1 不幸なこどもがいた
ふう、と息をついてから、私は目を見開いた。
「フォレンタ、みて、白くなった!」
煙にも似た白い呼気が、顔の前に薄らと広がる。瞬きひとつする間にそれは拡散して消えた。
「もうそんな季節ですか」とフォレンタも少し驚いたように呟き、目を細める。
「……で、いつお部屋に戻られるので?」
冷ややかに言われて、私はぎくりとした。
「……頭が冷えたら」
「クィリアルテ様が冷静になるのを待っていたら、世界が終わってしまいますよ」
「世界の終焉まで私は賢くならないって!?」
「そこまでは言っておりません」
フォレンタの無礼発言に憤慨して地団駄を踏んだ私は、鼻を鳴らして踵を返そうと振り返った。
「あ、クィリアルテ様。皇帝陛下が待っていましたよ」
折しも登場したメフェルスと、その言葉に私は撃沈した。
「そうですか、皇帝陛下を見ているとハラハラする、と」
「何だか最近、意図が読めないことが増えてきて……。何か怪しい宗教にでも引っかかったのかしら」
「それはないと思いますよ」
きっぱりと断言され、私は首を捻る。メフェルスは何故か困ったように額を押さえていた。
「だってこの間なんて、いきなり何の脈絡もなくおやつをくれたのよ。美味しかったけど」
「ああ……プレゼントがただのおやつ扱いに……」
メフェルスはおもむろに両手で顔を覆って何事か呟き始めたが、とりあえず聞かないことにする。
「美味しかったって言ったら『今度一緒に食べに行こう』って言われたけど、皇帝陛下も忙しいだろうし、外は寒いし、別に良いかなって思って断っちゃった」
「軽ーく断られてる……」
更にメフェルスは項垂れたが、私には何のことやら分からない。
自室に戻ると、皇帝に出迎えられた。そう、私は皇帝をほっぽって散歩をしていたのである。
「体調は治ったのか?」
「え?」
いきなりの質問に首を傾げ、少ししてから、そう言えばそんな設定で抜け出したんだったと思い出す。
「あー、はい」
適当に頷いて、私は皇帝の前に腰を下ろした。冷めてしまったココアを啜って、私は息をつく。
「いやぁ……。ここまで、長かったですねぇ……」
「はは、隠居したあとの老婆みたいなことを言わないでくれ」
皇帝が苦笑いして、次の瞬間思い切り机に突っ伏した。私はぎょっとして顔を引き攣らせる。
「敵襲ですか?」
「メフェルスだ」
皇帝の後ろで、メフェルスが手刀を掲げていつになく厳しい表情をしていた。すぐに起き上がり、皇帝が背後を見る。
「今のは」
「言うに事欠いて老婆はないです」
「そうか、それもそうだな」
納得したように頷き、それから皇帝は私に向き直った。
「……今の言い方、凶作だった年の厳しい冬が明けたときの農家みたいだったな」
キリッとした顔で言われても、何が何だか、である。取り敢えず、皇帝が何かをやり遂げたような顔をしているので、私も拍手で応じておいた。
フォレンタとメフェルスが同時にため息をついた。
***
ある日の朝食の席にて、皇帝がおもむろに食器を置き、やたらとデカい独り言を漏らした。
「あー、今日は暇だなー」
「…………?」
これは私が反応すべきものか?
私は困惑し、周囲を見回す。給仕についている侍女たちは揃いも揃って沈痛な面持ちで眉間を押さえ、遠くでは何かが割れる音がしていた。
「メフェルス、やっぱり一度お医者様に見せた方がいいわ」
「いえ、その必要はありません」
メフェルスは首を横に振り、皇帝を一度見た。達成感に満ちた表情で食事を再開した皇帝は、部屋の中の空気には気付かないらしい。
「……そんなにお暇なら、今日は天気も良いことですし、街にお出かけになってみては?」
妙に棒読みでメフェルスが呟くと、皇帝が顔を上げ、慌てて頷く。私は愛想程度に相槌を打っておいた。
「へえ、いいですね。楽しんできてくださいね」
すると、皇帝は途端に萎んだようになって肩を落とす。メフェルスは両手を腰に当て、疲れきったように首を横に振った。
フォレンタが私の背後で口を開いた。
「……そう言えば、ちょうどいいことにクィリアルテ様も今日はお暇ですね」
「いや、私はいつも暇なん」
「わあ、なんて奇遇なんでしょう」
メフェルスとフォレンタは、死んだ目をしながら二人で会話をしていた。普通なら主君が食事をしている最中に、お互いの側近やら侍女が私語をするのはあまり考えられない。が、そのようなルールはぶっちぎることにしたらしい。
「それじゃあ折角ですのでご一緒させて頂いてはいかがでしょう」
「えっ? 駄目よ、皇帝陛下だって久しぶりのお休みなんだから、私が邪魔したら休養にならないじゃない」
がしゃーん、と、金属のお盆か何かが床に落ちる音がした。怪訝に思ってそちらを振り向くと、厨房に繋がる扉の向こうに、複数の頭が引っ込むのが見えた。
「俺は構わないが……」と奇妙なほど控えめに皇帝は申し出て、私はどうしようかと思案して腕を組んだ。
「それじゃ駄目ですよ」
メフェルスは皇帝に囁き、それを聞いた皇帝はぐっと拳を握った。
「……俺は嫌じゃないぞ!」
「駄目です」
皇帝は少し黙って、再び私を見る。
「美味しいものがあるぞ!」
「食べ物で釣ると本当に食べ物しか見ないのは経験済みのはずです」
メフェルスはにべもなく首を横に振った。
「……来い!」
「相手の意思を尊重しなさい」
「じゃあどうすればいいんだ」
私に対する言葉のはずなのに、全然、私に伝わってこない。むっとして、私は胸を反らして唇を尖らせた。
「私へ意思を伝えたいなら、きちんとご自分の言葉で仰ったらどうですか」
まどろっこしいのは嫌いである。
すると取っ組み合い寸前になっていた皇帝とメフェルスは同時にこちらを見て、ぽかんと呆気に取られた顔をした。
「名言でございます」とフォレンタは平然として、ポケットから出したメモ帳らしきものに何かを書き付け始めている。もしかして今の私の言葉を記録でもしてるのかな……やだな……。
「そうだな、悪かった」
素直に私に向き直った皇帝は、真っ直ぐ私の目を見て、柔らかく微笑んだ。
「――貴女が一緒に来てくれたら、俺はとても嬉しいんだ」
クリティカルヒットーーーー!
私は胸を押さえて崩れ落ちた。部屋にいた給仕たちは一斉に目元を押さえ、どこからともなく拍手が聞こえた。
「良いですよ皇帝陛下、紳士に一歩近付きましたね!」
メフェルスは皇帝の背中を叩いてガッツポーズ、皇帝も満足げに胸を張っている。
一気に明るくなった空気の中、私は高鳴る心臓を押さえたまま息を吐いた。
迷惑な趣味だが、どうやら最近皇帝は『紳士ごっこ』のようなものにはまっているらしい。これがまた着実にレベルアップしているから困るのだ。
歯の浮くような言葉をさらりと言える人でもないのに、気合を入れて頑張って、用意してきたらしい台詞を口に出しては真っ赤になっている様子もいじらしいことこの上ないのだが、時折発するミラクルが本当に心に来るのである。
例えば今である。さらっと笑顔で殺し文句を言えるあたり、だいぶ素質があるのではないだろうか。
「はぁ、はぁ、……またやられたわ」
私とてローレンシアでは使用人生活、こちらに来てからも皇帝とはお友達で通してきたので、男性に笑顔で嬉しいことを言われると素直に嬉しくなる性質である。
「そ、それなら同行して差し上げてもよくってよ……!」
動転しすぎてよく分からないことを言ってしまったが、了承の意は伝わった様子だ。
***
「厳重すぎる」
なお、今の言葉には『ドン!』と効果音をつけておいて欲しい。
「これじゃ動けないわ」
「動けます」
これでもかと着せられた服の上に、更にコートにマフラーである。暑い。とても暑い。ここが暖房の効いた部屋だということを加味しても暑すぎる。
「お似合いですわ」
「とても可愛らしいです」
普段は面倒なので身支度はフォレンタに一任しているが、今日はパンゲアの侍女さんたちのたっての希望でお手伝いしてもらうことになった。
まずは普通の肌着の上に裏起毛のシャツである。加えてレースつきのブラウスに臙脂色のスカート(裾はフリル地獄)まではまだいい。良家のお嬢様に擬態出来ていると言ってやろう。その上に厚手のカーディガンを羽織る。その上に白いモコモコのコートを着て、その上からマフラーで首元をぐるぐる巻きにし、果てには耳あてまで付けようとしてくるのである。
……しかし、まだ真冬ではなーい!
「風邪でも引かれたら大変ですわ」
「流石に着込みすぎだわ、まだ真冬じゃないのよ」
言って、私は耳あてを外し、マフラーを緩めた。
「それに、耳あてなんかしたら皇帝陛下の言葉が聞こえないじゃない」
会話が出来なかったら何のためにわざわざ一緒に出かけるのか分からない。唇を尖らせると、パンゲアの侍女たちは「きゃあ」と楽しそうな声を出して顔を見合わせた。
「……?」
首を傾げ、それから鏡を覗き込む。全体的に白でまとめられた可愛い感じの服装ではあるのだが、可愛くはあるのだが、……あざとい。十分フリフリしてるのに、上着にポンポンは必要ない気がする。
「ちょっと可愛さに走りすぎてないかしら」
「デートですから!」
「その程度全然! ですわ!」
拳を握って力説され、デートじゃないけどなと思いつつら私は姿見の前に立ったままうーんと唸った。
「私はもう少し、自分に見合った大人っぽい格好を」
「それなら、そのくらいがお似合いでしょう」
「……今なんか小馬鹿にするニュアンスなかった?」
「気のせいでございます」
相変わらず不遜なフォレンタを軽く睨みつけ、私は腰に手を当てた。
「まあいいでしょう。これで行くわ」
まあどうせ皇帝は私が何を着ていこうが興味を持たないので、私さえ良ければ服装に拘泥する必要はないのである。
パンゲアの侍女たちに見送られ、私は意気揚々と部屋を出た。廊下を歩く道すがら「可愛いですよ」「楽しんできてくださいね」と声をかけられ、私は御満悦だった。……それにしても、何でみんなもう私と皇帝が出かけるって知ってるんだ……?
別に私の用意ができ次第皇帝を呼びつけて出発でも良いのだが、何故かメフェルスが待ち合わせを強く主張した。本人曰く「まずは形から」だそうだ。何の形だろう。
城の入口にあたる吹き抜けの玄関ホール、そこが見渡せる階段の上へ到着すると、私は顔を左右させて皇帝を探した。見つからない。よくよく考えたら私が着替えたんだから皇帝だってそりゃ着替えてるはずだよなぁ……。
「あ、いた」
階段の下で所在なさげに立っている皇帝を発見し、私は手すりを掴んで階段を降り始めた。
わざわざ外からの風が吹き込むこんなところで待っているくらいなら、自分の部屋にいてくれれば呼びに行きますけど……。
「お待たせしました」
数段上、手が届く距離になったときに声をかけると、皇帝はすぐに振り返った。
「いや、全然待ってな」
い、と言いかけて、皇帝は私を見上げたまま固まった。私は手すりに指先を乗せたまま首を傾げる。
「どうかしましたか」
皇帝は数度瞬きをして、それから頭を振った。
「……可愛いじゃないか」
当然のように言われて、私は凍りついた。仰け反って皇帝から距離を取り、数段すすっと後ろ向きに上がる。
「ななな、なにを、」
ぼわ、と耳が赤くなる気配がした。こんなことなら耳あてをしてくるんだった!
「な、なにって、別にお、思ったことを」
いきなり顔を赤くした私に、何故か皇帝まで頬を赤らめて口ごもる。その反応に私も照れ、その場で俯いた。
ところがどっこい、階段を上がったせいで私の方が高い位置におり、俯いても顔が丸見えなのである。気を取り直したらしい、皇帝は軽く膝を曲げて私の顔を下から覗き込み、眦を下げて笑った。
「……行くか」
「はい」と頷いた私の後ろで、一応距離を取って様子を伺っていたらしいメフェルスとフォレンタが言っていた。
「やはり僕たちの見立て通り、素の方がぺろっとああいうことを言ってしまえるようです」
「ええ、そのようですね」
……いやこの人、それと同時に失礼な発言も多いですけどね!
***
「もっと周囲をガチガチに固められるかと思ってました」
特に兵士は見当たらない。私は少し意外に思いながら街を見回した。
「兵士に囲まれていたら自由に行動出来ないからな」
「それもそうですね」
追ってくる気配は馴染みのものなので、警戒する必要も無い。街並みは程よく人に溢れており、私たちを気に止める人もいないようだった。
「よし、何をしましょうか」
腰に手を当てて鼻息荒く言い出すと、皇帝も同じく腕を組んで宣言した。
「……あまり考えていない」
私、それはきっぱり言うことではないと思うんだ。
通行人のふりをしたメフェルスの介入により、さりげなーく店の立ち並ぶ通りの方へ誘導された私たちは、そこでもまた立ち尽くした。何せ私には街歩きという経験がないのである。
「皇帝陛下、街をふらふらしたことは」
「……ほとんどないな」
「私もです」
なんということだろう。私たちはしばらく沈黙した。
「よし、メフェルスとフォレンタを召喚しましょう」
「名案だな」
頷きあって、私たちはその場で回れ右した。通行人のふりをした二人は既に背後にいた。
串に刺さった肉を歯で引き抜き咀嚼するメフェルスの隣で、フォレンタは呆れたようにため息をついて私たちを見た。
「そうですね、まずは腹ごしらえをしましょう」と今しがた腹ごしらえをしていたメフェルスが提案する。本人を除く三人は、メフェルスにしらっとした目を向けた。
「そう言えばまだお昼食べてませんもんね」
私は頷き、通りを見通すように首を巡らせた。ぱっと見た感じでは、雑貨から土産物、日用品店など色々あるようだが、食べ物の店は見当たらない。
「レストラン類はこの通りではありませんね」
通りの入口で立ち止まっているので、すぐ側に案内の看板が立っている。平行に並んだいくつかの通りがあり、それぞれ系統が違う店が建っているらしい。
「食事が出来る通りは3つ先だな」と皇帝が看板を覗き込みながら呟き、文字が読めない私は適当に相槌を打った。
「何が食べたい」
「……肉、ですかね」
先程メフェルスがのんびり肉を食べていた腹いせである。タレの匂いがたまらなかったというのもあるけど。
「毒味および味見はメフェルス担当で」
「えっ」
あからさまに嫌そうな声を出したメフェルスを一瞥して、皇帝も大きく頷いた。
「それがいい」
「いや、僕もう肉は十分」
言いかけたメフェルスを制して私は問う。
「さっきは何の肉だったの?」
「……牛です」
「なら牛肉が食べられるお店を探しましょうか」
メフェルスを覗く全員が笑顔で合意し、通りに足を踏み入れた。
ここでフォレンタとメフェルスがごねた。調理している様子が見える店でないと嫌だと言い出した。結果として選択肢は激減し、残念ながらメフェルスにしこたま肉を食わせるという嫌がらせは実現出来なくなった。
「わあ、おしゃれなレストラン」
木をふんだんに使ったと思しき建物と、これまた木目の綺麗な机と椅子。ペンキは塗らずにそのままの色を生かす方向の店らしい。
いちいち扉に繊細な花の模様が彫ってあったり、他の机との間に立てられたついたてに素敵な透かし彫りがあったりと手の込んでいる店である。
……そして恐らく、女性向けだ。
「お、俺は、ここにいていいのか」
「いや、犯罪じゃありませんから問題はないと思いますよ」
居心地悪そうに椅子の上で身を縮めた皇帝を眺めながら、私は水差しから注がれた水を口に含んだ。
「それより、問題はあっちですよ」
水を飲み下し、私は調理室の見える窓の方を指さした。
「わあ、見てよお兄ちゃん」
驚くほど棒読みである。
「すごい、料理を作っているね」
これまたひどい棒読みである。
厨房にいる雰囲気イケメンのシェフは随分と垢抜けているが、今はそんな熟れたオーラを失い、酷くやりづらそうに鍋をかき混ぜていた。その横の窓にぴったり張り付いているのが、フォレンタとメフェルスである。動作の全てを見逃すまいと、シェフの一挙手一投足を鬼気迫る様相で見張り、口だけ会話をしている。
「……兄妹設定はキツいと思いません?」
「ああ」
一切目を合わせないまま、並んで調理室を監視する二人を眺めて、私たちは遠い目をした。
私たちが注文した料理が厨房から出て席へ運ばれるまで、フォレンタとメフェルスの目は離れなかった。引きつった顔で私たちの机に皿を置くと、おしゃれシェフはそそくさと厨房に引っ込んだ。
「わあ、おいしそう」
私は目を輝かせて手を合わせた。湯気を立てるスープの中に麺が入っている。まあ端的に言えば汁気の多いパスタである。残念ながら私は美味しそうな食べ物を前にして、ちんたらその描写をするほどの忍耐力はない。ので、すぐに食器を手に取って皇帝を見る。
「食べましょう」
「そうだな」
そう言ってのんびり食事に移ってから少しして、背後の席から声がした。
「お兄ちゃんおいしい?」
「オイシイヨー」
とてもではないが一緒に出かけるほど仲のいい兄妹の声ではない。若干小馬鹿にするような(一応)妹に対し、負けじと硬い声で応じる(一応)兄。
……正体は言うまでもない。
「店に迷惑になるから早く出た方が良さそうだ」
「私もそう思います」
フォレンタが人をおちょくって遊ぶのはいつものことだが、メフェルスはどうやら真面目にそれに対して付き合ってしまうらしい。相性が良いのか悪いのか分からないが、会話もしないほど険悪ではなさそうなので良いこととする。
***
代金を払う際、私も皇帝も現金を持っていないという問題にぶち当たったが、メフェルスとフォレンタが出てきて払ってくれた。知り合いだったんならどうしてその奇行に何も言わなかったのか、とでも言いたげな恨みの籠った目を向けられ、私たちはそっと目を逸らした。
妙に嬉しげに送り出され、私はほっと息をつく。
食事関係の通りを離れ、そのままどこへ行くでもなく歩いていると、レストランではなく食料品を売っている通りに行き当たった。レストラン街にいたようなちょっとおしゃれをしてきたような人はおらず、家からそのまま出てきた主婦みたいなおばちゃん揃いである。時々、籠を抱えてメモらしきものを見ている子供がいるのは、恐らくお使いだろうと思う。
「いやー、流石は農業大国、食料品の通りが一際長いですね」
目の上に手を当て、私は遠くを見透かすようにして前のめりになった。他の通りは途中で別の系統に切り替わったりしていたが、ここは延々と食べ物が売られている。私が今いるところはパンやらその前の小麦粉やらまさかの小麦そのままやら、穀物を陳列した店が並んでいるが、もう少し行くと緑が見えるので野菜だと思う。
野菜売り場に足を踏み入れて、私は思いのほか多かった緑に眉を上げた。
「今の時季も野菜はあるんですね」
もう北の方は既にうっすら雪を被り始めた頃である。遠くに望む山並みだって、頂の方は既に真っ白だ。
「南の方は一年中雪も降らないから、時季をずらして作っているんだ。競争相手もいないから少し割高で売っている」
「ほぉお、やりますねぇ」
皇帝いわく、やはりパンゲアで一番農業が盛んで栄えているところと言えばモルテ公爵領らしい。ロズウィミア嬢の地元だ。
「ただ、モルテ公爵領はある程度寒冷な地域だから、冬は作物を育てられない」
「最大の大手が冬はいないんですね。そりゃ狙い目ですわ」
無知を馬鹿にされなくてよかったと思いつつも、恐らく私は本当は、そういうことを知っておかなければならないんだろうなと内心独りごちた。まあ私が正式に皇妃になることは多分ないだろうし、問題ないんだろうけど……。一般常識程度には知っておきたかった。私が一年近く生活してきた国である、愛着も湧く。
「そういえば南の方って海がありま」
言いかけて、私は口を閉じた。皇帝は怪訝な顔をして、私の視線を追った。
「……うまいよー」
「うちの野菜は一級品ですぞ! さあ買った買った!」
私はそっと目を伏せ、額を押さえる。隣で皇帝もあからさまに眉間を揉み始めたので、見えているものは同じらしい。
気まずそうに俯いて立っている隠密くんと、その隣で勢いよく野菜の宣伝をするレゾウィルの姿に、私は思わず頭が痛くなる。皇帝と顔を見合わせ、見なかったことにすると決めた。
「もう! 目立つなって言ったじゃないですかぁ!」
「なに、黙っていては逆に浮くと言うもの。さあ皆々様ご覧じるが良い、これが我が愛しの野菜たち!」
「そんなこと言ってる人いませんてば! 黙っていて下さい、レゾウィ、……レゾおじさん!」
言い争う二人を尻目に、私たちはそそくさとその場を離れた。あれは知り合いではない。断じて違う。偶然知り合いに似ているだけの他人である。
「何であんなところで遊んでるんですか」
「配備されているとは聞いていたが、まさかああ来るとは思わなかった」
あまり盛り上がっている通りではないだけに、大声で話すとその分響く。口元に手を当ててひそひそと囁きあい、私はげんなりした顔をした。
「あの売ってる野菜はどこから?」
「レゾウィルの弟が南の方で領地を持っているから、多分それだ」
「弟に家督を譲ったんですか、英断ですね」
「父親が早々に見切りをつけたらしい」
「あれで領地経営が出来るとは思えませんもんね」
どうせ聞こえないのをいいことに悪しざまに言い、私たちはそのまま野菜売り場を通り過ぎた。あとで野菜が売れたかどうか見るためにまた来ようかな。
「平日の昼間でもこんなに賑わっているんですね」
また人通りの多い繁華街へ戻ってきて色々と回ったあと、ちょうどいいところに広場があったので、私は空いていたベンチを堂々と占領した。隣も空いていたが皇帝は座らず、私の前に立ったままだ。
「ローレンシアは違うのか」
問われて、私は口ごもった。……自国のことなのに、私、パンゲアより知らない。
「私は、あまり外は出歩かなかったので……」
匿名で差し入れを貰うことがあり、(今思えばなかなか失礼だけれど)それを売ってお金に変えることはあった。そのときは人目を忍んで早朝だとかに街に降りていたし、それ以外に街に出ることもなかった。ましてや昼間なんて。
「そうか」と皇帝は少し答えに困ったように頷いて、それから体をずらして、広場の様子が私にも見えるようにした。
「いい国だろう」
誇らしげに言われて、私は思わず頬を緩めた。迷わず頷き、「ええ」と広場を見渡した。
行き交う人と馬車。幼い子供たちが駆け回り、母親がそれをたしなめていた。
「あなたの国ですね」
呟くと、皇帝は一瞬躊躇うような仕草を見せたのち、緩く首を振る。
「貴女の国でもある」
「いいえ」
咄嗟に強い言葉が出たことに、思わず自嘲するような笑みが零れた。
「……いいえ、違います」
反芻した言葉は、いつの間にか口から出ていた。皇帝は虚をつかれたように黙り込んでしまい、多少気まずい沈黙が私たちの間に満ちた。
「私はあなたと結婚はしましたが、パンゲアの皇帝とは結婚していない。違いますか」
息を飲んだ皇帝に、私は一瞬だけ挑戦的な目を向ける。すぐに伏せた。……そういう目を向けて良い相手じゃない。
「誰にその話を?」
「タドリスが言ってました」
皇帝は珍しく顔を顰めてあからさまに舌打ちをし、私は嘆息だと気付かれない程度にゆっくりと息を吐いた。
「いずれ本当の皇妃を娶られるとして――ロズウィミア様なんて適任じゃないですかね――、私はどうなるんでしょうか? このままお城にいさせて貰えるとは思いませんし、ローレンシアが私を喜んで迎えるはずもあるまい。いくらか貰って放逐ですか」
こんなことを言うつもりではなかったのに、口が止まらなかった。フォレンタにもその話は後でと言われていたのに、だから皇帝に直接言うつもりもなかったのに、何故か、言葉が勝手に滑り出る。
「そんなつもりは、」
「でも私が皇妃じゃ困りますよね。だって私、学もなければ常識もなし、礼儀も知らないしあまつさえ読み書きもおぼつかないんですよ。いくら国民に平民の出だと説明するにしたって、あんまりな出来です」
もし、……万に一つでも私がこのままパンゲアの皇妃に収まったとして、でも、多分私には務まらない。せめて私がパンゲアの人間であったならまだしも、他国の出身で、いわく付きの皇妃なんて、厄介以外の何物でもない。私も一生正体を隠して生きることになるのか。
「犬猫と同じように、人も一緒にいると愛着が湧きますから……。手放すなら早い方が、手放す側も手放される側も楽ですよ」
言って、どうしてこうも卑屈になっているのかと俯いたところで、いきなり目の前の人が屈んだ。私の顔に手を伸ばし、両手で頬を挟む。自然と唇が押し出された。
「つまりそれは、貴女が俺ないしパンゲアに愛着を持っているということで間違いはないか」
「えっ確認するのそこですか」
下から顔を覗き込まれながら、私は目を見開いた。皇帝はあまりふざけている様子ではなさそうだった。
「答えは?」
「あ、まあ……半年以上一緒にいるので、それはもちろん」
顔を掴まれた状態で頷く。念を押すように「本当か」と言われたので、もう一度頷く。
「――俺もだ」
皇帝は破顔した。……この人は話の流れを読めない人なのか?
それともわざと読んでいないのかもしれなかった。
「貴女が危惧していることは俺が危惧していることと同じだろう。もう愛着も湧いてしまって離れ難い相手と、このまま一緒にいるのが難しいかもしれない。そういうことだ」
「ん? いや、ちょっと違う気が」
「何も違くない」
「だいぶ違いますよ」
頬を摘まれて、ふがふが言いながら私は鼻息を荒くした。皇帝はにこにこしたまま私の顔面でお楽しみになっているご様子だ。楽しそうでなによりですね。
「パンゲアを離れるのは嫌か」
「パンゲア国内の誰かに降嫁ですか?」
訊き方が悪かったな、と皇帝は苦笑し、私の顔から指を放して、目の前にしゃがんだまま私の手を取った。
「クィリアルテ嬢。俺は貴女とずっと一緒にいたい」
真っ直ぐに見上げられて告げられた言葉に、脳が沸騰した。カッと耳が熱くなり、首に汗をかいた。
「貴女はどう思ってくれている?」
卒倒しそうになるのをすんでのところで堪えた。この……この人は、何でこう、平然と……。
「なッ、……なに、恥ずかしいこと言わせようとしてるんですか!」
咄嗟に手が出た。どん、と立ち上がりざま皇帝の肩を突き飛ばすと、膝を抱えるような不安定な体勢だった皇帝は、ころんと後ろに転がった。
「お、俺がいつ恥ずかしいことを言わせるようなことを言った!?」
「たった今です! 胸に手を当てて考えて下さい!」
むきぃ、と地団駄を踏みながら訴えると、地面に尻餅をついたまま、皇帝が思案するように視線をさまよわせた。
「……言ったな」
じわじわと頬から赤くしながら、皇帝が口元を手で押さえる。終いには耳まで赤くして、皇帝は両手で顔を覆った。
「申し訳ない」
全身全霊で恥じらっている様子の皇帝をフォローするべく、私は皇帝に手を差し出して言ってやる。
「まったく、私じゃなかったら愛の告白かと思っちゃいますよ? ……気をつけて下さいね」
鼻を鳴らすと、皇帝が衝撃を受けたような顔をして私を見上げた。私の手は取らず自分で立ち上がって、未だ顔を赤くしながら息をつく。
どこか目的地があるらしい皇帝が歩き出し、私がそれについて足を踏み出して少しした頃、私は口を開いた。
「さっきの答えですけど、」
振り返ろうとする皇帝を追い越して、私はわざとらしくため息をついた。
「……私も叶うことならそうしたいですよ」
わたしの唯一の大切なひとと、ずっと一緒にいられたら、わたしはどんなに幸せだろう。
私が勝手に慮ることじゃないかも知れない、わたしは不幸に浸ったままでいたいかも知れない、けれど、それでも。
私は、わたしに幸せになって欲しいのだ。
こんにちは。
これより第4章を開始します。お待ち頂きありがとうございました。
(ちょっとした予告)
活動報告かどこかで言った気がしますが、この小説は元々4章構成を予定していました。
が、風呂敷を広げすぎて4章でまとめきれなくなったので、もうひとつ短めの章を追加して全5章とすることにします。
ぜひお楽しみ頂ければ幸いです。4章1話を読んで下さりありがとうございました。