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転生王女にド定番ロマンスは難しい  作者: 冬至 春化
3 愛されたこども
20/38

8 贖えない罪だった



 思えば昼食も食べていなかった。腹がきゅうと鳴り、私は思わず唇を噛んだ。皇帝も何か食べたそうにしている。

「おや、どうやらお腹が空いているようですね」

 城に入り、廊下を歩きざま、タドリスが笑みを含みながら言った。私は「いえ」と強く首を横に振る。

 無理やり引っ立てられることも考えていたので、自分の足で歩けることに少なからず驚いた。言わずもがな、周囲はタドリスの私兵らしき人間に囲まれているが、しかし、あまり多い人数ではない。

 それはもちろん、私たちが――皇帝が、逃げないであろうという自負に基づいているのだろう。そのことに気が付いたとき、私は憚りもせずに小さく舌打ちした程だった。

 ここまで来て、私は不快感を隠す気は一切なかった。舐められたら終わりだという意識もある。


「何か振る舞いましょう」

「結構です」

 私が即答すると、タドリスは呆れたように肩を竦めた。

「どうして? せっかくだからご馳走になろうよ」

 皇帝は不思議そうに私の手を取り、軽く引く。私は「駄目です」と怖い顔をした。

「メフェルスが、勝手に何か食べちゃ駄目って言っていたでしょう」

「そんなの関係ないよ」

「破ったら絶交ですって」

「言ってたの?」

「ええ」

 そっか、と皇帝は残念そうに眦を下げた。私はもっともらしく頷く。タドリスは何も言わなかったが、嘲笑するように僅かに頬を上げていた。



「……ここは何の建物なんですか? タドリス様の私物とは思えない大きさですが」

 あまり生活感のない城の中を歩きながら、私は先を行く背中に問いかけた。振り返らずにタドリスは応じる。

「王家の為の別荘です」

「お言葉ですが、それは皇帝陛下に無断で使用して良いものなのでしょうか」

「問題ないでしょう。私とて王族ですから」

 廊下の突き当たり、木の扉をタドリスは押し開けた。いかにもというような重々しい音と共に、両開きの扉の片側がその内を晒す。タドリスは道を譲るように身を避けた。


 居間、あるいは談話室のような部屋だった。正面の大きな窓。壁に備え付けられた暖炉。その向かいの壁の大きな本棚。木の床の上に敷かれた織物の絨毯。

 中央を陣取るテーブル、その周りに置かれた7つの椅子。

 ひとつの家族が存在していた痕跡の幻覚を見るような心地がした。

 掃除はされているのだろうが、この部屋は恐らく、もはや使われることのなくなった部屋だ。だからどうしても埃を被ってしまう。

 けれどそこには、鮮やかと言っても良いほどに、濃密な気配が残っていた。強く繋がりあった7人の家族が、ほんの一息ほどの時を隔てて、ここに存在していたかのような。


 私の手を握ったままだった皇帝が、ふと足を止めた。腕が突っ張り、私も否応なしに部屋の入口に立ち止まった。

「ここ、」

 彼は困惑したように部屋を見回す。暖炉に目を留め、その上に置かれた陶器の天使を見つめ、それから顔を動かして窓に視線を移して。

「来たことがある」

 彼は複雑な紋様を描く絨毯を見下ろした。いくつもの線が絡まりあい、解け、弧を描いて舞うように跳ね上がって、……。まるで、前にも同じように目で辿ったことがあるかのような、慣れた様子で。

「……何度も、みんなで、来た」

 目を見開いたまま、強く手を握る。私は痛みに声を上げかけ、喉の奥で押し殺した。


「どうして来なくなったんだろう」

 どこか虚ろな様子で皇帝が呟く。

「毎年、家族で来て、……つっ!」

 不意に皇帝が額を押さえて体を折った。苦悶の表情を浮かべ、息が荒くなる。

 皇帝が壊れる。何故かその一言が思い浮かんだ。


 身の内からこの人を食い荒らし、いつかその皮を噛みちぎり荒々しく食い破ってでも姿を現そうとする何かが、そこに、巣食っているのだ。


「思い出せ、」

 皇帝が唸る。手を繋がれたままでは距離を取ることも出来ないが、私は無性に皇帝から離れたかった。それは恐怖に最も似ていた。

 張り詰める。触れただけで弾けそうな気配さえ漂わせ、皇帝は固く目を瞑った。



「さあ、そんなところで立ち止まっていないで、座ろうじゃないか」

 手を叩き、明るい声でタドリスが告げる。声は森閑としていた部屋を一気に満たし、皇帝は我に返ったように顔を上げた。

 部屋に足を踏み入れた皇帝は、迷うことなく、端の椅子に腰掛ける。それに対しタドリスは「真ん中に座ってもいいんだよ」と声をかけた。

「でも、叔父さん。僕の席はここです」

 皇帝は至極当然のことのように答える。タドリスは珍しく気圧されたように黙った。


 ここに私たちの居場所はないのだ。私とタドリスの介入する隙はないのだ。

 私も皇帝の家族構成は把握していた。お父さんとお母さんと、お兄さんが3人、お姉さんが1人。それと皇帝となったディアラルト少年の7人の家族。


 私はテーブルを前に立ち尽くした。どの椅子に座ることも許されない気がした。私が潰そうとしているのは、誰かの痕跡だ。


 同じことをタドリスも思ったらしい。テーブルのへりに寄りかかるようにして、私を見た。

「ここはね、前皇帝家族が亡くなったとき、ディアラルトがいた場所なんですよ」

 皇帝は部屋の中を見回すのに夢中でタドリスの話を聞いておらず、このときばかりは皇帝の退行に感謝した。

 耳の奥で血が沸騰するような音がした。信じられない、と声が勝手に口をついた。


「……わ、ざわざ、辛い記憶を、思い出させるような、」

 言葉も出なかった。一体何を考えているのか。どれだけ無神経ならそんなことが出来る。

「どうせディアラルトは思い出しませんよ」とタドリスは妙に確信に満ちた表情で答える。

 数歩、大きく進んだ。絨毯を踏みしめ、腕を伸ばす。

「ふざけないでよ」

 低く唸り、私はタドリスの胸ぐらを掴んだ。テーブルに寄りかかっていたその体を引き寄せ、鋭く睥睨する。

「何であなたがそんなことを判断するの? だいいち、思い出さない原因は、あなたにあるんじゃないのかしら」

「放しなさい、」

「嫌よ。だって私あなたが嫌いなの」

 言いつつ、私はタドリスの肩を押した。テーブルが大きく揺れる。

「あなたには関係がないでしょう」

「あるわ。だって私の唯一のおともだちが苦しんでるのよ」

 そこまで言ったところで、私は無理やり腕を掴まれてタドリスから引き剥がされた。床に取り押さえられ、鼻を鳴らす。

 背後にいたのは、ほの暗い目をした女性だった。絨毯の毛が顔に当たり、私は僅かに身動ぎをした。

「クィリアルテさん、あなたがあまりにも抵抗するのなら、私としてもあなたを拘束せざるを得なくなる。こちらとしてもあなたに危害を加えるのは望ましくないのでね、どうか暴れないで欲しいのですが」

「……分かりました」

 憮然として答えると、タドリスは満足げに頷き、手で合図した。

「ラナ、放しても良いよ」

 彼女は無言で離れ、姿を消す。いわゆる妙齢という年頃で、皇帝と同じくらいか少し年上くらいだろう。隠密くんを彷彿とさせるが、彼のような明るさはどこにもなかった。何か、百戦錬磨の手練感ある。こえー。



「さて、落ち着いたところで話をしようか。その為に来てもらったのだから」

 別の部屋から持ってきた椅子に腰掛け、私たちはひとつのテーブルに会した。皇帝は退行したままながら平静を取り戻したように、大人しく座っている。


「その前に、ひとつ訊いても?」

 私は片手を挙げて遮った。鷹揚に頷いたタドリスに、決して穏やかではない目付きを投げ、私は慎重に口を開く。

「昨日の林檎は、あなたが?」

 直接肯定も否定もせず、タドリスは肩を竦めた。

「素敵なイーデルだったでしょう」

「イーデル?」

「毒の意です」

 要するに、これは肯定だった。別に私は毒林檎なんて言ってないのに、向こうから毒について言及してきたのだから。

「最っ低」

 私は吐き捨てる。自分でも子供みたいな罵倒だ

とは思ったが、咄嗟に出た言葉がそれだったのだ。致死性の毒であったかはメフェルスに聞き損ねたが、この男の目的が皇帝の身体にまで及んでいることは知れた。

 タドリスは私に答えずに、皇帝に向き直った。


「ディアラルト」

「はい、叔父さん」

 皇帝は、今しがたの殺伐とした会話がなかったかのように微笑んで応じる。

「君がもし皇帝になれるとしたら、どうする?」

 目を瞬いた。皇帝は理解が出来ないと言うように言葉に詰まった。

「でも、次の皇帝は、別の人が」

 兄という存在が、いとも容易く『別の人』という、名前も知らない人間に置き換えられたことに、私は密かに戦慄した。エイリーンという皇太子は、今ここにいる少年の中には存在していないようだった。

「その人がいなくなってしまったんだ」

「それは、大変ですね」


 私は横目で壁にかけられた時計を見た。秋も深まり夜長が顕著になり始めたこの頃では、あと一、二時間程度で空が赤らみ始めるだろう。

 その茜すら稜線の向こうへ消え失せ、宵が訪れたら、月が出る。


 今度こそ皇帝は耐えられないのではないかと思った。何にどのように何のために耐えているのかは知らないが、ついに壊れてしまうのではないかと予感した。


「僕に皇帝なんて重役は務まりませんよ」

 苦笑するように彼が頬を掻く。現在紛れもなく皇帝という職についている男の言葉である。

「そうだ、もしそうなったら、叔父さんが代わりにやれば良いじゃないですか」

 ぱんと手を合わせて、彼は明るい声を出した。私は思わずまじまじとその顔を見る。強制されている訳でもないのに、こうも、……タドリスに都合の良いことを言うものだろうか。

 タドリスは笑みを深めた。勝ち誇ったような、と表現するのは少し言い過ぎかもしれない。予期していた通りに事が進んだことに満足したような表情だった。

「そう思うかい」

「はい」

 念を押すような質問にも、素直に頷く。あまり飲み込めていない私にも、タドリスの目的は何となく見えてきた。


「今度、みんなで話し合いがあるんだ」

 言われて、彼はきょとんと目を丸くした。私の頭に過ぎるものがあった。それを捕らえる前に、タドリスは続ける。

「そのときに、ディアラルトから言って欲しいと思うのだけれど」

「分かりました! 僕から叔父さんを推薦しますね!」


 ……総会。首筋に冷水を吹きかけられたような心地がした。爪先から脳天まで、ぞわりとした不快な予感が気配が駆け上がる。

「……ディアラルト様」

 皇帝陛下と呼びかけても返事がないことは想像がついた。名前で呼びかけた私を振り返り、彼は首を傾げた。

「どうしたの?」

「なりません」

「……どうして?」

 テーブルに頬杖をつき、彼が唇を尖らせる。少し媚びるような仕草で拗ねてみせる、幼子のみに許された表情のままで。

「だって、」

 そこで私は言葉を切った。切らざるを得なかった。


 私は果たして、この少年に現実を突きつけても良いのだろうか?

 鏡の前に連れていき、自分が子供ではなく既に成人した大人であることを知らしめるのは簡単だった。あなたは既に皇帝となり何年も経っていると伝えるのはもっと簡単だった。タドリスが王位を狙って様々な画策をし、命までも奪わんとしていると告げるのも、また同様に簡単だ。

 あなたには家族がいるのだと。その家族は既に死んだのだと。タドリスに殺されたのだと、そう突きつけて、果たして、この少年は、……



 私が自問自答する横で、タドリスは喉の奥でくつくつと笑った。私は結局、唇を噛んだまま俯く。



 つまるところ私には勇気がないのだ。ディアラルト少年の内を食い荒らす『それ』を、素手で掴んで引きずり出すことが怖かった。『それ』に果たして少年が耐え得るのか、私には判断がつかないからだ。

 彼は怪訝そうな顔をしたまま、私から視線を外してしまった。


「クィリアルテさん」

 タドリスは不意に私に呼びかけた。私は胡乱な目付きで振り返る。

「別に、私はディアラルトが憎いわけではないのですよ」

「……そうですか」

 慎重に言葉を選んだ。馬鹿な私には本当に目的が読めないのだ。タドリスが皇帝になりたくて色々な行動を起こしているのは分かるが、それで何がしたいのだろう。

「ただ、一度で良いので、国を司る立場というものになってみたくて」

 どこか諦観したように呟く。自嘲に似た響きだった。私にはその言葉の真偽を断定するだけの情報がない。

「……それだけの理由で?」

 自然と唇が震えた。まるでただの好奇心ゆえの行動かのように語った、その果てに人が殺されたのか。

「いいえ。様々な思いが入り交じっているのです。あなたには分からないでしょう」

「ええ、分からないでしょうね」

 分かりたくもない。

 私は眉を顰めたまま呟く。タドリスはふっと声もなく笑ったようだった。


「たとえ彼をかどわかしたとしても、私が全て聞いているのは、一体どうするおつもりで? ……私は、殺されますか」

 するとタドリスは、「それは出来ません」と答えた。『しない』ではなく、『出来ない』と。

「あなたの生殺与奪を握る気にもなりませんでしたからね」

 妙な言い回しで躱したタドリスが、椅子に座ったまま、変な姿勢で固まっているその人を見やる。


「そもそも、クィリアルテさん、あなたに権限はないのですよ」

「はい?」

「少し裏から調べればすぐに分かることでした。あなたは確かにディアラルトと婚姻を結んだが、皇帝の伴侶としての権限は移されていない。現にあなたは皇妃の仕事は一切行っていないでしょう」

 虚をつかれて私は言葉を失った。図星だったからというのが主な理由だ。

「どうやらそのようですね」

 タドリスは頷いて、腕を組む。私は必死に考えを巡らせ、記憶を掘り返した。

 いや、……私が王女だってバレると駄目だから、表立っては行動しないだけで。……でも違う、別に外に出なくたって出来ることはあるはずだし。そういえば、春にも。

 私が『何をしていればいいですか』と訊いたとき、皇帝は言い淀んだのだ。そして答えは『遊んでいていい』だった。


「本当に……?」

「ええ」とタドリスは首肯して、肩を竦めた。

「ですからあなたは総会の場に出席出来ませんし、手続きを踏んで召喚でもされない限り発言も出来ません」

「で、でも、メフェルスやレゾウィルに伝えることは出来ます。モルテ公爵にだって」

 タドリスは小さく眉を上げた。少し思案するように顎に手を当てる。

「まあ、……問題ないでしょう」


 その根拠がどこから出るのか分からないが、タドリスはそう言って立ち上がった。

「私は紅茶でも飲もうかと思いますが、ご一緒にどうでしょう」

「結構です」

 私はやや大きな声で答える。それに反応したのは、ずっと固まっていた、皇帝もといディアラルト少年の方だった。ぴくりと一瞬動いてから、「飲みます」と言葉を発する。

「いりません」

 私はそれを遮って首を横に振った。ディアラルトは不満げに「ええー」と声を漏らした。

「……一応、人数分用意させましょう」

 僅かに苦笑しながらタドリスが応える。いらない、用意しなくていいと言い切っても良かったが、それより早くタドリスは出ていってしまった。


「こうしちゃいられないわ」

 私は呟き、立ち上がる。落ち着きなくそこらを歩き回り、窓の外を覗いた。

 手入れされていない庭が眼下に広がり、それを取り囲むように鬱蒼とした森が続いている。……大声を出しても特に状態は変わらなそうだ。

「お腹空いたぁ」と皇帝は切なそうだし、その言葉に私も空腹を思い出して辛くなった。昼食を抜いてもうすぐ夕方である。一旦通り過ぎたと思っていた空腹の波が、勢いを増して押し寄せてきた。



「軽食も用意させて貰ったよ」

「ぐっ……」

 香ばしい匂いを漂わせながら、種々の焼き菓子の乗った皿を目の前に置かれる。クッキーのようなさっくりしたものから、ケーキに似た大きめのものまで。あれなんか砂糖でコーティングされてるから、歯を立てたら軽い音を立てて割れるんだろうなぁ……ハッ!

「だ、駄目です食べませんからね」

 手で目を覆いながら、私は断固として言い張った。見ると手が伸びそうなので見ない。ほんとまじで見たらそのまま流れるように口に突っ込みそうである。自分の忍耐力の無さに泣きたくなった。

 しかしそれでも、甘いお菓子の有様は鮮明に瞼の裏に蘇る。もはや口の中は唾液でびちゃびちゃである。ごくりと喉を鳴らした。

 い、いや、冷静に考えろクィリアルテ。人間は三日間くらい何も食べなくたって死にゃしないはず。それに引き換え私はどうだ、今日の朝食から何も食べずにいるだけじゃないか。うんうん、別にまだ体はそこまで危機に瀕してない! 大丈夫大丈夫、耐えられるわ、頑張れ私!

 ばっと手を外した瞬間、眼前に広がる食べ物の数々。バターの香りが鼻腔をくすぐる。

「だ、駄目だー!」

 思わず自分で自分の頬を叩きながら、私はテーブルに突っ伏した。えーん、お腹空いたよー! 目の前に食べ物があるのに食べれないなんて……!


「別にこのお菓子に毒なんて入れていませんよ」

 テーブルに額を打ちつけ、泣きギレが混じり始めた私に苦笑しながら、タドリスが告げる。信じちゃ駄目だと思いながらも、頭が自然と上がってしまった。

「ほ、本当ですか」

「ええ、本当ですとも」

 心が揺らいだ。慌てて打ち消す。この馬鹿、こんな危険な場所にいて、お菓子ごときに心を揺らすなんて、弛んでるわ!



「まあ、しかし――」


 視界の隅で、何か大きなものが動いた。白い陶器のカップが絨毯に転がった。それから一拍置いて、更に重いものが、床を揺らす。


「……紅茶に何も入れていないとは限りませんが」


 足元に倒れ伏した皇帝を前に、私は思わず全力で叫びたくなった。

「こ、この阿呆ーーーー!」

 固く目を閉ざした皇帝を見下ろし、私は唖然として絶句する。……これは私の過失だ。この人から目を離した私が悪い、いやんな訳あるか!

「なんてことしてくれんのよ!」

 私はタドリスの胸倉を掴み、力いっぱい怒鳴りつけた。笑顔を崩さないまま、タドリスは前後に揺さぶられる。

「弑逆よ、大犯罪だわ! そんな姑息な手を使って王位を掴み取った皇帝になんて、誰が従うものですか!」

「まあ、落ち着きなさい」

「はあああああー!? 何が『落ち着きなさい』よ、あなたがやったことでしょうが、あ痛ぁ!」

 先ほど私を引っ捕えたのと同じ少女が、私をタドリスから引き剥がして床に転がした。尻餅をついた私は、鼻息荒くタドリスを睨みつける。


「必ず死ぬような毒は入れていませんよ」

「でも死ぬ可能性はあるのね」

「ええ、まあ……。半々といったところでしょうか」

 床に尻を付けたまま、私は肩を怒らせた。何か叫ぼうとしたが、声も出なかった。

「まあ、どちらにせよ、もう公人として生きることは出来ないでしょう」

「信じらんない……」

 床を膝で歩いて、私は皇帝の頬を叩く。吐血した形跡はない。私のイメージでは毒飲んだら即吐血して死ぬんだけどな……。


「私はこれで立ち去ります。兵が見つけるのは、冷たくなったディアラルトと、あなたのみ」

「どういうこと」

 タドリスは笑みを深めた。私は眉を釣り上げる。

「私に罪を着せようったって上手くはいかないわよ、皇帝陛下と私を連れていくあなたを大勢が見てるんだから」

「ええ、私とて全て上手くいくとは思ってません。ただ、ディアラルトを排し、あなたも引きずり下ろす、その程度なら出来るかと」


 こんな奴と会話をしている時間ももったいない。ぴくりともしない皇帝を見下ろし、私は唇を引き結んだ。毒飲んだ人ってどうすればいいんだろう。蜂に刺されたら毒を吸い出せば良いらしいけど、飲んじゃった毒は、ねぇ……。喉の奥に指突っ込んで吐かせればいいんだろうか?


 身支度を整えながら、タドリスは床に座り込んだままの私を見下ろした。僅かに躊躇ったように顎に手を当て、口を開く。

「――私は享楽が好きです」

 私は答えずに、タドリスを見上げた。窓の外は嫌味なほど明るい。雲がないと言ったのは嘘ではなかったようだった。

 強い逆光に浮かび上がったタドリスの表情はうかがい知れない。

「いいことを教えましょう、ディアラルトは少なくとも今日が終わるまでは確実に生き続ける」

 歩き出し、扉へ近付く。皇帝を見捨てて自分も一緒に逃げることも出来まい。いや、あるいは罪を着せられる可能性があるなら逃げた方がいい? それこそ犯人のすることだ。

「この部屋の本棚を自由に使って構いませんよ」

 部屋を出る直前、タドリスはこちらを一瞥して言った。


「『春の毒』。そう呼ばれる代物です」



***


 扉が閉じた。……追いかけてもどうしようもない。

 ぼうっとしている間に、だいぶ時間が経ってしまったようだった。時計の針は思いも寄らないところまで進んでしまっていた。

 よろめきながら立ち上がる。空腹だった。けどこの期に及んで何かを食べる気にはなれなかった。

「おーい、皇帝陛下ー……」

 返事がないことに肩を落とし、私は頭を抱えた。


「このまま皇帝が死ぬのを待ってろって言うの……?」

 呟いて、椅子に座る。足元に転がったままの皇帝が気になって、すぐに立ち上がった。


 ともかくずっと床に転がしとく訳にもいかないので、ヒィヒィ言いながら皇帝を背負い、半ば床を引きずって隣の部屋へ移動させる。うろうろしているうちに扉を見つけたのである。中にはベッドがあった。

「よっこらしょーい」

 ベッドの上に上体を何とか乗せて、それから足を一本ずつ上げる。にしても長いわね、5センチくらい削って私の足を伸ばしてもバレないんじゃないかしら……。


 仰向けのまま寝かせていたのを、途中で思い返して横向きにさせる。気管が締まるのを防ぎたい。何か確かそんなような寝方があったと思うんだけど……。

 試行錯誤して、満足のいく寝方をさせると、私は本格的にやることを失い、しばし呆然としてしまった。


 気がついたときには、西陽が足元まで射し込んできていた。空の端が赤らみ、空にぼやけていた稜線はくっきりと浮かび上がる。


「……春の、毒」


 今更になって、タドリスの言葉が浸透してきた。言葉にして呟くと、それに端を発して次々と、言われたことが蘇る。

「本棚、使ってもいいったって……読めないし……」

 ベッドに腰掛けていたのを、シーツに手をついて体を起こす。皇帝は目覚めない。足はなかなか動かなかった。

 思考が徐々に形をとり始めた頃、ようやく心臓が嫌な鼓動を打ち始めた。気持ちが急き、背後から覆いかぶさるような焦燥感に襲われた。


 どうしていきなり、そんな。と、私は唇に手を当てた。

 ……何か、私、変だった?


 まさか何か変なものでも食べさせられていたのだろうか。いやまさか、そんな事実はない。

 何も食べてないし、飲んでもいないのに。そんな、何かを摂取する機会なんて、

 ――気付いた瞬間、私は弾かれたように窓に駆け寄っていた。留め金を乱暴に外し、ガラスが枠から外れそうな勢いで窓を開け放つ。冷たい空気が一気に吹き込んだ。それが妙に新鮮に感じる。それで私は確信に似た予感を得た。

「何か、空気に、混ぜられてた……?」

 肩で息をしながら、私は呆然と呟いた。明らかに思考の輪郭が鮮明になってきた。

 皇帝も様子がおかしかった。ずっとぼうっとしたように動かないで、まるで夢でも見てるみたいに。そして私もそれを疑問に思わないのだ。


 息を止めて、元の部屋へ戻った。内装を見回し、テーブルの上に目を留める。

「これ……」

 明らかに不自然なロウソクを見つけた。さっきまで全然気付かなかったけれど、こんなものが暗くもない部屋に置いてあったのには違和感がある。

 燭台ごとむんずと掴んで、まだくすぶるような煙を放ち続けるロウソクを、窓から力いっぱい放り捨てた。そのまま窓を全開にすると、部屋を横切って扉も開け放つ。風が吹き抜けた。

 空気が透明になったのが分かった。それまで僅かに白んでいたことに気付けなかった。煙が立ち込めていたのだ。



「春の毒、本棚、」

 呟いて、私は本棚の前に立つ。背表紙の文字を辿るだけで目の奥が痛むような心地がした。

「世界の毒図鑑とかあるのかしら」

 眉間を押しながら、私は腰に手を当てる。


 悲嘆にくれるのは皇帝の葬式でも出来る。だから今は落ち込んでいる場合ではない。葬式を開かなくていいように足掻くのが私のやるべきことである。

 恐らく、私には何か手立てが残されている。

 享楽が好きとはそういうことだろう。



***


「なになに、『ステラは足元に落ちている不思議な石を……うぷっ」

 本の適当なページを開き、読みかけて、私はすぐに天を仰いだ。込み上げた吐き気を堪えるように息を止める。

「駄目ね、小説だわ」

 ぽいっと足元に放り、私は次の本へと手を伸ばした。


 小説に有力な手がかりが残されている可能性は考えないでもなかったが、私の貧相な脳みそが長文に耐えなかったのである。取り敢えずまずは毒について書いてありそうなものを探すことにしている。


「『その実は食用で、炒って食べ』おぇえ!」

 とうとう文字を見るだけでえずくレベルまで来てしまった。何とか堪えて、それからも数冊流し読むが、ついに限界が来て本を手放してしまう。


 床に大の字で横になり、私は目の上に手の甲を置いた。胸を上下させて唇を噛み、思考を巡らせる。

「これじゃ駄目だわ、たとえ私が本を読めても見つけられない」

 独りごち、床に手をついて上体を起こした。


 空は全て赤色に染まり、射し込んだ光が床を切り取っている。テーブルの上に置かれたお菓子。床に転がったままのティーカップ。絨毯に染み込んだ紅茶。



「春の毒、……春の、毒。何かの隠語?」

 わざわざ名前を教えて去ったのには何か意味があるように思えた。タドリスのお遊びに付き合うのは癪だが、考えるしかない。私が絶対に辿り着かないようなところに答えを用意していては面白くないだろう。

 立ち上がって、私は部屋をぐるりと一巡りした。肩までの長さの髪が妙に邪魔に感じ、フォレンタが何かいい感じに編み込んでくれていた髪からリボンを抜く。髪を全部ひとまとめにして持ち上げると、苦労しながらリボンで一気に結んだ。素敵な結び方は出来ないので、ぎゅうぎゅうと縛る。


 首の後ろが出たことで、格段にすっきりした。それと同時に寒さが身に染みる。外を見やると、鮮やかな橙を押しやって、闇がその手を伸ばしてきていた。


「毒。……春の、と断定されてるってことは、季節が関係するもので」

 例えば何かの鉱物から作るものだとか、薬物を混ぜて作るんだとしたら、別に春でなくとも良さそうだった。そもそも毒というのはどのようにして手に入れるのだろう。定番はフグ毒とかヘビ毒とか……。これも、別に春でなくても良いわね。

「春の何が大切なの? 気候? それとも生き物とか」


 春の毒。毒、春の。

「そういえば何か変な呼び方してたわよね」

 タドリスの言葉を思い返しながら、私は腕を組んだ。窓枠に寄りかかったまま、視線を鋭くする。


 毒林檎について言及したとき、タドリスは何て言った?

『素敵なイーデルだったでしょう』


 私はそっと瞼をもたげた。あのときは気付かなかったが、私は、その言葉を恐らく、聞いたことがあった。何かの単語の一部として。

「毒がイーデルだとしたら、春は一体なに」

 腰を窓枠から浮かせ、私は薄らと暗くなってきた部屋を見据える。誰もいない部屋。……もうじき夜が来る。


 タドリスが使った、そのイーデルという言葉は、どこの言語によるものか。ローレンシアとパンゲアは互いに共通語と呼ばれる言語を使用しているし、パンゲアは海とローレンシアにしか接していない。

 ローレンシアにも、言語なんて、共通語くらいしか、

「待って、…………古語?」

 古来、パンゲアは存在しなかった。古くからあるローレンシアから、自治領を経て独立した国がパンゲアである。ローレンシア中心部とは異なる文化を持つ地域がひとつの国になったのがパンゲアで、だからローレンシア固有の文化はそこまで色濃くパンゲアには広がっていない。ローレンシアの古語とは、まさに知識人だけが知ってニヤニヤするための代物である。


「ローレンシア古語で、毒が、イーデルだとしたら、」

 春を意味する単語を、恐らく、私は知っている。どこで聞いたのか。しかし、私に古語なんざ教えるのはタドリスくらいしかいない気もした。

「タドリスが言ってた気がするのよねぇ」

 眉間にシワを寄せて、私はぐむむと唸る。


 私の知っている古語といえば、昔々に学んだ詩くらいしかない。

「アラル・スィア、ラ・フェーソナ、リディエ」

 開け放っていた窓の外で、今まさに太陽が沈まんとしていた。太陽が姿を隠したらその代わりに現れるものを私は知っている。今日は満月だ。

 強い風が吹いた。押し付けられるような風が私の項を撫でて去った。


「クィリアルテ・シーア・フアフローティエ、」

 ――春の花揺らす東風。


 私はそっと瞼を上げた。

 これだ、と、確信に似た予感が告げた。

 古語は後置修飾とタドリスが言っていた。私もそれは知っている気がした。遥か昔に学んだことのようだった。否、それは確信だ。私は昔、古語を学んでいたはずなのだから。

 ローレンシアにおいては、古語はもう少し主流の学問だったはず。それなら多分、王女として生活していた頃は、古語を学んでいた可能性は高かった。

「名詞が先に来るの」

 クィリアルテ・

「それから、その名詞の説明」

 シーア・フアフローティエ。

「風・春の・花揺らす」


 だから恐らく、春は、『シーア』。確かめる術はないが、タドリスも確かそう言っていたように思う。


 その法則に則れば、春の毒は、


「――イーデル・シーア」


 ……私は、その言葉を、聞いたことがある。




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