3 罪を押し付けられたこどもがいた
大きめの帽子に髪を突っ込んだまま、私は外を眺めた。髪が短くて助かった。こんなときだけはメイア様々である。
それでは設定を確認致しましょう、と、フォレンタが手を叩いた。
「私はどっかの子爵家の次男」
「俺はその兄」
揃って答えた私たちに、満足げにメフェルスが頷く。
「僕たちはそのお目付け役ですね」
「そうですね」
滞りなく進む馬車の中、私たちはせっせと計画を練った。まずは私の髪の毛を隠してなおかつ少年に見せる作戦である。男の子が被るような帽子に髪の毛を詰め込んで、服装も男の子っぽくした。
「案外いけるわね」
自分の体を見下ろしながら呟くと、フォレンタが鼻から息を吐いた。……笑われた?
「お似合いですよ」とフォレンタは言ったが、何故かこちらを見ない。ちょっと。
「いえ、あんまり違和感がないもので、少し面白くて」
憮然とした視線に気付いたのか、ぷくくとでも言いたげなフォレンタが表情で言う。私が更に表情を渋くした頃、皇帝は少し考えてから、ぽんと手を打った。
「もしかしたら、女性らしさとか気品がないのかもしれないな、痛ッ」
メフェルスに向こう脛を蹴られて、皇帝がうずくまった。私はじろりと皇帝を横目で見て腕を組む。
「『男性らしさとか威厳がない』って言われたいですか?」
「言われたくない……」
脛を押さえたまま皇帝が呻いた。「不用意なことを言って悪かった」と素直に言ったので許すことにする。
「こんな失礼な発言を聞き流してくれるのはクィリアルテ様くらいなものですよ」
メフェルスは目を細めて皇帝を眺めながら言った。それには異論があったのできっちり訂正しておく。
「私も聞き流してはいないわよ」
「えっ」
「全部しっかり覚えてるわ、後々の復讐用に」
「ええっ」
「私、人に言われたことはあまり忘れない質だもの」
「皇帝陛下ー! 今すぐ言動を改善しないと見捨てられますよ!」
「な、何だと」
皇帝が焦り始めるのを鑑賞して、私はようやく溜飲が下がった。
食べ物を調達しにメフェルスが馬車を降りていくのを見送って、私たちはのんびりと馬車の中でくつろいでいた。王都からほど近い街だが、来たことのないところだ。
「ローレンシアまでどれくらいかかるの?」
フォレンタに訊くと、彼女は少し考えて答える。
「三、四日でしょうか」
そのとき、私はふと思い出した。ローレンシアからパンゲアに来たときは、もっと早かったような……?
「ねえ、確かこっちに来たとき、一日で着いたよね?」
『ギクッ』と、典型的な効果音が見えた気がした。動きを止めたフォレンタが、そっと目を逸らす。
「ローレンシア王都と、パンゲア王都の間は、山脈を回り込まなきゃいけないから、一日で着くはずは、ないんだけれどな……?」
皇帝がゆっくりと告げた。フォレンタは窓の外を凝視し、小さな声で「お目こぼしを」と呟いた。
「えっなになに、私たち来るときは不正な道通って来てたの?」
「いえ、まあ……。多少急いでおりましたので」
気まずそうな顔で、フォレンタはなおも外の景色を眺め続けていた。
「山を突破するほど急いでいたのか?」
目を細めて皇帝が窓枠に頬杖をつく。フォレンタは私を一瞥して、それから「その件は別のときでよろしいでしょうか」と応じた。
メフェルスが調達してきた昼食を食べながら、私たちは再び馬車に揺られて進み出した。今日の夜はどこかで宿をとって、朝早く出発すれば、明日の午前中には国境へ着くそうだ。そこからローレンシアの王都まで途中で宿を取りつつ爆走して、明後日の昼頃には到着する予定らしい。
馬車の中は暇である。腕を組んだまま背もたれに寄りかかって寝始めた皇帝と、窓に額を押し付けるようにして眠り込んでいるメフェルスを眺めながら、私とフォレンタは苦笑した。
「結局全ての手配をやって頂くことになりましたからね」
「私たち、本当におんぶにだっこよね」
私は役立たずだし、フォレンタはそういうのに口出し出来る権限を持っていない。自然、私の我儘によるローレンシア行きの全ての準備は、皇帝とメフェルスに頼りきりだ。
「あとで莫大な金銭を請求されないか怖いわ」
「流石にそれはないかと……」
腹が膨れた昼下がり、眠くなるのは当然である。私も自然と瞼が重くなる。フォレンタはそんな気分ではないようで、背筋を伸ばしたままだ。
目が合って、フォレンタが僅かに笑んで、それを見てから私は眠りに落ちた。
***
――――わたし、神さまじゃないです。それはきっと、ひとちがいです。
わたしはただのおひめさまだから、そんな、神さまなんてものじゃないんです。
……あの、ここは、どこですか?
***
ぱっ、と目が覚めた。私が斜めになっているのか、メフェルスとフォレンタが斜めになっているのか。どうやら私の方らしい。
ガッツリ皇帝に寄りかかっていた私は、そのまま数度瞬きをした。私以外の全員は既に起きていて、寝ていたのは私だけだったようだ。
「おはよう」
皇帝が私の顔を覗き込みながら言う。私は緩慢な動きで身を起こした。ふぁ、と欠伸をして目元に手をやったら、何故か濡れていたので、私は怪訝に首を傾げた。
「変な夢でも見たのか」
訊かれるが、私は首を傾げる角度を大きくするだけだ。
「いえ、……何も」
見ていないと思うんだけどな。
まだ決して真冬ではないし、雪も降っていない。特に、ローレンシアに行くためには南下して、海沿いの道を通って山脈を回り込むことになるから、明日くらいは暖かいところにいることになるだろう。
しかし、ローレンシアは寒い。領土は広いがパンゲアより北にある地域が大半で、山地も多いから都市の標高も高い。
冬の王都に関しては、雪が降るというよりは全体的に霜が降りるとでも言うべきか。もちろん雪は降るのだが、それほど大雪という訳ではない。ただべらぼうに寒いのだ。
風向きの関係で、夏はあまり雨は降らず乾燥しているが、冬は雪が降る地域が多い。冬は空を重苦しい雲が覆って、どんよりした気分になるのが嫌である。
パンゲアの南の方に位置する街で、馬車が止まった。日はどんどん短くなっているから、夕方ともなれば既に薄暗い。今日の夜はここで休憩するそうだ。
「皇帝へい」
馬車を降りながら呼びかけて、私は慌てて口を塞いだ。違う違う、私は今は皇帝の弟設定だった。
「んーと、兄さん」
少し迷いながら声をかけると、皇帝はしばらく自分のこととは分からなかったように私を無視し、それからばっと振り返った。
「俺のことか!」
「そうです」
馬車から飛び降りても裾がふわっとしない。いいね。着地した私は、すっくと背を伸ばして腰に手を当て胸を張る。
「僕の格好はどうですか」
へへん、と笑ってみせると、皇帝は私の背後に回り込んで、帽子から髪が漏れていないか確認したようだった。
「大丈夫だ」
皇帝はしっかり頷いた。
よし、と気合を入れて、街で一番格式が高そうな宿の前で拳を握る。目立たないようにするなら、もっと普通の宿にしてもいいのだが、如何せん馬車が良いものなのである。微妙なレベルの宿に良質な馬車が止まっているとむしろ目立つ。
架空の子爵の家の兄弟なので、少しでも怪しまれるとアウトだ。しかし大丈夫、私たちには身分を証明する書状がある。何を隠そう、皇帝陛下が(自分で)発行したものである。皇帝陛下が(自分で)書いた署名まである。
聞いたことのない子爵の名に、宿の主人はやや首を傾げたようだった。しかしそんな主人も、皇帝陛下が身分を保証するという旨の書状を渡されると、すぐに信用して通してくれた。ありがたいありがたい。
「わあ、豪華な部屋」
私には調度品の価値はよく分からないが、分かりやすくきらびやかな部屋だった。私の隣で腕を組んだ皇帝が頷く。
「金に糸目を付けていないな」
「へえ、やっぱりそうなんで」
すか、と言いかけて、私は横を振り返った。
……あ、一緒の部屋ですか?
「あれ、一緒の部屋か?」
何故か皇帝も似たようなことを言って、首を捻っている。
「メフェルスのミスか」
引き返して廊下に出た皇帝が、隣の部屋に入ろうとしていたメフェルスをとっ捕まえる。
「クィリアルテ嬢の部屋はどこだ?」
「そこの6号室です」
「じゃあ俺のは?」
「そこの6号室です」
「ん?」
私と皇帝は揃って首を傾げた。それから顔を見合わせ、もう一度メフェルスを見る。
「お金がないの?」
私が訊くと、メフェルスは真剣な顔になって力強く拳を握った。
「このままローレンシアに行って、帰りは人数が半分になっている可能性もあるじゃないですか」
私は腕を組んだまま怪訝な顔になったが、皇帝ははっとしたように息を飲んだ。
「俺とメフェルスが殺される、と?」
「違います」
ばっさりとメフェルスが切り捨てたところで、彼が入ろうとしていた扉が開き、フォレンタが顔を出した。
「私とクィリアルテ様がローレンシアにそのまま留まることになるかもしれないという話ですね?」
私はしばらく動きを止め、フォレンタを見て、メフェルスを見て、次に部屋の扉を見た。もう一周してから、私は頬に手を当てて目を見開いた。
「えー! メフェルスとフォレンタ、同衾するの!? 破廉恥な!」
私が今口に出した二人は、同時に額を押さえて深いため息をついた。
「……そこは経費の削減でございます」
「どうして人のこととなると一足飛びに結論を出すくせに、」
やれやれと言わんばかりに肩を竦められ、私は鼻白んだ。
「クィリアルテ様、ここにいる皇帝陛下を見ていると胸が高鳴るとか、そういう兆候はありませんか?」
「いや……大して」
メフェルスの不可解な質問に答えると、視界の隅で皇帝が項垂れていた。
「あはは、まだまだ先は長いですね……」
メフェルスは皇帝の肩を力なく叩いた。皇帝も僅かに頷いた。
「なんだ、ちゃんとベッド二つあるんじゃない」
寝室を覗いて、私は腰に手を当てて言った。これまた質の良さそうなベッド二つである。一つのベッドにつき、枕はなんと三つもある。
「私、右使いますね」
洗面所の方から返事が返ってきたのを確認して、私は寝室に体を滑り込ませた。膝をついて右のベッドの布団を持ち上げ、そのまま潜り込む。
柔らかい枕に頭を埋め、目を閉じると、昼間散々馬車の中で寝たのに、すぐに睡魔が襲ってきた。ふっと意識を手放し、私はそのままベッドに沈んだ。
***
――――私を背中から抱き抱えて、皇帝が何事か言っている。わたしは月を見上げたまま、身を竦めて泣いていた。
「いない、やだ、どこにもいない、」
両手で顔を覆って、わたしは床にしゃがみ込む。誰かがわたしの後ろにいた。
「アラルが、いない……っ!」
私の背後で皇帝が息を飲んだ。私は振り返って、皇帝の姿を目に入れる。
「……俺が強いていたのはこれか、」と呟いて、皇帝は私の後頭部に手を当てた。額を肩に押し付けるようにして、私の背を叩く。
「アラル……?」
わたしは目の前のだれかの服を掴んだまま、小さく呟いた。数秒のためらいのあと、彼は答えた。
「……そうだよ」
ちょっとぎこちない声で、そう言った。
「あのね」
わたしの口が勝手にうごいた。
「月が出たらおしまいなの。満月が出たらおしまい」
あれ、わたし、なにを言っているんだろう。
「満月が出る日は、いつも怖くてね、でもあの日から変わったのよ。あの日から、満月は、アラルと会えた日に変わったの」
アラルの胸に頬をすり寄せて、わたしはささやいた。
「どこにもいかないで、アラル。わたし、かわいそうなこどもなの」
アラルは喉の奥で唸るような声を出した。言葉にもならないそれは、しかし何より雄弁だった。
「ひっ」としゃくり上げるみたいに息を吸って、わたしは涙をこぼした。
「怒らな、で、」
皇帝は、私の目元を親指で拭いながら、何も言わずにどこかを見据えていた。
「怒ってなんかいない」
ややあってそう告げると、彼は腕を伸ばしてカーテンを閉めた。部屋の中は一気に暗くなり、私は憑き物が落ちたように体の力を抜いた。
「一度は歪んでしまったけれど、」
彼は私を抱え上げながら呟く。
「俺は初めから、貴女を救いたかったよ」
ベッドに下ろされ、慎重な手つきで布団をかけられながら、私はぼうっとその顔を見上げていた。頭にもやがかかったようになって、何も分からない。これは夢だろうか。
何て呼んだらいいんだろう、と彼は独りごちた。
「――クィリアルテ、」
囁いて、彼が身を屈める。
「おやすみ」
額に何か感触を感じながら、私は目を閉じた。
これは多分、夢だ。
***
翌朝、宿の一階にある食堂に降りると、既にメフェルスとフォレンタは席を確保していた。
「よく眠れましたか」
フォレンタの言葉に私は「うん」と応じ、その正面に座る。メフェルスが同じ問いを皇帝に投げかけた。
「え? ああ……まあ」
妙に歯切れの悪い返事で、皇帝が曖昧に頷く。
「昨日って……まだ微妙に満月じゃないよな?」
何故か声を潜めてそんなことを訊いた。メフェルスは瞠目すると、それから小さく頷く。
「まだ数日あります」
「だよな、……だよなぁ」
勝手に一人で納得してしまった皇帝を怪訝に眺めながら、私は首を傾げた。
馬車の中で再びぐうたらする。取り留めのない話を繰り返して、何度か腹を抱えて笑ったように思う。
はて、それにしても、私は一体どんな話をしたのだっけ?
腹の底が重くなるような気分だった。笑いつつも、何か重りが括りつけられているように心が浮かない。楽しいのに、嬉しくないのだ。
ふと、行きたくないな、と思った。
別に、女王が死んだってどうでもいいじゃない。話したいことがある? 別に、それを聞いてやる義理なんてないじゃない。
ローレンシアには嫌な思い出しかない。楽しいことなんて何も無い、幸せだったことなんてきっと一秒たりともないわ。
その点で言えば、パンゲアは私にとっての逃避先だ。たとえ私が役立たずの穀潰しでも、一応は追い出さないでいてくれる人がいる。
行きたくないな、と思った。でも、それを口に出すのも億劫だった。
何も言わなきゃ馬車は進む。当たり前だ。
何をしたって時間は進む。当たり前だ。
けれどわたしは、時間が経っても成長出来なかった。
私以外の三人が、黙り込んだ私を見て、それから顔を見合わせて目配せした。私が瞼をもたげて視線をやると、皇帝が私に笑いかけた。
……私がこの人と恋をしたら、わたしは幸せになれるんだろうか。本当にそうなんだろうか。
たとえばこれが何かの物語だとして、たとえば私が皇帝に恋をしたとして、たとえば皇帝が私に想いを返してくれたとして、それで『リア』が幸せになれるのなら。
この物語を遂行すれば、わたしがみんなに愛されるのなら、
――――私、迷いなく、皇帝を好きになってあげるよ。そしたら幸せになれるよ。
ね、だから泣かないで、リア。
……ああ、だから、ローレンシア、行きたくないなぁ。
***
国境を越えるための関所がある街に到着した。リゾエラという街で、様々な交通手段が集中している街だ。
「あれは?」
「ああ、多分あれはヌーナに行く船だな」
海は建物に遮られて見えないが、皇帝曰く『船』なるものの頭だけは見えていた。
「私、海を見たことがないです」
窓にかじりついて呟くと、皇帝が笑ったように息を漏らした。「見に行くか」と言われたので、私も頷いた。
一旦馬車を置いて、私たちはリゾエラの街に降り立った。
フォレンタが関所での手続きをしに行ったらしく、姿は見当たらない。書類に人数や素性、目的を書いて提出すれば、精査されて小一時間後くらいに承認印つきで返却されるシステムなんだそうだ。承認されないということはまずないと言って良いから大丈夫だって。……なかなかにザルである。たとえば指名手配されてる犯罪者が本名を書くはずなくない?
ちなみにある程度の金をコソッと渡すと、すぐに承認されるらしい。でもわざわざ変なことをして人の記憶に残るのは嫌なので、平々凡々に合法に国境越えだ。
ここはまだパンゲアなのだが、ローレンシアのような文化も多く見受けられた。建物の建築様式とか、食べ物とかね。あとは、見慣れない服装の人も結構。
「あれが、ヌーナの人ですか?」
「そうだな」と皇帝が頷く。
海の向こうにあるヌーナという国は、複数の島から成り立つ連合国家らしい。元々一つの国だったローレンシアとパンゲアとは大きく異なる文化を持つ異国だ。
「服の前はボタンで止めないんですね。……紐で腰を縛ってるのかな?」
「紐? 紐か……まあ紐だな」
どうやら帯という名の紐らしい。言われてみればそんな名前だった気がする。
女性と男性で服装が大きく違うということはなく、皆がゆったりとしたズボンに、腰まで覆う上着を前で重ね合わせて、帯で縛っている。あ、あそこ、下はスカートの女の人がいた。ヌーナの文化と、ローレンシア・パンゲアの文化の融合は順調なようだ。よかったよかった。
「まだ海はないですか?」
「いや、もうここの通りの裏は海だと思うんだが……」
石畳を踏みつつ、私は帽子を押さえた。風が強く、髪が零れ落ちそうだった。フォレンタ曰く、人の髪の毛はなかなかしっかり目立つ特徴なので、それを隠せば遠目では見つけづらくなるらしい。確かにね。
「あ、ほら、あそこの看板」
皇帝が指さした先を見やって、私は顔を輝かせた。
看板の前まで到着して、私は右手を見た。ぐっ、と、息が止まった。それから恐る恐る空気を肺に取り入れる。先程から鼻腔をくすぐっていたこの匂いは、どうやら海の香りだったらしい。
突風が襲った。決して優しいとは言えない風が、私の全身を覆った。ついに帽子は耐えかねて浮き上がり、私の髪は風に散らされた。
「…………わあ、」
内心には様々な思いが駆け巡っていたが、私の舌は必ずしも雄弁ではなかった。辛うじて僅かな感嘆を漏らしたきり、動かなくなる。
わたし、こんなの知らない。
草が生えているか生えていないかの景色だけじゃなかった。豊かか豊かでないかの景色だけじゃなかった。
わざわざ冬の海を見に来る人はあまりいないようで、平日の昼間とあって人はほとんどいない。遠くに人影がいくつか見えるだけだ。
それを確認して、視線を上げると、雲ひとつない空に、太陽が浮かんでいた。水平線が、遥か遠くに霞む。目の高さ、視界の全てに引かれた線は、しかし、あまりにも儚い。まるで空とひとつみたいだ。あそこまで行けば、天も地もようやく触れ合っているかのように見えた。
平らに見えるが、 その水面が波を立てていることは、光の反射で分かった。平面がわざとらしく目を誘うように煌めいた。
皇帝が私の頭に帽子を被せて、何か言った。申し訳ないけど聞いてなかった。
思わず足が出ていた。駆け出すように波打ち際へ近付き、膝を抱えた私は足元を見下ろす。絵で見るような白い砂浜ではなく、荒い岩場に波が打ち付けていた。
それをしばらく、無心で眺めていると、背後から皇帝がゆっくりと追いついた。
「……さて、今しがたメフェルスに、何かしら心に残る良いことを言えと言われたのだが」
私が見上げると、心持ち頬を赤らめながら、皇帝が言い出す。私はその目を見て、促すように眉を上げた。
「俺にそんなことを言えると思うか」
「…………いいえ、全然!」
思わず吹き出して、私は笑い声をあげた。少し離れたところに立っていたメフェルスに「それは無茶よ」と言い、私は岩に指先をついて立ち上がる。
「ですがまあ、試しに言ってみたらどうですか。今後の練習にでも」
どん、と仁王立ちし、両手を広げて待つ。
「今後……」と微妙な反応をしつつ、皇帝は腕を組んで考え始めた。何か詩でも詠みそうな悩みようである。
「そういえば、その、ええと――」
「あら、こんなところにいらっしゃいましたか」
フォレンタの声がして、私と皇帝は同時にくるりと振り返った。メフェルスが天を仰いで崩れ落ちており、フォレンタは訳が分からないといった風にそれを見下ろし、それから私たちを見た。
「……お邪魔だったようですね」
ふむ、と納得したように頷いて、フォレンタは肩を竦めた。
「とりあえず、まずは髪をしまって下さいませ、クィリアルテ様」
頭を抱えているメフェルスを放っておいて、フォレンタが私の頭を指し示す。岩場に立っていた私は、慌てて飛び降りると、帽子を浮かせて首の後ろに手をやった。ぐいと押し込み、私は胸を張った。
「まだ漏れている」と皇帝がひと房、指先ですくい上げる。そのとき指の腹がうなじを撫でて、私は思わず目を閉じた。
「女性に対して何かしら良いことを言うなら、何かに準えて褒め称えるのが定番かとも思ったんだが、如何せん思いつかなくてな」
きっちり帽子に髪を詰め込みながら、皇帝が呟く。
「でもせっかく見晴らしがいいところに来たんだから、これを使わない手はないと思って」
曲がっていた帽子を直しながらなおも続ける。
「髪はこの際、ありきたりだが太陽でいいかということで」
あんまりな言い草だが、貶める意思は感じられなかったので許してあげる。あと二回失礼な言い方したら怒ることにしよう。
「まあそれだけだと安直だから、もうひとつ何か言えば丁度いいと思って、景色を見てみたんだけど」
はい今の失礼な発言。残基ひとつね。
私の前に回り込んで、皇帝が顔を覗き込んできた。
「――空と海のどちらが良い?」
眦に親指を置いて、皇帝が思案するように私の目の奥を見据えた。……他意はなさそうだが、ほんとになさそうではあるのだが、その……。
……近ーい!
仰け反ると、皇帝がさらに前のめりになってくる。やめろ、やめなさい。
「うーん、どちらかと言えば海と似た色か……? しかし、角度によっては……」
くだらないことで悩んでいる皇帝に、私は目を思い切り瞑ることで応じる。あ、おい、と皇帝は不満げな声を出した。
「海がいいです。海にします」
目を閉じたまま言い張ると、顔に落ちる影が消えた気配を感じた。薄く目を開けると、皇帝は胸を張って満足げに頷いていた。
「じゃあそういうことにしよう。髪は太陽の色で、目は海の色だ」
「喩えるだけで終わりですか……」
もっと、こう、話を膨らませようよ。その比喩を使って相手を口上手に褒めるのが、皇帝が目指しているらしい紳士(やや疑問あり)じゃないのか。
「これが精一杯だな」
そう締めくくって歩き始めた皇帝に、私は小さくため息をついた。
「そんなんじゃ、そのうち困りますよ」
独り言程度のつもりだったのに、皇帝はくるりと振り返った。確かめるように彼が首を傾ける。
「『そのうち』っていつだ?」
そこを突き詰めるのか、と私は虚を突かれながら、口ごもった。
「ほら、そのうち、好きになった女の子に皇妃になって貰うために口説くときとか……」
ふーん、とやや幼げな相槌で、皇帝が目を細めた。
「じゃあそれまでには改善しておこう」
その言葉に、何故か、胸が痛んだ。
ので、咄嗟に憎まれ口をきいてしまった。
「難しいんじゃないですかね」
すると皇帝は一瞬意表を突かれたように目を見開いて、それから私に笑顔を向けた。
「それなら、失礼な発言をしても許してくれる人を選べばいい」
そんな奇特な人がいるといいですね、と言おうとしたけど、ムキになっていると思われるのも業腹だったので、私は結局何も言わないでおいた。
(30万文字突破です)
(こんなに長いのに読んで下さって本当にありがとうございます)