9 どうしてそれを忘れたのか
そこまで思い出したけど結局分からん、と言うのが結論だった。取り敢えず、タドリスの言っていたことから辛うじて導けるかどうかというラインである。ほぼ嫌がらせじゃん?
「イーデルシーアって記述を探せばいいのね」と張り切って本棚の前で頷くが、何の本を探せば良いのか分からない。イーデルシーアって何だ。食べ物か?
「ちょっと昔に聞いた気がするのよねぇ、タドリスに教えて貰ったんじゃなくて、別のところで」
悠長にしている場合ではないのだが、焦っても仕方ないことも分かっている。腕を組んで、私は体を捻って外を見た。
稜線は闇に溶けかけていた。気がつけば部屋の中は既にほとんど灯りを失い、部屋を照らすものはない。
まだ高く上がってはいない月は、太陽が沈んだ位置の反対側で煌々と輝く。冴えた色をした光が山肌に投げかけられ、暖色に覆われた地面が目に映った。
紅葉である。カエデの木でもあるのだろうか、総合的に見て赤に寄った色合いが、青白い月に反抗するようにその姿を空に晒す。
満月を直視した。何かがこみ上げてくるような心地がした。それを拳を握ることで押さえつけ、私は大きく息を吸った。
「……イーデルシーアの花の蜜、」
ふと思い出したのは、その一言だった。思い出せたのは本当に偶然でしかなかった。
「エルベドロイカの巣の欠片……」
感覚が過去に引き戻された気がした。思考がぐるりと裏返り、夏に思いを馳せる。
「覚えてる。……私、夏に聞いたわ」
暗がりに沈んだ本棚に駆け寄り、その前に積まれた本の山を両手でかき分けた。さっき見たのだ。確か、植物図鑑があったはず。
「隠密くんが言ってた合言葉。避難所に入るための言葉で、何を意味しているのかはロズウィミア嬢が教えてくれたわ」
私たちが避暑地の街を歩いていて、暴漢に襲われたあと、隠密くんに連れられて訪れた避難所。エウゼスさんが経営する隠れ家カフェを装った、王家のための施設である。
そこに入るときに隠密くんとエウゼスさんが確認しあった合言葉。
――イーデルシーアの花の蜜、エルベドロイカの巣の欠片。花と蜂の名前を使った合図だ。
見覚えのある表紙を見つけると、私は迷わずそれを手に取った。相変わらず文字は読めず、題を読むのもやっとだが、そこに『植物図鑑 平地の草花』と書かれているのを読み取ると、私は拳を握る。
「えーっと、イーデルシーア、イ、イから始まる植物、」
索引を指先で辿りながら、頭痛を堪えて『イ』の形を探す。絵だと思って見ればあまり気持ち悪くならないのだ。
「イーデルシーアは花の名前で、エルベドロイカはその蜜を食べる唯一の蜂なんだよね」
まあ植物図鑑であることからして後者は記載されていないだろうが、花を指し示す名前であることが分かったのは大きい。タドリスの言った『春の毒』がイーデルシーアと同じものだとは絶対に言い切れないけれど、それは図鑑を見てからの話だ。
「毒がある花なのかな」
呟きつつ、索引の中に、『イ』で始まる名前の羅列を見つけて、私は思わず、うっと仰け反った。この中から、『イーデルシーア』という文字列を探せと?
「イザリオス、イズソル、イズラ、うえっ」
三つ読んだ時点でえずく。あまりの頭痛ゆえの吐き気だ。割れそうに痛むというよりは、ぎゅっと締め付けられるような感覚。
おバカ主人公の特性はこんなときまで発動しなくていいのにー!
私は地団駄を踏む。本を読むと具合が悪くなるのは確かにバカの代名詞的な特徴でド定番だが、こういう非常事態にはさらーっと忘れ去られるのがセオリーであるはずだ。間違っても、こんな、こんな……!
緊急時にも適応されなくたっていいじゃない!
「読めなーい!」
苛立ちが抑えがたいほど膨れ上がる。しかし怒ったって本が読めるようになる訳でもないのだ。私は再び図鑑と向き合い、こめかみを押さえた。
「はあ、はあ、……ようやく見つけたわよ、イーデルシーア……」
図鑑の483ページ。何とか探し出した。ちなみにここまでで2回気絶した(すぐ起きた)。どんなヒロイン属性だこんちくしょう。
「み、見つけたけど、読めない……!」
イラスト付きのページだったが、あいにくここも文字でいっぱいである。もう文字を辿る気になれなくて、私はカラーのイラストを眺めた。淡い赤色の花のようで、花びらは全てくっついている。近くには蜂が描かれ、どうやら蜜を吸っているらしい。
その傍らに、危険を示す黄色い印を見つけて、私は動きを止めた。いかにも禍々しいドクロが中に描かれた印である。
「やっぱり、毒……」
少なくとも、これで、タドリスの言っていた『春の毒』がイーデルシーアである可能性が高まった。とすれば探すべきはその解毒剤かその類だ。
「よ、読むの……? 私、これ、読むのかぁ……」
小説や学術書の類に比べれば余程少ないとは言え、決して簡単に読めるとは言えない文量だ。……私にとっては。
『イーデルシーア
ツツジの仲間で、薄赤から赤の花弁を持つ花を咲かせる低木』
そんな書き出しから始まった説明文を、私は必死に読み解いた。既に片手はこめかみに固定で頭痛を堪えるようにきつく握られている。ほとんどが暗闇に落ちた部屋の中、月明かりの射し込む窓際で、床に置いた図鑑の上に身を乗り出して文字を追った。
『花蜜は意識を混濁させ、死に至らしめる毒を持つ。これは、毒に対する抗体を持つ、特定の種以外の蜂に花蜜を奪わせないことに役立っている。毒を持つようになった要因として、イーデルシーアの主な原産地であるパンゲア西部に、盗蜜を行う蜂が多く生息していたことが考えられる』
ここまで読んで、私は意識を手放しかけた。ふらりと上体が傾き、壁に頭をぶつけてはっと我に返る。
『花蜜の毒性は弱く、鳥や大型の虫が摂取したとしてもほとんど害を及ぼすことはないが、人為的な加工により、強い毒性を持つことが知られている』
ずき、と痛んだ頭に顔を顰めつつ、私は大きく目を見開いた。
『一般に「春の毒」と呼ばれるそれは、人間をも殺害する毒性を持つことがある』
「ビンゴぉ!」
私は思わず立ち上がって両手を強く握った。立ちくらみによろめいて、私は窓枠に手をつく。冷たい風が吹き込んでいた。いつの間にか月は高く上がり、空の中央を飾らんとしている。
「さ、さて、解毒方法ね」
気を取り直して、再び図鑑を覗く。読んだところまででちょうどベージが切り替わっていたので、私は勢い込んで紙をめくった。
「べ、別の植物の話をしている、ですって……!?」
今度は黄色い花のイラストが載っているが……これはイーデルシーアじゃない。
「解毒方法くらい載せておきなさいよ!」
既に出版された本に文句を言っても仕方ないが、私は思い切り歯噛みした。
ぐむむと唸って、私は自分の持っている情報を反芻する。
「イーデルシーアの花の蜜を利用出来る唯一の蜂がエルベドロイカって言ってたわ。抗体を持ってる蜂だって」
ぽん、と手を打って、私は人差し指を立てる。
「蜂を食べさせればいいのね! ……出来るわけないけど」
ため息をついて肩を落とす。ここはパンゲアでも東の方だし、エルベドロイカが生息してるのはイーデルシーアと同じ、西部だろう。だいいちこの辺に生息してたとしたって、どうすればいいのか。素手で掴む? そもそも蜂は食べ物じゃないか……。
「蜂の子とかないかなぁ」
まさかちょうどよくそんなものが用意されているとは思わないが、ずっと窓際にいた体が冷えきっているのもあり、場所を移すことにした。
理想はエルベドロイカの蜂の子だが、恐らくないだろう。
それでも何か手がかりになるものがあるかもしれない、と私はほとんどやけっぱちで部屋を出た。食べ物がありそうなところを探す。私も空腹が本当に限界なのだ。まさかタドリスが城の全ての食料に毒を仕込んでいるとも思えないし、もし古そうな缶詰でもあったら遠慮なく拝借する所存だ。
暗いと思っていた廊下は、大きな窓が断続的に光を落とすため、予想よりは暗くない。しかし、人の気配のしない城内は、それだけで私の気持ちを暗くするのに十分だった。
ずきずきと頭が痛んだ。月が私の背を追う。私の足から生えた射影が大理石の床に映えた。
「気持ち悪い……」
口を押さえて、私はその場に膝をついた。……あれ以上本を読んでいたら、本当に死んでしまったんじゃないかと思うくらいの激痛が襲う。
床に額をつけ、私は荒い息を整えようと固く目を瞑った。よそよそしい床の冷たさが浸透し、僅かに息が楽になる。
「助けて、」
私は呟いた。けれど誰に助けを求めたらいいか分からない。私一人で皇帝なんか救えない。なんで私にそんなの押し付けるの。結局あなたが殺すのが怖いだけなんじゃないの。もし皇帝が死んだら私のせいだって少しは言えるでしょ。
ずっとこうしている訳にもいくまい、と床に手をついて身を起こすと、私は顔を上げて空を仰ぐ。その瞬間、息が止まった。
浮かぶ。月が。
空を、切り取って。
大きく見開いた目に、満月が映った。
真円が網膜に突き刺さる。
深淵が咽頭からせり上がる。
踏ん張る間もなく思考は反転した。
「――わたし、こんなところで、なにを……?」
ここはどこだろう。見たことのない場所だけれど、まるでどこかのお城みたい。
「窓の形がちがうわ」
いつもは上の方が丸く作られた窓が多いけれど、このお城はちがうのね。真四角の窓。わたしは両手を合わせて顔をかがやかせた。
「本で読んだわ、確かパンゲアって国では、こんな風に窓を作るんですって」
初めて見たけれど、いつもの窓とはあまり変わらないみたい。形だけなのね。
立ち上がってわたしは外を見る。見たことのない景色がそこにはあった。
「どこだろう、ここ……。夢の中かしら」
山の色が赤い。何が染めているのか分からないけれど、不思議な光景だった。地面は草が覆っているし、少し遠くを見れば、大きな木がいくつも立ち並んでいる。あんな大きな木、見たことない。わたしは息を呑んだ。
「『森のおひめさま』みたい……」
むかし絵本で読んだ。森の中にあるお城で、動物さんたちと一緒に暮らすおひめさまのおはなし。同じおひめさまでも、わたしとはうんと違うの。わたしのあこがれのおひめさま。
いっつもお母さまが読んでくれたの。
お父さまがわたしをおひざに乗せて、
ページをめくるのはいつもわたし。
文字を読むのもとっても上手になったのよ、
むずかしい言葉だって読めるわ。
そう言ったらお母さまはわたしを褒めてくれて、
決まって、頭を撫でて囁いてくれた。
『いい子、可愛い子。そろそろおやすみの時間よ』
――――なのに、お母さま、どうして。
「ぶはーっ! やっばい、気絶してた!」
跳ね起きて私は血相を変えた。何だか知らんがいつの間にか窓際まで近付いてるし、明らかに意識は途切れてた。これ、めちゃくちゃ爆睡してたやつじゃないよね……!?
「やばいやばい」
私はわたわたとその場で少しの間狼狽え、飛び上がる。
「皇帝を助けなきゃ!」
駆け出しそうになるが、どこに向かえば良いか分からず、立ち竦んだ。
……食べ物がありそうなところを探していたのだ。厨房や食料庫の類は使用人の領域だから、あまり高層にはあるまい。
幸いにもこの城は単純な仕組みのようで、四角形のそれぞれの辺にひとつの棟が割り当てられているような形である。だから真ん中に大きめの中庭がある。角に塔が建てられているようだ。
廊下は真っ直ぐだし、自分の居場所は月に対する窓の向きで察すれば良い。
気持ちが妙に高ぶっていた。何故だかは分からないが、今の私にはそれが必要だった。
「よーし、何とかするわよ! 大丈夫、いざとなれば主人公補正が働くから!」
ぐっと拳を握って宣言すると、私は階段に向かって走り出した。
***
「食料庫……」
私は廊下の半ばで立ち止まり、扉につけられた標識を見た。確かこれで食料庫と読んだはずだ。
絵として認識している、線と線との絡まりあいを眺めて、私はその扉に手をかけた。
埃臭さが鼻についた。ここ最近誰かが入った形跡はなく、恐らくタドリスの手も加えられていないであろうことは容易に想像がつく。
暗く細長い部屋で、背の高い木の棚が両脇の壁に沿って続いていた。しかし、ずっと使われていないであろう城の食料庫、その棚もほとんど空である。
保存食らしきものを見つけたが、それはあとにしておく。今はとにかく、何か手がかりになるものがないか探すのだ。
「イーデルシーアの花の蜜、」
呟きながら私は棚を見て回る。
「エルベドロイカの、巣の欠片……」
はたと立ち止まり、私はかつて隠密くんが言っていた合言葉を反芻した。何の意味もない言葉である可能性も高かったが、わざわざ関係のある二種を並べて合言葉にしているのなら、
「巣の欠片……?」
――その部分にも、何か意味はあるまいか。
前半は、低木を意味するイーデルシーアだけでなく、『花の蜜』と付け加えることで、的確に毒を表している。それなら、エルベドロイカの『巣の欠片』も何かを表していると考えるのが妥当かもしれなかった。咄嗟に解毒剤という言葉が浮かんだが一応その考えは否定しておく。
「もしかして二種類の毒を合言葉にしてたかもしれないし」
眉を顰めて呟く。あのとき隠密くんは何と言っていただろう。幸いにも、勉学は頭に入らないし自分の言ったこともよく忘れるが、人から言われたこと(特にフォレンタによる悪口と皇帝の失礼な発言)は結構覚えている質である。大体はいつかの復讐用だ。
「隠密くんが、『ここでは何を食べられる?』って訊いて、エウゼスさんが『イーデルシーアの花の蜜が』って答えたのよ」
うーん、何かあの前後の記憶だけ妙にぼんやりしてるのよねぇ……。心ここに在らずみたいな感じで。
「で、隠密くんがそれに対して、『エルベドロイカの巣の欠片も一緒じゃないと』って」
確かそんなようなことを言っていた気がする。私は腕を組んでうんうんと頷いた。
「じゃあエルベドロイカの巣の欠片は、イーデルシーアと一緒に摂取するのが適切ってことでいいのかしら。後者が毒であることを考えると、やっぱり、毒を打ち消すのに効くのかも」
私は食料庫を見回す。……巣の欠片って、食べ物じゃなくない? 探すところを間違ったかもしれない、と青ざめて踵を返そうとした間際、私の足が何かに引っかかった。
「うわっ!」
どうやら何かの樽に蹴躓いただけのようで、棚に肩をぶつけるだけで済んだ。いやー良かった良かった、これが死体とかだったら絶叫ものだったね。
棚に掴まりながら姿勢を立て直す。ちょうどそのとき、複数の瓶が目に入った。
「蜂蜜……」
私は呆然と呟いた。何故今まで気付かなかったのか不思議な程だった。
「皇帝に蜂蜜食べさせればいいんじゃない!?」
蜂は捕まえられないし蜂の子はないだろうし巣なんて食べ物ですらない。いや、蜂蜜が有効であるという証拠は一切ないのだが、エルベドロイカに関わる何かを摂取させるとすれば、蜂蜜が最も現実的な方法に思えた。
「蜂の巣って蜂蜜まみれよね、なら同じことかも」
半ば強引に結論づけ、私は棚に向き直る。ただの蜂蜜じゃ駄目だ、エルベドロイカという種の蜂が作った蜂蜜……分からん!
「花の品種じゃなくて蜂の種類を書きなさいよー!」
私は地団駄を踏んで棚を殴った。しかし、まあ、蜂の種類が書いてある蜂蜜なんてないだろう。というより、そもそも人間が蜂蜜を利用するのなんてミツバチくらいしかいないか……。
「イーデルシーアを利用するのはエルベドロイカだけだけど、その蜂が別の花からも蜜を吸わないとは限らないのよねぇ」
がちゃがちゃと瓶を取っかえ引っ変えしながら棚を探る。頭痛をおして文字を読むが、『アカシア』と書いてあるのを見つけて、ため息をつく。それと同じ文字列が並んでいる瓶はいくつかあるけど、それ以外はほとんどなさそうだ。
丈夫そうな木箱に乗って、上の棚まで捜索の手を伸ばす。この辺りは甘いもので固めているらしく、砂糖らしき粉やガチガチに固まったシロップが散見された。蜂蜜があるならきっとこの辺だろう。
そもそも明かりは窓から射し込む月明かりのみで、それも足元に投げかけられているので、天井近くの棚なんてちっとも照らされちゃいない。私は歯噛みしつつ、奥の方へ手を伸ばす。
指先に触れた何かが軽い音を立てて倒れた。明らかに、小さな、ガラスの瓶があった。
大きな城の食料庫とだけあって、全てのものがやたら大容量なのに対して、一つだけ、小さな。
もはや野生の勘だった。その瓶を鷲掴み、私は木箱を飛び降りると、窓に駆け寄って光の下に晒す。
「――イーデル、シーア……」
ラベルに印字されていたのは、見覚えのある文字列だった。目を擦り、もう一度形をなぞるが、この線の絡み方は、『イーデルシーア』を意味する文字と同じものである。
「私は神か!」
思わず自分を讃え、拳を握った私は食料庫を飛び出した。
イーデルシーアの蜂蜜ということは、これを精製したのはエルベドロイカの他にあるまい。春の毒に対する抗体を持つ唯一の蜂の唾液入りである。……うーん、本当にこれでいいんだろうか。
道に迷いそうになりつつ、何とか元の廊下まで戻る。窓からの月の角度は同じだが、その位置は部屋を出たときに比べてずっと高くなっている。
「……急がなきゃ」
そう呟いて、緩めていた足取りを再び早めようとした瞬間、これまで感じなかった人の気配に、私ははっと身を低くした。
軽い足音、どこから聞こえるものか、とたた、と素早く移動する気配を感じる。しかし私の立っているこの平面上ではない。上階や階下からはこんなに鮮明には聞こえまい。
……天井裏、とか。
そっと上を見上げた、その矢先、突如として声がした。
「あーっ! クィリアルテ様!」
「ぎゃああああっ! わ、とと、」
背後から投げつけられた声に絶叫し、その弾みで手から瓶が滑り落ちかけた。何とか堪えたが、だいぶ危なかった。
「お、隠密くん……!」
私は唖然として呟く。驚きすぎて喜びが咄嗟に出てこなかった。
私が通ってきた廊下の窓枠に片足をかけ、ちょうど侵入しようとしてきた様子がありありと見える格好で、隠密くんが顔を輝かせる。
とん、と膝を曲げて床に着地すると、隠密くんが窓の外に身を乗り出して何事か言う。それから数秒して、細く開けられていた窓が雑に破られて、大柄な人影が転がり込んできた。
ガラスの破片を払いながらレゾウィルがこちらを見やる。
「――皇帝陛下は?」
いつもとは打って変わった鋭い視線に、私は怯みかけた。奥歯を噛み締めて堪え、私は慎重に告げる。
「春の毒を飲まされて意識を失ってるわ」
どんな経路を使ったものやら、窓から城に侵入してきたレゾウィルと隠密くんは、ゆっくりと目を見開いた。
***
「メフェルスは?」
「あれは肉体労働用ではありませんでな」
急ぎ足で皇帝の寝ている部屋を目指しつつ、声を低くして私たちは状況の把握を進めようとする。
「よくここが分かったわね」
「この森に入ったからにはこの城にいるだろうは容易に想像がつきましたゆえ」
私は唾を飲み込んで口を開いた。
「……言わなくても分かってるとは思うけど、全部」
「タドリスの仕業でしょう」
打てば響くとはこのことだ。私は頷き、見えてきた扉を指さした。あそこが皇帝のいる部屋である。……レゾウィルは、目に見えて暗い顔をした。
「どうしたの?」
「……いえ、」
口ごもったレゾウィルは、それ以上何も言わなかった。
「それにしてもクィリアルテ様、本当にご明察ですよ」
私から受け取った蜂蜜の瓶を大事に抱えながら、隠密くんが力強く言った。
「よく知ってましたね、春の毒の解毒剤なんて」
「ううん、ほとんど勘だわ」
低い声で会話を交わしながらたどり着いた扉を、レゾウィルが一気に押し開いた。私が散らかした本棚と、置きっぱなしのお菓子の皿。床にはティーカップが転がったままだし、窓も開け放ったまま。
「こっちよ」
私は先導して、中から繋がっている小さめの寝室へと二人を案内した。傍から見るとちょっと分かりづらい入口をしているからね。
「クィリアルテ様、これ、隠し扉……」
「えっ? 何か言った?」
「……いいえ、何でも」
隠密くんが何やら言っていたが、とりあえず聞かなかったことにする。ベッドに横たえたときと寸分違わず同じ姿勢をしている皇帝に、唇を噛んだ。
「皇帝陛下、」とレゾウィルが駆け寄ってその顔を覗き込む。瞼は閉ざされたままだ。
隠密くんは手袋を外して脇に挟むと、ベッドの脇に膝をついて皇帝の手を取った。手首を表にして、脈を測るように指先を押し当てる。
「脈拍はあまり強いとは言えません」
険しい表情で隠密くんが告げた。少し考える。
「日付が変わる頃までに措置が出来るかが死線かと」
「タドリスもそう言ってたわ」
私は頷き、眉を寄せた。隠密くんは私が渡した瓶を目の高さに掲げて唇を引き結ぶ。
「医師を連れてくる時間はありません。ここで解毒薬を作りましょう。幸いにも主な材料はクィリアルテ様が入手して下さいましたし、ぼくも作り方は学んであります」
レゾウィルは皇帝の顔から目を外し、頷いた。
「皇帝陛下が服したのが本当に『春の毒』であるとは断言出来ないが……。他に打つ手はなかろう」
「材料が揃っていませんし、探している暇もありませんので、応急処置的な薬しか作れないでしょう。外の庭にユッコルの葉がありました。副作用はありますが、今はオーゼルの代わりになります」
「俺が行こう」
レゾウィルと隠密くんは早足で部屋を出ていく。私は慌てて追いすがった。
「私は、何をしていれば、」
少し迷ったように二人は顔を見合わせた。レゾウィルがようやく僅かに頬を緩め、背を丸めて私と目線を合わせる。
「皇帝陛下のお側にいて下さい」
「それだけ……?」
「見守るという重要な役割です。……出来ますな」
一瞬躊躇って、私は大きく頷いた。レゾウィルは応じるように首を上下させると、隠密くんを連れてそのまま部屋を出ていった。
***
小部屋に取り残されたのは、私と、意識を失った皇帝のみ。まだ何か空気に混ざってるんじゃないかと怖くて、寒いのに窓が閉められない。
自分の体を抱き締め、皇帝の枕元の床に屈み込む。顔の高さが皇帝と同じになり、半開きの口から浅い呼吸をする顔がこちらを向いていた。
「……私、何て呼んだらいいんだろう」
皇帝であるという自認がないこの人を呼ぶ方法を、私は知らない。
――否、私はひとつの名前を持っている。かつて呼ぶなと言われ、あるときは呼んでと乞われた名だ。
ふたつの人の気配は遠ざかり、聞こえるのは森がさざめく音ばかり。時折どこか彼方から聞こえる甲高い鳥の声と、常に低く音の底にあるようなフクロウの声と。獣はいるのだろうか。狼程度ならいるかもしれないけれど、私にその気配は感じられない。
今や満月は天球の中央を張り、開け放たれた窓からはあまりにも鮮明にその輪郭が見え、私は喉が締め付けられるような錯覚に襲われた。
多分、それは、ほんの出来心だった。魔が差したとも言った。酷く迷ったが、言葉は止める間もなく滑り落ちた。
「――アラル、」
わたしの口から、いとも容易くその三文字は零れ出た。私はすぐに口を噤んだ。今、口にすべき名前ではないと思ったからだ。私が呼んでいい名前とは思えなかった。
だから、その瞼が、ゆっくりと持ち上がり、覆われていた鮮やかな血の色が、私を見据えたとき、
「――僕は思い出さなきゃいけないんだ、」
そのあまりの暗さに、私は戦慄したのだ。
(長らくお付き合い頂いてありがとうございます。次回で一旦ひと段落します)
(イーデルシーアに関しての記述は2章4話の後半にあります)