7 叫べ
もぞもぞと動く、おしりの下のおひざを軽く叩いた。
「お父さま、動かないで!」
ほっぺたを膨らませて、わたしは後ろにいるお父さまを振り返る。お父さまは苦笑して、「ごめんごめん」とわたしを揺すりあげた。
「リア、今日は何のご本を読んでくれるの?」
隣にお母さまが座って、わたしの手元を覗き込む。わたしは持っていた絵本を掲げた。
「まあ、森のお姫様? 前によく読んであげたわね」
「うん。でも今日は自分で読みたいの」
わたしはうなずいて、絵本をおひざの上に戻した。表紙を指先でつまみ、めくる。目の前いっぱいに広がる緑色に、わたしは胸をときめかせた。
「あるところに、森の、おく、……おく、そこ。おくそこに住んでいる、おひめさまがいました」
わたしが文字を指先でたどって読むと、お母さまは微笑んでわたしの頭を撫でてくれた。
「すごいわね、もう『奥底』なんて読めるの?」
わたしはお母さまの手にすり寄るように首を伸ばす。手はそのまま頬に下りて、くすぐるように輪郭をなぞった。
「いっぱい勉強してるって先生方から聞いたぞ。偉いな」とお父さまもわたしのお腹に手を回して言ってくれる。わたしは得意になって、お父さまに寄りかかった。
「文字を読むのもとっても上手になったのよ。難しい言葉だって読めるわ」
そうか、と言って、お父さまはわたしの頭に顎をのせる。重たいと言ったら、軽やかに笑った。
絵本を読みすすめて、おひめさまがスカートを木の実でいっぱいにしたところで、小さくあくびをした。するとお母さまは優しくほほえんで、わたしの頭をそっと撫でた。
「いい子、可愛い子。そろそろおやすみの時間よ」
***
暖かく平和な春から、弾き出された。わたしは全身を包む冷気に身震いして、呆然とする。
「わた、し、」
声を漏らして、その場に立ち尽くした。今見えたものが一体何だったのか分からず、狼狽えて周囲を見渡すが、誰も答えてくれない。
「おかあさま、どこ?」
周りにいるのは知らない人たちばかり。知らないおとなばっかり。この人たちは一体誰?
「おとうさま、」
心細くなって、わたしは眦を下げた。思わず涙がせり上がってきそうになって、息を止めた。
「リア」
突然、名前を呼ばれた。前かがみになって、わたしと目線を合わせて、僅かに微笑む。
「お兄さん、だれ?」
わたしは小首をかしげて、お兄さんの目を見返した。
「きれいなおめめね」
とっても澄んだ赤い色をしているので、そっと両手を伸ばしてお兄さんのほっぺをはさんでしまった。目の下におやゆびを置いて、その色をじっと見つめる。
「――リア、教えて欲しいことがあるんだ」
「なあに?」
わたしの手に触れて、やさしく下ろさせてから、お兄さんはわたしに笑いかけた。
「満月が出たら、何があるのかな」
何だったっけ?
お兄さんが真剣な顔をするから、わたしも答えてあげたくて、がんばって考える。
「あのね、えっとね、」
両手を握って、わたしは口ごもった。
「……誰かがね、そう言ってたの。満月が出たらおしまいだからねって」
あれ? それは、いつの、こと、だっけ。
「おいでって呼んでくれるの。みんながわたしを待ち望んでるんだって言うの」
足元が抜けたように錯覚した。……わたしは、今、どこにいる?
わたし、わたし、……わたし、
「わたし、神さまなんかじゃ、ないです」
お母様も、神さまなんかじゃないです。
寒い、と言って、わたしはうずくまった。冷たい床。大理石、白い石。違う、違う……!
「――ここは、どこですか?」
恐る恐る問う。
「神殿、ですか?」
お兄さんが大きく息を呑んだ。わたしは必死に身を縮めて、目を固くつむる。
誰かが教えてくれた。『ここは神殿だよ』。だけどわたし、神殿なんて知らないから、どうしたら良いか分からなかった。
『帰りたいんです』と言ったら、優しく頭をなでてくれた。白い布地に金色の糸で刺繍がしてあるのが見えた。『満月が出たらおしまいだからね』。
だからわたしは、満月を出るのをずっと待った。やっと夜になって、雲が晴れて、神殿に光が射したとき、カーテンが開いた。
窓の向かい、壁に描かれた人物画に、わたしは息を呑んだ。
ずきり。頭が痛んで、わたしは小さく呻く。お兄さんはわたしの肩に手を当てて、案じるようにわたしの顔を覗き見た。
「満月が、出たから。絵が見えたの」
わたしはそっと囁く。
「お母さまにそっくりな女の人が描かれてたの」
それはつまり、わたしにも、そっくり、な。
「明るい金色の髪と、澄んだ青色の瞳。それが重要なんだって」
***
わたしは、冷たい大理石の上に裸足で立ったまま、呆然と壁画を見上げていた。首を曲げないと上まで見えないような大きな絵で、晴れ晴れとした表情で空を仰ぐ女性が描かれていた。
雲ひとつない青空を背景に、胸の前で指を組んでいる。風が強く吹き抜けたように、その長い髪は僅かに波打ってたなびき、顔にもひと房、髪がかかっていた。
腰ほどの高さがある、黄金色をした植物が、遥か遠くまで続いている。恐らく小麦だ。
小麦の中に立った彼女の目は、見上げる空と同じ色をしていた。空中に広がった髪は小麦に似た澄んだ金色。
「あれが、神様だよ」
背後にいた司祭が告げた。わたしは絵から視線を外して、体を捻って振り返る。
「何の神さまですか?」
わたしが問うと、司祭はにっこりと微笑んだ。絵を指し示し、背を屈める。
「作物がいっぱい実るように、私たちを祝福して下さっている神様なんだ」
わたしはもう一度絵を見上げて、そっか、と呟いた。小麦の中で風に包まれているこの女の人が、神さま。
「でもね、神様が間違って、この世界に生まれてきてしまったんだ」
司祭は姿勢を直して、苦笑いするように眦を下げた。わたしはびっくりして目を見開く。
「良くないことなの?」
そうとも、と司祭は頷いた。
「その証拠に、ローレンシアではあまり作物が豊かに実らないだろう? それは、天の国に神様がいらっしゃらないからなんだ」
わたしは一旦頷いて、一度唾を飲んでから、「あの、」と胸の前で手を握った。
「わたし、何のために、ここにいるんですか? どうしていつの間にかここに来てしまったんでしょう」
わたしに、ここに来た記憶はなかった。目が覚めたら、ここにいた。この、神殿に。
司祭はわたしに椅子に座るよう促しながら、口を開く。
「君にはその神様の一部が入っているんだよ」
わたしはきょとんとして首を傾げた。
「わたし、神さまなんかじゃないです」
自分では分からないものさ、と司祭はわたしの隣に座って、わたしを見た。手に触られそうになって、思わず足の間に両手を挟み込んでしまった。
「だからね、儀式をするために、来てもらったんだ」
ちく、と腕に何か軽い痛みが走った。わたしは息を飲んで身を竦める。視界が暗くなった。
体から力が抜けて、わたしは背もたれに寄りかかったまま、瞬く間に気を失った。
***
わたしは、顔を覆って泣いていた。おうちに帰りたいのに、帰れない。
「あのね、お兄さん」
わたしが呟くと、お兄さんは促すように喉で声を出した。顔から恐る恐る手を外し、腕を伸ばすと、応じて腕を開いてくれる。
「いっぱい、おとなの人たちがいてね、みんなで儀式をするんだって言うの」
あんまり寒いから、お兄さんの首に縋り付いて、わたしは甘えるように額を預けた。
「でもおかしいのよ」
お兄さんはわたしの背中を数度叩く。わたしはゆっくりと目を閉じて、息を吸った。
「みんなわたしのこと、神さまのこどもだって言うの」
***
目が覚めたとき、真っ先に、寒い、と思った。いつの間にか神殿の中には大勢の人がいた。わたしは絵を見ることが出来る最前列の椅子に腰掛けたままだった。
満月は高さを増し、窓の中央で燦然と輝く。月光を受けた壁画は音もなく微笑んだ。
瞼をもたげたわたしの前に、司祭が立つ。ぼんやりとしたまま見上げていると、司祭は柔らかい声で告げた。
「……さあおいで、いい子だから、こっちへおいで」
まるでお母様のような言葉に、わたしは差し伸べられた手のままに立ち上がった。司祭は満足げに頷いた。
「みんながあなたを望んでいるんだ。あなたの慈悲を願っているんだ」
みんな、という言葉に、わたしはその場で体を捻って神殿を見渡していた。白い法衣を身に纏った男女が、こちらを見つめている。何故か背筋がぞくりとした。
「あの、」
そっと呟くと、一つ後ろの列に座っていた女性が、にこりと微笑んだ。しかしその目は笑っておらず、思わず一歩下がってしまう。
「さあ、神様。儀式の時間でございます」
司祭は促すように半身になって、わたしに道を開ける。神さまなんかじゃない、と訂正することも出来ず、わたしは訳が分からないまま歩を進めた。
まるで夢の中のようだった。ここに来る直前のことは思い出せなかった。妙に気持ちはふわふわとして、人の視線に晒されることが恐ろしいのに、それを感じなかった。
「――そう、そこに立ちなさい」
歩いて、ある一点に達したところで、司祭が告げる。わたしはそっと目線を持ち上げた。
壁画のすぐ下に立ち、反対側の壁を見ていた。見上げるほど大きな窓の向こうに、丸い月が浮かんでいた。顔に冴え冴えとした光が落ちる。
そこで居住まいを正したわたしに、司祭が頷いた。
「それでいい。すぐ終わるからね」
わたしは光る床に立ち尽くしたまま、途方に暮れて司祭を見やる。おずおずと口を開いた。
「満月が出たら、おしまい、なんですよね」
ここは怖かった。早くおうちに帰りたい。司祭は鷹揚に頷く。
「ああ、すぐだ」
もちろん、というように肯定した司祭が、後ろに下がり、わたしから距離を取る。「本当にすぐですか?」と問うと、司祭は再度首肯した。
「少し痛いかもしれないね。でも大丈夫」
明るい月の光を浴びながら、わたしはその言葉を受け止めた。
「これはみんなが幸せになるために必要なんだ」
***
私は必死に頭を抱えていた。無理やり出てきたので、こめかみがずきずきと痛んだ。
……これ以上は、駄目だ。
「皇帝、へい、か、」
私の背に回された腕を、震える手で掴む。皇帝は驚いたように声を漏らして、私の顔を覗き込んだ。
「クィリアルテ嬢」
私はともすれば乱れがちになる息を整えつつ、皇帝の目の奥を見据える。
「お願いです、どうか、これ以上は」
もはやただの嘆願だった。皇帝は虚を突かれたように、咄嗟に言葉を失った。
「思い出しても、あの子は、幸せにはなれない」
助けて、と囁いて、私は唇を戦慄かせる。
あ、まずい。
「私じゃ、もう、守れないんです」
言いたくない言葉だった。皇帝は息を呑んだように目を瞬かせる。
私、が、存在できない。
がくりと頭が落ちた。皇帝の胸に頭突きをした形のまま、私は荒く息をした。
駄目だよ。これ以上は、あなたが、傷つくだけなのに。
クィリアルテが壊れる予感に、身震いした。
「大丈夫」
ふっと、頭が押さえられる。それで力が抜ける自分が恨めしかった。私はゆっくりと目を閉じて、そのまま意識を手放した。
……お兄さんの胸に額を押し付けていた。思わずそっと離れ、立ち上がったわたしは、控えめに泣きじゃくりながら自分の体をかき抱いた。
いやだ、やめてと声は出なかった。訳が分からないまま、無力なわたしが泣いていた。
「やだ」
今になって声を出しても、意味が無いのに、
「やめて」
意味がないのに、どうして、今更声が出せるんだろう!
――――わたしは、もう、叫べるのに!
体を折り、わたしは癇癪を起こしたこどものように、声を限りに絶叫した。
「……お母様を、殺さないで!」
***
色のない月光の下、色のない神殿は静まり返っていた。
わたしの体は既に冷え切り、見下ろした指先は真っ赤に染まっていた。息は薄らと白く広がり、わたしはじっと立っていた。
ほんの少しのざわめきに、わたしの耳は敏感に反応した。いつになく人の気配に敏感になっていた。
神殿の後方。大きな窓のある側に近い位置にある扉が、開いた。わたしからは距離があって、そこで何が行われているのかはよく分からなかった。しかし、複数人の人間が、扉からこの部屋に入ってきたことは分かった。
やがて、その人影がばらける。ただひとつのみを残して、あとは影の中に消えた。
残されたひとつの影は、細身の女性のようだった。一段高い舞台のようなところにすっくと立ち、真っ直ぐに前を見据えている。逆光でその詳細な姿は伺い知れず、ただ輪郭のみが明確に浮かび上がるのみ。
「さあ、こちらへ」
司祭に言われて、わたしは一歩、足を踏み出した。窓に向けて、その前に立つ女性へ近付くように、ゆっくりと。
「あれが私たちの神様だよ」
司祭が囁く。さざめきのようにその言葉は広がり、人影は小さくぴくりと震えたようだった。
空に薄雲がかかる。神殿はそれまでと一転、ほの暗い闇に落ちた。壁際の松明が灯される。色を持つ光が揺らめいた。
「――さあ、儀式を始めようか、テティア」
影は小さく囁く。
「何と愚かな」
それには応えず、司祭はわたしを追い越して女性の元へ慎重に歩み寄った。
わたしは僅かに首を傾げた。
立ち尽くした彼女が、吐き捨てるように告げる。
「娘を神に見立てるだけでは飽き足らず、その生命さえ奪おうとは。気でも狂われましたか、お父様」
わたしは今度は反対側に首を傾けた。
……テティアは、わたしの、お母様の、名前だ。
わたしからは司祭は後ろ姿しか見えなかった。だからその表情がどんなものだったのか、わたしには知ることは出来なかった。
けれど多分、笑ったんだと思う。呆れたように、笑ったんだ、きっと。
「私をこの世の父と呼んで下さるのですか、神様」
そして、頭上に雲に紛れた真円を背負った彼女は恐らく、苦しそうに眉を顰めたんだと、思った。
司祭が手を叩いた。
わたしがすぐ前に立っている壁画を向いて座っていた人たちは、一斉に立ち上がり、振り返る。皆がわたしに背を向け、司祭と女性のいる方を向く形となった。
この期に及んで、わたしは嫌な予感から目を背け続けていた。けれど思い浮かぶのは、これまで決して会うことのなかった、母方の祖父のことだ。
お父様のお父様とお母様には何度も会ったことがあるのに、わたしは、お母様の両親には一度も会ったことがないのだ。一度、どうして、と訊いたことがあった。
お母様のお母様は、もう、遠いところへ行ってしまったんだって。お母様はそう言っていた。お母様がまだ幼かった頃、とっても寒い冬が来て、お祖母様はその冷たさに耐えられなかったんだって。雪が酷くてどこにも行けなくて、食べるものもなくて、冬が来てから、二度と太陽を見ることもなく、暗い冬に息を引き取ってしまったんだって、そう聞いた。
だから、そのことで胸がいっぱいになってしまったわたしは、気にしたことがなかったのだ。
会ったことのない、お祖父様の、こと。
司祭がわたしに手招きした。わたしは僅かに怖気付き、それからそろそろと足を出す。
微かに空が明るくなったので、目線だけを上げると、月にかかっていた雲が焦れったいほど少しずつ移動しているところだった。
わたしの喉はまるで錆び付いてしまったみたいで、ただ息の音が微かにするだけで、声なんて全然出なくて、
――雲が流れた。
幾筋もの線になって射した月光の下、その人は凛と顎を上げて立っていた。全身に光を浴び、毅然と背を伸ばした彼女が、その瞼をもたげ、鋭い双眸を顕にする。
窓の足から生えた光は、わたしの足元まで届いた。白い大理石は、まるで自身が発光してでもいるみたいに輝き、瞳孔をこじ開けるような眩しさに耐えかねたわたしはゆっくりと視線を上げた。
「……おかあ、さま、」
果たして、そこに立っていたのは、わたしのお母様だった。
お母様はわたしの声に反応して、目線を動かした。確かに目が合う。お母様は愕然としたように瞠目すると、絶句した。
「リア、……どうし、て、」
信じられないというように身を乗り出して、お母様は何かを堪えるように顔を顰めた。そのときになってようやく、わたしはお母様が舞台の上に立つ柱に縛られていることに気付いた。
「――あなた達は、生まれるべきではなかった」
司祭が低く囁く。お母様ははっと小さく息を呑んだ。
「それがあなた達の罪だ」
「私はそうは思いません、お父様」
お母様と司祭の言葉は、どうしてかわたしの耳を上滑りするみたいに入ってこなくて、わたしはただ断片的に音を拾うことしか出来なかった。
……わたし、生まれたことが、罪、なの?
お母様はこれまでになく険しい顔をして、体を揺すった。お母様が括りつけられた柱は軋みもしない。
「リア、逃げなさい」
切羽詰まったようにお母様が告げる。わたしはどうしたらいいか分からずに狼狽えた。
「でも、お母様は」
「私のことは気にしなくていいわ」とお母様は一瞬変な笑顔を浮かべる。その表情の真意が掴めず、わたしは途方に暮れて躊躇する。
……だいいち、逃げろと言われても。わたしが周囲を見回したところで、神殿にいた人たちが一斉に身じろぎした。
衣擦れの音はほんのささやかなものなのに、わたしはそれに随分と怯えて、肩を竦めた。
胸に手を当てた司祭が、こちらを向いた。わたしは多くの大人たちの背中を見たまま、凍りつく。
「私たちが望む景色はどのようなものですか」
語り出した司祭の後ろでは、お母様がなおも体を捻っていた。絡みついた縄は緩みもしない。
「抜けるような青空と、豊かな小麦。凍えるような冬ではなく、生きるのにも窮するような土地ではなく、――そう、生命に溢れた大地です」
話が飛んだように感じたが、ふとわたしは思うところがあって背後を振り返った。そこには小麦畑の中で佇む女性の絵が描かれており、その背景には澄んだ碧空が広がっている。それは正しく今聞いた景色だった。
「例えば、ほんの山ひとつ隔てた先の、パンゲア」
司祭が腕を広げる。
「豊かな農業国として知られています。どうしてこうも違いが生まれたのか。更に言うなれば、ローレンシアの中でも、この地域はとりわけ農業が育たない」
わたしと、お母様の、目が、合う。
わたしとおんなじ色をした目。わたしとお母様はよく似ていた。不思議なくらいよく似ていた。髪の色も、目の色も、顔立ちも、全部、似ていた。お母様の小さい頃を知る人はみんな、口を揃えてそっくりだと言った。
「それは、この近辺を司る神様が、誤ってこの世に生まれてしまったからなのです」
お母様のお母様の肖像画を見たことがあった。お母様によく似たひとだった。わたしとも似ているけれど、お母様程ではなかった。
わたしたちはよく似ていた。お祖母様も、お母様も、わたしも、みんな。
……でも、お祖母様は、金色の髪ではなかったのだ。
「だから再び神様を天へお返ししなければなりません」
お母様はその言葉に、驚いた様子は見せなかった。切なそうに眦を下げ、俯いて頭を振る。お母様のそんな表情を見たことがなかったわたしの方こそ驚いて、目を見開く。
「わたし、神さまなんかじゃないです。……お母様も、神さまなんかじゃないです」
思わずそう述べると、司祭はわたしに目を止めた。思わず、ぞくりとした。
「――自覚がないだけだよ」
恐ろしいほど優しく、鷹揚に微笑んだその人に、わたしはびくりと立ち竦む。体が震えたのは、寒いせいもあった。壁際の松明には火が灯っているが、それは暖を取るためのものでもない。決して厚着をしている訳でもないのに、暖炉もない神殿にいるのは辛かった。
おかあさま。わたしの、おかあさま。
神さまなんかじゃ、ないのに。
「……あなたは、生まれてきてはいけなかった。わざわざロツィアの命を削ってまで、どうして、」
司祭が、わたしのお母様にそう言うの。わたしの大好きなお母様にひどいことを言うの。
「お父様は、そうでも思わないと生きていけないのですね」と、お母様は目を伏せた。あんなに辛そうな顔をしているお母様を、わたしは見たことがないのだ。
「しかし、クィリアルテは違うでしょう」
不意に力強い声になって、お母様はそう告げる。唐突に出てきた自分の名前に、わたしは息を止めた。
「クィリアルテに何の罪がありますか。あの子に何の非がありますか、何の関係がありますか。あの子は何も悪くないわ」
お母様は身震いしたようだった。唾を嚥下するように顎を上げた。わたしから目を逸らして、お母様が囁く。
「……私がたとえ、生まれてはならない存在だとしたって」
いわないで。そんなこと、いわないで。
そう言ってお母様に抱きつきたいのに、わたしの手足はまるで役に立たない。声は強張り、わたしはただ音もなく涙を零すしか出来なかった。
言わないで。わたしの大好きなお母様のことを、お母様が悪く言わないで。いつも「あなたが生まれてきてくれて嬉しいわ」って抱き締めてくれるお母様が、そんなこと……!
***
言えなかったの。わたしは、言えなかったの。
はらはらと、両目から頬へ涙を流れるままにして、わたしは喉をひくつかせた。
今なら言える。今のわたしなら言えるのに。
ねえお母様。わたしの中のあの人が教えてくれたの。わたしを守ってあげるって言ってくれた、あの人が、教えてくれたのよ。
言いたいことは言ってもいいの。
言いたくないことは言わなくてもいいの。
両手で顔を覆って、わたしは崩れ落ちた。床にぺたんと尻がついた。一度唾を飲んで、唇を噛んで、奥歯を食いしばって。
「――――あぁ、あ、……ぁあああああああっ!」
天を振り仰いで、わたしは声を上げて泣きじゃくった。
「大好きです、お母様、」
何で言えなかったんだろう。何であのとき言えなかったんだろう!
「お母様、あなたが生まれてきたおかげで、わたし、今ここにいるんです」
お母様、言いたくないことは言わなくったっていいのよ。……言わなくていいのに。
「わたし、ここにいるんです。何に許される必要なんてなく、今、ここにいるの。あなたの娘として生まれてきたから」
お母様が存在するのにだって、何の許しもいらない。誰に許されもしてないわたしがこうして声を上げて存在を主張するのと同じように。もう死んだ扱いをされてるわたしが、こうも図々しく泣き喚いているように。
「お母様がこの世界に生まれてきたってことが、わたしはとっても嬉しいんです」
あのとき、きっと、わたしはそう言いたかったのだ。
***
わたしは、呆然と、全てを眺めていた。聞こえる言葉は恐らく古語で、断片的にわたしの知っている単語が混じっていた。
お母様は、ずっと、俯いていた。わたしはお母様に声をかけることも出来ずに、ただ立ち尽くすばかりだった。
ふと、月の位置が先程とは変わっていることに気がついた。真上から照らされるようになっていたお母様の姿は、僅かに右手から光を受けていた。
だから、お母様の立つ小さな舞台、あるいは台座の側面に、何か文字が彫ってあるのが見えた。わたしは目を凝らす。
難しい言葉だった。
神の、たま……たましい? ……たましいを、あるべき、ところ、へ、返すべく、
何とか噛み砕きながら、わたしは文字を辿る。
司祭が――たぶん、わたしのお祖父さまで、お母様のお父様が――、何か、鋭く光るものを掲げた。それを視界の隅に捉え、わたしは息を呑む。目は文字を追った。
「――今世へ生まれ出たその命を、いけ、生贄とし、……贖罪となす」
そのときお母様が顔を上げた。わたしの視線を追うように足元を見、そして今までわたしに向けたこともないような険しい顔で、息を吸った。
お母様が、その唇を開いた。噛み締められていたせいで色を失った唇は、酷く恐ろしい形をして、その隙間から、叩きつけるような鋭い声を発した。
「――――文字を読んではいけません!」
唇が動いた。音を紡いだ。それが言葉としてわたしの脳髄に突き刺さるのには時間がいった。
お母様は怖い顔をしていた。あんなに険しい眼差しを向けられたことのなかったわたしは、その言葉も相まって、
――お母様はわたしが嫌いなんだって、断定した。
***
「お母様が、言ったの」
わたしはアラルに向かって囁いた。アラルは黙ってわたしを見下ろしていた。
「お母様が、最期に、言って、逝ったの」
わたしは泣き笑いのような変な顔をして、告げる。
「文字を読んでは、いけませんって」
……そのときから、わたしは文字が読めなくなった。
***
白銀に弧を描いた。その色が刃のものなのか、跳ね返す光のものなのかも分からなかった。ただ、その残光だけが、目に焼き付いたみたいに離れなくて、滑らかに空を切った短剣が、迷いなく、吸い込まれるように真っ直ぐ、お母様の胸を指向するから、
――わたしは、何が起きたか、分からなくて。
ただ、お母様が、もう、目覚めることはないんだって、それだけは何故か分かっていた。
あれほど神々しいものを、わたしは未だかつて見たことがない。光を弾く肌の表面にあって、輝きを切り裂くように伝う赤黒い液体と、それが溜まっては雫となって落ちる指先と。……目が、離せなかった。
凄絶なまでの美しさを保ったまま、わたしのお母様は、そこに在った。恐怖は何故かはるか遠くで佇んでいるようで、ただ身体の軸がじわりと痺れるみたいな悲しみを抱えて、わたしはお母様を見つめていた。
役に立たないわたしの喉は、凍りついたまま。なにも言わない。なんにも言えない。
ようやっと理解が追いついたときも、わたしの唇を突き破ってまで出てくる声はなかった。ただ跳ね返されて胸の内で木霊するだけだ。
…………お母様が、死んだ。
不意に気配を感じた。今までは気付けなかったような、ずっとずっと遠くにいる人の気配だ。緩慢な動きで顔を上げて、わたしは、ほんの僅かに唇を開いた。
扉を蹴破って現れた騎士たちに、わたしは身体の力を抜いた。確かにローレンシア王国の紋章が刻まれた盾が見えた。
司祭が、わたしに手を伸ばした。わたしはその手を取らなかった。
「……お祖父さま」
そっと囁く。司祭は一瞬気圧されたみたいに息を呑んで、それから、短剣を振り上げた。
わたしの体に、影が落ちた。
「リア、」
わたしに覆い被さるように体を広げた、その人の肩を、鋭い刃物が貫いた。鼻腔を僅かに刺激する臭いに、わたしは身震いする。何か、嫌な感じがした。
「おと、さま、」
わたしの目の前で、身を挺して立ち塞がったお父様が、ゆっくりと頽れる。どうしてこんなところにお父様がいるのか。
わたしは呆然としたまま、お父様を見下ろしていた。
***
盥の前でうずくまり、激しく嘔吐したわたしは、声を殺して涙をこらえた。渡されたコップの水で口をゆすぎながら、机の上に置かれたままの本を見やる。
侍女は案じるようにわたしの前にかがみ込んだ。
「本当に、お読みになることが出来ないのですか」
わたしは力なく頷いて、膝に視線を落とす。
「文字が、……文字に、見えないの。何とか読もうとすると、すぐに、気持ち悪くなって、」
逃げ場がなかった。何もしていないと自然と思い出してしまうのは、月光に浮かび上がったお母様の輪郭線ばかりで、それを思い出したくないと願ってしまう自分の心が嫌だった。
逃げ込めるはずだった世界は、わたしを拒絶でもするみたいに、わたしの理解の外へ逃げてしまった。もはや文字はただの線の塊にしか見えなかった。
***
お父様に会いたくて、そっと部屋を抜け出した。もうわたしはベッドへ行く時間だけれど、おとなはまだ眠らないんでしょう。
煌々と照らされた部屋で、お父様は上半身の服を脱いで、椅子に座っていた。その前の椅子に腰掛けた、知らない女の人が、お父様にそっと体を寄せる。
扉の隙間から、わたしはそれを声もなく見つめていた。寒さが和らぎ始めた頃とはいえ、まだ夜の空気は冷たかった。体が震えたのはそのせいかもしれなかった。
その肩は、黒く変色していた。まるで腐ったみたいに、酷く爛れた皮膚が、お父様の肩から二の腕を覆っていた。
――わたしのせいだ。
「いつまでお隠しになるおつもりで?」
お父様の肩に何かを塗って、それから包帯を手に取った女の人が、慎重な声でそう問うた。お父様は苦笑するみたいな変な笑い方をして、細く息をつく。
「今、告げたら。……あの子は自分のせいだと思うだろう」
「……ええ、恐らくは」
聞いちゃ駄目だ、と思ったのに、足が動かなかった。お父様が目を伏せると、女の人は包帯を持った手を伸ばして腰を浮かせた。
「このまま行くと、陛下の腕は全く使い物にならなくなりましょう」
咎めるような響きで、女の人が包帯を手際よく巻いていく。お母様とほとんど同じくらいの年に見えた。まだ若いと言ってもいいような年齢の人だ。
「切断をしないで済むなら何だって良いさ。……流石に片腕がなくなったら、あの子も気付いてしまうだろう?」
わたしの、せいだ。わたしのせいで、お父様が腕を使えなくなる。お母様の命が奪われるのをみすみす見送っただけでは飽き足らず、お父様の腕まで奪って、わたし、わたし……!
「どうだ、ラミレ」
お父様が笑った。
「私が死んだら、代わりにクィリアルテを守ってやってはくれないか」
包帯を巻き終えた女の人は、虚を突かれたように押し黙る。真意を図りかねて眉を顰め、彼女は言い淀むように「それは、」と漏らした。
「恐らく私は早晩死ぬ。この毒で体が弱っているのが自分でも分かる」
お父様は、眦を下げてため息をつく。わたしは息を殺したまま、扉の影に潜んでいた。
「王家の血を引かないお前が政権を握れば、様々な規則を掻い潜ることが出来る。内部を切り捨てることが可能ならば、貴族との癒着も断ち切りやすかろう」
彼女が、眉間に皺を寄せた。酷く躊躇するように口を開閉させる。
「……御意に」
逡巡を超えて、そう呟いた。
「命に代えてでも、お守り致します」
***
お母様の最期を思い出さないようにすればするほど、お母様の笑顔が思い出せなくなった。それが訳もなく辛くて、幾夜もベッドの中で身を竦めて泣いた。
疲れ果てて浅い眠りに落ちかけたところで、廊下を誰かが歩く気配を感じた。
全身に鳥肌が立つ。気配が近付いてくる。足音が、こちらへ、近付いて――近付いて、どうなる? 扉に手をかけ、足音の主は部屋に入ってくるかもしれない。そうしたら、わたしは……
布団の中に体を埋めて、わたしは絶叫した。いやだ、こわい、助けて、助けて……!
ふと、意識が浮上する。
……お父様がわたしを抱き抱えて、何とかあやす様に言葉を紡いでいた。弱々しく息を吸う隙間に、軽い咳をして、わたしは固く目を閉じる。甲高い声で叫んだ喉は傷んでいた。いつも握り締めている手のひらには爪の形の窪みが出来た。
お父様は片腕でわたしを抱いていた。それに気付かないふりをするのもまた辛かった。
なら気付かなければいいのだ。
わたし、何も知らない。お母様が殺されたことも、お父様がわたしの代わりに毒を受けたことも、何も、知らないの。
ひとつひとつ、手放して、遠くへ押しやって、――そうしたらとっても楽になったので、
どんどん、みんな、放り捨てた。
***
お父様が、知らない女の人と、再婚したって。とてもじゃないけど祝う気にはなれなくて、わたしは部屋の中でずっとうずくまっていた。周囲をゆく気配に怯えながら、ぼんやりと、無意味に時間を過ごす。
新しいお妃様は、つまりわたしの義理の母ということになるらしい。部屋を訪れた彼女に無感動な目を向け、へぇ、と呟いて、わたしは素知らぬ振りをした。
お父様が旅先で倒れられた。わたしは行っちゃ駄目だとみんなが言う。わたしのお父様のことなのに、何故か、周りがそう言うの。
だからせめて、少しでも良い娘になりたかったから、継母に「行ってあげてください」と告げたのに、彼女は決して動こうとはしなかった。ずっとわたしの隣で、黙って座っていた。
……全部手放して、何もすることが出来なかった。自分が誰なのかも分からなくなる時間が長くなる。お父様のことも思い出せないような、そんなことが増えた。
あれ、確かもう一人、思い出せない人が、いたような。
お父様が亡くなったと報せを受けた。
胸の内で、何かが決定的にひしゃげる音がした。
***
目覚めたとき、暗闇の中で横たわっていたわたしは、自分がいる場所が分からなくて硬直した。恐る恐る視線を持ち上げ、そこに人の顔を見つけてびくりとする。
わたしは恐らくベッドの上で、その脇に置かれた椅子に、腕を組んで座ったまま眠っている人がいた。
そうだ、わたし、……いっぱい、思い出したんだ。
「アラル」
どうせ聞こえまいと呼んで、わたしは起き上がった。ベッドの上に手をついて、俯きがちな顔を覗き込む。
「わたしね、」
アラルの目が開いた。ばっちりと視線が重なって、わたしは小さく笑う。
「ひどい娘なのよ」
たった今起きた様子のアラルは、きょとんとしたように瞬きをした。腕組みを解き、椅子を引いてこちらへ近寄る。
「落ち着いたか」
「……うん」
曖昧に頷いて、わたしは頬を掻いた。その手を掴んで下ろされる。
「赤くなるからあんまり擦るのはやめなさい」
窘めるように言って、アラルがわたしの目の奥を見据えた。探るみたいにじっと見るから、わたしは負けじと視線を強くする。
「せっかく自分で忘れようとして忘れたのに、わざわざ思い出させようとするところ、嫌いよ」
逃げるな、と詰め寄って、力ずくで過去に吹っ飛ばすみたいな、そういうの、嫌いだわ。
「思い出したくないこと、いっぱい思い出した」
わたしはじっとりと囁いて、目を伏せる。胸の前で指を絡ませて、ため息をついた。
「でも、覚えていたかったはずの沢山のことも、取り戻せたの」
お父様と、お母様の、こと。
「ありがとう」
頬を緩めて、目を細めた。アラルの目を真っ直ぐに見返して、わたしは微笑んだ。アラルは息を飲んで、瞠目する。
ふむ、とわたしは呟いた。
「ただ、ああやって人の傷口を抉りに来るのは頂けないわね」
ぎくりとしたようにアラルが仰け反った。わたしは肩を竦めて、ため息をつく。
「自分が過去を思い出すことで楽になったからと言って、他の人もみんなそうだと思い込むのは早計だわ。反省した方がいいと思う」
思ったことをずけずけ言えるのは案外気持ちよかった。アラルは意表を突かれたように眉を上げると、それから満足げに頷いた。
2018/8/31 加筆修正