12 彼を愛した人が存在する限り
兄様は僕が殺した。
その意識だけが、ずっと巡っていた。眠れもしなかった。兄姉たちが自分に襲いかかる夢を見て、優しかった彼らにそんな幻覚を見たことを何より恐ろしく思った。
誰に言えるはずもなかった。
気がついたら、知らない建物にいて、清潔そうなベッドの中にいて、赤色なんてどこにもないような平和な世界で、自分は横たわっていた。
家族の姿はなかった。たった一人で、天井を見上げていた。
しばらくして、乳兄弟として育った親友が入って来て、自分の首に抱きついた。血がついてしまうから離れなよ、と言おうとしたが、自分の手が白いのを見てやめた。
大丈夫か、と問われたが、声は出なかった。
遺体は、静かに並んでいた。死の直前の狂乱など存在しないかのように、6つの骸は並んでいた。
誰が処理したのだろう。
皆、穏やかな顔で、眠っていた。
崖崩れで亡くなったんだ、と、口々に囁く声が聞こえた。全て耳殻を撫でて通り過ぎるだけだった。何故ならそれは事実とは異なるからだ。
叔父が全てやった、と言おうとして、言葉に窮した。何故なら叔父が『全て』やった訳ではないからだ。そうしたら息が出来なくなった。
膝をついた自分に叔父が歩み寄り、優しく肩を抱いた。振り払おうとしたが、力が入らなかった。激しい怒りが襲うかと思ったが、自分の感情は芯が麻痺したようになって動かなかった。
何か温かいものでも飲んで落ち着こう、と叔父は言った。先程目覚めた部屋まで行って、ベッドに腰を下ろした。
いいかい、と叔父は語り出した。
君の家族は崖崩れで亡くなったんだ、と、嘘八百。
だから否定しようとして、何故か、声が出なかった。息は出来るのに、その息が音にならなかった。
叔父は自分に何らかの飲み物を差し出した。紅茶だったかも知れないし、牛乳だったかも知れない。もしかしたらただの水かも知れなかった。
自分にとって重要なのは、叔父がそこに入れた、透明な液体だった。
あ、死ねるんだ、と。
家族と同じところに行けるんだ、と、直感した。だから躊躇わずに飲んだ。叔父も何故か自分と似たような表情をしていた。
叔父は囁いた。
全部忘れてしまいなさい、と。
家族のことは忘れてしまいなさい。
君が幸せだった頃に戻れば良い。ずっとそのままでいれば良い。君は幸せな人間『だった』んだ。そこから抜け出さなければ良い。
何故か頭はぼんやりとして、記憶が素手で掻き回されるような感覚に襲われた。
ただ残ったのは、自分が幸せな存在であるという自認だった。
僕は幸せなこどもだ。
叔父さんがそう教えてくれた。自分は家族だと言ってくれた。そして僕は、家族に愛され、家族を愛するこどもだ。
叔父さんに会うと体が震えるのはどうしてなのかは知らなかったけれど、自分は叔父さんが好きだった。
叔父さんは自分を見るたびに、嬉しそうにしながら、どこかが痛いみたいな顔をしていた。
……僕は幸せなこどもだ。そのはずだ。そうじゃなきゃいけない。
***
昔の夢を見た。いきなり皇帝として擁立され、戸惑いつつ、玉座の中で身を小さくしていたときの夢だった。
「しかし、前宰相閣下は既に解任されております」
「それならこれまで通り登用すれば良いだろう」
「同じ人間が一度離れた役職に就くことは禁じられていますよ」
「ええい、どうして解任なんぞ」
「特例で再びマレネーロ伯爵に」
「しかしそれでは」
紛糾する議会の中、何も言えずに、固まっていた。……どうして自分が、皇帝に?
今までその地位に就いていた人が誰なのか、どうしても、思い出せなくて。――それが酷く苦しい。
「では、私が」
言って、叔父が手を挙げた。その姿を見た瞬間、ぞわりと背筋が粟立ち、その次の瞬間にはとても安らいだ気持ちになっていた。……僕の家族だ。
「私が請け負いましょう」
その叔父の言葉を遮って、大きな体が立ち上がった。じろりと周囲を睥睨し、胸を張る。その声は威圧するように張り詰めていた。
「将軍閣下」
叔父は眉を上げる。
「他に適任がいないのであらば、長らく中枢にいた私が、勝手も分かっておりますゆえ宜しいかと」
叔父の視線を受け止め、将軍たるレゾウィルが視線を鋭くした。叔父はややたじろいだようだった。
「そして、マレネーロ伯爵を補佐とすることで如何か。これなら規範を破ることなく、これまで通りに政を行えましょう」
そう言って、レゾウィルはこちらを見た。力強く微笑まれ、訳が分からないまま曖昧に笑み返した。
「どうですかな、皇帝陛下」
周囲を見回すと、多くの人間が納得したように頷いている。だからこれは恐らく正しいことなのだろう、と、彼は結論づけた。
「……僕は、」
言いかけて、彼は奥歯を噛み締めた。
「――俺は賛成だ」
誰なのか思い出せない誰かの口調に寄せて、そう告げた。その誰かのように、胸を張って目に力を込める。
レゾウィルは一瞬目を見張り、それから深く俯き、顔を上げてこちらを見て、泣き笑いのような表情を浮かべた。
今にも歯噛みしそうな顔で、叔父が議会場を見回す。
「……皇帝陛下はまだ幼いですから、誰か身の回りの補助をする人間も必要ではないですか?」
苦しげに紡がれたその言葉に、それまで壁際でただ立っていただけだった人影が、思い切り挙手した。
「ぼぼぼぼぼ僕がやります!」
傍目に見ても震えながら、メフェルスが真っ青な顔をして足を踏ん張っていた。ディアラルトは瞠目してその姿を見る。
「ぼ、僕なら皇帝陛下と歳も同じだし仲良しだし心を込めてお世話出来ます!」
声を張り上げて、メフェルスは宣言した。向けられた視線に臆しながらも、背筋を伸ばして立っている。
「誠心誠意お仕えします、皇帝陛下、僕を任命してください!」
叫ぶように言ったメフェルスに、思わずディアラルトは笑み零れた。久しぶりに笑えた気がした。
これが、皇帝としてのディアラルトにとっての、初めての記憶だった。――ここから始まったのだ。
***
満月の晩、ディアラルトは廊下で、静かに空を見上げていた。メフェルスに聞くところによると、自分はいつも満月を見ると様子がおかしくなったらしい。出来すぎた仕組みだとは思ったが、確かに満月と聞いて咄嗟に連想するのが家族の死であることは否定しない。その次に連想するものは……。
背後に立つメフェルスを振り返り、ディアラルトは窓枠に腰をもたせかけた。ガラスに背をつけ、腕を組む。
「……それと同じ症状が、クィリアルテ嬢に出る、と?」
にわかには信じられず、これまでにも数度繰り返したものと同じ問いをもう一度確認した。メフェルスは答えを変えず、「その可能性があると考えています」と、あまり愉快ではなさそうな表情で言う。
「今日はフォレンタさんも寝ずの番だそうです。僕が我儘を言って、様子を見たいから刺激をしないように頼みました」
「それは……、お前、なかなか勇気を振り絞ったな」
感心して頷いた矢先、二人が立っていた前の扉が開いた。
「お静かになさって下さい。クィリアルテ様は気配に酷く敏感です」
鋭い表情で、扉を細く開けたフォレンタが囁く。ディアラルトとメフェルスは揃って口を噤んだ。
クィリアルテの部屋からやや距離を取ったところで三人は固まり、息を殺して扉が開くのを待った。……もちろん開かないに越したことはないのだが。
「それと、メフェルス様。別に我儘ではございませんよ」
不意にフォレンタが口に出したのは、数分前のメフェルスの言葉に対する返答らしい。
「『あれ』は私も気になっているのです。ローレンシアの女王陛下からも命じられております」
そのとき、扉が、微かな音を立てて、開いた。目を輝かせた少女が、寝巻きにスリッパだけで、廊下に顔を出している。
「綺麗な満月ね」
そう言って口元を綻ばせた彼女に、三人は揃って顔を見合わせた。……あれは、誰だ?
歌うように彼女は言葉を紡ぐ。
「――満月が出たらおしまいなの」
冬も目前のこの季節には不釣り合いな、薄着の少女が、寒い廊下へ歩み出た。
廊下の窓は大きい。少なくとも彼女の全身を覆うほどの光を投げかける程には。
暗い廊下にあって燦然と輝く人影が、踊るように床を踏んだ。身を翻す度にその髪が揺れ、残光のような線を描く。細い指先が空を切り、光を浴びた。
「そうだわ、今日は満月だから、温室に行きましょう」
ぱっと表情を明るくして、彼女が両手を合わせた。言うが早いや目的を持って歩き出す。
「……追いましょう」
「はい」
その様子を遠巻きながら眺めていた3人は、足音を忍ばせて廊下を進み始めた。
どくん、と胸が変な感じに高鳴った。ディアラルトは目を見開いたまま、その背を眺めていた。
彼女は宣言通り、迷いのない足取りで温室へ向かう。空には薄らと雲がかかっているが、見上げた中央にはぽっかりと空洞が空いたように濃紺が見えていた。更にその中で輝くのが、最大に膨らんだ月だった。
他に歩くもののない庭園をすり抜けるように、小さな背中が進んでいく。短くなった髪は地面を踏む度に跳ねた。
その背は普段より小さく見えた。まるで幼いこどものようだった。
何故か彼女を見ていると、何かが疼いた。胸の奥、あるいは腹の底で、何かが囁くのだ。
『あれが欲しいんだろう』
いや、もういらないんだ。
内心でそう呟いて、ディアラルトは遠くを行くその背に手を伸ばした。
***
温室を見回したわたしは、誰もいないことにがっかりした。どうして思い込んでしまったんだろう、根拠もないのに。
……どうして、ここに来ればアラルに会えると思ってしまったのかな。
ここの温室は、わたしがかつてよく来た温室に似ていた。別の温室のはずなのに、不思議なくらい。わざと似せて作られたみたいに。
「アラル、」
心細くなって、つい呼んでしまった。答えがないことなんて知ってるはずなのに。わたしに手を差し伸べてくれる人なんていないのに。
「……リア」
そう囁いて、誰かがわたしの背を抱いた。わたしは多分、それが誰なのか知っていた。
振り返って、微笑んだ。彼は目を伏せて、僅かに口角を上げた。
「聞いて欲しいことがあるんだ」
特に花の多い区画の中にしゃがみ込んで、わたしは彼を見上げた。床に膝をついたまま、彼は奥歯を噛み締めていた。
「なあに?」
首をかしげて促すと、彼は膝立ちから腰を下ろし、そのまま足を折って座る。
「リア、僕は幸せだと思う?」
その問いに、わたしは一瞬戸惑った。それは、答えに迷った訳ではなくって、ただ、どうしてそんなことを訊くんだろうって。
「うん、アラルは幸せだと思うわ」
わたしの答えはいつも変わらなかったし、彼が求めている答えもいつも変わらなかった。……いつまでも変わらない、はずだった。
「僕はね、とっても不幸で、とっても幸せなこどもなんだよ」
わたしは首を傾げた。……不幸なのは、わたし。そう決まっているのに、どうして彼はそんなことを言うんだろう。
「不幸なのは、わたしだわ」
「でも僕も不幸でないということにはならないだろう」
彼の言葉に、何だか、嫌な予感がした。
「……リア、ごめんね。きっと、僕はずっと、不幸せを君に押し付けていたんだね」
そう言って彼は、床に手をついた。深々と頭を下げる、その姿勢は見たことがないものだ。そんなお辞儀の仕方、見たことない。
「初めて会ったとき、何て可哀想な子なんだって思った。今思うと、物凄く失礼な考えだし、きっと君にも僕の考えていることは伝わってたんだろう」
わたしは首を横に振った。
「そんな、」
……嫌じゃ、なかったのに。
「君といるのはとても楽しかったし、幸せだった。それはもちろん君と一緒にいられるのが嬉しかったのもあるけど、きっと、……優越感に浸ってたからだ」
彼は顔を上げ、自嘲するように変な笑い方をした。わたしは返す言葉に困った。今までそんなこと、考えたこともなかったから。……どうしてわたしが彼と一緒にいるのが好きなのか、そんな理由なんて、一度だって。
彼はわたしの手を取った。温かい手だった。
「君に会ってから、ずっと、自分は幸せなこどもだって思わなきゃいけない時期があったんだ。その度に君のことを思い出していた。だって君といるときの僕は、紛れもなく幸福で恵まれたこどもだったから」
何度も思い出してくれていたなんて、本当なら嬉しいことのはずなのに。なのに、どうしてか、嫌な感じがした。この先に続く言葉を聞きたくない。
「でももういいんだ。過去に戻らなくても、僕は幸せなこどもだって分かったから」
胸が、刺されたように痛んだ。理由は分からなかった。ただ、目の前にいる彼が、切なそうに目を細めているのが、無性に嫌だった。……わたしのアラルはそんな笑い方しない。
「君に頼らなくても、僕はもう一人で立てるみたいなんだ。だから、今日は謝りに来た」
嫌だ、と、わたしは彼の手をぎゅっと掴んだ。彼は振り払わなかったが、握り返しもしなかった。
「ごめんなさい。……ずっと、僕のせいで、自分は不幸だって思わせて、ごめんなさい」
そのとき、ふとわたしは思い至った。わたしがどうして彼と一緒にいると心地いいのか。
彼がわたしの存在を認めてくれるのもそうだったけれど、一番明確なのは、
――彼が、わたしを不幸せな人間だって、教えてくれたから。
それは天啓みたいだった。自分がどんな人間なのかも、果たして自分が本当に存在しているかも分からないわたしに、彼が与えてくれた自己認識だった。
『可哀想に』と撫でてくれたその言葉に、わたしは知ったのだ。
《わたしは不幸なこどもだ》
きっとそのとき、わたしは、生まれた。
「僕はもう、ここにはいられない」
彼は、わたしの手を持ち上げて囁いた。
「7年前に生きた僕は、もう、いちゃいけないんだ」
赤い色をしたその瞳が、わたしを真っ直ぐに見つめた。
わたしの胸を鋭く突き刺すような、怒りに似た激しい感情が巻き起こった。
……あなただけ、進むの?
「僕が不幸せな人間でありながら、幸福な人間であるように、きっと君にも幸せだと思える一面があるはずだから」
わたしの手の甲をそっと額に当て、それから、彼は息混じりの声で告げた。
「さよなら、リア」
手のひらにくちづけた彼が微笑んだ。
「――幸せになって」
……それはいや。
目の前にいる男の目が変わった。甘く優しい少年のものから、しっかりとした大人のものに変わった。
わたしは息を飲んで、後ずさる。首を横に振り、口を押さえた。
ちがう、ちがう、ちがう。これはアラルじゃない。アラルはもういないの? もう二度と会えないの?
だとしたら、誰が、わたしを可哀想だって慰めてくれるの。同情して、哀れんで、不幸だって事実に浸らせてくれるひとはもういないのだ。
わたしは不幸なの。お父様もお母様も亡くなって、継母である女王陛下にいじめられてるのよ。みんなわたしを無視して、まるでわたしがいないみたいに振る舞うの。
ねえ不幸でしょう、可哀想でしょう。言って、そう言って。お願い、誰か、わたしは恵まれないこどもだって認めて!
過去じゃないの。まだ過去じゃないの。まだわたしは不幸なこどもだわ。わたしは――
『悲劇のヒロインぶるのは癖になるよ』
誰かが囁いた。
『甘美だからね、自分が可哀想だって哀れむのは』
頭を撫ではしなかったが、その見知らぬ誰かは力強くわたしの肩を叩いた。
『大丈夫、私が守ってあげる。大丈夫だよ』
大きな口を開けて笑って、その人はわたしに言ってくれた。
『つらいことがあったら私が代わってあげるから』
確かあれは13歳のときだった。
『わたし』を守ってくれる『私』が、世界を変えてくれたんだ。
***
眠りに落ちたように力を失ったその体を抱き上げながら、ディアラルトは背後を振り返った。
「皇帝陛下、」
メフェルスは呆気に取られたように立ち竦んでおり、自分も、自分が分からずに、ただ腕の中で瞼を閉じているその顔を見下ろした。
「……昔、彼女に、幸せにしてやりたいと言ったことがあるんだ」
温室の中の空気は静かで、ほとんど動かない。元々あった温室に手を入れ、ローレンシアのもののように作り替えさせたものだ。今思うと、子供の我儘のようなそれに、よく予算が下りたものだと思う。
「出来ると思うか」
その問いに答えたのはメフェルスではなかった。硬い表情を浮かべたフォレンタが、首を横に振る。
「クィリアルテ様はいずれローレンシアに返して頂きます。そのときナツェル銀山の権利を譲渡する、そういう契約にございます」
鋭い視線を投げかけられ、ディアラルトは答えに迷って、俯いた。すると自然目に入るのは、意識をなくしたクィリアルテである。
「……一旦返して、再び取り戻すのは?」
「それは女王陛下とクィリアルテ様ご本人がどのように思われるかの問題でございましょう」
そうか、と返して、ディアラルトは歩き出した。冬を目前にした秋の夜にこんな薄着で出歩いた彼女は、きっと明日にでも、風邪をひいたと文句を垂れるのだろうと思いながら。
これで第3章が終了です。一言で言えば皇帝浄化編でした。
予想以上に4章が難産なので、少し時間がかかるかとは思いますが、書き終わり次第投稿を開始したいと考えています。今しばらくお待ちください。
ここまで読んで下さりありがとうございます。ブックマーク、評価だけでなく言葉での応援、本当に励みになりました。
あともう少し、完結に向けて走り抜けられるように頑張ります。
2018/03/22 傍点の修正、ストーリーにはあまり関係ないが結構ひどい矛盾の修正