9 後天的に襲いかかった
さて、再び馬車で運搬されておよそ半日。
座りっぱなしで痺れたようになっているお尻を浮かせながら、わたしは何度目か知れないため息をついた。
馬車が止まる。体が僅かに前に振れて、戻った。開かれた扉を同乗者が先にくぐって、わたしはそれを見送った。最後に馬車にはわたしだけが残される。わたしはしばらくの間、ただ息だけをしていた。わたしの息と、鼓動。それのみが馬車に満ちる。
「さあ、こちらへ」
外から促されて、わたしは軽く頷くことで応じた。馬車の座席に体を滑らせ、扉の枠に手をかけた。足から先に外へ出ると、ひやりとした空気が肌を撫でる。
踏み固められた雪の上に立って、わたしはぐるりと辺りを見回した。気取られない程度に息を呑む。
――わたしを取り囲むように、大勢の人間が、跪いていた。老若男女問わず、ありとあらゆる人間が。
ぞっとした。雪の冷たさはわたしも知っている。だからその上に膝をつく、その感覚が理解出来なかった。打ち震えたみたいになってわたしは立ち竦む。
……そんなに祈られたって、どんなに奉られたって、わたし、何の力も持たないただの人間でしかないのに。わたしはこの人たちに差し伸べるための救済の手なんて持ってないのに。
「神様」
司祭が囁く。かつてとは違う人、――わたしの、お祖父様ではない、ひと。青白い肌をして、背の低いその男性が、わたしの前に立って、慎重に膝を曲げる。そうやって見上げて、向けられたその目の奥を覗き込んで、わたしは思わず眉根を寄せて唇を噛んだ。
「わたしになんて縋らないでよ、」
唇を撫でる程度の声で漏らした言葉は、誰にも届かない。
「間違ってるよ」
胸の前で片手を握った。冷気に晒されたままのもう片方が情けなく痺れたようになったので、握られた拳に添えた。
「ああ、どうか、神様、」
神殿は目の前にあった。雪に閉ざされた街だった。光の下にあれば美しいかもしれない街並みも、酷く重苦しい曇天の下では、何にも照り映えない。
「私どもに大地の恵みを」
――――わたしは、神様なんかじゃないのに!
乞うようなその目があまりに痛々しくて、見ていられなくて、わたしは躊躇いがちに、微笑んでいた。そうしたらあんまり嬉しそうに笑うから、わたしの頬は笑みの形で冷凍されたまま。
ねえ、
……こんな、ただの小娘を神に準えなきゃ生きていけないほど、つらいの?
掠れた記憶の断片を繋ぎ合わせてみれば、わたしは案外、神殿について知っていることが多かった。わたしの耳に入れるつもりはなかったんだろうというような囁きから、塞ぎ込むわたしに女王が慎重に教えてくれた事実まで、色んな情報を取り入れて生きていた。
わたしのお母様は北の方の出だ。彼女が生まれたその年は歴史的な大飢饉で、雪に阻まれて食料は届かず、厳しい冬の寒さに負けて多くの人が亡くなったのだと、女王がそう言っていた。問題はそれが長引いたことだった。飢饉は数年来に渡って断続的に襲いかかった。
……お母様が6歳を迎えた頃、お祖母様が亡くなった。
お祖父様がおかしくなったのは、その頃からだという。
元々北方に伝わる伝説に描かれる女神と、自らの娘の特徴に類似性を見出したらしい。そして、ひとつの結論を導いた。――曰く、神がこの世界に生まれてしまったことが過ちだと。
常識的に考えて、そんなことあるはずがないのだ。人と人から生まれたわたしのお母様が神であるはずもない。
どのような経緯かは知らないが、それからお母様がお父様と出会って、すったもんだして結婚したらしい(女王が随分ぼやかして喋ったので詳細はよく分からない)。
お母様に浴びせかけられた謂れのない信仰は、同じ特徴を受け継ぐわたしにも注がれている。これは現在に連なる話である。
「……お母様は、ずっと、こんな思いをして生きていたの?」
わたしを中心に半円を描いて広がる人の輪に、やるせない感情を抱きながら、わたしは静かに目を伏せた。
この人たちに、悪意はない。ないから、つらい。
「さあ、中へお入りください」
多くの視線を感じながら、わたしは黙りこくったまま頷いた。
でも、わたし、この人たちの神様にはなれないわ。
***
――大丈夫だ、と思っていた。
昔のこと、思い出したから。お父様とお母様がわたしを愛してくれた幸せな記憶を取り戻したから、わたしはもう大丈夫なんだと、思い込んでいた。
それは嘘だったかもしれない、と、独りごちる。どうしようもなく力を失った手足を必死に動かしながら、わたしは唇を戦慄かせた。
神殿の構造は、どこも似たようなものなのかもしれなかった。何故ならここの神殿に立っているだけで、無性に胸がざわつくからだ。
どうやら今晩は満月らしい。今はしんしんと降っている雪も、夜になれば止むという。
この神殿に壁画はなかったが、代わりにステンドグラスがあった。そこに描き出された人物画に、わたしは思わず遠い目になった。
簡略化されてはいるが、かつて見た壁画の女の人と酷似した図柄だった。それを見上げ、わたしはしばし言葉を失った。――あんまり鮮烈に、蘇るものだから、驚いて。
それ以上見ていられなくて、わたしは顔を逸らした。案内されるがままに近くの部屋へ入る。わたしが抵抗しない限りは拘束をするつもりもないようで、多少緊張が和らいだ。
簡素な部屋だったが暖炉はあったし、部屋の中に人はいなかった。何だと思われているのか知らないが(多分神だと思う)わたしの周りには誰も寄ってこない。わたしもその方が少しは気が楽である。
暖炉にほど近いところまで椅子を引きずって、腰を下ろしたわたしは、近くの机に肘を乗っけた。肘に頭を預けて、だらしない格好で足を組む。
「あ、クィリアルテさまー」
程なくして当然のように窓を叩かれ、わたしは思わず脱力して息を吐いた。体を起こすと、窓に目をやる。
……隠密くんが窓に張り付いて笑顔で手を振っていた。
半ばドン引きしながら立ち上がり、窓を開けると、隠密くんは中には入らず頭だけこちらへ寄せた。
「ご無事なようで何よりです。伝言は見ていただけましたか?」
窓枠を掴んで小首を傾げた隠密くんに、わたしは引きつった笑みで頷く。
「案外警備がガバガバなので、こんなところまで簡単に来れてしまいました」
「何から何までずさんよね……」
わたしも窓際に立っているせいで、言葉を発する度に白い息が漂った。鼻の頭を赤くした隠密くんも同じく白い息を吐きながら笑う。
「あ、そうそう。一番怒ってらしているのはイェシル様です」
「待って、……一番ってことは」
「皆さん大層お怒りです」
しれっと隠密くんが告げた。わたしは苦い顔でため息をつく。
「でもまあ、あのままだとイェシル様もなかなか危なかったですからね。もう少し切られていたら大惨事になるところでした」
肩を竦めて言われた言葉に、こっそり戦慄した。イェシルが死ぬことにただ特段の恐怖を感じたのではなかった。……わたしのせいで、また血が流れるのが、ひたすらに怖くて。
「それで、隠密くんがここまで来れたってことは、わたしもう逃げられるの?」
「クィリアルテ様に壁のぼりのご趣味があれば、今すぐに脱出できますが……」
「ないわね」
「だろうと思いました」
残念ながらこのクィリアルテ、壁をよじ登るほど腕白な趣味を持っている訳ではないのだ。もしあったとしても多分登らないけど。
「一番近くにあるローレンシア軍の駐屯地に要請をかけて、およそ半数の騎士が現在こちらに向かっている途中だそうです。本来はクィリアルテ様が到着されるのと同時に保護する予定だったのですが、雪で遅れているようで」
「ふむふむ」
迷惑をかけて申し訳なかったな、と軽く思いながら、わたしは顎に手を当てた。指先が冷たかったので顎がヒヤッとした。つめたい。
「……あのね、もし良かったらでいいんだけど、」
わたしは声を潜めて口を開く。別にどうせ誰も聞いていないのだからそんなことをする必要はないのだけれど。隠密くんは神妙な顔でわたしを見上げた。
「首謀者は思う存分捕らえて罰を与えてもいいと思うんだけど、何も知らずにここにいる人も多いと思うの。結構子供も多かったし、全員を全員捕まえるのも大変でしょ。だからそういう人達は傷つけずに拘束するとか出来ないかな」
隠密くんが首を傾げる。よく分からない、と言いたげな表情だった。
「ご両親を亡くす原因となった団体ですよ」
「うん、それはそうなんだけど、……それは絶対許してやらないけど、」
9年前には生まれていなかったであろう小さな子供もいた。わたしと同年代の若い夫婦もいた。その誰もが昏い目をしてわたしを見ていた。
「……目覚めが悪くなりそうだから、ね」
隠密くんは少し変な笑い方をして、「お伝えしておきます」と頷く。
「それでは」
隠密くんが窓の外に消えたのを確認して、わたしは窓を閉じてカーテンを引いた。体が冷えきってしまったので再び暖炉の前に戻り、膝を抱える。
「……わたし、何してんだろ」
自分でも、自分のことが分からなかった。過去と現在がごっちゃになって、今いる場所さえ分からなくなる。みんなが思い思いの名前でわたしを呼んで、どれに応えればよいかも分からなくて、最後には自分が何なのかも分からなくなった。
その果てに得た『不幸せなこども』という名目は、いっとう甘美だった。自分には関係のない、自分には責任のない外部にすべての原因があって、わたしはただその咎を受けただけの無力なこども。そんなわたしを助けてくれる幸せな存在がいて、わたしはただ不幸でいれば良いだけだった。
自分のことを可哀想がって、そうやっていれば何もかもから逃げていられたから。昔あった思い出したくないことも、覚えていたかったことも、全部から目を逸らせた。
……そこに虚しさがなかったと言えば嘘になる。
頭を撫でてくれる人がいて、可哀想にって言ってくれる人がいた。その人はもう、勝手に前に進んでしまった。
でも多分、今の彼は代わりに手を繋いでくれると思う。
そしてもうひとり、わたしを助けてくれた大切なひと――。
扉が開いた。法衣を身にまとった司祭が、こちらを見ていた。わたしはびくりと振り返り、視線を受け止める。
「……なにか?」
やや威嚇するように呟くと、司祭はゆっくりと微笑んだ。何かを回顧するみたいに目を細めて、わたしを眺める。
「いえ、」
緩く首を振って、彼は目を伏せた。わたしは胡乱気な顔を崩さないまま黙っている。しばらく睨んでから、わたしは息を吐いた。
「……わたしはどうすればいいんでしょうか?」
司祭は少しの間、質問の意味を考えるように瞬きを繰り返した。それから口を開く。
「祈りを」
わたしはきょとんと首を傾げた。
「祈りを捧げることで私たちは救われると思いますか?」
問いを問いで返すのか、とやや鼻白んだが、わざわざ食ってかかる必要も無いので黙っておいた。投げかけられた質問に、わたしは困惑する。
……いや、それ、わたしに訊く?
「もう、手段がないのです」
うわ言のように司祭は囁いた。その目はどこか虚空を見ていた。
「たとえ雪があろうとも、私たちの居場所はあくまでもここだった。皆で力を合わせれば生きていけると」
わたしはそっと立ち上がり、司祭から距離を取る。司祭はそれすら気づかないように立ち尽くしたまま。
「しかしそれが嘘であると、――雪の中に生きることが叶わないと分かった今、それでも私たちはこの地を捨てることが出来ない」
司祭が深く俯いて、それから顔を上げる。苦笑するように首を振って、言葉を止めた。
「……あなたは何もしなくとも良いのです」
少し間を置いてから告げられた言葉に、わたしは目を瞬かせた。ほんとうに、と言おうとした唇は、続く言葉に凍らされた。
「あなたは存在そのものが罪なのですから」
そこに正気の色はなかった。
***
満月が出たら、おしまい。
そのおしまいって、何の終わりを指すことば?
儀式の終わりのことかな。それってもしかして、わたしの人生の終わりのことを言ってる? あるいはもうちょっと踏み込んで、神殿におわす神様を信仰するすべての人たちの苦しみの日々の終わりのことかもしれない。でもそんなの無理だよ。
生命によって贖われるものは何もないのだから。
雲は晴れた。重い雲を追い払った風も止んだ。
まだ初冬だとはいえ、十分に厚い雪に覆われた神殿の中に、大勢の人がいた。礼拝堂を埋め尽くす人影は、不気味なほどの大人しさを保っていた。
澄んだ冬の空気を割って、満ちた月が光を落とす。
わたしはステンドグラスを見上げながら、静かに跪いていた。膝が冷たいな、とか、ちょっと現実逃避しながら、胸の前で指を組んでいた。
この絵を信仰するのではいけなかったのだろうか。わざわざそれをお母様やわたしに当てはめなければならなかったのだろうか。
――わたしの髪は風に揺れる小麦、わたしの目は澄んだ空。
神を信ずる者たちが望み描いた景色を構築する二色。飢えることのない生活、常に雲に押し潰されることのない生活。この地は人が生きるにはあまりに厳しすぎた。
「あ、そうそう」と、それまでわたしの側にいたのとは別の司祭が呟いた。
「あなたの髪を切り落とした不届き者は、こちらで天誅を下しておきましたゆえ」
わたしは、少しの間息を止めた。その言葉の意味を咄嗟に理解出来なかったが、嫌な予感だけはやけにはっきりとしていた。
「…………メイア、」
思い至ったわたしは、恐る恐るその名を口に出した。司祭は「ええ、恐らくそんな名前だったかと」と頷き、わたしの予想は的中した。
メイア。夏にわたしとロズウィミア嬢を誘拐した、血迷ったご令嬢。言われてみれば、確かに彼女が振り回した剣がわたしの髪を切り落とした。
……彼女は今、パンゲアの僻地の療養所で、目覚めないままでいる。獄中で意識を失ったまま、それきり一切瞼を開こうとしない。
「メイアに何かしたの、」
強い語調で訊こうとしたのに、掠れた声はまるで囁きみたいに響いた。わたしの声の反響が消えるより早く、司祭は軽く首を傾けた。
「ご不満が?」
「不満しかないわよ……」
まさかそんな頃から神殿の手が伸びていたとは気づかなかった。背筋がぞわりとして、わたしは唇を噛む。
どこかから吹いた風が、髪を揺らした。肩を少し越した毛先が、首筋をくすぐる。
「――この世に生を受けたこと、それがあなたの罪だ」
違う、
「天におわすべき神様がこの世界に生まれ、その力を失ったときから、私たちはその咎を受けてきたのです」
そんなの言いがかりだ、と、声が出ない。
「贖罪を果たして頂かねば」
わたしに、贖わなければいけない罪なんて、ないのに。
「あなたは生まれて来てはいけなかった」
立ち尽くし打ち震えたわたしに、明るい声が告げた。大丈夫だよ、と。
『あなたは私だよ。大丈夫、もうあなたは言いたいことを言えるようになったんだから』
あっけらかんと笑って、彼女がわたしの手を取った。それでもわたしは動けない。
『……全くもう、』と苦笑するみたいに呟いて、彼女は肩を竦める。
『これが最後だよ』
もう私は助けてあげられないんだからね、と言って、彼女は一歩進み出た。
「――そんなの私に関係ないじゃない」
人を食ったような態度で放たれた言葉は、神殿に大きく響いた。私は腕を組み、わざとらしくため息をつく。
「現実的に考えてよ、どうしてこんな小娘がここの地域の豊穣を司ってると思うの?」
私の言葉に、司祭たちがざわついた。立ち居振る舞いを急変させた私に、訝しむような視線が注がれる。
「……なら、どうしてローレンシアでは作物が実らないのでしょうか」
「単純に気温と降水量と地質の問題だと思うわ」
苦渋に満ちた司祭の言葉にしれっと答えて、私は腰に手を当てた。
「追い詰められてそういう考えに縋りたくなるのも分かるけどさ、無関係の人に迷惑はかけないでほしいよね」
わざとらしく肩を竦めて、ため息をつく。
ある程度空気を変えてから、私は心の中で呟いた。
――ね、大丈夫。好き勝手言っちゃって構わないんだよ、何も飲み込まなくたっていいんだよ。あなたは多分、怒ってもいいはずだ。
さて、ここで問題です。とっても簡単なクイズ、これはサービス問題ですよ……! あんまり簡単だから、選択肢はなしにしておくね。
わたしは、生まれてきてはいけなかったのでしょうか?
私は薄らと笑みを浮かべ、そっと目を閉じた。入れ違いにゆっくりと頭をもたげる彼女が、はっきりと瞼を開く。
「…………わたし、」
――――がんばれ。私は囁いて、完全に身を沈めた。
わたしは歯を食いしばり、一度唾を飲み、拳を握って踏ん張った。床を踏みしめる。わたしは確かにここにいた。
「っわたし、生まれて来なきゃよかっただなんて、一度たりとも思ったことはないわ!」
そう叫んで、わたしは一番近くにいた司祭の胸ぐらを掴んだ。面食らったように瞠目したその顔に向かって、言葉を叩きつける。
「自分を、生まれてきてはいけない存在なんだと思ったことだってない! そんな人はどこにだっていないわ、お母様だってそうよ。……誰だってそうに決まってる、」
手が震えた。声もどうしようもなく揺れて、唇が戦慄いた。
「穀物が実るかどうかが豊かさの指標だなんて、本当に思ってるの?」
仰け反り尻餅をついた司祭にのしかかるようにして、わたしは低い声で囁く。
「あなた達が憧れるパンゲアはね、ローレンシアよりもよっぽど小さい国で、農業こそ栄えてはいるけど、金も銀も鉄も取れないし、お金がなくて道の舗装も出来ないから、王都から伸びる主要道路のくせしてちょっと地方に行くとガッタガタなのよ」
いきなりパンゲアの悪口を言い始めたわたしに、司祭が面妖な顔をした。わたしは息を吸うと再び口を開く。
「ローレンシアには不足しているものがいっぱいあるし、パンゲアにも足りないものがいっぱいある。でも何もないってことにはならない。あなたたちには色んなものがあるでしょう。……北の方は確かに気候が厳しいし、農業には向いていないから自分で自分の食料を確保することが出来ない。だからといって餓え死にしろって言ってる訳じゃないわ。自分の持っているものを活用しろって話よ」
パンゲアなんて、銀山が欲しいがあまり素性の知れない女をぺろっと受け入れてしまうような有様なのである。同じように、この人たちもあんまり生活が苦しいもんだから、誰かに罪を擦り付けたくなってしまう。
「不幸なところにばっかり目を向けて、自分を可哀想がって、自分のせいじゃないって駄々こねてるなんて滑稽だわ」
それはもちろん、わたしも。
「わたしたち、誰だって幸せになれるのよ。その気になって、然るべき手が差し伸べられれば」
僅かに口角を上げて、わたしは手を離した。司祭が慌てたように後ずさりする。
「……わたしは神様じゃないけど、王女様なの」
祭壇に寄りかかり、固唾を飲んでこちらを見守る数々の人を見渡した。困惑したような表情に満ちていた。
「役に立たない手だとしたって、わたしはこの手を差し伸べられるわ」
いつの間にか、外に大勢の気配を感じた。神殿の中央を突っ切る先にある、あの扉のすぐ向こうに人がいる。
「あとはあなたたちがそれを取るだけ」
理由が欲しいだけ。お母様が殺された理由が欲しいだけだった。
お母様が無責任な神格化に耐えて終いには殺され、その果てにわたしによる救済があるのなら、お母様が亡くなったことは無意味ではなかったんだと思えるから。
武装した騎士達が雪崩込んでくるのが見えた。
そこで耐えかねて、わたしは膝を抱いて泣き叫んだ。わたしは結局、癇癪を起こしたこどもでしかなかった。あの冬に取り残されたままだったこどもだ。お父様とお母様に置いていかれて途方に暮れたまま、泣くしか出来なかったこどもだ。
……一足飛びに大人まで跳んでいけない。歩くしかない。でも多分、わたしはもう――あるいは、気付かなかっただけで、ずっと昔から――ひとりではない、から。
***
「クィリアルテ様」
騎士の一人がわたしを抱え起こした。庇うようにしながら外まで連れていかれる。
「……よくぞ、ご無事で」
掠れた声でそう告げて、騎士は離れていった。呆然と立ち尽くしたわたしは、何ともなしに神殿を見上げた。
「こちらへ」
誘導されるがままに歩くが、目が神殿から離れなかった。何故だかは分からなかった。古びた神殿は月光の下で神さびていた。その光景に、この地域の人が信じる神の淵源を見た気がした。
馬車のある方向へ到着し、わたしは少しの間戸惑って辺りを見回した。恐らくここはもう安全な場所なんだろうと思うが、誰も彼もが忙しそうにしていて、声をかけられない。
「リア、」
手を引かれて振り返ると、アラルが疲れきった顔で立っていた。わたしは息を吐いてぎこちなく微笑んで、両腕を広げた。
「あのね、アラル」
肩口に頭突きして、思い切り抱きつきながらわたしは囁く。戸惑いながらアラルはわたしを受け止めた。
「わたしの髪の毛は太陽の色で、目の色は海の色だって、言ってくれたでしょ」
背伸びをして、ずり上がるように肩に顎を乗せると、わたしは甘えるように囁いた。
「あれのおかげで、わたし、自分を見失わずに済んだの」
わたしの髪は小麦の色。わたしの目は空の色。
それに対して、違う、と胸を張っていられたのは、わたしの色彩に別の意味を与えてくれた人がいるからだ。
「ありがとう」
疾走してくるフォレンタを発見して、わたしは頬を綻ばせた。アラルから離れ、フォレンタに向かって手を伸ばす。
「……クィリアルテ様、あなたって人は、」
言葉も出ないようにフォレンタは肩を怒らせて、それから大きくため息をついた。わたしの目の奥を覗き込んで、ゆっくりと頷く。
「やはり、季節ごとに攫われないと気が済まないようですね」
「別に攫われたくて攫われてる訳じゃないわよ」
変なところに結論を着地させたフォレンタに、わたしは思わず真顔で反論した。
「さ、帰りましょうか」
素早い切り替えで表情を戻したフォレンタが手を叩く。わたしは頷いて、頬を掻いた。白い息が広がり、冬の寒さが分かりやすく伝わってくる。
「あ、クィリアルテ様ー!」
遅ればせながら走ってきたメフェルスを一瞥し、フォレンタがすぐに前を向く。
「馬車の中に毛布がありますので、行きましょう」
「えっ無視された……」
愕然としたように固まったメフェルスに向かって小さく笑い、わたしは馬車に向かって歩き出した。