10 思い出せ
人物名多いですが、ディアラルト(皇帝)とその他の区別が付けば十分です。
「おーい、アラル」
庭の反対側で大きく手を振る兄の姿を認めて、ディアラルトは駆け出した。まだ10にも満たない子供の足は短く、何度もつんのめりながら走っていく。
「ユエイム兄さま!」
何とか走りきり、両手を広げた矢先、草に足を引っかけた。咄嗟に声も出ず、両手は上に上げてしまっていて、ディアラルトは目を白黒させたまま地面に倒れ込みかけた。
「もう! 足元には注意しなきゃだめって前も言ったじゃない!」
すんでのところでその体を受け止めた姉が頬を膨らませた。ディアラルトは立ち上がり、眦を下げる。
「ごめんなさい、姉さま……」
弱気に俯くと、「次はないわよ」と唇を尖らせて、ネフティリエは溜飲を下げたように息をついた。
「姉様だって、いつもそこらじゅうに蹴つまずいて、ユエイム兄様を突っ転ばしてるじゃないか」
突如として木の上から降りてきた、ひとつ上の兄のセユディオルに、ディアラルトは目を丸くした。一番下の枝に片手でぶら下がり、軽い音を立てて地面に着地する。
「そんなことないわ! ね、ユエイム」
「うーん、ないと言ったら嘘になるかなあ……」
双子の弟の裏切りに、ネフティリエは再び膨れてしまった。
「セユ兄さま、木に登っていたの?」
ディアラルトは目を輝かせてセユディオルを見た。「ん?」と応じた彼は、何か思いついたようににやりとする。
「そうだ、アラルも登るか」
ディアラルトはきょとんとして、少しの間首を傾げていた。……僕にも登れるものなのかな。
「の、登る!」
「だめだよ」
間髪入れずユエイムが首を横に振る。一大決心をへし折られたような気がして、ディアラルトは先程のネフティリエのように頬を膨れさせた。
ユエイムは断固として首を横に振る。
「危ないから、アラルはだめ」
「ならどうしてセユ兄さまはいいの?」
「セユもほんとはだめだけど、言っても聞かないから」
ユエイムは腰に手を当て、呆れたようにため息をついた。それを見たセユディオルが頬を釣り上げて笑う。
「だって俺は慣れてるもんね」
「まったく……。どこで慣れてるのかな」
それには答えず、セユディオルは頭の後ろで指を組んだ。ネフティリエが空を見上げて呟く。
「そろそろお昼ごはんの時間だから、もう戻りましょ」
「遅くなるとレゾウィルが物凄い勢いで飛んでくるしね」
頷きあって足を動かし始めた直後、どこか遠くからやたらと大きな声が聞こえた。
「殿下方ーーーー! どちらにいらっしゃるのでーー!」
4人は顔を見合わせた。誰ともなく歩調が速まり、いつしか小走りになる。ついていけなくなったディアラルトの手をユエイムとセユディオルが取る。二人の兄の手に引かれて、ディアラルトは風を切って庭を横切っていった。
「――さて、ユエイムを撒いてきたわ」
「姉様もなかなかやるよな……」
「登るの?」
中庭に立っている、やや大きめのがっしりとした木の前に集って、3人は共犯者の笑みで顔を見合わせる。幹をぱん、と手のひらで叩いて、セユディオルが口角を上げた。
「まず、一つ目の枝にたどり着くのが大切なんだ。枝があるところまで行けば、あとは大して難しくないからな」
物知り顔でセユディオルが説く。ディアラルトは木を見上げた。……一つ目の枝は遠い。
「まず俺が見本を見せるよ」と言うが早いや、幹に手をかけたセユディオルは、足で幹を蹴って大きく上に伸び上がった。太い枝の根元を掴み、体を引き上げると、あっというまに一つ目の枝に腰掛けてしまった。
「と、こんな感じ」
枝から手を離して、セユディオルは手を払う。ディアラルトは目を丸くして、思わず小さく拍手をした。
「兄さま、すごーい!」
手放しの賞賛に、セユディオルはやや照れたように鼻の下を擦った。そんなセユディオルを一瞥し、腕を組んだネフティリエは「なんだ、私にも出来そうじゃない」と言ってのける。
「へえ、じゃあおいでよ姉様」
眉を上げてセユディオルがひとつ上の枝に移る。ネフティリエは腕をまくって、一瞬の躊躇いののち、両手を振って勢いをつけると、思い切り飛び上がった。
「えいっ」
「姉さま頑張れ!」
「よーし見ていなさいアラル、これくらい簡単だわ」
両手で枝に掴まると、大きく体が揺れる。幹の方へ振れた体を足で止め、ネフティリエが枝の上に上がろうとした途端、怒り心頭と言わんばかりの叫び声が響いた。
「……ティリエ!」
中庭へ続く扉をほとんど蹴破って、肩で息をしたユエイムが木の上や下にいる3人を睨みつける。
「だめだよ、木登りは! 危ないんだよ!」
撒いたはずの双子の弟の登場に、ネフティリエは不満げに唇を尖らせた。「大丈夫だもん」と返し、そのまま枝によじ登ろうとする彼女に、ユエイムは拳を握って叫んだ。
「エイリーン兄様に言いつけるからね!」
その言葉に「関係ないわ」と膨れっ面で応じたネフティリエは、ユエイムを無視して木に登り、一番下の枝へ腰掛けた。貧弱そうな細い木ではないので、枝は揺れもしない。
「それに、きっと兄様だって木登りくらい、したことがあるはずだわ」
腕を組んで鼻を鳴らした直後、足音がした。
「まあ、エイリーン様、木登りをなさってましたの?」
「まさか。僕はそんなことしないし、したこともないよ」
「そうですわよね。……でも、それではエイリーン様はいつもどのようなことを?」
「そうだなあ、僕はロズといるだけで楽しいから」
ユエイムが入ってきたのとは別の扉から、連れ立ってふたつの影が現れる。それを見るやいなやセユディオルは地面に飛び降りたが、咄嗟にそのような行動を取れなかったネフティリエは、枝の上であたふたとした。
「ネフティリエ、勝手に変な汚名を着せるのはやめなさい」
「に、兄様……」
ネフティリエは顔を引き攣らせ、動きを止める。中庭に入ってきたのは、まだ幼い婚約者を連れる長兄で、一切笑っていない目で樹上のネフティリエを見る。
「ほら、ティリエ、降りれないの?」
木の下で幹を叩きながらユエイムが腰に手を当てた。完全に不貞腐れたネフティリエは、枝からするりと飛び降りた。着ていたドレスの裾がふわ、と上がって中が見えそうになり、双子の弟が慌ててそれを直す。
「もっと身だしなみに気をつけてよ」
樹皮の破片や葉を払い落としながら、ユエイムは呆れたようにため息をついた。
「あー、ここ、破れちゃってる」
「みなさま、ごきげんよう」
エイリーンと手を繋いだまま、ロズウィミアがにこにこと頬を上げた。兄弟の最年少のディアラルトより、更にふたつ年下の女の子だ。エイリーンとは相当年が離れているが、立ち居振る舞いはそれを感じさせなかった。
「ちゃんと挨拶が出来るなんて、ロズはネフティリエやセユディオルよりよっぽど偉いね」
「そ、そんなことはありませんわ」
頬を赤くしたロズウィミアが目を逸らし、その前にしゃがんだエイリーンが緩みきった顔で頭を撫でている。いつもの光景に、腕を組んだセユディオルが呟いた。
「…………この幼女好き」
「ん? セユディオル、もう一度大きな声で言ってみようか」
「なんでもなーい……」
するとエイリーンは僅かに口角を上げて、ロズウィミアを見つめる。
「はっきり言えないようなことを言ったのかな? そういうのは良くないよね。そう思わない、ロズ?」
「えっと、でも、……私もそういうこと、ございますわ」
「そうなの? そう言えばこの前、僕にクッキーを作ってきてくれたとき、なんて言って渡してくれたのかな。あのときよく聞こえなくて」
「えっ、そ、それは! は……恥ずかしくて言えませんわ……っ!」
5つも年下の幼い婚約者で遊ぶのが楽しくて仕方がないらしい。そっと顔を逸らして、セユディオルはじめ弟及び妹一同は、何も見なかったように目を伏せた。
「……僕も登りたかった…………」
エイリーンの見張りのもと、廊下を全員で歩きながら、ディアラルトは無念に満ちた声で呟いた。セユディオルはいつも登っているし、ネフティリエは途中で見つかったものの、枝の一本目までは到達した。木に触ってもいないのはディアラルトだけである。
「アラルも登りたかったのか。てっきりネフティリエに引きずられて来たものとばかり」
意外そうにエイリーンは腕を組み、ディアラルトを見下ろした。ディアラルトは小さく頷き、俯く。
「うーん、そうだなぁ……。代わりにならないかも知れないけど、ほら」
顎に手を当てて少し考え、それからエイリーンはディアラルトの前に背中を見せて屈んだ。ディアラルトは目を瞬いて、それから迷わずその背中に飛びついた。
「高ーい!」
軽々と背負われて、視線が一気に上昇する。エイリーンが揺すりあげるようにその場で跳ねると、大きく揺れた。
「……木の方が高いわよ」
「ティリエ」
じろりとユエイムが傍らの片割れを見る。少し肩を竦めて、ネフティリエはにこりと笑った。
「良かったわね、アラル」
「うん!」
ディアラルトは満面の笑みを浮かべ、大きく頷いた。
***
はっと、意識が急浮上した。
ディアラルトは目を瞬く。冷水を浴びせかけられたように、全身が汗に濡れ、冷えていた。
目の前に、少女がいた。どうやら自分は横になっているようで、その顔は90度回転している。彼女は何か言おうとしたように口を開いた。声は出なかった。
エイリーン兄様と同じくらいの年の、年上の女の子だ。そう思った一瞬後に、すぐに打ち消す。いくつも年下の少女じゃないか。いや、そんなはずない。どの兄様より年上の女の人だ。
「僕は、いや、えーと、俺、……僕、」
ディアラルトは言い淀みつつ、体を起こした。狭い、灯りもない部屋に二人きりであることに気付いて、戸惑う。……この子は、誰だ?
「えっと」と彼女は声を発した。上体を起こしたディアラルトの目の高さに近づくように膝立ちになり、逡巡するように視線を彷徨わせる。
「一応訊いておきますね。……私のことは、分かりますか?」
ディアラルトは言葉に詰まる。……分かるような、分からないような。
「どこかで会った、というのに、間違いは……?」
「どこかで会ったどころか、……まあ、間違いではありませんが」
ディアラルトはまじまじと彼女を眺めた。金色の髪は決して特殊ではないが、こうも澄んだ色をしているのは珍しい。光は背後から射し込み、自分の体で切り取られた影が彼女の顔に落ちていた。闇を逃れた数本の毛先が、白い光を反射して宙に線を描く。
「あの、……僕は、どうして、ここに?」
彼女は一旦答えずに目を細めた。答えあぐねるように口をもごもごさせ、唇を尖らせる。
「えーっとですね」
頬を掻きあからさまに答えに窮する様子を見せて、彼女が視線を逸らした。
「ちょっと色んな出来事が重なったことによると言いますか」
「一体どんなことが重なれば、こんな……夜に、」
言いつつディアラルトは振り返る。空に雲はかかっておらず、満月が燦然と輝いていた。
……ディアラルトは彼女の正体をすぐに理解した。
「リア、ごめんね。僕何だか変だったみたい」
ディアラルトは苦笑した。まさか彼女を忘れていたなんて。……ありえない。
詫びを込めてリアを引き寄せ、なかなか力強く爪で擦られていた頬を優しく撫でてやったら、すぐに顔を赤くした――その際「ひょえぇ」と妙な声を漏らしたのが少し気になったが――。
「ここどこだろう。リア、知ってる?」
そう言って立ち上がりかけたディアラルトは、そのままベッドに倒れ込んだ。あれ、と口の中で呟く。体に力が入らないのだ。頭がぐらぐらした。
「どうして、」
ベッドに仰向けになったディアラルトの顔に、窓の形をした月光が降りかかる。
今日の満月は晴れなんだ、と、ディアラルトは内心独りごちる。
……じゃあ、いつの満月が、晴れじゃなかったんだろう?
背にあたるシーツが勢いよく抜かれたような気がした。スプリングが一瞬にして風塵のごとく消え失せたような。
落ちる。どこに? ……どこか彼方に。
***
雨が降っていた。これではどこにも遊びに行けないね、と言ったのは姉だった。
その日は朝からずっと雨で、御者も崖崩れの危険があるから馬車は出せないと、そう言っていた。
一番上の兄のエイリーンと父が、向かい合って同じ盤面を見ていた。母は詳しくないので興味が湧かないらしく、とろ火が揺らめいている暖炉の前で本を読んでいる。
姉のネフティリエはルールも知らないのに口出しするのが大好きで、また頓珍漢な戦略をエイリーンに押し付けては苦笑されていた。
「ティリエ、それだとこっちががら空きだよ」
ユエイムが盤面の一点を指さすと、ネフティリエは「本当ね」と驚いたように眉を上げた。この双子はいつもこうだった。
雨が降りしきっていた。窓を叩く雨粒は、朝は霧のようだったのが、今では風も加わって、音を立てるほどだった。
兄と父の対決に決着がついたようだった。
「アラル、おいで」
あまりルールが分からず、暇を持て余していたディアラルトを、エイリーンが手招きして呼び寄せる。目を輝かせて駆け寄ったディアラルトに、エイリーンは駒をひとつ摘まみ上げて渡した。
「ルールを教えてあげよう」
エイリーンは立ち上がって、ディアラルトに椅子を譲る。駒を手で包んだまま、促される通りに椅子に座ると、目の前には父がいた。
「お、アラル、良かったな」と直近の兄のセユディオルが笑った。本を読んでいた母も、栞を挟んで立ち上がる。
「せっかくだから私も覚えようかしら」
その言葉に、エイリーンが目を細めた。
「ええ、歓迎しますよ」
ネフティリエはいつの間にかディアラルトの隣の席を陣取り、頬杖をついて「えぇ」と唇を尖らせる。
「お母様、あまりこういう遊びはなさらないんじゃあなかったの」
「私は賭け事が嫌いと言っただけよ。お金を賭けて戦盤をなさる方も多いでしょう」
「大丈夫ですよ、賭け事なんてしませんから」
エイリーンは首を横に振って、それから駒を数種類手に取って、皆に見えるように掲げた。
「このノユェンという遊びは、海の向こうのヌーナという国が発祥のボードゲームです。動き方の違う数種類の駒を使って、相手の陣地に到達した方の勝利となります」
ふむふむ、と頷くディアラルトの横で、母が「へぇえ」と声を漏らした。
「ここと、ここが、陣地かしら」
母が指した地点を見て、エイリーンが頷く。
「駒の説明をしますね。まずは歩兵から――」
***
「……っは、」
溜めていた息を一気に出すように体を震わせて、ディアラルトは目を開けた。
一瞬、完全に混乱した。自分が上を向いているのか下を向いているのかも分からなくなった。
ここはどこだ。さっきまで暗く重苦しい夜にいたのに、いきなり、別の夜に弾き飛ばされたような。空気は冷たく、体には緩やかに冷風が吹き付けているのを感じた。
昔の夢だった。あれはいつのことだっただろう、とディアラルトは過去に思いを馳せる。
あれは、……7年前。毎年秋になると、周辺の山の紅葉が綺麗だからと家族で別荘に行くのだ。7年前はああやって皆で戦盤をしたけれど、その次の年は何をしたのだろう。それが思い出せないことに、恐慌寸前に似た不安が襲う。
「あ、また起きた……?」
すぐ側で声がして、ディアラルトは目線だけそちらにやった。何故か体は上手く動かなかったのだ。
「ああ、クィリアルテ嬢、」
そう呼びかけると、彼女は驚いたように目を見開いた。何故そんな顔をされるのか分からず、怪訝に眉を顰める。
「俺が起きたら何か不都合でもあるのか?」
「いーやえーっと……、いや、別に不都合はありませんけど」
不都合はないが何か言いたいことはありそうな表情で、彼女は言い淀む。急かさず待つディアラルトは、妙に重い体を起こして、ベッドに腰掛ける。……いつの間にベッドに……?
「クィリアルテ嬢、ここはどこだ?」
「山の中の、……お城?」
首を傾げつつの返答を、ディアラルトは静かに受け止めた。思い当たる節があった。自国に「城」と形容するような建造物はそう多くない。それも、都市ではなく山の中にあるような。
「オルデ山脈の古い砦か」
呟いて、ディアラルトは立ち上がろうと足に力を入れた。それなのに、気がついたら天井を見ていた。倒れたらしい。
「どうしてそんなところに」
城の外観を思い浮かべた。何かが脳の裏をつつくような気がした。
それは家族と毎年の秋に来る古城だった。いつも使っていた部屋を思い浮かべた。何かがちかちかと視界の隅で光った。
一体何が自己主張している?
思い出せ。知らず知らず声が漏れていた。
確か、この場所で、自分は忘れられないような体験をした。いや、――『忘れてはいけない』体験を。
「クィリアルテ嬢、一つ訊いていいか」
その返事を待たず、ディアラルトは天井を見据えたまま呟いた。
「俺の、家族は、どこに行った?」
彼女は唇を震わせた。助けを求めるかのごとく視線を彷徨わせた。扉の方を数度見、それからディアラルトを見つめる。
体にはほとんど力が入らなかったが、それでも再び頭を起こした。彼女の目を見据えて、答えろと圧をかけた。
酷く迷った様子で、彼女が自身の手を胸の前で握り合わせる。床に座り込んだまま、自らの膝のあたりを見つめ、唇を噛んだ。そして、僅かな上目遣いで問う。
「……言っていいんですか?」
その確認に何か不吉なものを感じて、ディアラルトは奥歯を噛み締めた。身震いする。
それから、ゆっくりと頷いた。
すぅ、と細く息を吸った。彼女の瞼がひらめき、隠されていた瞳が顕になる。
「あなたの家族は亡くなりました」
それは非情で冷酷な言葉だった。それでいて、きっぱりとした簡潔な結論は、真っ直ぐに刺さった。いっそ救いのようだった。首を絞めるような圧迫感はなく、ただあるのは焼け付くような痛みだけだった。
しかし、続く言葉は、予想を飛び越える。
「7年前に殺されたと。……そう聞いています」
息が止まった。痛みは消えた。血が逆流するような気がした。
痛みを堪えるような顔をしているのはむしろ目の前の彼女の方で、まるでそれは自分の親を殺された人間のような表情で、
「……誰に、」
咄嗟に飛び出した問いに、答えたくなさそうな彼女が口を開く。自分で訊いたくせにそれを手で制していた。
自分はそれを覚えているはずだった。
否、それを見ていたのではなかったか?
思い出せ、と食い縛った奥歯の隙間から唸る。目を見開いて、頭を抱えた。
家族が、死んだ? 誰かに殺された? 何故自分はそんなに重要なことを忘れている。
「どんな風に死んだと」
「……それは知りません」
「俺は知っている」
一瞬鼻白んだように彼女は目を細めたが、すぐにその表情を消した。動きを止めたディアラルトの肩に触れ、気遣わしげに眉根を寄せる。
「ねえ、大丈夫ですか、」
そこで彼女は戸惑ったように言葉を切った。酷く迷ったように口を開閉させ、そして彼女が最後に選んだ三文字は『それ』だったらしい。
「――――アラル」
かつて、彼を、そう呼んだ人達がいた。
***
雨はますます酷くなり、窓を叩く音は激しさを増す。それでも室内の会話の明るさは衰えず、皆で机を囲んで談笑が続いた。
「筋がいいな」と、ディアラルトの駒運びを見た父が感心したように呟く。長兄のエイリーンは同意するように頷き、「引き際がよく分かっている」と応じた。
「本当?」
「ああ、もちろん。アラルはすぐに上手になるな」
父は目を細めて首肯し、ディアラルトは顔を輝かせた。
「それに引き換えお母様は」
ネフティリエは頬杖をついたまま溜息をつく。
「違うよ母上、歩兵は一度に一つしか進めないんだ」
「ええ、さっきは三つって」
「それは騎馬兵だよ、」
ユエイムと母が、ルールの時点で躓いているのを横目で一瞥すると、ディアラルトは再び自分の盤面に視線を戻した。セユディオルは初心者の二人を見比べて、喉の奥でくつくつと笑う。
「ディアラルトはずっと人がやるのを見てたしな」
「確かにそれがあるね」
妙に飲み込みの遅い母に、匙を投げる寸前のユエイムが肩を竦めた。
やがて全員が戦盤に飽き、空気が緩んだ頃、侍女が扉を叩いて入ってきた。
「紅茶はいかがですか」
柔らかく微笑んでの言葉に、エイリーンが片手を上げて応じた。
「じゃあ頂こうかな」
それから数人がぱらぱらと手を挙げ、その人数分のティーカップに、淡い赤茶色の液体が注がれる。緩やかに立ち上る湯気を伴ったそれを目の前に置かれたエイリーンが小さく微笑んだ。侍女はそのまま退室した。
ディアラルトは、見るともなしに、兄が紅茶を流し込むのを、眺めていた。
傷一つない陶器の縁に唇を当て、持ち手を傾けて、その透明な液体を、唇の隙間に。
つと、その秀麗な目元が、僅かに歪められた。恐らく、そちらに視線を向けていたディアラルト以外は気付かないような、一瞬の動きで。
「っ飲むな!」
そう叫んで、エイリーンは隣に座っていたネフティリエの手から、カップを叩き落とした。割れはしなかったが、テーブルに落ちたカップはその中身を天板に晒す。ネフティリエは目を丸くして「何するの」と言いかけて、息を飲んだ。
その体が傾くのが、やけにゆっくりに見えた。指先が空を掻いた。ふっと眠りに落ちたように瞼を閉ざした長兄は、酷く滑らかに、肩から絨毯に着地した。
「兄様!」
悲鳴のような声で、ネフティリエが立ち上がる。続けざまユエイムが、仰向けに倒れたエイリーンの脇に膝をつく。
目を見開いて、セユディオルが手に持っていたカップを強くテーブルに打ち付けた。
「エイリーン、」
母は呆然としたように呟き、テーブルを回り込んでエイリーンに駆け寄る。絨毯の上に体を投げ出した長男は目覚めない。
父は迷いのない動きで立ち上がり、壁の一点に歩み寄ると、ほとんど見えない隙間のすぐ脇を手のひらで強く押し、張り詰めた表情で告げた。
「入りなさい」
ただの壁に見えていた板が、開く。ディアラルトは未だ事態が飲み込めず、凍りついたように椅子に座ったまま。
「アラル!」
声を荒らげてセユディオルがディアラルトの手を引いた。目を白黒させたまま、咄嗟に抵抗する。
「なに、どうしたの、エイリーン兄様は、なんで」
「非常事態だよ! 早く立て!」
無理やり引き上げるように立たされ、ディアラルトは訳が分からずに部屋を見回した。
「入れ!」
背中をぐいと押され、ディアラルトは壁に紛れていた扉の、その先の部屋へ押し込まれた。力が強すぎて、つんのめって床に手と膝を打ち付ける。
そのディアラルトの体を背後から抱き抱えるようにして、セユディオルが部屋の奥へ急いだ。さして大きな部屋ではなく、置かれているのも小さめの棚とベッドくらいしかないような簡素な部屋である。
「セユ兄様、なにが、起こったの、」
「分からない」
部屋の隅でディアラルトの肩を抱くようにして、セユディオルが鋭い目で部屋の入口を見据えた。
「悪い」
そう言いおいて、セユディオルが腰を浮かせる。部屋の入口まで足音を忍ばせて近付き、開け放たれている扉を半開き程度まで閉めようとするように手を伸ばした。
その瞬間、血相を変えてセユディオルが叫んだ。
「姉上!」
扉を乱暴に閉めて駆け出し、そのまま姿を消す。部屋の中に一人取り残されたディアラルトは、事態についていけず、ただ一人で竦んでいた。
呼吸を数度。忙しない瞬きをし、唇を噛む。自然と吐く息は浅くなり、息が苦しくなって思い切り空気を吸う。
脳がちかちかした。これは非常事態だ。今、部屋の外で、何かが起きているんだ。
ますます小刻みになろうとする呼吸を必死に押しとどめ、ディアラルトは震える足を叱咤して立ち上がった。
「にい、さま」
平和を形作っていた部屋は、一変していた。
テーブルの向こうでは、長兄が、まるで眠っているかのように穏やかに倒れていた。
暖炉の前で、姉と兄の双子が、固く手を握り合って、その体を揺らめく明かりの下に晒す。姉の背から流れる何らかの液体と、兄の胸から零れ出す、同じ色をした液体。
あの色はなんと言うのだっけ。それが思い出せない。分からない、あれは、何という液体だ。兄の胸に突き立てられたあれは何だ。
「アラル、来るなっ!」
怒声にびくりとした瞬間、横から強く突き飛ばされる。受け身も取れず、床に転がったディアラルトは、一瞬前に自分がいた地点に剣が突き刺さるのを見た。視界の外に知らない男がいたことに今になって気付く。
跳躍して、セユディオルが片足を振り上げた。剣を持ったまま、顔の見えない男が大きく仰け反った。男の頭を思い切り蹴りつけ、セユディオルは床に手をついて着地する。
「……下町をうろついてるのも案外役に立つな、」
毒づくように言い、体勢を崩した男の鳩尾に肘を叩き込むと、セユディオルはディアラルトの方を向いた。
「アラル――」
荒い息の隙間に何事か言いかけたとき、部屋の反対側で、激しい剣戟の音が響いた。弾かれたように振り返ったセユディオルが、体を震わせる。
「叔父上……?」
つられてディアラルトもそちらを向いた。
白刃が閃いた。金属が擦れ合う不快な音を立てて、ふたつの影が交差する。よく似た、二人の男が。
「どういうことだ、タドリス!」
父が怒鳴る。その矛先を向けられた男は、曖昧な声を発して、首を傾げた。
「……兄上、私は決して、貴方の政治体制に文句がある訳ではないのですよ」
「意味が分からん」
再び剣がぶつかり合う。鋭い音に、ディアラルトは身を竦めた。
どうして叔父が、父に剣を向けている? そもそも叔父が何故ここにいるのだろうか。わざわざここまで来て、父に剣を向けるということは、兄や姉も、……。
つまり、叔父が、全てを、仕組んだ?
「アラル、せめてこれ持っとけ」
ディアラルトの思考を打ち切るように低い声でそう言って、セユディオルは彼の手に、倒れ伏した男から取った剣を押し付けた。鞘にも入っていない、剥き出しの剣だ。
「それで部屋に入って大人しくしてろ。扉には鍵がついていた。母上が入ったら、俺や父上が来るまで絶対に開けるな」
「セユ兄様は、」
「俺は大丈夫だ」
決して不敵とは言い難い、憔悴しきった顔で笑うと、前屈みになったセユディオルがディアラルトを片腕で抱き締める。
「いやぁあああああ! エイリーン、ユエイム、ネフティリエ、」
真っ青になったまま、母が床にへたり込んでいた。
「いや、起きて、……どうして、やだ、」
正気を失ったように血走った目をして、エイリーンの肩を掴んで揺する。その首に縋り付き、うわごとのように名を呼ぶ。
「……入ってろ」
隠し部屋の方へどんとディアラルトを押して、セユディオルが母の元へ急いだ。しかし、ディアラルトは動けず、入口に立ち竦んだまま、抜き身の剣の柄を握り締めていた。
「母上! 早くこちらへ!」
「エイリーン、どうして、」
「そこは危険です、せめて身を隠せるところへ!」
セユディオルが叫ぶが、母はエイリーンの体に縋り付いたまま離れない。業を煮やしたようにセユディオルは唸ると、母の体を無理やり引き剥がした。喉を締め付けられたような弱々しい悲鳴を上げて、母が尻餅をつく。
「アラルのいるところへ行って下さい!」
怒鳴りつけるように言われて、母は僅かに正気を取り戻したらしい。ようやく周囲が見えるようになり、首を巡らせてディアラルトを見つける。
震える足で動き始めた母を認めて、それからセユディオルは迷わずに父と叔父の元へと向かった。決して素晴らしく仲が良いわけではなかったが、命を狙うほどに険悪ではなかったはずの兄弟の元へ。
「アラル、」
言いつつ母が手を伸ばす。ディアラルトはその手を引き寄せて、隠し部屋に入ろうとした。
しかし、何故か、強く腕を引かれた。振り返ると、ディアラルトの手を握ったまま、母が床に倒れていた。その指先が、ディアラルトの手の甲を伝って、落ちる。
「……母上?」
呆然と呟いた。
あれ? 何だろう。床に広がるこの液体は、何だろう。
双子の姉と兄から溢れていたものと同じもののようだった。これは、一体、何だ? 鼻を刺す鉄のような臭いを伴うこの液体は、何というものであったか。
眼前に、先程セユディオルが蹴りつけた男が立っていた。その手には短剣が握られており、先からは液体が滴る。
血 だ 。
それはもはや考えての行動ではなかった。持ったこともない剣を握り締め、下から上へ振り上げる。自分の体も持っていかれ、彼はその場でよろめいた。
手には感触があった。前腕から血を流した男が、彼を見下ろす。
自分の口からは何らかの意味を持つ言葉が叫ばれていたが、ディアラルトにその記憶はなかった。血が沸き立つ。
数度、剣が重なったように思う。ただがむしゃらに手に持った得物を振り回し、彼は歯を剥き出しにして獰猛に唸った。
決して言ってはいけないと、幼い頃から教えられてきた言葉を、いくつも叫んだはずだ。何度も繰り返し怒鳴ったのだろう。
脳の芯に刻み込まれたようにたったひとつ鮮明な意志は単純明快だった。
――目の前にいるこの男を、殺せ。
だから足元に伏した男を見下ろすとき、彼は酷く満足したのである。目的の完遂だった。
その一呼吸あとに、ディアラルトは恐ろしさに震え上がった。一体自分は何をしてしまったのか。
神経は鋭敏だった。部屋には堰を切ったように見知らぬ人間が入ってきたし、彼は続けざまにそれを切った。幾度となく刃先が彼の表面を撫でて去ったが、その跡は、まるで遠くにある熱さのように現実味がなかった。誰かが叫んでいた。やめろ、と叫んでいた。それもまた遠くの出来事だった。
だから、背後から気配が近付いてきたとき、彼は振り返りざまに剣を薙ぎ払ったのだ。そのまま間髪入れずに振り下ろし、突いたのだ。感触は妙にぼやけていた。何かを裂き、貫いた。その衝撃は鈍く腕を震わせた。
「アラル、」
兄が、腹を押さえながら、自分を見ていた。苦しげに喘ぎながら、よろめく。
その瞬間、感覚が、鮮明になった。目の前が拭い取られたように色を取り戻し、痛みの輪郭はくっきりとした。
「兄様……?」
しかし現実味がないのは変わらないようだった。
今、自分は、何をした? まさか自分は、兄を傷つけでもしたのだろうか、
これは、夢だろうか。そうであればいいのに、
倒れ込んだ兄がディアラルトの肩を強く抱いた。支えきれずにディアラルトは床に座り込む。熱い息が首にかかった。
「……僕、今、」
手が震えた。兄も同じく震える手で、ディアラルトの顔を掴む。
「アラル、大丈夫だ」
「兄様、し――」
死ぬの、と問いかけて、その口を手で塞がれた。セユディオルは頬を緩めて笑った。
「死なないよ、俺は」
「ほんとうに?」
言いつつ、その手からはみるみるうちに力が失われていくのだ。視線を僅かに下ろせば、暗い色の線が服を横切り、そこから鮮やかとも言える赤が広がっていくのが見えた。
「アラル、いい子だ」
たったひとつしか違わないくせに、と、ディアラルトは唇を戦慄かせながら思った。
――たった一歳しか違わないくせに、セユディオルは紛うことなく兄だった。
「いいか、よく覚えておけ」
多少荒い口調は、兄の『ちょっと悪い友達』の影響で、だいぶ強く頭を撫ぜるのは、兄がいつも犬を豪快に撫でる癖があるからだ。
「もし例えば、俺がヘマしてもうお前に会えなくなったとして、」
兄の頭が、ディアラルトの肩から胸元に滑り落ちた。
「もし他の兄上や姉上、母上、父上がお前から遠いところに行ったとして、」
髪をかき混ぜていた手が、力を失い、肩に落ちる。そのまま床につく。
「それでも俺たちはお前のすぐ傍にいて、常にお前が笑っていられることを願っているんだって」
音もなく、その体が、傾く。ディアラルトに寄りかかるようにして、少しずつ。
「忘れるな」
最後に顔を上げて、兄は満面の笑みを浮かべた。
「みんなお前を愛している」
最期に彼は囁いた。酷く優しい声だった。
「それだけでお前は幸せな人間だよ、アラル」
兄の姿が遠くなる。
最愛の家族たちが、もう、手の届かないところに行ってしまったような、そんな錯覚に襲われた。
……それを錯覚だと思いたいのは、自分の弱さだった。
***
「皇帝陛下!」
しこたま頬を叩かれて、彼は薄らと目を開けた。
「良かった、危ないところでした」
汗だくになった少年が、手の甲で額を拭う。視線を動かすと、レゾウィルが傍らに立っているのが目に入った。その背後に庇われるようにして、少女が。
口元に何かを押し付けられ、眉を顰める。
「飲んで下さい。解毒剤です」
「げどく……? むぐっ」
容赦のない手つきで、小ぶりの椀が傾けられる。とろみのある液体が口の中に入ってきて、抵抗しようと顔を逸らした。するとレゾウィルが顔を押さえてくる。あいにくディアラルトの首の筋肉はレゾウィルの上腕二頭筋には勝てないのだ。
隠密に否応なしに流し込まれた、得体の知れない液体を、仕方なく嚥下する。甘い味のするそれを飲み下し、それからようやく一息ついた。
「……もう落ち着いたの?」
恐る恐ると言わんばかりに、クィリアルテがレゾウィルの背から顔を出す。何故かその髪は酷く乱れ、疲れきった表情をしていた。
「そのようですな」とレゾウィルは頷き、溜めていた息を吐く。
「毒を飲んで暴れ回ったせいで、回りが通常より早くなっていたみたいです。でも、クィリアルテ様が解毒剤を見つけて下さったお陰で、迅速に解毒剤を作れました」
隠密は立ち上がりながら、疲れた様子で首を回した。
ディアラルトは、しばらく黙って天井を見上げていた。部屋の中の誰も、言葉を発しない。
「――思い出したんだ。全部」
静かに目を閉じると、目尻から何かが伝って、髪の中に消えていった。
「レゾウィル。メフェルスに伝えておけ」
は、と低くレゾウィルが応じる。父の生前、軍を統率する将軍として立っていた宰相に向かって、宣言した。
「来週の総会で、叔父上を弾劾する」
全部思い出したのだ。自分を縛った言葉を誰が吐いたのかも、全て。
父を殺したその手を掲げながら、叔父は言った。
『幸せだった子どもの頃のままでいれば良い』
今なら言えるだろう。思いがけずこんな歳まで呪縛が長引いてしまったが、時間というのは万物を治癒する。こと、目に見えない呪いに関しては。
「俺は確かに不幸かも知れないが、常に幸せだった」