
「俺も、貴女の侍女にあんなにも慈愛に満ちた表情が出来るとは思ってもみなかった……」
戦慄しながら馬車の中で震えていると、続けざまにメフェルスとフォレンタが乗り込んできた。もう私たちは完全に怯えきってひしと抱き合い、来たるべき叱責に備えた。
「準備が出来ました」
「さあ、行きましょうか」
優しく微笑んだ二人に、私たちは再度恐怖の声を上げた。
何? これは何? 章が終わったあとの閑話なのか……?
私は動き出した馬車の中で腕を組んだ。
サブタイトルは『楽しい避暑地』みたいな感じで、ほのぼの回なのかもしれない。そうだといいな、行き先は山の中腹の別荘で、部屋からは谷底の湖が見えるらしい。周りは果樹園だとかで、まだ収穫に季節は早いが、スイカ畑もあるそうだ。これはスイカ割りイベントが待っている予感がする。ないかも知れないけど。
ほのぼのしてきたとなると、話はそろそろ起承転結の承、中盤ってところかな? 早いな……。おなじみ定番展開をいくつかリストアップしておく必要があるかも知れない。
まずは、皇帝との親睦を深める展開がありそうだ。日常的にちまちま仲良くなってはいるものの、ほら、場所を移すときって大抵何か事件が起こ……。
あれ!? わざわざ移動するってことは、これ何かターニングポイントに繋がる可能性がありますね! 少女漫画とかでも夏に仲間同士で海に行ったら水着姿にドキッ! 悪い男にナンパされそうになったけどカレが助けてくれたの! キュン! もしかして、私、カレのことが……。ってあるもんね。犯人を追い詰めるときは必ず崖に行くし……。いや、これは違うか。
何はともあれ、ただの楽しい旅行回でない可能性に、私は胸を踊らせながら窓の外を見た。
これで一気に話が進んだらいいなぁ。
……だって、ロマンス小説の主人公は、最後には幸福な結末を手にするんでしょう?
私を誰より好きでいてくれる誰かに望まれ、皆に愛され、祝福されて、目も眩むような幸せを手に入れるのだ。
そうすればきっと、わたしもまるで辛い過去などなかったかのようにして生きられる気がした。
***
「着いたー!」
馬車から降りて、私は思い切り伸びをした。
別荘なんて言うから、どんな遠くに連れていかれるかと思ったが、馬車で半日程度の場所だったらしい。しかし、標高が高いこともあってか、何となく心が洗われる気がしてきた。
「随分久しぶりに来たな」と皇帝は首を回し、それから目を眇めて遠くを見やった。
「ほら、湖だ」
そう言って指さす方向に目を向ければ、山々の隙間に、空の青と白が見えた。
「わ、大きいんですね」
複数の山に囲まれた谷底に水が溜まっている。よくもまああんなに溜まったものだと頷いていると、フォレンタが近づいてきて微笑んだ。
「部屋の中からも景色は見ることが出来ますので、まずはどうぞお入りください」
「あ、そうだよね、分かった」
別荘たるお屋敷を眺めてから、私は小走りで玄関へと向かった。
出迎えてくれたエウゼスさんは、管理人として常駐しているらしい中年男性だ。やや頭頂部に不安を抱えているものの、気のいいおじさん感がするので気に入った。
「お待ちしておりました」とエウゼスさんが頭を下げて、扉を開いて先導してくれる。私は玄関に入ってから思わず仰け反って感嘆の声を上げた。
「本当にこれが別荘なんですか?」
私の後から入ってきた皇帝が頷き、腰に手を当てて玄関を見回す。
「長い間来ていなかったが、全然変わらないな。前より全てが下に見えるが」
「そりゃ成長したってことですよ。こんな立派な別荘があるのに、ずっと来ないなんてもったいないですねぇ。何なら私、毎週だって遊びに来たいですよ」
「それは流石に無理なんじゃないか……」
フォレンタが無言で頷いたので、私はこれ以上余計なことを言わないことにした。
「あの湖のほとりに、ある程度大きな街があるんだ」
「へぇ」
「行くか?」
「行きます!」
談話室の窓に張り付いて外を見る私の後ろから、皇帝が手を伸ばして一点を指さした。確かにそこには街並みが見え、私は目を輝かせて振り返る。
「ブゲェッ」
その瞬間、およそ少女らしくない声を上げて、私は皇帝の肩に顔面から衝突した。鼻から頬にかけてしたたかに打ち付けたせいで、何だか顔がひん曲がった気さえする。
「お、悪いな」と皇帝はすぐさま身を引いたが、私はそれどころではない。恨みがましい目で皇帝の肩を睨みつけ、いつか削ってやると決意した。
私たちの楽しい避暑地ライフは3日間与えられている。これを長いと見るか短いと見るかは全てが私の腕ひとつ。何としてでも死ぬほど満喫して英気を養うのさ! フォレンタが「お疲れのようですから休養を」って言ってただって? 知らない知らない、夏はひたすら遊び回る季節だって、ママに教えてもらわなかったの!?
馬車を出すほどの距離ではないので、と、私たちは坂を徒歩で降りながら森を眺めていた。あの別荘から街は随分遠く見えたが、実際はそれほどでもないらしい。別荘が崖の上にあるのと、街が高低差のある坂に作られているのが相まって、別荘の窓からは下層の住宅地しか見えないようになっているらしい。
さらに上層、別荘からよく見えない位置にある区域が、観光地となっている街並みで、貴族の別荘も多く建ち並んでいるそうなので、なんでもかなり栄えている街のようだ。見方によっては王都の城下町より豊かだとも言われるんだとか。末恐ろしい……。
なるほど、確かにすぐに街に着いた。人は多いものの、活気溢れるというよりは、どこか典雅な雰囲気さえ漂う整えられた街並みに、私は思わず目を見開いた。
「これ本当に避暑地ですか?」
「まあ、高級別荘地が隣接した格式高い避暑地というか」
思わず私は手を合わせて念じた。
「知ってる人に会いませんように……」
脇にいたメフェルスが、「それ、絶対会うときの言葉ですよ」と苦笑した。
とはいえ、生活必需品の類に不便はしていないし、特に好んでいる嗜好品もない。普段からドレスを着て、きちんとした格好をしている令嬢ならともかく、ここでもまた、どうせ行き先は田舎だと思い込んでワンピース一枚だけでうろついているような私には、宝石も必要ないだろう。
そもそも夏にドレス着るっておかしくない? めちゃくちゃ忍耐必要じゃない?
例えばロズウィミア嬢なんて、いつも綺麗なドレスを着て、お上品な香りさえ漂わせている。
この避暑地を歩いている、あの貴族らしき人影は、どうやらドレスは着ていないようだが、きっとロズウィミア嬢なら、こんなところでも素敵なドレスを身にまとっているんだろう。ていうか、あれ、この避暑地、案外服装に関して緩いのかな?
目抜き通りの向こうから歩いてくるのは、恐らく貴族の令嬢だろう。歩き方が綺麗だし、何か高そうな日傘もさしているし、侍女っぽい人も連れているし。でもドレスは着ていない。私のものよりもう少しきちんとした、ワンピースとドレスの合いの子のようなものを着ているようだ。紺色の布地が美しい。
顔が見える程度まで近付いた。あら、美人。ロズウィミア嬢と並べても遜色ないくらいに整った顔をしている令嬢だ。というか、ロズウィミア嬢と雰囲気が似てい……ロズウィミア嬢じゃないか!
「ロズウィミア様ー!」
私は大喜びで走っていった。慌てて残りの3人が私を追う。
ロズウィミア嬢は度肝を抜かれたように凍りつき、私の姿を認め、後ろから走ってくる皇帝たちの姿を目に入れると、次の瞬間、開いたままの日傘をこちらに勢いよく向けた。
「な、何で、このようなところに、」
日傘の向こうでロズウィミア嬢が取り乱したように言う。「ロズウィミア様、お気を確かに!」と侍女さんらしき人の声も聞こえた。
「……クィリアルテ様と皇帝陛下がいらっしゃるんですのー!」
今にも走って逃げ出しそうなロズウィミア嬢の腕を掴んで、私は日傘の脇から顔を覗かせた。
「こんにちは、ロズウィミア様。可愛らしいお召し物ですね」
「え? 服? ……やだ! い、いや、これはだって、ただの観光だと思ってたから、そんな、皇帝陛下やクィリアルテ様にお見せするようなものじゃ」
真っ赤な顔をして立ち竦むロズウィミア嬢は、自らの着ているワンピースがとても恥ずかしいらしい。まあ確かにそういうの着なさそうだしね。
「いいと思いますよ、似合ってます」
「やめてください、こ、こんなはしたない格好で出歩いていたなんて知れたら、社交界中の笑いものだわ」
「でも可愛いし似合ってると思いますよ」
近くで見てみると、ますます素敵なワンピースである。袖は流石に二の腕の半ば程度まであるが、裾はなかなか大胆に、脛半分程度までしかない。二列並んだ金ボタンが胴体の前面を彩る、可愛い紺色のワンピースである。超可愛い。
「……クィリアルテ様が、いつもこのような軽装でいらっしゃるので……。涼しいのかと思って、私も、少し試してみようと思っただけで、別に、そんな」
「あら、私の影響ですか? 嬉しいです」
とうとう観念して日傘を閉じたロズウィミア嬢が、細くため息をついた。私の斜め後ろに立っていた皇帝に滑らかに礼をして挨拶をすると、ロズウィミア嬢は改めて私たちを見た。
「それで、皆様お揃いでどうなさったのですか?」
「療養です!」
「あなた、むしろいつもより元気そうに見えますわよ……」
呆れたようにロズウィミア嬢が目を細める。私はえへへと照れ笑いして頭を搔く。
「そうね、あちらの崖の上に、王家のお屋敷があるのでしたっけ?」
「はい! あー、でもここからは見えませんね」
「いいえ、そんな、拝見しようだなんて思ってませんわ」
ロズウィミア嬢は来た道を引き返す羽目になったが、それでも私たちについてくることにしたらしい。侍女さんはその旨を伝えるために屋敷に戻った。
整えられた石畳の道を歩きながら、私は街並みをぐるりと眺め回した。
「ブランドもののお店が多いんですね」
「ええ、貴族が金を落とすように作られている街ですわ」
「わぁ」
ロズウィミア嬢は、流石、今しがた通ってきた道とだけあって、淀みなく街並みを解説してくれる。どうやら毎年来ているらしい。
「皇帝陛下、どうしたんですか? いやに静かですね」
さっきから黙りこくったままの皇帝を振り返って笑うと、皇帝は我に返ったように目を上げた。その目が、私とロズウィミア嬢を映した途端に、震える。何とか笑顔を浮かべようとしたようだった。
「ううん、楽しそうでいいなと思って」
変に少年めいた顔をして、皇帝は口角を上げた。
メフェルスが珍しく皇帝に対して優しく親しげに接し、そのまま肩を抱いてどこかへ消えた。
フォレンタが私とロズウィミア嬢に、「自由行動のお時間です」と微笑む。
「自由時間って……。あなた、学院の初等科の遠足にでも来てらっしゃるの?」
ロズウィミア嬢は私を見て顔をひきつらせた。言われてみれば、確かにこれ、遠足か修学旅行に近い。
「フォレンタ、これ……。あとで感想とか分かったこととか書いて提出しなきゃいけないなんてことは」
「書きたいなら発表する機会をご用意しますよ。そうですね、秋に開催される総会とか」
「書きたくないし発表もしたくないです」
余計なことを言うのはよそう。藪蛇だ。
にしても、いくら山中で避暑地だと言っても、こうも直射日光に晒されたまま外を出歩いていると、決して涼しいばかりとは言えない。ロズウィミア嬢の日傘に二人で入ろうとしたら距離が近くて尚更暑かった。
「あ、そうだわ」とロズウィミア嬢は人差し指を立てる。
「少し奥まったところですけど、私が懇意にしている喫茶店がありますの」
「へぇ」
ロズウィミア嬢がわざわざ言い出すってことは、余程素晴らしいところだってことだろうか。何かいい店知ってそうだしね。
「半ば、一見さんお断り、みたいなお店ですし、隠れ家のようにひっそり建っているものですから、ほとんど知られていないのですけどね」
「行きたいです!」
「ならご案内しますわ」
私も今年はまだ行ってないのですとロズウィミア嬢は楽しげで、目抜き通りから逸れた脇道を指さした。一瞬フォレンタが嫌な顔をしたが、すぐに表情を戻す。
「私が先導致します。ロズウィミア様、道をお教え頂けますか」
足音を立てずに進み出たフォレンタに、ロズウィミア嬢は鷹揚に頷いた。
「クィリアルテ様の侍女さん、あなた、お名前は何と仰るの?」
ロズウィミア嬢がフォレンタの後ろについて、複雑な路地を、やれそこを曲がれ、そこは直進だのと指示をする合間に訊いた。フォレンタは少し黙ってから、口を開く。
「フォレンタと申します」
「フォレンタ、さん……。綺麗な所作ですけれど、どちらの出でいらっしゃるのかしら」
「申し訳ございません、ご容赦下さい」
すっぱりとロズウィミア嬢の追及を切り捨てて、フォレンタは再び前を向いた。するとロズウィミア嬢は口元に指を添えて、小さく笑った。
「ローレンシアでは素性をお隠しになるのが流行りでいらっしゃるのね」
私は激しく咳き込んだ。な、何故私たちの出身がバレている!?
「何を仰っているのか分かりません」
フォレンタは平然と答えたが、ロズウィミア嬢は背後で咳き込む私の反応に、「あら」と呟く。
「試しに言ってみるものですわね」
「ひ、引っかけたんですか!」
「クィリアルテ様、一旦お黙り下さい」
口元を拭いながら、私はむっつりとロズウィミア嬢の背中を睨みつけた。
「『フォレンタ』というのはローレンシアの花の名でしょう? こちらには咲いていない植物ですもの、もしかしたらと思いましたの」
「へー、そんな意味だったんだ」
「クィリアルテ様、お黙り下さい」
そうか、知っている人からすればバレバレの名前だったわけだ、フォレンタ。だから名乗る前に少し渋ったのか。
「それに、クィリアルテ様はローレンシアの方でよく使われていた古語からでしょう。それを知らなくても、響きがどちらかといえばローレンシアの方の響きかと」
「全然分かんないです」
「明るい音をしてますわ。素敵なお名前です」
どうやらロズウィミア嬢は前から目をつけていた様子だが、となると不安になってくるのは別のことである。
「ええと、あの……。それって、もしかして、公然の秘密だったりしますか……?」
「いえ、勘づいているのは私くらいかと思いますわ」
ロズウィミア嬢は何故か苦笑して、少し目を伏せた。
「ロズウィミア様」とフォレンタは潜めた声で話しかける。
「……ご内密にして頂くには、どうすれば、」
やや顔色を悪くしながら、フォレンタが囁いた。ロズウィミア嬢は声を出さずに笑うと、首を横に振った。
「別に脅迫をしている訳ではございませんわ。むしろ、表沙汰にしていないことを勝手な憶測で暴いた私こそ無粋というもの」
それでもフォレンタは信用しきれないらしく、はっきりとした返事をしない。
「フォレンタさん、そう警戒なさらないで下さい」
ロズウィミア嬢が眦を下げて言った、その直後。
「なに、」
不穏な気配を感じて、私は振り返りつつかがみ込むと、ロズウィミア嬢の手から日傘を奪い取り、前も見ないで腕を振り抜いた。確かに感触があった。
「ふぎゃっ」
「きゃっ」
「おっと」
その勢いのまま、踏ん張れずに地面を転げる。私にぶつかられたロズウィミア嬢と、そのロズウィミア嬢に突撃されたフォレンタが続けて地面に倒れ込んだ。
尻餅をついた私の前に、逆光で顔は見えないものの、何やら棒のようなものを持った男が立ちはだかり、腕を振り上げた。
万事休すか、と身を竦めた瞬間、軽い足音とともに近寄ってきた、もうひとつの人影が跳躍する。
「お兄さん、それはおイタが過ぎますよ」と、男の後ろから二本の腕が伸びた。
見覚えのある少年が、私の目の前にいた男の首の前に両手を回すと、そのまま指を組んだ。そして間髪入れずに身を沈める。
後ろから、首に体重をかけて強く引かれた男は、大きく仰け反って体勢を崩した。その手から凶器が落ちる。咄嗟にそれを拾うと、地面を滑らせて背後に放り捨てた。刃物ではなく、打撃系の武器のようだった。
地面が揺れる。男が倒れた振動だった。倒れる寸前に体を返されたのか、うつ伏せで地面に打ち付けられていた。
下敷きになる寸前に身を翻した少年が、すぐさま男の肩甲骨の間を片膝で押さえて腕を捻り上げる。全身暗い色の服に身を包んだ少年は、首を手刀で殴ってさっさと気絶させると、片手で自らのベルトを抜いて男の両腕をまとめて縛った。
あっという間の出来事だった。
「隠密くん!」
私は目を剥いて叫んだ。手を払いつつ立ち上がった彼は、照れたように頰を掻いて頷く。
「こんにちは、クィリアルテ様」
「どうしたの、久しぶりだね」
そう、彼こそは皇帝が擁する密偵、我らが隠密くんである。名前は知らない。どう見ても暗部の人間らしくない純真なショタぶりと奇想天外な出没ぶりに定評のある(私調べ)隠密くんだ。パンゲアに来てから会ったのは片手で数える程。最後に見たのは……。春に私が蜂に追われて半泣きになっているときだな。あのときは偶然通りかかってくれただけなんだけど。毎度毎度記憶に残るような登場の仕方をする(どこからともなく降ってくる)。
「えっと……ぼくは久しぶりじゃないんですけどね」
気まずそうに言って、それから隠密くんは昏倒した男を背負って立ち上がる。
「待って、どういうこと」
「んーと、いつも近くにいたと言いますか、うーん……」
誤魔化すように隠密くんは目を逸らし、小さな体で男を背に担いだまま、首を傾げた。その場で軽く飛んで男を揺すり上げると、隠密くんは私ではなくフォレンタを見る。
「他の人間はぼくが一旦片付けてはおいたんですが、まだ何があるか分からないので、ご同行願えますか」
「はい」
フォレンタは頷いて、次にロズウィミア嬢に目配せした。彼女も承諾するように頷くと、隠密くんに向き直る。
「皇帝陛下お抱えの隠密ということでよろしいのね?」
「……あまり探らない方が賢明かと。明言は致しません」
申し訳なさそうに眉を寄せた隠密くんが歩き出す。私より身長が低いくらいの少年だが、皇帝直属で使われるってことは凄い子なんだろうなとその背を眺めた。
「あら、ここ、私が案内しようと思っていた喫茶店ですわ」
隠密くんが足を止めた建物の前で、ロズウィミア嬢が眉を上げて呟いた。隠密くんは何やら問いたげな目をして彼女を一瞥してから、再び前を向く。
私もそれに習って、その建物を眺めた。確かに隠れ家カフェ。一見ただの民家に見えるが、門扉に絡んだ蔦の下には、確かに看板が隠れていた。
門に付けられたベルを一度鳴らすと、隠密くんは門扉を押し開いて迷わず中へ入った。私たちにも続くよう促して、玄関の前で立ち止まる。
ほとんど待たずに扉は開いた。中年の女性が玄関の扉を押し開けたまま、私たちを視界に入れて数度瞬いた。それから、気を取り直したように表情を戻す。
隠密くんが、「ここでは何が頂けますか」と流れるように問うた。
彼女は「イーデルシーアの花の蜜が」と歌うように囁いて応じる。
隠密くんは微笑んで、「エルベドロイカの巣の欠片も一緒でないと」と続けた。
何言ってんだ?
「うん、本物ね」
女性は満足げに頷いて、半開きだった扉を完全に開け、私たちに入るように指示する。言われるがままに足を踏み入れると、すぐさま扉は閉じ、喫茶店にしてはやけに重々しい鍵の音が響いた。
「こちらへ」と言葉少なに彼女は先導する。喫茶店らしき部屋を素通りし、狭い廊下一列で歩いた。先導の彼女はカーテンを全て閉め切りながら早足で進む。
「エウゼスさん、こちらは皇妃様であらせられるクィリアルテ様と、その侍女のフォレンタさん、それからモルテ公爵家ご令嬢のロズウィミア様です」
「ええ、大方予想はしていたわ」と、エウゼスさんと呼ばれた彼女は頷いた。
「ロズウィミア様はお会いしたことがございますね」
隠密くんはやや驚いたような表情で、ロズウィミア嬢を振り返った。
「ええ、エイリーン様にお連れして頂いて」と知らない名前を出してロズウィミア嬢が頷く。誰だ?
「お久しぶりです」
あまり底抜けに明るいとは言えないような笑顔を頬に浮かべて、ロズウィミア嬢は小さく頭を下げた。
「それにしても、ここが役に立つ日が来るなんてね」
苦笑いしながら、エウゼスさんは廊下の突き当りまで到着し、カーテンを全て閉め切ったことを確認すると、私たちに再び廊下を戻るように言った。中ほどまで後退したところで、また止まれと合図する。
「さあ、お入りください。話はそのあとです」
言いつつ、何の変哲もないように見えた床の一点、虫に食われたような木の穴に棒を挿し込んで、捻る。よく見ると棒は凹凸が彫り込まれた鍵のようだった。
重い音を立てて、何かが足の下で動く。エウゼスさんが床を踵で蹴りつけると、大きく正方形に切り取られた床がずれた。ぴったりはまるように作られていたので気付かなかったが、どうやらこれは地下室への入口らしい。
背を丸めながら狭い階段を降り、私は思いのほか広い空間に呆気に取られた。エウゼスさんが部屋の隅の燭台に火を灯して、壁にかける。薄暗いものの、部屋の様相がぼんやりと浮かび上がった。机と椅子が中央に置かれている。壁側には棚があり、食料が積まれているようだ。
「空気穴はございます、ご心配なく」とエウゼスさんは言い、それから私たちに椅子を勧めた。
隠密くんは座らずに、そのまま地下室を出た。皇帝とメフェルスを連れてくるらしい。まあ、そりゃそうよね。
全身、黙りこくったまま、時間が過ぎた。時計もない部屋に、私たちの呼吸音だけがしばし響いた。
「えっと……ここは?」
沈黙に耐えかねて、私はエウゼスさんに向き直って問う。エウゼスさんは一度私の顔をじっと観察したあと、頷いた。
「王家の方々専用の避難所です。王家の別荘から最も近い街には全て配置されているんですよ」
「わあ、すっごい」
私が思わず素直に驚くと、エウゼスさんは少しだけ表情を緩めた。それまでどこか張り詰めた顔をしていたのだ。
不意に、黙りこくっていたフォレンタが口を開く。
「……別荘の管理人の、エウゼスさんとは、ご家族で?」
その言葉に、私も、別荘にいたあの気のいい中年男性を思い出した。確かに、あの人もエウゼスさんだった。じゃあエウゼスって名字か。
「はい。夫です」
「はぇー……」
あのちょいハゲエウゼスさん(夫)と、このちょい美人系エウゼスさん(妻)が並んでいる姿を想像出来ない。まあそう言ってるんだから夫婦なんだろうけど。
「あの、じゃあ、入るときに言ってた、イーデル何とやらってのは?」
私が首を傾げると、隣にいたロズウィミア嬢の方が頭をもたげる。
「イーデル・シーアは花の名前。エル・ベ=ドロイカはその花の蜜を主食とする唯一の蜂の名前ですわね」
もの言いたげなロズウィミア嬢(私には何が言いたいのかは分からない)の視線を受け止めて、一瞬動きを止めたエウゼスさんが目を細めて首肯した。
「合言葉です。味方かそうでないかを確認出来ない状態で中に入れるようでは、避難所の意味がありませんからね」
「へー……。格好いいですね、そういうの」
「他言無用ですよ」
「もちろんですって」
エウゼスさんが一旦席を外して、紅茶を淹れる道具と焼き菓子を取って高速で帰ってきた。そこから薄暗い地下室でのブレイクタイムが始まったが、いまいち盛り上がらなかったので割愛する。
それからしばらくして、門扉のベルが鳴らされる音を聞いた。この家中に響くようになっているらしく、澄んだ鮮明な音だった。
エウゼスさんが立ち上がり、地下室の階段を早足で上がって姿を消した。私たちは黙ったままそれを見送る。
ややあって、再び地下室の扉は開いた。長く伸びた光を背に、エウゼスさんが姿を現す。続いて、皇帝が険しい顔で降りてくる。見えないが後ろにはメフェルスがいるのだろう。
「クィリアルテ嬢、」と、地下室の入口に立った皇帝はいつになく真剣な顔をして呼びかけた。
「無事か」
のんびりくつろいで紅茶を啜っていた私は、そのときになってようやく、これが一大事であることを理解した。事態の急転についていけてなかったのは私だ。
何かが、すとんと落ちた。
「……怖かった、って、泣いた方がいいですか?」
皇帝の方は何故か向けなかった。ぽつり、と言葉を漏らすが、果たして自分が今どんな気持ちなのか、自分でも分からなかったのだ。
「それとも、全然平気、って、笑った方が?」
今になって手が震えた。もう誰の顔を見ることも出来ず、深く俯いた。
不意に両肩を掴まれて、私は息を飲んで顔を上げる。本当に、珍しく、皇帝が真面目な顔をしているのだ。だから、面白い、そう言って笑おうと思った。
「笑うな」と皇帝は先手を打った。私の頬が変な形のままで凍りつく。
「クィリアルテ嬢、……貴女は、無事か」
念を押すように問われ、私は一瞬息を止めた。自分でも分からない衝動が、腹の底に溜まり始めるのを感じた。
どうしようもなく逃げたかった。向き合うことを拒みたかった。皇帝の手は放れない。唇を噛み、それから私は堪えきれずに叫んだ。
「……無事です、けど! な、何で私が、こんな目に、遭わなきゃいけないのって、……だって私、何もしてないのに! 皇帝陛下と結婚したらこういう特典がついて来るなんて、き、聞いてません!」
だばー、と目から涙が流れ、私は泣きながらキレた。分かっている、自分でも分かっている。ただの八つ当たりだ、癇癪だ。でもそうでもしないとやってられなかった。
「療養って言ったじゃないですかああああっ!」
机を拳で打って立ち上がると、肩に置かれたままだった手に力がこもった。強く引き寄せられ、私は転ばないようにと一歩踏み出した体勢のまま、顔面から皇帝の肩に突っ込んだ。待ってろお前いつか削るからな。
「ぶべっ」
人にはおよそ乙女らしからぬ声を上げさせといて、皇帝はさも自分が大人ででもあるかのように私を宥めた。背を擦り、ときおり叩く。完全に赤子のあやし方だ。幼児を抱っこするときにぽんぽんするやつだ。
「う……」
私は、さりげなく後頭部を押さえていた皇帝の手をむんずと掴み、力強く引き剥がすと、その手首を強く握った。その手首が無言で振り払われ、一瞬胸が冷える。空気に触れた指先が、肩の高さに浮いたまま凍りついた。私が奥歯を噛んだ直後、素早く手を返した皇帝は、手のひらを合わせて私の手を握った。
これがもうほんとに駄目だった。
私は大きく息を吸って、目をつぶる。
「うわああああ!」
叫ぶと、堰を切ったように、言葉が口をついた。
「本気で怖かったんですよ! ほ、ほんとに、今度こそ死ぬんじゃないかって思って、だって、今回は、」
まさに癇癪を起こした子供だった。皇帝に頭突きしたままの格好で、私は必死になって泣きじゃくった。これが今、私に必要な行動であることは何故か分かっていた。
「悪かった」
皇帝が私の背を叩いて何度も呟く。私は肩を上下させながら、がくりと体の力を抜いて崩れ落ちた。
「それで?」
皇帝は鋭い目をして隠密くんを見やる。隠密くんは一度奥歯を噛み締めてから、顔を上げた。
「申し訳ございません、どこの手の者かは分かりませんでしたが、男が5人、クィリアルテ様たちの後をつけていました。うち4人は既に捕獲して別の者に預けてあります」
不満げにメフェルスが腕を組む。
「まあ、上出来だとは思うよ。残りの1人がそれだね?」
全く上出来だと思ってなさそうな口調で言うと、部屋の隅に転がしてある男を指さした。さっき隠密くんが足に何やら注射してたのが怖かったが、まだ気を失ったままだ。
「はい。ぼくの対応が遅れたせいで、直接襲撃をすることを許してしまいました」
忸怩たるものがあるのか、隠密くんは険しい顔で俯く。
落ち着いた私は、冷たい紅茶のカップを手で包みながら、ぼんやりとその様子を眺めた。隠密くんの口振りから察するに、彼はずっと、ついてきていたのだろう。他にも人はいるようだった。
……私は、守られていたのか。