6 ひとりだったのかな
私は初めて会う弟に対して、どんな顔をすればよいか分からなかった。それは向こうも同じようだった。
「あの、……姉さまですか?」
口火を切ったのは弟のイェシルだった。恐る恐るといった風に私を窺い、眦を下げる。
「ええ」と応じてから、続く言葉に迷って私は口ごもった。ともかく体勢を立て直し、ソファにきちんと座る。手招きすると、イェシルは大人しくこちらへ来た。
「初めまして、イェシル」
どう接するべきか分からない。私はこの子に立場を追われたと言えばもちろんそうなのだが、それがこの子の意志ではないのも分かっているつもりだ。だって当時イェシルは一歳にも満たなかった。
「初めまして、姉さま」
ともかくそう返して、イェシルはもじもじとその場で俯いた。イェシルが生まれたとき、えーと、私は九歳? 確かそうだ。となると私の九つ年下。
「もう八歳かしら」
訊くと、イェシルはこくりと頷いた。それきり会話は途絶え、私たちの間に沈黙が降りる。
見るに見かねたらしい、皇帝が立ち上がってこちらへ歩いてきた。誰だこの人はと言わんばかりに皇帝を見上げたイェシルは、胡乱げな目付きをする。
立ったままだったイェシルの脇の下に手を差し込んで、皇帝がその体を持ち上げた。足が床から離れ、イェシルは目を白黒させた。
「わっ」
足をばたつかせながら、イェシルは長椅子の上に降ろされた。私の隣の長椅子だ。イェシルを挟んで私と反対側に座った皇帝が、背を丸めてイェシルの顔を覗き込む。
「お兄さん誰?」
怪訝そうな顔でイェシルが首を傾げると、皇帝は答えあぐねるように視線をさまよわせた。
「……義理の兄、で良いのか?」
何で私に訊くんだと思いながら頷くと、皇帝は俄然元気になってイェシルを見る。
「君のお兄さんだ」と言って微笑むが、イェシルはピンと来ないらしい。瞬きを繰り返して、理解に苦しむように固まった。
「……僕、お兄さんはいません」
ややあってそう呟く。私は仕方なく、一呼吸置いてからイェシルに話しかける。
「私が結婚したら、その相手はあなたにとって義理の兄にあたるの」
イェシルが私を肩越しに振り返った姿勢のまま固まった。目を大きく見開き、ぽかんとする。
「ね、さま、けっこ、」
「……まあ、あなたのお母様に言われてね」
そう言ってもまだ硬直しているので、そろそろ心配になった頃、突如イェシルが叫んだ。
「っ、すごーーーーい!」
目を輝かせてイェシルが皇帝を見る。その手を両手で掴むと勢いよく上下に振り始めた。
「僕の兄さま!?」
「ああ」
「姉さまが結婚すると兄さまが増えるの!?」
「そうね」
私が頷くと、頬を紅潮させたイェシルが続ける。
「なら姉さま、もっとたくさん結婚してよ!」
背後でメフェルスが盛大に吹き出した。続いて胸を押さえて咳き込み、腹を抱えて笑い始める。
「それは……しないよな?」
おずおずと皇帝が私の顔色を伺ってくるので、「いや、そもそも法律違反ですよ」と教えてあげた。どうして皇帝なのに、『重婚は駄目だ』なんてそんな単純な法律を理解していないんだろう。
「お兄さんは誰?」と初めて認識したようにイェシルがメフェルスを振り返る。メフェルスは「うーん、乳兄弟ってどう説明すれば」と腕を組んで、それから閃いたように指を立てた。
「君の兄さまの兄さまだよ」
「えっ、お前、俺の兄のつもりだったのか」
「僕の方が誕生日早いですよ」
「それもそうだな。よし、イェシル、これが俺の兄ということは?」
「僕の兄さまがふたり!」
諸手を挙げて喜び始めたイェシルに、私は再びどう接したらいいか分からなくなった。
皇帝とメフェルスの二人とじゃれあいながらはしゃいでいたイェシルが、ふと私を振り返った。特に焦点を合わせるでなくそちらの方向を向いていた私ははっとする。
「……姉さまに会えたら言おうと思ってたことがあるんだった」
ぴょんとソファから飛び降りて、イェシルが私の前に歩いてくる。立ってもまだ、座る私より目線が下の小さなイェシルを見ながら、私は瞬きをした。
どうやら私は怯えているようだった。手が震える。何を怖がっているのだろう。私は何も返事を出来ずにイェシルを見返した。
「姉さま、」
いきなりイェシルが両手をがばっと広げて近づいてきたので、私は仰け反ってしまう。それを逃さず、私の首にすがりつくように腕を閉じたイェシルの頬が私の肩にすり寄せられる。
「僕、姉さまにずっと会いたかったんだ」
は、と息だけ漏らして、私は絶句した。
「姉さまのこと、ずっと大好きだったから」
そう囁いて、イェシルが目を閉じた。その瞬間、手が出た。
突き飛ばされたイェシルが、絨毯の上に尻餅をついた。我に返って血の気が引いた。
「ごめ、なさい」
呟いて、私は立ち上がってソファを回り込み、後退した。唇を戦慄かせて、距離を取る。
「わたしは、あなたのこと、」
「やめなさい」
皇帝が弾かれたように立ち上がって、私の口を手のひらで塞いだ。もがいて、私は首を左右に激しく振る。
「なんでわたしのこと好きだなんて言えるの? 会ったこともない人のこと、好きだなんておかしい」
聞かせちゃ駄目だ。この子に罪はない、この子はわたしに何もしてない。でも声は止まらず、目からは勝手に涙が溢れ出る。
「わたしだけばかみたい」
メフェルスがイェシルを立たせながら、私との間に立って視界から隠した。目の前が眩むような嫉妬に襲われた。息が苦しい。助けて、
「幸せなひとって何の屈託もなく人を好きになれるの? 人を好きになれない私って幸せになれないんだ、」
メフェルスを押しのけて、イェシルが私を見て息を吸う。
「母上が! 姉さまのことずっと、ずっと、」
小さな体なのに声は随分大きかった。
「ずっと、大好きだって言ってたから! 僕も、ずっと、それを聞いてたから、」
癇癪を起こしたように、咄嗟に声が出た。
「そんなの嘘だわ!」
「嘘じゃない!」
イェシルが鋭く私を睨む。私も負けじと睨み返すと、イェシルが肩を怒らせて胸を膨らませた。
「何をしているの、イェシル」
冷ややかな声がその場を鎮めた。私は息を飲んで扉を振り返る。
「母上、」とイェシルは強ばった表情で呟いた。
扉を開け放った姿勢のまま、女王が無表情で立っていた。じろりと部屋の中を見回し、小さく鼻を鳴らす。
「来なさい」
女王が一言告げると、イェシルは大人しく歩いていった。差し出された女王の手を、一瞬躊躇ったように見たあと、おずおずと指先で握る。
「ははうえ」ともう一度呟いた。先程よりもっと弱々しい声だった。
私は思わず息を止めた。それは鮮烈な痛みだった。明確に私は苦しかった。――わたしには許されなかった特権だ。母の手を握って、縋るように見上げるという、幸せなこどもにのみ与えられた権利をわたしは持たなかった。
女王が私を見る。つと細められた目は、すぐによそを向いた。
「わたしが悪い子だったから、」
女王に連れられて部屋を出ていくイェシルの背を見つめながら、わたしは囁いた。
「お母さまは、わたしのことを嫌いになったのかな」
ふと手が握られたので、腕から肩へ辿って誰の手か確認した。知らない男の人がいた。そうだ、アラルだ。……違う、これはかつてアラルだった人だ。
「お母さまはわたしのことが嫌いなの」
見下ろす目が怪訝そうな色を含んだ。
「お父さまもわたしのことが嫌いなの」
見上げる目は自然と潤んだ。
「アラルもわたしのことを置いてどこかに行ってしまったでしょう」
睫毛の先で雫が震えたが、落ちることは無かった。
「きっと、わたしのことなんて、誰も好きになってくれないんだわ」
語尾は消え入りそうに揺らいだ。漏らした自分の言葉が自分を傷つけたようだった。
喉の奥で引き攣るような音が出た。皇帝に握られた手を振り払おうと腕を揺すったが、私の肩にはほとんど力が入らなかった。
「来なきゃよかった、」
空いている腕で目元を拭って、私はその場に蹲った。握られた右手だけが取り残されて宙に掲げられた。
「――っ来たくなかった!」
声が漏れないように食い縛った歯の隙間からは、まるであからさまに慰めて欲しいような啜り泣きが零れ落ちた。不本意だ。嫌、なのに、止められない。
「貴女が来たいと言ったんだ」
皇帝は押し殺した声で応じる。
「だから危険を押して連れてきた。それなのに今になって来たくなかったとは、言ってくれるな」
私は自分の膝に額を押し当てて、固く目を閉じる。肩を震わせ、膝を抱く。
まだ釣られたままだった右腕が、強く引かれた。体が変な形で傾いて持ち上げられる。腰に手を回して、皇帝が私の上体を抱えあげた。
それでも身を竦めて目を閉じたままで息を殺していると、皇帝は少し長めの息を吐いたようだった。
「何が嫌なんだ」
「何って、……そんなの、わかんないよ」
ソファに戻され、柔らかいクッションの中に沈んだわたしは再び膝を抱えた。顔を埋めて、緩く首を横に振る。
「わたし、何も、わかんない」
呆れたように息をつかれた。はっとして顔を上げると、彼は腰に手を当て、弱りきった表情をしていた。
「やだ、」
腕を伸ばして、皇帝の服の裾を掴んでいた。ぎょっとしたように彼が身を引く。その動きに忌避の色を見つけて、わたしは目を見開いた。
「見捨て、ないで」
呟いて、わたしは目を閉じた。
助けて、と、わたしが泣くので。
私は一歩、前に進み出た。
「……そんな厳しいこと言わないで下さいよー!」
私は唇を尖らせて肩を竦める。腰に手を当てて、鼻を鳴らした。
皇帝はぎょっとしたように後ろに下がり、まじまじと私を見る。私はにこりと笑い、わざとらしくため息をついて立ち上がった。皇帝の脇をすり抜けて数歩進み、私はローテーブルに近付く。その近くの長椅子に腰掛けると、足を組んで皇帝を見やった。
「あんまり酷いことは言わないで下さいね。わたしって案外繊細なんです」
膝に頬杖をついて笑みを深める。皇帝を目の奥を覗き込むように瞼に力を込め、息を吸った。
「お願いしますよ」
ゆっくりと、一音ずつ明確に発音する。皇帝は答えなかった。
***
夕食の席でも、皇帝はほとんど喋らなかった。私は食事の作法に全神経を集中させていので、むしろありがたいくらいだった。女王に食事マナーを教えてもらってから、一年弱ほど経っている。記憶が薄れているところがあるのが恐ろしい。
「クィリアルテ」
女王が不意に私を呼んだ。私が顔を上げると、女王が真っ直ぐに私を見ていた。
「何ですか?」
私が表情なく聞き返すと、女王は僅かに嘆息して口を開く。
「イェシルは何か言っていましたか」
目を伏せて言われた言葉に、私は少し迷った。数秒考えたのち、「いえ」と頭を振ると、女王は疑うように私を見やる。
「……そうですか」
取り敢えずはそう返して、女王は食器を置いて水差しを手に取った。自らのコップに水を注ぎ、目線はそちらに配られたままで続ける。
「イェシルに言われたことは気にしないでよろしい。あの子は何も知らないのです」
私は心持ち眉を顰めて、首を傾げた。
「どういう意味ですか」
「貴女が気にするべきことではありません」
にべもなく回答を拒む女王に、私は更に眉間のしわを深くする。落ちてきた髪を耳にかけ、視線を鋭くした。
「ではイェシルが知らない、私に関することというのは一体何なのですか」
女王は答えなかった。会話を打ち切るように食事を再開し、私もそれきり口を聞かなかった。
***
窓のカーテンはぴっちりと閉じられていた。部屋の中は暗い。一度目が覚めた私は、ベッドの上で仰向けになったきり、再び寝付けずにいた。
今日は少し早めに床についた。それから眠って、今、恐らく真夜中とも言えるような時間帯に目が覚めた。……今は果たして何時頃だろう。
「……喉乾いた」
しばらく寝返りを繰り返したが、一度浮上してしまった意識はもう沈まない。諦めて身を起こした私は、布団を剥いでベッドから足だけを下ろした。冷たい床の感触。暗くてほとんど何も見えず、足先でスリッパを探した。
スリッパに足を突っ込み、私はベッドに手をついて立ち上がった。天蓋から下がった薄布を手の甲で押しのけ、部屋を横切る。
暗闇に慣れた目は、どこからか射し込む僅かな光を頼りに周囲の景色を認識した。広い部屋だった。角部屋で、大きな窓があって、――でも今はカーテンで完全に塞がれている。それから、背の低い本棚。児童書やそれよりちょっと難しい本でぎっしりの本棚だ。
……ここは、わたしの部屋である。かつて王女として扱われていたときの、わたしの、部屋。
不意に息苦しくなったので、私は泳ぐように扉に手を伸ばし、取っ手に縋り付いた。そっと扉を引いて、部屋の中より幾分冷たい廊下の空気に触れた。
廊下に窓はない。両脇には扉が立ち並んでいた。
慎重に歩を進めながら、私は息を潜める。喉が乾いた、と、飲み物がどこにあるかも分からないまま外に出てきてしまった。
まさかそこら辺をうろついているとは思わないが、フォレンタがいたら僥倖とぼんやり考えながら、廊下を真っ直ぐに進む。私の足音は軽いぱたぱたとしたもので、他に音はしない。
多くの扉を横目に見ながら歩いていた。どれも閉ざされている中、光が漏れるそれはよく目立っていた。薄暗い廊下の途中で立ち止まり、私はその扉を見上げる。
「……れにしても、」
漏れ聞こえたのは女王の声だった。はっと目を見開いてから、私は息を殺す。扉に近寄り、耳を澄ませた。
「あの子が、人のいるところで眠ることが出来る日が来るとは思いませんでした」
誰の話だ、と眉を顰めた直後、聞こえた応答は皇帝の声をしていた。
「初めから普通に寝ていましたが……」
困惑したような声音だ。
「眠いと言って俺の目の前で寝落ちました」
「嘘、あの子が?」
「はい。……ああ、でも寝相は悪かったですね」
苦笑を含んだ声に、私は話題が自分に関することであることを直感した。
「――クィリアルテは、」と語り出した女王の言葉に、私は直感が真実であることを確信した。身を屈めて、扉の隙間に耳を近付ける。
「人の気配に聡いでしょう」
ぴく、と手が震えた。どうしてそんなことを知られているのか分からない。皇帝は少しの空白を隔てて、「ローレンシアにいたときから?」と訊き返す。つまりは肯定だ。
「城内で眠ろうとする度に、人の気配に怯えて泣き叫んでしまう日が続いたのです」
――何、それ。私はそんなこと知らない。わたしも知らない。
だから嘘だ。あの女は嘘をついている。
指先が痺れるような気がした。自然と息が浅くなった。
聞いちゃ駄目だ。引き返さないと。
後ずさりをするように引かれた後ろ足は、それ以上動かなかった。……逃げなきゃ、いけないのに。体が、動かない。
「あの、女王陛下」
皇帝は躊躇いながら口を開いたようだった。
「彼女は、貴女を嫌っているようですが、……どうしてそのような事態に?」
息を吸う音と、衣擦れの音。それから靴音が響き、女王の声が近付く。
「あの子は、私が前国王陛下を殺害したと思っていますから」
諦念の滲んだ声だった。私の胸の内で何かが叫ぶ。――下手な演技だわ!
「一応訊きますが……実際には」
「ええ、企てたこともございません。あの子は混乱しているんです」
ため息混じりに呟いて、女王が立ち止まった。私は表情を歪ませる。……この嘘つき、あなたが殺したくせに。わたしからお父様を奪っておいて、それでは飽き足らず命すら奪って、
わたしは取っ手を強く掴んだ。激情が身の底で渦巻いた。かっと胸が熱くなった。
私は、駄目だよ、と控えめに止めようとした。しかしもう止まれない。
「――殺されたのは、あの子の父親ではありません」
扉が開いた。わたしの手によって開かれた。
その場にいた女王と皇帝は、弾かれたように振り返る。その傍らにいたフォレンタとメフェルスは大きく目を見開いた。
……なに、その言い方。
「まるで、お父様じゃない誰かが殺されたみたいだわ」
震える声でそう呟いて、わたしは指先を滑らせ扉から手を離した。
「クィリアルテ嬢」
皇帝が大股で歩み寄る。私は後ずさる。自然と閉じてしまった扉にもう一度触れて、踵を返すように首を回した。
「……私は何も聞いてないわ」
言い聞かせる。胸を押さえて、私は囁いた。
「待て」と手を掴まれて、私は咄嗟に激しく身をよじって手を振り払った。背後は壁で、目の前に立った皇帝はじっと私を見下ろしてくる。
「知らない」
高鳴る鼓動を必死に抑えながら、私は首を横に振った。知らない。私はそんなこと、何も知らないから。
殺されたのはお父様だよ。この女王が殺したんだ。
それが『真実』でしょう。そう決めたでしょう。
「逃げるな」
皇帝が私の手を取った。
部屋は広々としていた。床は白い大理石で、ひびの一つも入っていない石は、そのまま壁まで続いている。こんな部屋あったっけ。知らないなあ。
「……今、何を考えていた?」
「んっとですね、なんか、この部屋、広いなーって。前にもこんな部屋あったっけ。フォレンタ、覚えてる?」
部屋の中央まで、手を引かれて歩かされる。フォレンタを見て首を傾げると、彼女は顔を引き攣らせたまま、「はい」と応じた。
そのとき、女王と目が合った。足が震えた。首を横に振って、逃げようとした。くるりと体を反転させて、足を踏み出そうとするのを、皇帝の腕が阻んだ。
私の腰に巻きついた手が、私を捕まえる。肩を掴んで再び体を回され、私は否応なしに皇帝と向き直った。
「っ放して、くださ、」
強く睨みつけながらはっきりと言おうとしたのに、語尾は情けなく掻き消えた。皇帝は私を見下ろし、躊躇うように目を伏せて言う。
「クィリアルテ嬢、貴女は今ここで目を逸らして、何も無かったことにして、……幸せになれるのか?」
あなたが、それを言うの?
私はどんと皇帝の胸を押して距離を取ると、手をそのまま握り締めた。彼の胸元の服が私の指に絡まって皺くちゃになる。
「――だったら、あなたが、幸せにしてよ、」
皇帝が息を呑んだ。それがまた腹が立つ。
「わたしのこと、幸せにして……っ」
俯くと、私は崩れ落ちた。手は皇帝の服を掴んだままなのに、膝に力は入らなくて、自然と縋り付くようになった。それなのに、彼は、私を支えてはくれないのだ。
「無理だ」
皇帝は苦しげに応えた。私は顔を上げ、愕然として言葉を失った。
「今の貴女では、無理だ」
絶望する。このうそつき。……うそつき。
「救いたいって言ったくせに」
わたしは詰るように囁いた。舌先から、言葉を押し出すようにして、じっと彼を見たまま。
「ああ、言ったさ」
彼はわたしの指を慎重に服から外しながら、静かに応じた。
「だが、見たくないものに蓋をして、全てのものから逃げようとする、今の貴女が幸せになれるとは、俺には思えない」
手が外されて、わたしと彼を繋ぐものはなくなった。床にへたり込んだまま、わたしは呆然と彼を見上げた。
「だって」
唇が勝手に動く。
「やなんだもん」
わたしは恐怖した。わたしの知らないわたしが喋っている。
「わたし、生まれ変わったのよ。昔ね、わたし、辛いものはぜーんぶ捨てて、何もない、まっさらなわたしになったの。そんなわたしを生まれ変わらせてくれたのは、あなただわ」
そっと床に手をついて、わたしは立ち上がった。わたしは心の中で叫ぶ、これはわたしじゃない! ……わたしはこんなわたし、知らないわ。
「わたしは不幸なこどもだって、教えてくれたでしょ。あのときわたしが生まれたの。だからわたしはもういないのよ」
にっこり。わたしが微笑んだ。
ああもう、全く。
「……皇帝陛下。私、言いましたよね! あんまり酷いことは言わないで下さいって!」
私は肩を怒らせて拳を握り、地団駄を踏んだ。それから腰に手を当てて、皇帝を睨みつける。ずきんと頭が痛んだので、片手だけこめかみに押し当てた。
「じゃあ私、寝ますね。お騒がせしてすみませんでした」
鼻を鳴らし、踵を返そうとした私の腕を取って、皇帝が厳しい顔をする。私も負けじと皇帝を見返し、奥歯を噛み締めた。
「今は貴女に用はない、『クィリアルテ嬢』」
ぞわ、と首筋に冷たいものが走った気がした。瞠目して皇帝を見上げると、彼は心持ち眉を顰めて苦しそうな顔をしていた。
「貴女がそうやって見ないふりをするから、いつまで経っても貴女はそのままなんだ」
ひく、と、喉が震えた。何かを言おうとして開いた唇は、そのままゆっくりと閉じられた。一歩、下がろうとしたのに、両肩を掴まれて阻まれた。
「あ、そう言えば知ってますか? 冬のほんとに寒い日のローレンシアって、鼻水が」
「逃げるんじゃない」
へらりと笑ったことを咎めるように皇帝は顔を顰める。
「逃げるんなら完全に逃げ切れ。それが出来ないんだから向き合うしかないだろう」
私の肩を掴む腕に手を添えて、私は僅かに首を横に振った。唇を噛む。
「逃げなきゃいけない、のに、」
「逃がれられないのなら、中途半端に足掻かない方がいい。壊されるぞ」
身をよじって、私は皇帝の手を離れようとした。目を逸らすように俯いて、床をじっと見つめた。
「『クィリアルテ嬢』、貴女は不幸でありたいのか」
「そんなわけっ!」
咄嗟に顔を上げて大声で応じた瞬間、真正面から目が合った。皇帝の目が、真っ直ぐに私を射抜いていた。
「やめて、」
赤い色をした目。深いところは暗い色を讃えた瞳が、私を見下ろした。
「やめてよ」
皇帝が、息を吸った。私は為す術もなくそれを眺めていた。
「――俺は、貴女を救いたいんだ」
やめて。
「必ず迎えにいくと約束した。貴女を幸せにしたいとそのとき思った。そこに嘘なんてない」
やめて。それ以上はやめて。
「だから、もし俺のせいで、不幸でありたいと願う貴女が存在するのだとしたら、それを正すのは俺の役目だ」
正さなくていい。そんな暴力的な方法で正さなくていいから。お願いだから、あの子を傷つけないで、そっとしておいてあげて、
「貴女はもう限界だ。自分だって分かっているだろう」
守りきれない。私じゃあの子を守れない。目を覆ってあげたいのに、どうしたって完全には塞げない。助けて、私、あの子を守るためにこの世界にきたのに。
「やめ、て、」
私は肩に触れた手を掴んで、首を横に振る。やめてよ。
「逃げなくていいから。全部一緒に受け止めるから」
肩から、背へ、手が滑らされた。距離が狭まるのが嫌で、手を突っ張ろうとしたのに、腕には力が入らなかった。
「大丈夫」
やめて。
「クィリアルテ嬢、貴女が一人で守らなくたっていい。俺が一緒に守るから、」
やめて。今すぐやめて。私が必死に守って来たこどもなの、繊細なおんなのこなの。
「――全部教えて欲しいんだ、リア」
…………やめて!
そう叫んだと思ったのに、何故か、声が出ていなかった。私は唖然として、身を竦めようとした。それすら出来なかった。
「わたし、」
わたしは震えながら、胸の前で手を握った。
「……わたし」
足に力が入らない。突如として、得体の知れない恐怖が背後から襲ってきた。いやだ。
「やだ」
はっ、と浅い息を吸った。後ずさりする。音もなく手が離れた。よろめきながら距離を取って、へたり込みそうになるのを必死に堪えた。
「いや、」
せっかく、わすれたのに。
「おもい、だしたくない」
頭をかかえて、わたしは歯をくいしばった。目が合った。赤い目だった。わたしが生まれたときに見たものとおなじ。
……それより前、わたしは、はたして、何者だったんだろう。
あのね、わたしは、たしかにあのとき、
しあわせな、おんなのこ、だったの。