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1 残滓と



 うららかな春の日差しを受け、わたしは芝生の上で寝転がっていた。丸裸だった庭の木も葉を付け、緩やかな風が心地よい。


 ローレンシアの春は快適だった。

 ……わたしは冬にここに来てから、一度もパンゲアに帰っていない。



 アラルは忙しいとかでパンゲアに帰ってのち、都合がつかなくてなかなかこちらに来れないらしい。詳しい話はまたおいおい、と女王と言ったきり、そのまま保留のかたちだ。


「姉さま」

 通りかかったイェシルが、少し驚いたように声を発した。わたしは軽く頭を上げて、その姿を確認する。

「隣に座ってもいい?」

「構わないわよ」

 草が折れる軽い音を立てて、イェシルがわたしの脇で膝を抱いた。わたしは再び空を見上げるように目を逸らした。



「姉さま、」

 ほんの僅か、躊躇いがちに、イェシルが口を開く。

「姉さまは、ずっと、ローレンシアにいるの?」

 わたしは黙り込んだ。それをどう捉えたのか、イェシルは慌てたように首を横に振る。

「別に姉さまに出ていって欲しい訳じゃないよ、でも」

 わたしはイェシルに視線を向けて、小さく口角を上げた。


「……でも、姉さま、結婚してるのに」


 所詮は当人の意思なく決められた契約だ。その中で一番、目に見えて分かりやすい断片がそうであるだけで。

「あれは正式なものじゃないのよ。いつでも反故に出来るわ」

 多分、今はパンゲアでその準備をしているところなんだろう。



「分かった、姉さまは拗ねてるんだね」と妙な結論を導いたイェシルに、わたしは跳ね上がるように体を起こした。

「なにそれ」

「皇帝陛下がなかなか迎えに来てくれないから拗ねてるんじゃないの?」

「違うわよ!」

 勢いよく首を振り、憤然として拳を握る。

「別に、わたしは、全っ然、気にして、ないんだから!」

「その言い方が拗ねてる人の言い方だよ……」

 肩を竦めてイェシルが呟き、それから地面に手をついてわたしに向き直った。


「あのね、僕、皇帝陛下にお手紙出しといたから」

 わたしはぎょっとして仰け反った。イェシルは真剣な表情でわたしを見上げていた。

「姉さまって今、お悩みとかない? 僕で良かったら聞くよ」

 何の話をしだしたのか分からず、わたしは面食らったまま答えに困った。

「別に……ないと思うけれど」

「それならいいんだ」

 よくないです。


「な、何でアラルに手紙を」

「……ちょっと用事があったの」

「一応訊いておくけど、何て書いたのかしら」

 イェシルはにっこりと笑って、人差し指を立てた。


「ふふん、……ひみつ」

 いや、言いなさいよ、とわたしは思わず毒づいた。



***


 つまるところ、どうやら、――――私はどこにも行けないらしい。

 しかし、それもそうだなとも思う。何故なら私がどこにも存在していないからである。


 前世の記憶はありったけ零れ落ちてしまったようで、私にはほとんど何も残っていなかった。あの子を助ける為のものを、私はもう何も持っていないようだった。

 すなわち存在価値の消失である。



 残念ながらこの体は「リア」のもので、私のものではない。私はどこまで行っても居候でしかなかった。間借りして主人ヅラをする代理人だった。

 だから、もう用済みになれば、消えると思ったのに、――やっと終わると思ったのに、



「消えないんだなぁ、これが」



 リアが眠ったあと、そっと浮上してきた私は呟いた。日中にリアが見聞きした物事は、私も共有している。本当なら夜は一緒に眠るべきなのだろうが、どうにも目が冴えて眠ることの出来ない夜があった。



 アルコーブに腰掛け、膝に頬杖をつく。細く長い息を吐いて、私は目を閉じた。このまま眠ってしまうと、リアは明日の朝ここで目覚めることになるのだろう。

 起きたら、場所が変わっている。考えてみれば、私もそういう経験があった。

 あれはつまり、リアが夜中に動いていたということなのだろう。いや、もちろん私の寝相が悪すぎるという可能性を捨ててはならないのだが。



「姉さま、」

 軽いノックの音から少し経って、部屋の扉が細く開いた。そこにいたイェシルに、私は虚を突かれて目を丸くする。

「眠れないの?」

 つとめてリアと似た口調で、私は優しく囁いた。小さく頷いて、こちらを見上げる少し不安げな表情を見ていると、妙な愛おしさが湧いた。


 私の弟じゃないのに。……あんまりにもリアに浸りすぎていたみたいだ。

 おこがましい、と内心吐き捨てた。あの子に成り代わろうとでもするつもり?


「姉さま、どうしてそんなところに登ってるの?」

 イェシルは歩いてきて、私の下まで到着した。私はふと言葉を失い、自嘲した。


 私の弟じゃないのに。……私の人生じゃ、ないのに。


「何でもないわ」

 呟いて、私はアルコーブから滑り落ちるように降りた。数歩進んでベッドに腰掛け、私はイェシルと目線を合わせた。

「ね、イェシル」

 私は俯いて顔を隠す。恐る恐る両手を伸ばした。


「手を、握ってもいいかな」

 私が差し出した手を、イェシルは無言で取った。しばらくの沈黙が続く。


 これは私の人生ではない。私の物語ではない。

 イェシルは私の弟ではないし、女王は私の母ではない。

 フォレンタは私の侍女ではないし、ロズウィミア嬢は私の友達ではない。


 ……私はあの人の伴侶ではないし、あの人も私の伴侶ではない。


 誰も「私」を求めてはいない。この命に宿ったときから全てが片思いとなるのは必然だった。「私」がやったこと、言ったことは、すべて「わたし」の行為であるからには。


 ――それでも、

「私ね、イェシルのことがすごく大切だよ」


 図々しい、と俯いたまま唇で呟き、私は目を閉じた。

 大丈夫、この言葉もリアの言葉になるから。



***


 早朝、謎の重みに苦しみながら目覚めたわたしは、腹の上に乗る足に仰天した。思わず足を思い切り払い除けると、それに繋がる体がごろんと転がって布団から頭を出す。

「……イェシル!?」

 予想外の顔に、再び仰天する。布団を引っペがし、体を丸めてイェシルがすやすや眠っているのを確認した。

「な、なんでイェシルがここに……?」

 愕然として呟くと、寝言のように「ふにゅ」と声を漏らしたイェシルが寝返りを打った。

 こちらに向かって。


「うぐぐぐ……! お、重い……」

 イェシルに潰され、わたしは苦悶の表情で呻く。イェシルの肩を容赦なく叩くと、程なくして目を覚ました。


「姉さま、おはよう」

 目を細めて、イェシルが言った。わたしは呆気に取られたままその言葉を受け止める。



「……あれ?」

 わたしはふと目元に手をやった。何故か指先は濡れて帰ってきた。

「姉さま、泣いてるの?」

 イェシルは心持ち眉を顰め、気遣わしげな調子でわたしの顔を覗き込む。わたしは瞬きを繰り返し、溢れようとする涙を目に馴染ませようと試みた。


 ときどき、なんてことのないときに、涙が出ることがあった。どこか遠くで胸が締め付けられるような感覚だった。

 そのとき満ちている感情は、寂しいと形容されるものに一番よく似ていた。


 目尻から雫が溢れた。こめかみを伝って、耳殻をなぞる。幾らかは枕へ落ちた。


「姉さま。僕もね、姉さまのことがとっても大切なんだよ」

 何を言っているのか微妙に分からない言葉を漏らして、イェシルが微笑んだ。



***


 講義が終わり、教本を閉じながらわたしは息をついた。文字を読めるようになった正確な要因は分からないけれど、お母様がそういう意味で「文字を読んではいけません」と言ったわけではない、と理解出来たことが大きい気がする。


 それでも、文字を読んでいると多少頭痛がすることはあった。眉間を揉みながら長い息を吐き、わたしは背もたれに寄りかかる。

「……疲れた」

 誰に言うでもなく呟いてわたしは目を閉じた。長らく文字も読めず、教育を受けてこなかったわたしは、王女として相応しい教養はおろか、一般常識も怪しいらしい。


「あ、そう言えば今日はパンゲアから人が来るんだった」

 わたしは思い出して立ち上がった。今日はお客様が来る日だ。

 その用件とは、ローレンシアとパンゲアの間でちょっとした条約を結ぼうっていうものだ。何を隠そう、わたしの発案でもあった。

「ローレンシアの北方に、ちょっと割安で優先的に食料を売る代わりに、パンゲアもちょっとお安く鉱産資源を分けて貰うのよね」

 なかなかいい案だと思う。もちろん他のところに影響が出たり不平等になったりしないように細かいところを詰めるのは、偉い人たちの管轄だ。


「ちょっと様子見てこようかしら」

 どうやらパンゲアでは、わたしは『ちょっと実家に帰った』ことになっているらしい。真実だが誤解を招く言い方である。

 そのためここで姿を見せると、『えっ実家が城? どういうことだ』となってしまうので、パンゲアの人が来ている間はうろちょろするなと仰せつかっている。


 ただ、まあ、……わたしがパンゲアに帰ることになるのかどうかは分からないけれど。



 フォレンタに見つからないうちに部屋を出て、玄関ホールへ向かう。道中の渡り廊下に差し掛かった頃、わたしは玄関に目を向けた。その前に、馬車が止まる。

 パンゲアの紋章だ。門番が出迎えた。

 何となくそこで歩調を緩め、わたしは馬車を見やる。扉が開き、パンゲアの城の廊下ですれ違ったことのある官僚が姿を表した。その後ろにもうちょっと偉い人。それから、


「アラル、」

 わたしは目を丸くして呟いた。ある程度距離があったが、その表情は何となく知れた。少し固い顔だ。


 そのとき、ふと、彼がこちらを向いた。わたしは大声も出していないし、手も振っていない。わたしがここにいることを知っているはずもなかった。

 たまたまこちらを見ただけだ、と結論づけた一瞬あと、彼はゆっくりと頬を緩めた。眩しそうに目を細めて、そして、片手を挙げた。


「な、なななななな……」

 咄嗟にしゃがんで窓枠の下に隠れ、わたしは口を開閉させる。なぜだかは分からないけれど、妙に心臓が高鳴っていた。顔が熱い。

「……病気かしら」

 わたしは愕然として呟き、そそくさとその場を離れ、再び玄関へ向かって歩き出した。


 途中でフォレンタにとっ捕まったが、何故か何も言われずに付き添われた。本当は今の時間は部屋で復習をしなければいけない時間なので、絶対怒られると思ったのに。

「……へぇ、皇帝陛下がいらっしゃったんですか。驚きですね」

 全く驚いていない口調で言って、フォレンタは大きく頷いた。

「せっかくですからご挨拶に行かれますか?」

「いや、それは……いいかな」

 わたしが顔を引きつらせて胸の前で手を振ると、フォレンタは怪訝そうな顔をして首を傾げる。

「何か遠慮なさってますか?」

「別に、そういう訳ではないけど……」

 わたしは唇を尖らせてもごもごと呟き、頬を掻いた。足元を見て鼻を鳴らす。


「わたしだけがローレンシアに残ったのって、何でかなって」

 フォレンタは息を吸って、顎を上げて応じた。

「私もおりますが」

「あっごめん頭数に数えてなかった」

「そうですか、クィリアルテ様は人間の姿を認識出来ない、と……。勉学に精が出ますね」

「どう足掻いても失礼なのね。何か呪いにでもかかってる?」

 そこまで言い合ったところで、わたしたちは同時に静まった。この会話がとんでもなく生産性が低いことに気付いたからだ。


「とはいえ、クィリアルテ様がローレンシアに残されたのは保留の意味合いが強いですからね」

 フォレンタは平然と話を元に戻した。

「保留?」

 わたしが聞き返すと、フォレンタは頷いて人差し指を立てる。

「現状、クィリアルテ様の立場はなかなか微妙で……ローレンシアの王女として公表するのもなかなか難しいですし、だからと言ってパンゲアに押し付ける訳にもいかないのでございます」

 ふぅん、とわたしは曖昧な相槌で、そのまま前を向いた。



 玄関に到着し、わたしは吹き抜けの上からホールを見下ろす。パンゲアで見たことのある偉い人たちが歩いてきていた。そして出迎えるのはこれまたローレンシアの偉い人たちだ。豪華な顔ぶれだね。

「あれ?」

 しかし、一番偉い人がいない。

「ねぇフォレンタ、アラルがいな」

 い、と言ってフォレンタを振り返ろうとしたその瞬間、わたしは目を剥いて絶叫した。

「ギャアァァアアアアアッ! フォレンタがアラルになっ、むごご」

 そう、なぜかフォレンタがアラルになっていたのである。問答無用でわたしの口を押さえたアラルは、呆れたようにため息をついた。


「クィリアルテ様、無闇に大声を出すのはおやめ下さいませ」

 離れたところにいたフォレンタは、いつもの涼しい顔でわたしを窘めた。わたしは表情の全体で不服の意思を示し、唇を引き結ぶ。

「むぐごご」

 アラルの手を叩いて口を解放させ、わたしは腰に手を当てた。

「久しぶりだな、」

 睨み上げてくるわたしを意にも介さず、アラルはそう言って、そこで言葉を切った。それからどうしてか、不意に表情を僅かに歪めて、「……リア」と続ける。

 躊躇いを含んだその呼び方に、思うところがないではなかったわたしは、一瞬視線を落とした。

「うん」

 短く肯定する。彼はやはり、と言いたげに微笑んだ。



「イェシルが呼んだんだって? ごめんね、迷惑かけて」

 わたしはうつむき加減で呟く。わたしの横に並んで歩いていたアラルは首を傾げた。

「来て欲しくなかったのか」

「いや、そういう訳じゃないけど……」

 もごもごと答えると、アラルは平然と前を向いたまま応じた。

「それなら別に良いだろう。俺もリアに会いたかった訳だし、別に誰に対しても迷惑ではない」

「…………。」

 さらっと言い放ったアラルの横顔を、少しの間ぽかんとして眺め、それからわたしは気を取り直して咳払いをした。


「メフェルスはどうしたの?」

 見当たらないのでそう訊くと、アラルは「ああ」と思い出したように口を開いた。

「置いてきた」

「……ごねたでしょう」

「それはもう」

 大きく頷いてアラルは肩を竦める。

「だからしばらくはこちらに滞在出来るな」

「ん?」

 予想外の言葉に、ぐるりと振り返ってわたしは眉を顰めた。

「日帰りじゃないの?」

「恐らく日帰りにはならないだろう」

「恐らく?」

「恐らく、だ」

 そうは言いつつも、妙に確信に満ちた表情をしている。怪訝に思いながらもわたしはとりあえず「へぇ」と頷いておいた。



「あら、皇帝陛下」

 女王のところへ挨拶に行こうとしていた道すがら、当の女王が前から歩いてきた。妙に気安く片手を挙げ、近付いてくる。

「と、クィリアルテもいましたか」

「わたしはおまけ扱いですか」

「そんなことはありません、僻まないで頂戴」

 さらりと受け流し、女王はアラルと向き合った。

「せっかくの機会ですから、また後でお話しましょうか」

「はい」

 頷きあっている二人を見比べ、わたしは、む、と唇を尖らせた。そんな個人的にお喋りするほど仲良かったっけ?

「何のお話をするんですか?」

「――大人のお話ですよ」

 その意味深な言い方に、わたしはカッと目を見開く。

「……不健全だわ!」

「貴女のその発想の方が数百倍不健全です」

 間髪入れずに切り返され、わたしは一人で鼻白んだ。


「堅苦しい挨拶はいりませんので、どうぞ気楽に過ごして下さいませ」

「ご配慮、痛み入ります」

 短い会話を交わしたきり、女王はそのまま立ち去った。……まるで前からアラルが来ることを知ってたみたいな態度だ。



***


 春ともなれば、庭にはここぞとばかりに花が咲いているものである。ご多分に漏れずローレンシア城の庭園は色とりどりに彩られていた。

「でね、この花が咲くと、中は青色になってるのよ」

 道すがら、時折知っている花を指さして話をすると、アラルは頷いて聞いてくれた。どうもその手の話は不得手らしい。ロズウィミア嬢は、確かこういうのに詳しかったはずだ。


「元気そうだな」と、庭園の中にあるベンチに並んで腰掛けたときに言われた。わたしは目を細くして微笑んで頷き、遠くを見やる。

「うん、元気だよ。……すごく」

 そう答えつつも、何故かわたしの心中は複雑に渦巻いていた。息をしているのに、息が苦しいように感じられた。

「アラル、」

 今にも叫び出しそうだった。けれどそのとき口から出る言葉は予測出来なかった。

「わたしね、今、とっても幸せなのよ」

 その手を取って額の高さまで持ち上げ、わたしは慎重に囁く。

「でもね、ときどき、それが同じくらい辛く思えてきて、どうしようもなく苦しくて、」

 手の甲に額を押し当てて、目を閉じた。アラルは黙ってわたしを見下ろしていた。


「これはわたしの予想なんだけどね」

 頬を緩めて、わたしは彼の手を取ったまま顔を上げた。

「わたし『たち』、今よりもっともっと幸せになれるんじゃないかと思うの。あなたはそう思わない?」

 わたしが言わんとしていることを、彼は正確に理解したらしかった。「参ったな」と小さく漏らして後頭部を雑にかき混ぜると、苦笑に似た表情を浮かべる。


「俺もそう思うよ」

 アラルはそう応じて、わたしの目の奥を覗き込むみたいに背を丸めて屈んだ。

「そのために来たんだから」



***


 昼間の道のりをなぞるみたいに歩いていた。それが未練がましさをありありと表す象徴みたいに思えて、私は自己嫌悪に吐き気がした。

 春といえども夜半の空気はまだ冷たいことが常だった。

「今日はすごく暖かいのね、」

 曇り空なのも理由のひとつだと思う。昼間の暖かい空気を逃さないように厚い雲が蓋をして、だから夜の空気もまだ暖まっているのだろう。


 明るいときに見る庭園は華やかだったが、暗くなり明かりもついていない庭園はむしろ不気味に見えた。花の色さえ分からない暗闇を、ゆっくりと探るように歩く。


「……あーあ、またやっちゃったわ」

 ため息をついて、私は頭を抱えた。

「また明日の朝あの子が『何か疲れが取れないような……?』って思うのよね、きっと」

 申し訳ないとは思う。とっても申し訳ない。正当な持ち主がいるのに、勝手に体を占有して外をうろつくなんて、あまりにも図々しすぎる。

「早く帰ろう……」

 そう呟いて踵を返しかけたときだった。さく、と草を踏む音が近くでして、それで初めて私は側に人がいたことに気がついた。

 首筋が冷えた。少し前から、私はだんだん人の気配に疎くなってきている。部屋の前を人が通っても気付かない。フォレンタが声をかけて初めて彼女がいたことに気付く、そんな有様だ。


 体を強ばらせて、固唾を飲んだ私へ、深刻さの全くない声が投げかけられた。


「もう帰ってしまうのか」

 そう言って、私の目に見える範囲まで歩み出たその人が笑った。

「久しぶりだな、クィリアルテ嬢」

「…………。」

 仕方ない、と嘆息して、私は目を閉じる。

「はい。――お久しぶりです、皇帝陛下」

 小憎らしい笑みを浮かべた皇帝から目を逸らして、言葉少なに私は応えた。


「それでは」

「まあそう焦らなくても良いだろう」

 逃げるようにすれ違おうとした私の手を取って、皇帝は穏やかな声で引き止めた。私は足を止めて、渋々向き直る。

「私たち、何かお話することがありましたっけ?」

「それは今から考える」

「なら今度にして下さい。私もう眠いので」

 いっそ滑稽なほど目は冴えていたが、私は手を振り払いつつそう言った。皇帝ほ腕を組んで「嘘だな」と自信満々に否定する。

「貴女は眠いときにはもっと眠そうな顔をする」

「そうじゃないときもありますよ、人間ですから」

 と、そう応酬しながら、ふと黙る。人間ですから、と自分の台詞に引っかかったのだ。……果たして、私は、人間か? ただの記憶と意思が、別人の体の中で蠢いているだけのこれが、果たして人間と言えるのだろうか。


「まあそう言わずに」と皇帝は多少わざとらしく私の手を引いた。その言葉で思考が遮られる。つんのめった私を片腕で受け止め、皇帝は当然のような顔をして私を拘束した。

「いやちょっと、離して下さい」

 皇帝にもわかりやすいように、あからさまに顔を顰めて言ったのだが、どうやらそれは無視するご様子である。さすが皇帝だね、パンゲアの最高権力者とだけある。そっかぁ、人の意見はあまり尊重しないタイプなんだね……。



「クィリアルテ嬢、……どうして貴女の体に複数の意思が存在しているのか、俺は知らない」

 私は奥歯を噛み締めて、皇帝を見上げる。

「でも、俺は、」

 何かを言おうとした皇帝の唇に、そっと人差し指を当てた。黙った皇帝に、私は静かに微笑む。

「あなたは『リア』のことだけを考えていればいいんです。私もそうです」

 皇帝が瞠目した。

「あの子が幸せになった今、私はただの残りかすです。もう存在意義のない残滓です」

 私は指を離しながら、自嘲する。思い上がるな、と言い聞かせるみたいに胸を押さえた。


 私はクィリアルテではない。私はこの世界にいていい人間ではない。誰も私を認識してはいない。認識してはいけない。


 皇帝は私の目の奥を覗き込んだ。

「貴女の存在意義とは何だ?」

 その問いに、私は思わず口ごもった。皇帝はすっと顔を引いて、唇を引き結ぶ。

「自分で作り出せないものなのか。俺が与えてやることは出来ないものなのか」


 私は黙って眦を下げた。……私は、口にしたくなかった。

「貴女が思い込んでいる、その存在意義は、どうやって生み出されたんだ」


 私は胸に手を当てた。そこで今は眠っている女の子を思い浮かべて、頬を緩める。

「だって、あの子が、泣くから……」

 私が初めてこの世界で瞼を開けたとき。

 助けて、と、その一言すら言えないこどもが、私の胸の内で泣きじゃくっていたのだ。



 死にたい、と。彼女はそう囁いて泣いていた。




 最終章にあたる第五章開始です。全三話となりました。お待ち頂きありがとうございました。

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