2 なかなか
「いやー、すっかり盲点だったね」
じめじめとした地下牢で胡座をかきながら、私はでかい声で呟いた。どうせ誰もいないし。
「よくよく考えれば定番じゃん、ああいうヒーローって絶対地雷抱えてるって」
ちなみに私の地雷は寝取られものだ。
「よーし、クィリアルテお姉さんとの約束だよ? 不用意なことを口にする前に、よく考えてみようね! 約束だよ、……あ、やなこと思い出した。迎えに来るとか約束しときながらその相手を投獄するどっかの皇帝……」
言いながら落ち込んで床に手をつく。つめたい……。
「そもそも第4皇子が皇帝になっているのが怪しすぎなのよ、重要なポイントは絶対そこよね」
ちょっと前から気になっていた点である。私はそういう疑問点は持ち越さないことに決めた。本来なら起承転結の承か転あたりで発覚することだろうけど。
「あとは赤い目のヒーローは七割方それを気にしてるわね」
これが、髪色ピンク! 水色! 緑! とかっていうファンタジー世界観なら赤目くらいなんてことないんだけど、生憎これは定番西洋系ロマンスっぽい世界観だし、あんまり突飛な色合いは出てこない。
「んー、定番設定思いついちゃった……」
私は腕を組み、天井を振り仰いで唸った。ちょっとクサすぎて口に出すのも躊躇うような設定である。やや中二感ある。
「多分、皇位継承関係の争いで勝利したから皇帝になってるのよね。で、そのとき親とか兄弟を殺したか半殺しにしたか何かしたのよ。その姿を見た国民たちは、新たな皇帝のその目に準えて、畏怖の念を込めてこう呼ぶの、」
もはや二次創作版ディアラルトと呼んでも良さそうな捏造っぷりだが、まあ、どうせ誰も聞いてないし……。落ち着いたら漫画か小説にでもして発売しようかしら。
人差し指を立て、まるで秘め事のように、厳かに囁く。
「そう、――――『赤い目の死神』と」
キメ顔で言ってから、私はゆっくりと顔を上げた。嫌な予感がしたからである。
「どうして、その名を……!」
いつの間にか入口に立っていたメフェルスが、愕然としたように呟いた。驚きたいのはこちらである。
「て、的中、だと……!?」
適当に言っただけなのに、まさかドンピシャだなんて思わないじゃないか!
「やはりあなたは、ローレンシアが送り込んだ密偵ですか」
「みってい……? みっ、み………密偵!?」
悲しげな顔でメフェルスが私を見た。地下牢に行くための階段を降りきったところで、立ち尽くしている。
「違うわ!」
「ではなぜ、禁句となって以来誰も口にしていないその名を?」
「……勘よ」
ああメフェルス、私の前世の性癖(あまり鋭さのない穏やかな男性、かつて可愛い少年時代があったことを窺わせるとなお良し)に突き刺さるメフェルスよ、そんな乾いた目をしないでおくれ。
なんていうか、あれは1ミリたりとも信用していない顔である。
「とにかく、皇帝陛下にご報告させて頂きます」
「いぁ、あの、だ、だったら皇帝陛下に『一度落ち着いてお話がしたい』と伝えて頂戴」
私の牢の前に食事を置くと、そのまま踵を返したメフェルスの背中に、狼狽しつつも呼びかける。彼は一度振り返り、苦笑いを浮かべた。
「伝えてはおきますが、……皇帝陛下が受け入れるとは、とても」
私もそう思う、と心中では全力で頷きながら、私は指を組み合わせる。
「お願い、私、どうしても陛下にお伝えしたいことがあるの」
「そうですか」
メフェルスは眦を下げて微笑んだ。
「……どうかこれ以上、皇帝陛下を傷つけないで頂きたいのです。僕達はただ、あの人に幸せになって頂きたい一心でいるだけですから」
そんな簡単に傷付く人種か、ありゃあ、とぶつくさ文句言うニポーン人を押しとどめて、私は神妙に頷いた。
「分かったわ」
「ご理解頂けたようで何よりです」
いちいち意味深なセリフを吐いて去っていくあたりが、伏線回収に後で困る適当な小説にありがちな特徴である。
***
しかし、食事として与えられたものを食べるってのは案外幸せなものだ。私は床に置いたままの盆を眺めながら、思わずほろりと涙した。
ずっと、どんなに豪華な料理と言えども、一応「残飯」の体を取っていた食べ物ばかり食べていた。誰も「食べていいよ」と言ってくれる人もなく、私のお礼を受け入れてくれる人もなかった。
ここでは労働もなしに食べ物が出る。何ならいっそ一生この地下牢でも、……いやそれは嫌だな。
でも、ここは。ここは、私の場所だ。私のために用意された場所だ。私が食べているのも、私のために用意された食事だ。
私は今、確かにここに存在していた。まるで実在しないかのように扱われ続けた八年間を思う。そうか、私は死んだことになっていたのか。だから誰も私に話しかけなかったのだろう。
……死人に話しかける酔狂などあるまい。
それからひとしきり、背を丸めて泣いた。
「はい、気を取り直してー! 会議をしまーす!」
ばん、と地面を叩き、私は目元を力強く拭って大きな声を出した。他に誰もいない地下牢に、私の馬鹿みたいな言葉が響いた。
「議題は『どうすれば皇帝陛下の気を引けるか』! これは私の進退にも関わる問題だからね、ちゃんと考えなきゃ!」
壁に寄りかかったまま、ぐっと拳を握る。そうだ、私はこんな程度じゃへこたれない。見てろ、どれだけ私が打たれ強いか。
「そうだなー、まずはやっぱり『か弱い乙女作戦』とか」
したり顔で言い、私は目の下に、指を揃えた手を垂直にあてた。完璧である。
唇をやや尖らせ、私は細く息を吸った。
「ふ、ふえぇ……クィリアルテ、寂しくて死んじゃうよぉ……」
体をくねらせて泣き真似をしつつ、これは駄目だな、と首を捻る。そのときふと人の気配を感じ、私は動きを止めた。
折しもちょうど、地下牢の入口に辿り着いたらしい皇帝は、信じ難いものを見るような目で私を見ていた。
黙ったまま、一歩後ろに下がり、荒い木でできた扉を閉め――――
「待って待って待って待って待って待って待って!」
鉄格子がちょっとやばそうな音を立てるほど強くしがみつき、私は、気まずそうな顔をしたまま扉から顔を覗かせた皇帝に向かって手を伸ばした。
「いや、その、悪かった。…………邪魔したな」
「違ーう!」
ぱたん、と、無情にも扉は閉じた。
「何で……何だって私はいつもこうタイミングが悪い、」
半ギレで泣きながら私は床を拳の側面で殴りつけた。もう取り返しがつかない。完全にヤバい奴認定されたことだろう。
「あそこまでの失態は『面白い女だ』で許される範疇じゃないよ……」
もはやギャグレベルのぶりっ子を見られた。しかもそこだけ。これがいわゆる印象操作ってやつか。
あとで食器を回収しに来たのは知らない少年で、せめて少しは印象を良くしようと、私はにっこりと微笑み、お盆を差し出した。
「ごちそうさま。とても美味しかったと料理人に伝えてね」
こんなところまで大変ね、と優しく囁くと、お盆を持ったまま、少年は見る見るうちに頬を赤くした。
「し、失礼します!」
慌てて走り去った後ろ姿を見送り、私は密かにニヤニヤした。
「……ふっ、私ったら罪作りなオンナ」
ちなみにフォレンタあたりに見られたら無言で鼻で笑われそうだ。
***
「俺の二つ名を知っていた? ……どれだ」
執務室に突如押し入ってきたメフェルスの言葉に、ディアラルトは眉を顰めた。しかし、二つ名といっても、失礼なものが沢山付けられているので、一体どれのことだか分からない。最近で一番失礼なのは、影で兵士が言っていた『褐藻類』である。いつも色の暗い服を着ていたかららしい。自国の皇帝をワカメやコンブ呼ばわりするところにキラリと光るセンスを感じたので減俸した。
「ええと、『あ』から始まって『み』で終わる『赤い目の死神』です」
「……何だと」
隠すふりをして隠さないメフェルスの言い草はともかくとして、告げられたその名に、ディアラルトは顔を険しくした。
「出回って三日で禁止したはずだ」
「あれは最速記録でしたね」
だからこそ、それを知っているというのは、どうにも信じ難い。別に特筆すべき失礼あだ名ではないので、それを聞いたからといって何かある訳でもないが、愉快な気持ちにはならなかった。
「あ、そうだ。陛下と話がしたいと言っていましたよ」
「……そうか」
メフェルスが思い出したように人差し指を立てたので、数秒考え込む。昨日の夜に問答無用で投獄した王女を思い出し、――ずっと入れておくわけにもいくまい。
「顔を出すだけ出してみるか」
「本物かどうか怪しいにせよ、一応ローレンシアが王女として送ってきた女性ですからね。あまり粗雑な扱いをしていることがバレれば問題になりますよ」
「それを言うなら死んだはずの王女を送り付けてくる時点でだな」
一様に額を押さえ、二人は嘆息した。避けられない厄介事の気配に、嫌気がさす。
「レゾウィルを明日にでも呼んでおいてくれ。あいつだろう、勝手に話を進めたのは」
「僕もあとで聞いて驚きましたよ。信じられません、いくら宰相と言えども陛下に無断で婚姻の約束を取り付けて来るだなんて!」
「いや、まあ……あいつはそういう奴だからな……」
「流されちゃ駄目ですよ!」
憤慨して拳を握る乳兄弟を「まあまあ」となだめ、ディアラルトは黙ったまま腕を組んだ。
「流されているのではなく、……俺はあいつが無意味なことをするとは思えないだけで」
「陛下は僕よりあの宰相閣下を信頼なさってるんですか」
「お、落ち着けって」
不満げな顔をして、執務机を手のひらで叩き始めたメフェルスを再び落ち着かせ、ディアラルトは瞑目する。
「王女は、ローレンシアの現女王からすると、義理の娘ということになるのか」
「亡くなった前王と、それよりもっと前に亡くなったその前妻の子ということらしいですよ」
「両親は亡くなっている、と」
呟いて、昨日見た王女の顔を思い出す。……クソ、あのニヤついた顔が浮かんで離れん……。
「一旦試すためにも兵を配置して出迎えたが、必要以上に動揺する様子はなかった。随分肝が座っているが、やはり本物か?」
「泣き出しても当然なくらいの威圧でしたよね、抜き身の剣構えて両側に兵士が立ってるって、僕でも怖いですよ」
それに関しては、少し時間が経ってから考えると、やりすぎた気もする。とはいえ、多くの剣の前に立たされても、やや恐れおののきこそすれ、逃げ出したり泣き出したりしない、その態度には感嘆した。いや、それともただ阿呆なだけか……?
「そう言えば陛下、クィリアルテ王女とどこかで会ったことがあるんですか?」
思い出したようにメフェルスが話を振ってきたので、即座に首を横に振る。
「ないな。俺が昔ローレンシアに行ったときは既に死んでいた」
「ことになっていた、というのが適切なようですね」
あそこで見えたのは別の少女だ。決して明るくはない夜更けの植物園で、目を潤ませたまま気弱に微笑んだ彼女の目を思い出す。
その唇が囁いた。
『アラル』
かつての名を、昔の名を、彼女が呼ぶ。耳の奥で反響したように拡散するその声が、今でも染み付いて取れないのだ。
「……リア」
緩く拳を握り締め、そう、そっと囁いた。
なお、その頃地下牢で盛大なくしゃみが鳴り響いたことを知る者は誰もいない。
***
釈放された。
「やったー!」
両腕を挙げ、案内された部屋に駆け込みながら私は叫んだ。朝日が射し込む部屋を一周してから、人の気配に気付く。
「ご機嫌がよろしそうで何よりです、クィリアルテ様」
「ぎゃあ!」
げっそりした顔で迎えたのは、椅子に座ったままのフォレンタだ。恨めしそうな顔で私を振り返った彼女に、思わず私も恐る恐る腕を下げてしまった。
「……一晩快適に過ごされたご様子で」
「ええ、馬臭さがなかったから本当に快適だったのよ」
「そうですか」
何かを察した様子で私を上から下まで眺め、フォレンタは立ち上がった。
「この部屋には浴室がついていますし、着替えなども揃っておりました」
「へえ」
「入りましょう」
「やだ」
「やだじゃありません。猫みたいなことを言わないでください」
「だって面倒くさい……」
ごねる私に、フォレンタは一瞬黙った。言おうか言うまいか逡巡するように視線を逸らし、彼女は口を開く。
「……面倒くさい以前に、クィリアルテ様はカビくさくいらっしゃいます」
「よし、入りましょう」
言うに事欠いて王女にカビくさいとは、なかなか言ってくれるわよね……。
「にしても、牢屋に入れられるのが一晩だけで良かったわ」
浴槽に浸かりながら私が呟くと、フォレンタは迷わず頷いた。
「はい。クィリアルテ様なら三年間くらいは平気かも知れませんが、ローレンシアの威信に関わりますからね」
「ちょっと、前半おかしかったわよ、ちょっとフォレンタさん」
「…………。」
いつか不敬で処罰してやる、と思いながら顔を顰める。しかし悲しいかな、フォレンタは元々女王付きのエリート侍女であることもあり、その威厳たるや王女の私を凌ぐほどだ。……無念。
「取り敢えず、今日の午後には婚姻の儀を挙げてしまうようですよ」
「え? 何それ聞いてないわよ」
「あ、これ言ってはいけないことになってたんでした。すみません、今のは無かったことに」
「いや、ちょっと、待って……聞き流せない重要事項……」
半ば強制的に頭を洗われながら、私は顔を引き攣らせた。わざわざ私に隠して婚姻の儀を計画するってどういうことだ。
「……これは独り言なのですが」
フォレンタが呟いた。
「クィリアルテ様を、刺客か何かだと考えている人もあるそうで、皇帝陛下にどうしても接近せざるを得ない婚姻の儀の前に、こちらの、――痺れ薬を飲ませよと言われました」
私は静かに目を見開いた。フォレンタが手を振って水を飛ばし、ポケットに手を突っ込む。再びその手が取り出された時、指先には薬包紙が摘まれていた。
「言うまでもありませんが、私はローレンシアの侍女でございます」
「私の侍女とは言ってくれないのね」
「……ですので、これは、こうしてやりましょう」
私の言葉を無視したフォレンタが、僅かに口角を上げた。その、私のものよりずっと繊細な指先が、ずれた。
薬包紙が、はらりと開く。
「自国の大切な王女様に、安全性の確かでないものは口にさせては、侍女の名折れですからね」
そう言って、フォレンタは目を細めて笑った。
……フォレンタが、デレた。
粉末が、水に乗って、排水溝に吸い込まれてゆく。私は呆然とフォレンタを見上げていた。
「も、もう一回、」
「何のことでございますか? 二度も髪を洗っていては禿げるのも早くなりますよ」
「……やっぱり口は減らないわね」
ちょっと嬉しかったので、あとで頭を撫でてやった。露骨に嫌な顔をされた。
***
「僕はやっぱり怪しいと思います」
「ぼ、ぼくはそうは思いません」
「俺は別の意味で怪しいと思う」
朝っぱらから「釈放したって本当ですか!」と執務室に突撃してきたメフェルスと隠密の二人と顔を付き合わせ、ディアラルトは沈痛な面持ちで呟いた。
「聞いてくれ、その……俺が見に行ったとき、」
「見に行ったとき?」
言い淀んだディアラルトをメフェルスが促すが、なかなか口が開かない。
「……くそ! 俺からは言えない!」
「そんなに!?」
驚愕して隠密が仰け反る。
「何です、腹踊りでもしてましたか」
「そこまでではない」
メフェルスが不貞腐れた顔をしたが、いや、一体何の恨みがあれば王女に腹踊りの濡れ衣を着せる気になるのか。
「ぼくは、クィリアルテ様は優しくて誠実な方だと思います!」
隠密が立ち上がって強く力説した。その頬は紅潮し、目は輝いている。
「ぼくが食器を取りに行ったとき、とてもお優しく微笑んで、『ごちそうさま』って言って下さったんですよ」
「ばかだな、策略に決まってるさ」
「め、メフェルス様はあの笑顔を見ていないからそう仰るんです!」
「いいや、お前は騙されてるね」
「クィリアルテ様を馬鹿にしないでください!」
「お前ら、一旦落ち着け」
主君をよそに言い争い始めた二人をなだめ、ディアラルトはため息をつく。
落ち着いた頃、メフェルスがふと言い出した。
「そういえば、レゾウィル様に使いを出しておきました。今日、出来るだけ早く訪問すると言っていましたが、」
執務室の扉が勢いよく開いた。
度肝を抜かれて、ディアラルトは思わず仰け反った。
「おはようございます陛下!」
「ああ噂をすれば絶対来ると思ってたんだよ、あのおっさん……」
メフェルスが頭を抱えるのに対し、問答無用で押し入ってきたレゾウィルは、部屋の中を見回して首を傾げた。
「む、何故メフェルスと隠密殿が、かようなところに」
「それはお前に対しても訊きたい」
ほかほかと体から湯気を立ち昇らせて、いかにもここまで走ってきたと言わんばかりに胸を上下させているレゾウィルを半目で見る。
「陛下がお呼びだとお聞きしたので!」
「せめて朝の会議が終わってから来てくれ。……お前らもだ」
そう、まだ朝会すら済ませていない朝っぱらなのである。
「用事を済ませるのは早きに越したことはございませんぞ!」
「知っているか、世の中には常識ってのがある」
どっかとメフェルスの隣に腰を下ろし、我が物顔で足を組んだレゾウィルに、隠密が嫌そうな顔をする。足の先が向いているからだろう。
「それで? 俺に無断でローレンシアの王女との婚姻を進めたのはどういう訳だ」
「ほう、それを今更訊きますか」
「俺がこの件を知ったのは昨日のちょうど今頃だからな」
「おや……」
執務机に頬杖をつき、ローテーブルについているレゾウィルを睨めつけると、彼は眉を上げた。少し躊躇うように目を伏せ、曖昧な声を発する。
「何です、早く言ってください 」
メフェルスが手近なところにあった定規でレゾウィルを小突き、レゾウィルは難しい表情をした。
「こう言っては何ですが、この婚姻にはやや不審な点もありますが、それを差し引いても、あまりにも利の多いものでありましたのでな」
レゾウィルはやたらと勿体ぶった調子で引き伸ばす。メフェルスの定規が突き刺さった。あれは痛い。
「ぐふ、」と息を漏らし、何とか立ち直ったレゾウィルは咳払いをする。
「向こうから提示された条件は、半年以内にクィリアルテ王女を受け入れることと、その他に数点。様々な都合で急いだ結果、皇帝陛下に伝えるのを忘れたと言うわけでございます」
しれっとして答えたレゾウィルに、呆れ果ててディアラルトは深いため息をついた。
「一番大切なところを忘れた訳か」
漏らすと、レゾウィルは「とんでもない」と満面の笑みを浮かべた。
「皇帝陛下の意思なんて関係ないくらい、素晴らしい対価が約束されていてですね……」
だいぶ失礼だが、どうやら本当の話らしい。こんなに嬉しそうな顔をして告げられた『素晴らしい対価』に、ディアラルトは思わず目を輝かせた。
***
「う、……体が、うごか、なーい」
ばた、とわざとらしく床に倒れ込むと、ちょうど部屋に入ってきたメフェルスがすぐに私を助け起こした。ひぇえ、役得だぁ。
「大丈夫ですか、クィリアルテ様」との問いにカマをかけてみようかと、私はさも苦しげに息も絶え絶え答えた。
「まるで何か薬でも盛られたみたいに体が動かないわ」
「それは大変ですね、でも婚姻の儀は果たさねば」
この返答に、私は一瞬しらっとした目を向けてしまった。
……あー、犯人こいつだ。
そうでしょ、と目でフォレンタに問うと、小さく頷かれた。
しかし、しかしだ。
「畜生、腹立つほど好みの顔してやがる……」
「はい?」
「いえ、何でもありませんわ」
私の背に右腕を差し入れ、顔を覗き込むように身を乗り出したメフェルスの体は近い。そりゃもうものすごく近い。そう、まるで身体検査のように私の体に手を這わせるほど近――って、んな訳あるか!
「やめてください」
比較的強めに手を叩き落としてから、私ははっと息を飲んだ。いくら結婚相手の側近が私の脇腹付近をまさぐっていたとしても、痺れ薬を飲んだ王女がこんな鬼気迫る表情で手を強く叩くはずがない。
「あ、あらやだ、火事場の馬鹿力ってやつかしら、うふふ」
すぐさまだらんと体から力を抜き、私は控えめに笑った。メフェルスは一瞬訝しむように眉を顰めてから、柔らかく微笑んだ。
「ところで、」とメフェルスは私を椅子に座らせてから、妙に穏やかな声で告げた。
「僕は婚姻の儀について、クィリアルテ様に何か伝えましたでしょうか」
「……え」
私は目を見開き、必死に頭を巡らせる。待って、そうだ、婚姻の儀が今日あるってのは……、
「先程クィリアルテ様は、僕が婚姻の儀に関して言及しましたとき、何も仰られませんでしたね」
うげぇ、と内心全力で顔を顰めながら、私は平然と微笑んだ。
「いえ、少し驚いたけれど、パンゲアではそれが礼儀なのかと思ったのよ」
てめえの国は当日の朝まで結婚式の日程を伝えないのが常識なのかオイ、と、心の中にニポーンのチンピラを呼び出してメンチを切るが、如何せんそれを口にするには私は小心者すぎた。
「いいえ、そんなことはございません、色々ありましたゆえのことです。……誰かから聞いたとかではないのですね?」
「ええ。逆にどうしてそんなことを訊くの? まるで皆に口止めしてたみたいだわ」
フォレンタにあとで褒めてもらおう。私だって、私がこんな丁々発止と会話が出来るとは思っていなかった。
それから二、三、肝を冷やすような会話を終え、メフェルスがようやく部屋を立ち去ろうと扉に手をかける。
「あ、そうそう、フォレンタさん」
振り返りざま、メフェルスは実に見事な笑顔を浮かべて私たちを見た。
「どうやら、ビタミン剤はしっかりと効いたようですね。やや過ぎるくらいに」
私とフォレンタは同時に息を飲み、目を見開く。扉はそのまま閉じた。
「……嵌められましたね。ただのビタミン剤とは」
「そうよね、常識的に考えて、他国の王女に薬を盛るなんておかしいもの」
歯噛みし、私は拳を握った。
ブックマークありがとうございます。とても嬉しいです。
2018/05/06 会話中の敬称の誤りを訂正