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転生王女にド定番ロマンスは難しい  作者: 冬至 春化
3 愛されたこども
23/38

11 彼は幸せな人間だ



「いてて」

「あら、手形がついてしまっていますね」

「えええー、本当?」

 私の腕をまくり上げて、フォレンタが立腹したように鼻を鳴らした。

「これも、皇帝陛下が?」

「……ええ、まあ」

 前腕にくっきりと浮かび上がった痣を、私は陰鬱な気持ちで見下ろした。それはもうほんとに痛かったのである。



 山の中の城で皇帝が自分で毒を飲んで倒れ、私が奮闘した夜から一日経った。明け方頃にメフェルスとフォレンタが到着し、空が完全に明るくなる前に、めちゃくちゃ極秘かつ厳重に城まで護送されたのが昨日の話である。

 丸一日飲まず食わずで(その点に関しては色々な人から「よく我慢しましたね」と褒められた)沢山の無理をした結果、私も体調を崩してベッドに張り付けである。

 腹が減りすぎて思い切り食事を掻き込み、一度全部戻してしまったのは申し訳なく思っている。医師によれば胃がびっくりしたらしい。いい勉強になった。

 ちまちまとスープを啜りながら、私は遠い目をする。


「まさかあれだけ暴れ回ってる間に記憶取り戻してるとは思わないわよねぇ……」

 文句を言いたくなるのも仕方ない。毒を飲んで勝手にぶっ倒れ、私がわざわざ隠し部屋っぽいところを発見してベッドに寝かせてやって毒を突き止め解毒剤まで用意したというのに、皇帝ときたらいきなり部屋で暴れ出すのである。寝言のようなことを呟きながら、筆舌に尽くしがたいほど部屋を荒らすのだ。詳しいことは省くが、簡単に言うと隠し部屋は隠し部屋じゃなくなった。もう全然隠せてない。丸見え部屋だ。


 服毒した人間が暴れ始めたら、それはもちろん私だって止めようとする。ところがどっこい、ここで私の筋力不足が問題となるのである。

 一体何の幻覚を見ているのやら、敵認定された私はやたらめったら追いかけ回された。結構本気で殺されるんじゃないかと思った。応戦したらやばいのは分かっていたので、ひたすら逃げた。

 しかし皇帝は自ら壁に激突し、そのまま気絶なさる。これ幸いとばかりに大声で叫びながら城の中を走り回ったら、すぐにレゾウィルが来た。これは本当に幸運だった。

 レゾウィルの監視のもと隠密くんを待ち、解毒剤が出来次第無理やり飲ませ、また気絶した皇帝を輸送して今に至る。


「どうしてクィリアルテ様は季節ごとに一回攫われないと気が済まないんですか」

「いやぁ、それは攫う側に言ってもらわないと……」

 私だって別に『誘拐犯歓迎!』なんて札を下げて歩いている訳ではないのである。


 慌ただしい廊下(と天井裏)の気配に、私は嘆息した。こんなんじゃ落ち着いて寝れもしない。

「皇帝はベッドから色々指示出して画策してるんだっけ?」

「そのようですね。証拠は完全に揃っている訳ではありませんが、何せ皇帝陛下ご本人の証言がありますから」

「そっか」

 7年前のあらましは簡単に聞いた。やはり馬車の事故など存在せず、単純な暗殺だったらしい。全て皇帝の主観による記憶なので曖昧な点はあるが、概要は分かった。

 総会まではあと一週間もなく、それでも皇帝はタドリスを糾弾する予定らしい。メフェルスを捕まえて訊いたところ、私は本当に参加出来ないそうだ。タドリスの言う通りなのが少し寂しかった。

「タドリスは、もし皇帝が生き残ったときの為に、ちゃんと仕込んだのよね。自分を皇帝に推薦しろって」

「しかし図らずも皇帝陛下は記憶を取り戻してしまわれた、と」

「何でだろうね。同じ場所だからかな」

 聞けばあの部屋は皇帝の家族が殺害された場所どんぴしゃりで、なおかつその日は同じ満月だったそうで、季節も同じだったそうだ。


 欠伸を漏らした私を寝かせ、フォレンタが布団を直す。

「フォレンタ、……ここにいて」

 明るい日差しを遮るようにカーテンを閉めていたフォレンタが振り返り、珍しいほど柔らかく微笑んだ。

「ええ、クィリアルテ様」

 目の奥がずきずきと痛んだ。体の疲れは寝ていればいずれ治るが、この頭痛は長引きそうだなと、眠る直前に考えた。



***


 全ては早回しのようだった。私は何故か夢の中にいるような心地で、それを眺めていた。日は流れるように過ぎていった。

「皇帝陛下に届けて下さい」と言われた軽食を運びがてら、廊下を急ぎ足で歩いていく文官たちを観察する。この中のほとんどは、ただ単に総会に向けての準備で忙しくしているだけだが、数人はタドリス弾劾に向けて色々な資料を集めている選りすぐりの文官のはずだ。あらかじめ様々な階級に皇帝お抱えの人間を仕込んであるんだから、末恐ろしい。


「失礼します」

 皇帝の執務室に入ると、大量の書類に囲まれたまま、張り詰めた表情で何かを書き留める皇帝がいた。室内にいる高位の文官は、恐らく全員事情を知っている人間だろう。

「皇帝陛下、これ、軽食だそうです。料理長が持っていけと」

 迷わず皇帝の前に立って、籠を差し出してから、ようやく皇帝は私の存在に気付いたようだった。はっとしたように顔を上げ、それから籠と私を見比べる。

「ありがとう」

 疲れの色が濃い表情ではあるが、随分と穏やかな声で礼を言うと、皇帝は手を伸ばして籠を受け取った。

「クィリアルテ嬢、貴女は良いのか」

 私はこれ見よがしに肩を竦めた。

「私は軽食じゃなくてちゃんとした昼食を食べましたから」

「はは、そうか」

 駄目だな、と頭を掻いて苦笑すると、皇帝は籠の中身を覗き込む。片手で食べられるようなものばかり入っているのを見て、また苦笑いした。

「あまり無理はなさらないで下さいね」

「ああ。……もうすぐ一区切りつきそうだ」

「今日の夕食には来られますか?」

 皇帝は腕を組んで、何か数えるように指を折る。少ししてから、小さく頷いた。

「多分行けるだろう」

「そうですか。伝えておきますね」

 私が微笑んだ矢先、頭上で天井の一部が動いた。

「皇帝陛下、ご報告が……、あ、クィリアルテ様、こんにちは」

「あら、隠密くん久しぶり」

「はい。体調が戻られたようで何よりです。それで皇帝陛下、」

 天井裏から顔を出したまま、皇帝と話をし始めた隠密くんを一度見上げて、私はそのまま退室した。

 ……私の部屋の上が騒々しい原因である。隠密くんを初めとしたパンゲア暗部軍団が、城中の天井裏を絶え間なく行ったり来たりするのだ。


 総会はもう明後日に迫っていた。




「皇帝陛下、来るって言ってたんだけどなぁ」

 夕食の席で、私は一人でテーブルについたまま、腕を組んだ。皇帝は来ず、給仕は「どうしましょう」みたいな顔でこちらを見てくる。「どうしましょう」はこっちの台詞である。


「失礼します」

 軽いノックと共に食堂の扉が開いた。メフェルスが顔を覗かせ、困ったように私を見る。

「すみません、皇帝陛下が体調を崩されて……。行けないと伝えておいてくれと言われました」

「まあ、死ぬ可能性のある毒を飲んだ訳だから、すぐに完全回復とはなかなかいかないわよね……」

 ここ数日、皇帝はちょくちょく突発的に体調を崩す。一時間も経たないうちに回復することもあれば、丸一日気分が優れないこともあるらしい。


「そうだ! 私のこの可愛い顔を見れば気分が良くなるかも知れないわね」

 私はわざとらしく大仰な仕草で言い放つ。しかし何故かメフェルスは納得したように頷き、「確かに」と応えた。

「いい考えですね」

「えっ……。待って、今のツッコミ待ちだったんだけど……」

「では早速行きましょうか!」

「いや、まだ私、夕食を食べてないから」

 優先順位が、『皇帝』と『その他』できっぱり分けられているメフェルスは、嬉々として私を皇帝の部屋まで連れていこうとし始めた。それを無言で阻止したフォレンタが、じろりとメフェルスを睨めつける。

「……クィリアルテ様の生命維持は二の次だとでも?」

 ゆっくりと問われ、メフェルスは腰が引けたように後ずさりながら首を横に振った。

 そう、恐ろしいのがこのフォレンタ、メフェルスまでもを掌握済みなのである(過程は知らない)。


 結局、二人分の夕食を持った給仕たちを引き連れて皇帝の部屋に行くことになった。



「皇帝陛下、ご無事ですか?」

 メフェルスが申し訳程度のノックと共に皇帝の私室へ押し入る。その前の廊下で行儀よく一列になった私たちは、メフェルスが呼ぶのを待った。

 何やら会話を交わす声が漏れ聞こえたあと、メフェルスは部屋から半身を乗り出して、私たちに手招きした。


 お盆を持った給仕の侍女たちが、ぞろぞろと列をなして皇帝の部屋へ入っていく。

「あれ? 多くないか、俺はこんなに食べな……」

 首を捻っている皇帝を眺めながら、私は部屋に足を踏み入れる。

「クォッ…………!」

 すると皇帝は、私の名前の頭文字、その子音だけを発音して固まった。私は思わず遠い目になって、メフェルスに視線を移した。

「……言ってないの?」

「ちょっとした驚きが人生に彩りを与えますので」

「そういう粋な計らいはいらないのよ」

「申し訳ございません」

 ベッドに腰掛けた状態で凍りついたまま、皇帝が顔色を急変させる。先程までいかにも体調悪そうに青ざめていたのが、一気に赤色に近付いていた。大丈夫? 脳の血管切れない?

「はい元気ですかー? 夕食食べますよー」

 仕方ないので、皇帝の前で手を振って意識を取り戻させる。数秒待つと、ようやく皇帝は再起動したらしい。

「な、何故、」

「メフェルスに言って下さいよ」

 私は腕を組んで唇を尖らせた。普段は順に運ばれてくる皿は、今は一度に全て並べられ、給仕の侍女たちは去った。部屋にいるのはベッドの縁に座った皇帝とその前に仁王立ちする私だけである。ちなみに入口を出たところのすぐ脇にメフェルスとフォレンタの気配がする。

「食事は普通に摂れるくらいなんですか? それとも寝込むくらいですか」

「いや、多少出歩くのが辛いだけで、食事は大丈夫だ。……運んでこいとは言ったが、こうも大々的なおまけが付いてくるとはな」

 私はすっと目を眇めた。迷惑そうなおまけ呼ばわりである。

「結構言いますね」

「えっ……? 悪い、何か失礼なことを言ったか」

「いえ、悪意がないのは分かっているのでお気にせず」

 勝手に椅子に座り、私はテーブルの上の皿を見回した。どことなく腹に優しそうなものばかりである。二つずつある皿の片方を、ベッド脇の机に移す。カトラリーも並べてやり、私はようやく自分の食事に向き直った。



「それで、調子はいかがですか?」

 パンを勢いよくちぎりながら、私は努めて雑談の体を取って訊いた。皇帝は少し暗い顔になって、目を伏せる。

「……叔父上の弾劾に関しては、特に不都合はないだろうと思っている」

 言おうか言うまいか迷ったように唇を開閉させ、皇帝は私を見た。

「ただ、心の整理がつかないのは、短時間ではどうしようもないな」

 自嘲するように頬を釣り上げて、皇帝は私から目を逸らす。まるで見てはいけないものかのように、さりげなく。私はこんなときにかける言葉を知らなかった。



 食事を終え、恐らく何らかの果物を絞ったと思しきジュースを飲んでいた私に、皇帝は声をかけた。

「春の毒は、意識を混濁させる作用のある毒だ。まだ完全に抜けきっていないのは自分でも分かる」

 苦笑して腰を浮かせるので、私は慌てて押し止めようと立ち上がる。

「駄目ですよ、毒が抜けてないならなおさら大人しくしてて下さい」

 そう言って肩を下に押し、無理やり座らせようとした私の手を引いて、皇帝がほとんど息のような声で囁いた。


「だからこれは毒による戯言だ」


 皇帝の肩に顔面をぶつける寸前、私は咄嗟に横を向いた。頬が当たっただけだった。いたい。

 私の背に手を回し、泣き出す寸前のような声を出して、皇帝が深く俯く。

「――俺はこの手で兄を殺した。一番近い兄だ」

 私はゆっくりと目を見開いた。それは初めて聞く事実だった。

「誰にも言えなかったし、言うつもりもない。兄とは別の誰かに赦しを乞うつもりはない」

 ならどうして私に言ったのだろう。そう思って皇帝を見上げると、その肩口に私の顎が埋まった。皇帝が腕の力を緩めたので、距離が開く。

「言っただろう、これは毒のせいだって。……忘れてくれ」

 部屋の目の前にいるであろうメフェルスやフォレンタたちには聞こえないような微かな声で、皇帝が低い声で呟く。

「咄嗟の行動で、他の刺客と間違えて、兄を切って刺したんだ。故意ではないとは言え、明確な殺意を持った行動だったし、断じて許される罪ではない」

 私は返答に困って、唇を噛んだ。そんな罪を打ち明けられて、私にどうしろと言いたいのだろう。どうしようもない。

「本来なら裁かれ罰を受けるべきだが、今の俺の立場では自分が納得いく罰が与えられるとも思えない。事故だなんだと丸め込まれるだろう。……叔父上にこの座を譲ることが出来ない以上、残念ながら直系は俺しかいない」

 だから罰を他人任せにするのはやめた、と、血でも吐くかのように息も絶え絶え告げる。皇帝の目には薄らと何らかの膜がかかっていたが、それが液体として零れることはなかった。私は黙ったまま皇帝の顔を見据えていた。

「……そうですね。それなら一生、自分で自分を苛み続けて下さい。許しちゃいけませんよ」

 私もその背に手を回して、肩甲骨のあたりを数度叩く。皇帝は私の言葉に、何故か安心したような顔をした。

「私もその罪を許しません」

 私が、この人の罪を許してやるような立場じゃないのは、自分で分かっている。何故なら私はその兄じゃない。

 皇帝が、頷いた。拍子に私の肩に何か雫が落ちた気がするが、私はそれを気付かないふりをした。恐らくこの人は自身に、声を上げて泣き、懺悔をすることすら許さないのだろう。

「ただ、励まして慰めて応援するくらいは出来ますから」

 自分に出来る、最大の優しさを込めた表情で、私は微笑んだ。皇帝の腕に力がこもった。


「……頑張って」


 唇の隙間から押し出すように囁く。皇帝は一瞬私の目を真っ直ぐに見返して、強く頷いた。



***


 今頃、下の講堂では、総会が開かれているんだろう。朝から多くの貴族達が次々と城内に飲み込まれていくのを、窓から見ていた。誰も彼も皇帝より余程年上の男性ばかりで、皇帝はさぞかしやりづらいだろうなと少し想像してしまった。ほら、年下上司ってやつ?


「タドリスはどうなるんだろう」

「死罪は免れないかと」

「それは間違いないでしょうね……」

 皇帝をちょっと連れ出して毒を飲ませるだけでも相当な重罪である。二度と王都の土を踏めないようなレベルだ。……それだけでなく、7年前の王族殺害とその隠蔽まであるんだから。

 部屋にいるのはフォレンタと私のみで、そのことが何となく心を重くした。

「……私が皇妃ではなかったことを、本人が知らなかったなんて滑稽よね」

 参加しろと言われて参加したい訳ではないが、寂しいものがあった。

「私は『ディアラルト』という一私人と結婚はしたけど、皇帝の伴侶になった訳ではなかったのね。……知らなかったわ。道理で儀式も少ないし手続きも簡単だと思った」

 確かに、皇帝の伴侶なんざ、ちょっとした裏取引で決まっちゃ駄目なものである。銀山あげるからと言ってほいほい引き受けちゃ駄目だ。……それも、死んだことになっていた人間なんて。

「でも、パンゲアもローレンシアも重婚は禁止されているのに、本当の皇妃を決めるときはどうするつもりなのかしら。特例で側室行きとか? それとも追い返されるの?」

 どう思う、とフォレンタを振り返って、私は目を見張った。

 フォレンタは、驚くほど硬い表情をしていた。緊張したように唇を引き結び、答えに窮したように目を伏せる。

「――そのお話は、いずれ」

 それからフォレンタは、とっても下手な笑みを浮かべた。



 訳もなく居ても立ってもいられず、私は椅子から腰を上げて部屋から出た。フォレンタも強くは制止しなかった。

 階下に降りると、城はしんと静まり返っていた。ここ数日、総会準備でずっと慌ただしかったから、尚更だ。

「あ、クィリアルテ様、ちょうど探していたところです」

 不意に壁の一部がくるりと回転し、隠密くんが姿を現した。正直、だいぶ肝を冷やした。悲鳴を上げるのをすんでで堪え、ぐっと息を呑む。

「お、隠密くん、気配を隠すのが上手になったのね」

「え? そんなことはないと思うんですが……。でも、ありがとうございます」

 にこりと相好を崩して、それから隠密くんが手招きした。

「講堂が見える秘密の場所にご案内します」


 言われるがままに壁の中に入り、どう見ても隠し通路としか思えない、細く薄暗い通路を歩く。隠密くんは勝手知ったると言わんばかりに迷わず歩を進めるが、私とフォレンタは若干おののきながら足を運ぶ。

 どれほど歩いたかは分からないが、やがて人の気配が徐々に濃くなってくるのを感じた。大勢の人間だ。

「こちらです」と囁き、隠密くんが屈んだ。


 ちょうど屈んだところの高さに、手のひらほどの細い隙間があった。そこを覗き込んで、私は声を出さずに眉を上げる。

 薄暗いところに慣れていた目は、しばらく眩い光につきつきと痛んだが、さしたる時間をかけずに光に慣れた。

 講堂を横から見下ろすところに、私たちはいた。右手には皇帝が座っており、壁沿いに並べられた椅子に、貴族と思しき男性たちが並ぶ。時折女性もいるが、あまり多くはないようだ。

 そして、中央に、タドリスがいた。


 めっちゃ佳境じゃない……?



「異論はございません」と、タドリスが告げた。


 皇帝は、長い息を吐いた。肩の力を抜き、目を瞑って天を仰ぐ。

「何故、」

 言葉少なに問うと、タドリスは曖昧に首を捻った。

「……今となっては、もう、何も分からないんです。あれだけ幼少の頃から憎み続けていて、それを達成したのに、何故か、何も満たされなかった」

 そんなふざけた答えに、皇帝は何か言おうとしたように胸を膨らませたが、結局口を噤んで息を吐いた。


「――今でこそパンゲアは平和ですが、私の幼い頃は酷かった。ヌーナとの貿易が開始し、国内の物流や通貨の価値が不安定になったところに、大規模な水害だ。……国内は荒れに荒れ、暴動が頻発するような時代に、私は生まれました」

 許可なく語り出したタドリスを制しようと議長が口を開きかけるが、それを皇帝が押し留めた。僅かな動きで礼をすると、タドリスは遠い目をする。

「二番目は、まさに二番目で、予備でしかなかった。そこに私は存在しなかったのです。いるのはあくまで『兄上の代わり』としての私でしかなかった」

 自嘲するように、タドリスは緩く首を横に振った。その目は遥か彼方を見据えており、決して人には伝わらないなにがしかの強い感情を湛えていた。

「あなた達の兄弟のように仲良くするということは決してありえず、全てが兄に注がれているのを、私は遠くからいつも見ているしかなかった。全て兄のためだけのものだったのです。両親からの愛も、国民からの期待も、教育も」


 私は、声もなく、その姿を見つめていた。ふと脳裏によぎったのは、言葉を交わしたことすらない腹違いの弟のことだった。私の王位継承権を代わりに引き継ぎ、今ローレンシアにいる、あの女王の一人息子だ。

 自分の意思で喋れもしない醜悪な肉の塊を、嬉しげに抱いている父と継母の姿が瞼の裏に浮かんだ。しかし、そのときのことを、わたしはよく覚えていない。


 わたしの記憶は全て曖昧だった。わたしの持つ鮮明な記憶の始まりは、温室で彼と会ったときのものだった。満月が照らすあの温室で、初めて彼はわたしの存在を認め、その目に写してくれたのだ。

 あれはまさしくわたしが生まれた瞬間だった。

 ……多分、それ以前のわたしは既に死んでいるのだろう。対外的にわたしが死んだことにされたのと同じときに。



「たとえ、既に私を見て欲しかった人が死んでいるとは言え、私は、一度で良いから、『兄の代わり』ではない人間になりたかった。そうしたら今度は甥の代わりだ。……正直、絶望しました」

 タドリスの言葉を遮るものは何もない。皇帝が黙認する限り、彼は言葉を人からは止められない。

「もう十分恨みました。幼少の頃から育んできた憎しみを燃料にずっと生きてきて、今自分の心を探っても、もうどこにも、何も無いのです。自分で燃やし尽くしてしまいました」

 タドリスは、それから、深く頭を下げた。その背は丸められ、床に手をつき、震える肩を大勢の前に晒して、彼は乞うた。


「一度だけ、……数秒で構いません。その椅子に触れさせては頂けませんか」

 命乞いはしなかった。私が来るまでにどのような会話がなされたのかは知らないが、タドリスが持っていた、あの不遜かつ遠回りな言い回しも、何かを指向する意志も、もうどこにもなかった。

 皇帝は少し躊躇ったような素振りを見せ、それから一呼吸おいて、腰を浮かせた。参列する貴族達から、非難するような驚きの声が上がる。

「……15秒だ」

 言って、皇帝は何の感情も見せない目を向けた。タドリスは呆気に取られたように、皇帝を見上げていた。


 一歩ずつ、タドリスは、その椅子に近付いた。一般に『玉座』と呼ばれるその椅子に、手を伸ばした。

 その前に跪き、座面に触れる。指先が震えているのが、遠くからでも見て取れた。


 私はタドリスの一生を知らないし、知ることもないだろう。理解をすることも決して出来ないが、思いを馳せることだけは出来た。

 誰からも自分を認識されない人生を、わたしもここまでの生の中に、確かに飼っている。絶対に飼い慣らすことの出来ない人生だ。私の生涯において決して薄れることのなく闇を落とし続ける人生だ。

 だから例えば、そんな人生に浸かりきったままだった生涯を送った男がいたとして、それを終えることが出来るのだとしたら。それはある意味では何よりの祝福なのかも知れないと、陰鬱な気持ちで考えた。どちらにせよ、哀れな生涯であったことに間違いはない。


「父上、母上、」

 玉座に触れたまま深く頭を垂れ、タドリスは囁いた。

「――私はただ、あなた達に見て欲しかっただけなのです」


 兵士に連れていかれるタドリスを見送り、私はそっと息をついた。



***


 急ぎ足で廊下をゆく。フォレンタは私を制止しようと声高に何かを言うが、私はそれを振り切った。

 そうだ、私は彼に聞かなければならないことがあったのだ、と、思い出した。


「クィリアルテ様、それは後で私が代わりに」

「自分の耳で聞かなきゃ納得出来ないわ」

「クィリアルテ様!」

 いつになく張り詰めた声でフォレンタが言う。私は唇を噛んだまま、地下牢を目指した。

 皇妃ではないとは言え、これでも皇帝職に就いている人間と(形式上)結婚した女である。ある程度の融通が利くのは知っていた。


「皇帝陛下かメフェルス様をお呼びして下さい、」とフォレンタは様子を伺っていた侍女に言い置き、私を止めようとなおも言葉を紡ぐ。

「おやめ下さい、危険です」

「何も危険なことなんてないわ。相手は地下牢に入ってるのよ」

「しかしクィリアルテ様を害そうとした人間でございます」

「どうしてそんなに止めるのよ、」

 私は、原因も知れぬ焦燥、あるいは恐怖に背を食われている気がした。自然と汗が浮いた。


「だって言ったのよ、あの人」

 立ち止まりフォレンタに向き直ると、声を潜めて私は再度言う。

「『王女でもない人間が』って、そう言ったの。普通、私とその地位を結びつけて考えることなんてないはずだわ。気になるじゃない」

「ですからそれは、私が伺いますと」

「どうしてこればっかりそんなに強固に止めるの? 不自然だわ」

 フォレンタは言葉に詰まったように押し黙った。私はその反応に、何らかの異常を確信した。



 地下牢を降りる。見張りの兵に無理を言って開けさせたのだ。長い階段だった。ここに来たばかりの頃、私も通ったことがある道だ。空気は冷えているもののじめじめと重く、饐えたような臭いがした。

「クィリアルテ様は、このようなところに入れられておられたのですか」

「そうね。……今思うと酷いわ」

 一年にも満たないが、きちんとした衣食住に恵まれた生活は、私を酷く甘やかしたらしい。あのときはそうでもないと思っていた地下牢も、今見るととんでもない場所である。皇帝が土下座するのも当然だ。

 階段では強く制止することも出来ないのか、フォレンタは不服そうにしながら私についてくる。先導する兵士は無言だ。



「……こちらです」

 言われて私は、一つの牢の前に立った。中でぼうっとしたように座り込んでいた男は、ゆっくりと顔を上げる。

「ああ、クィリアルテさん。……私に文句を言いに来ましたか?」

「そうですね、文句ももちろんあるんですけど」

 牢の中にあって、タドリスはあまり憔悴してはいないようだった。そもそも入れられてまだ数時間である。処刑が決定したことは周知の事実だし、本人も知っていることは明らかだが、タドリスに取り乱した様子はなかった。

「随分落ち着いているんですね」

「ああ、いや……。当然の報いだと思っていますので」

「ええ、私もそう思います」

 躊躇わずにべもなく切り捨て、私はそれから自嘲も込めた笑みを浮かべた。

「平和なあの世で、ご両親に見てもらえると良いですね」

 タドリスは軽く眉を上げた。「……見ておられたので?」と問うが、答えない。一応私は総会にいなかったことになっているし、見てもいけないことになっているのだ。隠密くんが呼びに来たということは皇帝の差し金だろうが、それを今ここで言う気はない。


「それで、何のご用事で」

 タドリスの言葉に、私は小さく頷いた。フォレンタが抗議するように私の名前を呼んだが、聞かないふりをする。

「質問があるのです」

 私は唾を飲んだ。タドリスも、私の様子に何か感じるものがあったらしく、目を眇める。


「……街で、私と皇帝陛下に声をかけてきたときに、言った言葉を覚えていますか」

 タドリスは案の定、首を傾げた。もちろん私だってこれだけで分かるとは思っていない。

「『王女でもない人間が大きな口をききますね』」

 その反応を見るために、じっと見据えながらゆっくりと口に出す。タドリスは回顧するように斜め上を見、それから頷いた。

「ええ、確かに言いましたね」

 フォレンタが息を呑むのが聞こえた。


「どうして、私に関して、『王女ではない』などと?」

 それを訊く意図を測りかねたようにタドリスは首を傾げつつ、答える。

「夜会で、あなたの名前の意味についてお話ししました。あなたは自分の名前『クィリアルテ』の意味を知らなかった。そうですね?」

「……ええ」

 タドリスは「だからです」と結論づけた。私は納得出来ず、腕を組む。

「それがどうして、王女が云々という話に?」

 理解が遅い、と言いたげに、タドリスは肩を竦めた。何かを隠そうという意図を感じられない声音で、当然のように彼は答えを告げた。

「だって、ローレンシアの王女なら、自分の名前の意味くらい知っているはずでしょう」

 ひゅ、と喉が締まる気がした。私がここまで一度も口にしていない国名を、何の疑問もなく提示したタドリスに、得体の知れない不安を感じた。


 誰かがこちらへ急いで駆け下りてくる。その気配も気にならないほど、私の心臓は高鳴っていた。もちろん、嫌な方に。



「ある人達が言っていたんです。パンゲアの皇帝の元に嫁いだ少女は、亡くなったことになっているローレンシアの王女であると。どうやらそれは違うようでしたが」

 息が、浅くなる。嫌な感じがした。これは一体何だ。



「クィリアルテ嬢!」

 誰かがわたしの名前を呼んでいた。強く肩を抱かれ、視界が回転し、階段を無理やり上がらせる。明るい地上に出てもなお、タドリスの最後の言葉は耳の底で木霊していた。



「――その人達が、あなたの身柄を要求していたんですよ」





***


 もう冬は目前まで迫り、そろそろ夜になると寒かった。暖炉の火は決して強いものではなかったが、小さく揺れていた。

 彼は人目を掻い潜って渡された手紙を見下ろしていた。隣国の女王からの手紙だ。

 短く、簡潔な文面だった。数ヶ月前に送られ、少し経ってから返却した、とある絵に関する手紙で、返却に対しての礼を述べているだけだった。


 形式的な挨拶のあとに続いている本題に目を移し、彼は文字を追った。

『あの絵は、あの子とその両親を描いたものです。すぐにお分かりになったでしょう。

 同じ画家に、小さいものを描かせました。無理を言って、そんなに小さくは描けないと言った彼に大金を積んで。

 私にとっては、とても大切な絵なのです。返却頂き本当にありがとうございました』

 急いで書いたと思しき手紙は、そこで終わっていた。

 彼は、話題となっている絵の様子を思い出す。随分と古びた絵だった。飾られているもののくたびれ方ではなかった。幾度となく手に取り、眺めてきたものの感触だった。


 彼は、その絵が送られてきたときの手紙を、引き出しから取り出した。皆で読んだ手紙だ。

 しかし、あの手紙の最後までは、皆では読まなかったのだ。字が読めないただ一人は、たとえ手紙を見ようとも、まだ続きがあることに気付かなかっただろう。



『現在のローレンシアでは、私はあの子を守りきることが出来ません。

 切にお願い申し上げます。私が何より慕ったふたりが、何より愛したあの子を、


 ……クィリアルテを、どうかお守り下さい』




 一読すると、彼はその手紙を暖炉に投げた。保管しておくのは危険な気がしたのだ。

 ほぼ一瞬ともいえるような短い間、目に刺さるような明るい光を放って、それから手紙は音もなく燃え尽きた。

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