10 けれどわたしは守られていた
王都にある城に着いたのは朝早くだった。馬車から降りて伸びをしようとした瞬間、お腹に鈍い衝撃を食らってわたしは思わず体を折った。
「姉さまっ!」
「うぐっ……」
突進してきたイェシルを受け止めつつ、わたしは低く呻く。鳩尾に吸い込まれるような頭突きである。
「姉さまの、馬鹿っ!」
わたしが瀕死になっていることに気付かないように、イェシルは力いっぱい叫んで、わたしのお腹を締め付けた。
「考えなしにも程があるよ! 姉さまには自分が価値のある人間だって自覚がなさすぎるんだ!」
「うぐぐ……イェシル、ごめ、ごめんなさいって、ちょ、苦し……」
わたしが泡を吹きそうになったちょうどその折、足音が響いた。
「イェシル、クィリアルテを放しなさい」
呆れたように腰に手を当てながら、女王が姿を現す。振り返ったイェシルが気まずそうな顔をしてわたしから距離をとった。
「――女王陛下、」
解放されたお腹周りを擦りながら、わたしは慎重に言葉を発した。女王は眉を上げて、促すように首を傾げる。
「一般に、母を失った子供っていうものは、父がどこからか連れてきた後妻のことをなかなか受け入れられないものなんですよ」
目を見開いた女王に向かって、わたしは息を吸って言葉を続ける。
「後から来た女の癖に、当然のように居座ってるし、……ちゃっかりお父様と結婚してるし、その癖やたらと近寄ってくるし、」
女王が鼻白んだように眉を顰めた。意にも介さず口を開いた。
「悪女ならまだしも、妙に善人だし」
わたしは俯いて、唇を引き結ぶ。逡巡し、それから、僅かに息を吐いた。
「そういうところ、嫌いですけど、」
頭をもたげて、女王を正面から見た。こうして見てみれば、わたしと大して背丈の変わらない、ただの人だった。
「――いつか呼んでもいいですか」
ぎこちなく頬を緩めて、わたしは彼女の目を見据える。
「『お母様』って」
彼女はゆっくりと目を細めた。口角を上げ、驚くほど柔らかく笑った。
「ええ、もちろんです」
***
色々と疲れていたので、簡単な朝食を済ませたあと、軽い仮眠をとるつもりが、目を覚ましたら日が高くなっていた。わたしはしばらく天井をぼうっと見上げていた。外の明るい光に照らされたその平面を眺め、細く長く息を吐く。
「わたし、」
小さく呟いた。
「生きてるわ」
わたしは、それがこんなに嬉しいことだとは知らなかったのだ。
そろそろ昼食の時間である。身支度をし、食堂へ向かったわたしは、扉を開いて目を丸くした。大きなテーブルいっぱいに、料理がやたら山盛りになった皿が並んでいる。常軌を逸した光景に面食らいながら、部屋を見渡した。まだアラルたちは来ていない様子だ。
「料理長を呼びなさい」
頭痛がするというように眉間を揉みながら、女王が命じていた。
「料理長、この料理はどういうことですか。とてもではありませんが食べ切れる量ではありません」
女王の呆れたような表情に、呼び寄せられた料理長は額の汗を拭って答えた。
「いえ、その、……大変申し訳ございません。あまりに嬉しくて、つい……!」
「何がですか」
料理長はぐっと拳を握り、わたしを指し示す。
「それはもちろん! クィリアルテ様がお戻りになり、クィリアルテ様を狙う脅威が去ったことでございます!」
現在は調査中である以上、去ったというにはまだ早い。けれど、その気持ちは分からないでもなかった。
「……材料費はどこから捻出したのかしら。予算を不適切に使用しているのなら、こちらとしても対応せざるを得ませんよ」
尚も渋い顔で言った女王に、料理長は勢い込んで告げた。
「自費でございます!」
長いため息をついたあと、女王は立ち上がる。
「領収書をあとで私に提出しなさい。分かりましたね」と料理長に言いおいて、食堂をぐるりと見渡した。
「――――私たちではこの昼食を食べ切れません。消費を手伝うよう命じます」
きゃあ、とどこか浮ついたような、微かな歓声が聞こえた。室内の空気がぐっと明るくなる。
「ワインは棚ひとつ分まで許可しましょう。それ以上飲もうとした人間は処罰の対象です」
そう宣言した女王は腰に手を当てて、艶然と微笑んだ。
「仕方ありませんね、今日だけは無礼講と致しましょう」
壁際に控えていた騎士がこっそり拳を振り上げていた。
「……リア、これは一体どういった騒ぎだ」
遅れて到着したアラルが、目を白黒させながら小声で聞いてくる。わたしは皿を運びながら「宴かな」と若干適当に答えた。
「それで、何だってみんなで皿を持って移動しているんだ」
当然の疑問に、わたしはしれっとして応じる。
「久しぶりに天気が良いから、広いテラスで食べようってことになったの」
「浮かれてるな……」
「わたしもそれはちょっと思うわ」
ローストビーフが大量に積まれた皿をわたしの手から奪い取り、アラルが隣に並んだ。
「まあ、でも、……悪いことではないだろう」
多少の苦笑いを含みながら、彼が目を細める。廊下の突き当りにあるテラスには、大勢の人が集まってきていた。
「――ところで、リア、」
アラルが口を開きかけたところで、軽快な足音が背後から近付いた。
「姉さまっ!」
「ぐへぁっ……!」
背後から渾身の力で抱きついてきたイェシルに、わたしは白目を剥いて悶絶した。
***
お城で一番広いテラスには、働いている使用人が大勢集まっていた。わたしが足を踏み入れるやいなや、一斉に振り返って笑みを浮かべる。
「クィリアルテ様!」
「こうして大っぴらにお出迎え出来る日が来るなんて夢みたいですわ!」
「お顔をよく見せて下さいませ、」
口々に声を出し始めたところで、わたしの背後にいたフォレンタが手を叩いた。皆が一斉に静まる。
「積もる話はまたおいおいと。クィリアルテ様、席はこちらにございます」
フォレンタが長机を指し示す。既に席についた女王が、やや行儀悪く頬杖をついて待っていた。
「ああ、――いらっしゃい、クィリアルテ」
手招きをされ、わたしは大人しく女王の隣に座った。女王は片眉を上げて、無言でそれを見届ける。
「皇帝陛下とメフェルス様もこちらへ」
「……それでは、お言葉に甘えて」
アラルが若干緊張したように微笑んで、女王の正面に座る。メフェルスはわたしの正面だった。
「さて、」と女王は姿勢を正して口を開いた。わいのわいのと騒がしく群れていた使用人たちがすぐに静まる。
「クィリアルテの存在を神殿に感づかれ、急遽パンゲアへ送ってから、およそ一年弱が経ちました。それから本格的に取り締まりを強化し、数日前に中枢を叩くことができました。これによって、神殿に関しての一連の騒動は一旦幕引きとしても良いでしょう」
女王は立ち上がり、背筋を伸ばした。
「まずは、詳細も伝えないような、不躾とも言うべき打診に応じて頂いた、皇帝陛下を初めとしたパンゲアの皆様に、心から感謝を申し上げます。どうぞよろしくお伝え下さい」
慇懃な態度で頭を下げた女王に、アラルは鷹揚に頷いた。……いや、確かレゾウィルが勝手に受け入れたって聞いたことがあるような……? その割に、さも『心の広い隣国の主君』みたいな顔をしているので、何も言わないでおいた。
「そして、私の命令通り、神殿関係者を城に近付けさせず、また、クィリアルテを何だかんだと見守ってくれた使用人たちへ」
数秒前まで手にワイングラスを持って浮かれていたはずの使用人一同は、びしっと姿勢を正して胸に手を当てていた。
「本当にありがとう、貴方達の協力もあって、今日までやって来ることが出来ました。ぽっと出の女王に従って付いてきてくれたこと、本当に感謝するわ」
女王はそう言って、華やかに頬を綻ばせた。数人は真剣な表情で頷いており、いつの間にかそんなところに絆が構築されていたことにちょっとした嫉妬を感じた。まあ、でも、――悪いことではないだろう。
「最後に、フォレンタ」
くるりと向き直り、女王はフォレンタを見た。音もなく跪いていたフォレンタは、無言で胸に手を当てている。
「そうね、」と思案するように顎に指先をつけ、それから彼女は楽しそうに微笑んだ。
「……貴女は解雇です」
わたしは目を剥く。これまでいいことを言っていたのに、いきなりフォレンタに意地悪を言い出したのだ。
「ちょっ、」
わたしは思わずテーブルに手をついて腰を浮かせかけた。そんなのあんまりだ、フォレンタは何も悪いことをしていないのに!
「御意に」とフォレンタは目を伏せたまま応えた。下を向いているせいでその表情は伺い知れない。
……わたしは唖然として、フォレンタを見つめていた。
「フォレンタ、」
そう呟いて、立ち上がる。フォレンタはゆっくりとわたしを見上げた。
「クィリアルテ様、ひとつお願い申し上げたいことがございます」
表情を消したフォレンタが、わたしを真っ直ぐに見据える。わたしは胸の前で拳を握った。
「私は既に『ローレンシアの侍女』ではありません」
その言葉に、わたしは息を飲んだ。フォレンタは続ける。
「――私を、クィリアルテ様の侍女として登用しては頂けませんか。『あなたの侍女』として」
わたしはふらふらと歩み寄り、フォレンタに手を伸ばした。フォレンタがその手を取る。
「覚えてはおられないかも知れませんが、私は常にあなたの側におりました。その栄誉を、この先もずっと担わせて頂きたいのです」
そして、フォレンタが笑った。満面の笑みだった。
「う、ん」
うまく声が出なかった。喉が詰まったみたいになって、息が通らない。
「……わたしも、フォレンタと一緒にいたい」
フォレンタは呆れたような顔をして、わたしの目元を拭った。それでようやく、わたしは自分が涙ぐんでいたことを知った。
「今日は日没まで無礼講ということにしましょうか」
女王が腕を組んで悪戯っぽく口角を上げ、まだ日の高い空を見上げて使用人たちが歓声を上げた。
真っ先に飛びついてきたのはイェシルだった。それから間髪を入れず、雪崩のように使用人たちが駆け出す。
「ほげぁ!」
人混みに囲まれて、わたしは間抜けな悲鳴を上げた。
「クィリアルテ様! おかえりなさいませ!」
誰かの腕が伸びる。思い切り抱き締められて、わたしは遠い目をした。
……無礼講にも程があると思うの。
***
もうすぐ日没である。完全に出来上がってしまった使用人集団は、眼下の庭園まで出てどんちゃん騒ぎをしていた。それはいいのだが、その中に女王の姿があるのはどういうことだろう……。
正気を保ったままの使用人は、空になった皿を積んでテラスを出入りしている。もう後片付けをしているらしい。
空は赤色に染まっていた。真冬が近付くにつれ、見る間に日は短くなっている。珍しく晴天だった空には、千切れたような雲が点々と浮いていた。
それを見ながら、彼は手すりに肘をついて黄昏ていた。ほとんど中身が残っていないグラスを指先で掴んだまま、時折口元に運んでいる様子を少しの間眺めた。
「――あなたの目はこの空の色だ、って言ったら、嬉しいですか?」
私はそう声をかけて、彼のすぐ隣の手すりに背を預けた。彼は振り返って私を見下ろす。平静より見開かれたその目が、私を見ていた。
私は顔を上げないまま、テラスに目を向ける。視線を感じたが、それに応える気にはなれなかった。
「素敵な大団円ですね、」
私は唇の先で囁き、申し訳程度に頬を緩める。……そう、本当に、文句のつけようもない大団円だった。
かつての苦しみを乗り越え強くなった主人公が、皆に囲まれて幸せに笑う。彼女を付け狙っていた敵はもうおらず、あとに待つのは事後処理と平穏な日常だ。
そこに、私は必要ない。
私はようやく思い切って顎を上げ、彼の視線を受け止めた。彼の唇が戦慄き、薄く開く。それを制するように、私はゆったりと笑んだ。
「さようなら、皇帝陛下」
私、あなたのこと、結構好きだったんですよ。
「クィリアルテ嬢、」
彼が私に手を伸ばした。
私のことを呼びながら。
私はその手を取らなかったのだ。
これにて4章が終了です。5章開始まで今しばらくお待ちください。
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