7 罪を背負ったこどもがいた
メフェルスがわざわざ、私が皇帝に『大好きってそういう意味じゃないです』と訂正しに行くのを引き止めた理由はすぐに知れた。
今回は二泊した、モルテ公爵家の屋敷を出発し、馬車に乗る。……のだが、どうにも皇帝が挙動不審なのである。
「そんなに公爵家の壁がお好きですか?」
笑うのを必死に堪えるように、唇の端をひくひくさせながらメフェルスが言う。それに対して皇帝は上擦った声で「いや、」と応じた。
何を隠そう、既に馬車に乗り込んだ私たちに対して、皇帝は未だ屋敷の壁に背中を押し付けたままなのである。
頑張って引き結んでいた私の唇から、思わず「ぐふっ」と笑い声が漏れた。
「ほら、早くしないとクィリアルテ様に笑われますよ」
メフェルスが真面目な顔を取り繕って告げると、皇帝は血相を変えた。慌てて走ってくると、すぐさま馬車に乗り込んでくる。
その辺りで、私もメフェルスの意図を察した。
……享楽とダシに使いやがって……!
真っ赤な耳をして、両手で顔を覆った皇帝が、私の隣で馬車に揺られている。馬車の中は沈黙に満ちていた。
――やりづらい。とってもやりづらい。
「あの」
私は耐えかねて声を発した。皇帝はびくりと大きなモーションで反応した。
「どうしてそんなに緊張されているんですか?」
小さく吹き出したのはメフェルスかフォレンタか。皇帝は手を顔から離して、恐る恐るこちらを窺う。
……あなたは野生の小動物か?
「な、何でもない!」
とてもじゃないが平静とは思えない態度で、皇帝は言い切った。私は遠い目をしてしまった。
「皇帝陛下、城に帰ったら、溜まっている仕事を頑張って片付けましょうね」
何故かいきなりメフェルスが言い出した。皇帝はあからさまに嫌な顔をする。それを見越していたように、メフェルスはまるで当然のことのように続けた。
「クィリアルテ様も応援していますよ。ね」
いきなり話を振られて、私はぎょっとしつつも頷く。またダシにされた!
「えーと、頑張って下さいね」
皇帝は虚を突かれたように目を見開き、それから頬を緩めて頷いた。扱いやすい人だなー。ここまで来るといっそ純粋すぎて不安になってくる。
それでも人前ではきちんとするのは譲れないラインらしく、休憩の為に立ち寄った街に降りると、皇帝はしゃんとして辺りを見回している。
元々ここで休憩を取る予定だったらしいが、どうやら馬車の車輪に不具合があるとかで、多少時間がかかるそうだ。まだ道のりの半分も行かないところなので、馬も私も大して疲れていない。皇帝だけは何故かぐったりしている。
とはいえ私たちに好き勝手にうろつかれては困るのはみんな同じであるようで、私と皇帝は街が見渡せる高台のテラス付き飲食店に一緒に突っ込まれた。貸切である。
監視が全方向から容易、一般の人は近付けない、かつ狭いところではなく、私たちも気分がいい。最高である。スナイプされない? と思ったが、近辺に狙撃に適した建物や木はないらしい。よく見つけたわね、そんなところ。
「いいですか、僕たちが持ってきたもの以外は食べてはいけませんよ」
「知らない人に付いていってもいけませんよ」
「いや、今の場合、知らない人ではない可能性も……」
「ともかく、いい子にして待っていて下さいませ」
完全に馬鹿にしているとしか思えない注意事項を口酸っぱく何度も言って、メフェルスとフォレンタは風のように消えた。どちらかを残しておけばいいんじゃないかと思うが、何だか複雑な事情があるらしい。要するにフォレンタとメフェルスが、自分の主君の口に入れるものを相手に一人で調達させるほど、深く信頼し合っている訳ではないってことだ。
しかし先の毒林檎を考えると、誰か別の人間を手配するのも怖いんだとか。まあ確かにその気持ちは分からんでもない。
「結構栄えている街ですね」
手すりに掴まって、街並みを見下ろしながら呟くと、流石に人前とあって、皇帝は平然と「そうだな」と頷いた。周囲はぐるりと兵士ずくめである。店内には人はいないが、私たちは外から入ってきてテラスを占領している。悪いね店長、こちとら暗殺対象の皇帝を抱えてんだ。
「フォレンタとメフェルスはどこに行ったんだろ」と、これは独り言だったが、意外にも返答があった。
「恐らく避難所に食料を調達しに行ったんだろう」
「避難所?」
私は首を傾ける。皇帝は首肯し、腕を組んだ。
「近くに別荘がある。ここはそれに一番近い街である訳だから、恐らく王家の為の避難所があるはずだ」
「えーと、夏に行ったのと同じようなやつですね」
「ああ。……誰が昨日毒入り林檎を仕込んだかもまだ分からない内に、公爵家に用意させたり市場で買うことはないだろう」
心なしか耳を赤くしながら、それでも皇帝は比較的しっかりした声で述べる。そうか、と私は頷いた。
「避難所は、あれ、秘密の組織か何かですよね?」
「ん? まあ……元々暗部で働いていた人間が経営しているというか」
「あ、じゃあ隠密くんみたいな人がやってるんだ」
あまり公然と出来る話ではないので、自然と声が小さくなる。そうすると聞き取りづらいので、自然と皇帝の頭が下がり、私の顔が上を向く。となると今度異変が起こるのは皇帝の顔面の色である。
「えっと……。皇帝陛下?」
「みないでくれ」
ついには両手で顔を覆ってしまった皇帝に、私は呆れ果てて嘆息した。日常会話にも支障が出るレベルなら、メフェルスには悪いがネタばらしさせて貰おう。
「あのですね、皇帝陛下、昨日のは」
口を開いた、その瞬間、周囲に控えていた兵士たちが、一斉に殺気立つのを感じた。私も反射的に全身を張り詰めさせ身構えた。
メフェルスもフォレンタもいないこのときに何かあったら嫌よね……。
「――お待ち下さい、現在は誰もお会いさせるなと命じられております」
「いくらそう言われましても、お通し出来かねます」
ざわめきは、テラスに続く階段から聞こえた。何となーく嫌な予感がしたのは私の気のせいではあるまい。
正 面 突 破 。
そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
「誰に対してものを言っていると心得ているんだ?」
不愉快を分かりやすく滲ませた声に、私は『やはり』と唇で呟いた。皇帝は黙ったまま、後退る。
「そう命じた人間は私より偉いのかな」
威圧するように、その声は周囲の兵士を押し退けて近付いてくる。
ご、ゴリ押しが過ぎるんじゃないですかねー!
兵士も迂闊に強くは言えないようで、たじたじとしながら何とか阻もうと説得する。
「せめて、もう少し待って頂けませんか」
恐らく誰も近づけるなと命令したのはメフェルスだし、そのメフェルスが来るまで待つってのは妥当な判断だと思う。それを権力で無理やり押しのけて、件の人は階段を上がって姿を表した。
「馬車の車輪が歪んでしまったそうだね。こんなところで会えるなんて奇遇だ」
私は静かに目を見張る。……どうしてそんなことを知っている?
「叔父上、」と皇帝は震える声で呟いた。その言葉に、はっと私は皇帝を見上げる。
正常の色を保つ皇帝の顔がそこにあった。どこか箍が外れた不気味なものではなく。
私は思わず皇帝の前に立ち、守るように身構えた。私たちと同じ高さの床に足を踏み入れたタドリスは、片眉を上げて私の行動に対する反応を示す。
「ご機嫌麗しゅう、タドリス様。私たち今、『二人きりで』街を眺めて楽しんでおりましたの。そこにいきなり割り込んで来るのは、無粋が過ぎるというものではないですか?」
ほとんど虚勢ではあるが、私は背を伸ばし、つんと顎を上げて告げた。イメージはよそ行きのロズウィミア嬢である。敵意むき出しの私の言葉を受け止めたタドリスは、せせら笑うように顔を逸らして口角を上げると、こちらへ一歩近付く。私は皇帝の前に立ち塞がり、肩を怒らせた。
タドリスは、さも、ただ感想を述べるだけのような顔をして、静かに呟く。
「王女でもない人間が、大きな口をききますね」
私は思わず呆気に取られて、「は、」と漏らした。どうしてここで、いきなり、王女という単語が出るのか。全く分からなかった。私を怯ませたいにせよ蔑みたいにせよ、ここで脈絡のない『王女』というものが引き合いに出されることの理由が、本当に見当もつかない。まあ私、実は王女様なんで外れですけどねー。
「皇帝陛下」
私は振り返りながら肩越しに呼びかけた。硬直した皇帝の手を掴んで揺すると、辛うじて指先に反応があり、私の手を掴み返す。
タドリスは、気軽に持ちかけるかのように片手を挙げて言った。
「ディアラルト、一緒に遊びに行こうか」
間髪入れず私は「駄目です」と首を振る。
皇帝は目を見開いたまま、その場に立ち尽くしていた。私は体ごと振り返り、掴まれていない方の手で、皇帝の肘のあたりに手を添えて体を前後に揺さぶり、数度声をかける。皇帝は私とタドリスを見比べるように視線を動かして、何か言おうとするように唇を戦慄かせた。
「叔父さん、」と、皇帝が呟く。
「……喜んで」
ややあって、そう言って微笑んだ皇帝に、私は絶望の淵に立たされたような思いがした。
「いい子だ」とタドリスは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、手を伸ばす。私の脇を通ってそちらへ向かおうとした皇帝は、途中で思いもよらない何かに引っ張られたように立ち止まった。
自分自身の手が、私の手を掴んでいることに、皇帝は驚いた顔をした。私の手から腕、肩から首へと辿るように目線を動かし、最後に私の顔に目を止めた。
皇帝が、私の手を振り払いながら、大きく震える。
「たすけて」と口が動いたように見えた。
「助けて、リア」
彼は息も絶え絶え、そう囁いたように思えたのだ。
為す術もなく、タドリスに言われるがままに歩き出す皇帝を半ばまで見送ってから、私は我に返って皇帝を引き止める。
「待って下さい」
すると皇帝は半身になって振り返り、私をまじまじと見た。
「リアも一緒に来たい?」
いや、心の底から行きたくないわと思いながら、私は言葉に詰まった。ここでいいえと答えたら、皇帝は、多分、一人でタドリスについて行ってしまう。
答えに窮した私は、一番初めに視線が重なった兵士に目をつけた。
「あ、あなたも一緒に来ない?」
声をかけられた兵士は「え、私一人、ですか」と顔を引き攣らせた。その言葉に閃いた私は、ぱんと手を合わせて提案する。
「そうだ、じゃあみんなで行きましょう!」
皇帝を止めるのが一番だが、何せ最高権力者の皇帝がこうもノリノリでは止めるものも止められない。多分一介の兵士では皇帝に声をかけるのも駄目な気がするし、気安く声をかけられる私一人では、皇帝を拘束出来ないのだ。
兵士たちははっとした顔になって、一斉に頷いた。そう、みんなで行けば怖くない(けどやっぱ怖い)のである!
「私は可愛い甥を誘って遊びに行こうと言っているのに、どうしてあなたがそんなに大勢の兵士を連れてついてこようとしているのでしょうか。それこそ無粋が過ぎるというものです」
「うぐぐ」
皇帝も同意するようにうんうんと首を上下させてしまっているし、皇帝が来るなと言えば、私は無理やりついていけても兵士は恐らく権限とかいろいろな問題で来れない可能性がある。んー残念、私がついて来いと言って強制的に連れてこれるほど権力持ってりゃなー! 侍女さんたちをこき使ったりある程度散財したりは出来ても(しないけど)、軍事的な権限はほとんどないのだ。
私は無礼にもタドリスの顔面を真正面から指さした。
「大体、国の最重要人物を護衛もなしに連れていこうというのはおかしいんじゃないですか」
「もちろん道中は私の私兵に護衛させますよ。それとも何か格別の危険でも?」
まさにお前だよ、と言いたいのを堪えて、私は鼻息を荒くする。タドリスはじりじりと後退していた。皇帝は無邪気にタドリスについていく。
「メフェルスは呼んだの?」
一番そばの兵士に小声で問うと、「はい、それはもちろん」と勢いよく頷く。ふむ、それならもうすぐ来るだろうか。
私が顎に手を当てて思案していると、大きくなったざわめきに思考を打ち切られた。
「お待ち下さい、皇帝陛下!」
「メフェルス様はまだか、」
「いけません」
兵士の群れをかき分けるようにして進むタドリスと、その後ろを機嫌よさげについていく皇帝。しかし、呼びかけられた瞬間、うるさそうに頭を振って「黙って」と周囲を睨む。兵士たちはぐっと唇を噛んで静まってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
思わず私は素で叫び、階段を降りようとする皇帝の手を掴み、両足で踏ん張った。皇帝はすぐに振り返ると、私に目を留めて目を瞬く。
「リアも来たいなら、叔父さんに言ってあげるよ」
微笑んで、前屈みになって私の頭を撫でた。やたら幼い子供を甘やかすようなその態度に、私は自分でも驚くほどに憤った。
「やめて!」
ぱん、と音を立てて皇帝の手を叩き落とし、私は目を怒らせて皇帝を見上げる。皇帝は、今何をされたのか咄嗟に飲み込めなかったような顔をして、きょとんとしていた。
「……私、そういうことされるの、嫌いです」
何で私、こんなに怒ってるんだろう。見知らぬ人に触られた訳でもないのに、別に鳥肌が立つほど嫌な訳でもないのに。
ただ、今の言葉が悪手であったのは明白だった。皇帝は酷く落胆したような顔になって、一瞬の躊躇いのようなものを見せると、それからおもむろに私の脇腹の辺りに手を当てた。
「ひょえっ……」
いきなり足が床から離れた。視界が一気に動き、私は心底びびった。
「――嫌いになったの?」
「はい? ……話聞いてました?」
この人はまた私の言葉の一部分だけを取り出して落ち込んでいるらしい。意味が分からない。まったくこの人は。
容赦なく私(特筆するほど華奢でも軽くもない)を抱き上げ、皇帝は眉を顰めた。私の顔を下から覗き込むようにして、それから静かに目を伏せる。
「それじゃ仕方ないね」
言いつつ、歩き出した。もちろん私を抱えたままだ。
私も、大人しく協力して、肩や首に手を回して体勢を安定させようとするなんてことはなく、断固として直立不動の形のままぴくりともしない。下手に暴れると階段だから危ないのは分かるのだ。
一切体を動かそうとしない私に、皇帝は困ったような顔をした。運びづらいのか、ついには半ば肩に担がれるような形になり、私は「ひぃ」と声を漏らす。
階段を降りきったのを見て取って、私は本領発揮とばかりに手足をじたばたさせ始めた。身を捻り、何を蹴ろうがお構い無しに両足をばたつかせる。
「こら、暴れないで」
「ふぐっ」
背を叩かれ、揺すり上げられる。そうすると、ちょうど腹と胸の間辺りに皇帝の肩が来て、思わず呻いてしまった。いいか、その肩いつかは削るからな、首根っこ洗って……いや、肩に首はないわね。
「ごめん、苦しかった?」
「そう思うなら下ろしてください」
私は憮然として言う。あいにく私は進行方向とは逆を向いているから皇帝の顔は見れないが、その表情は何となく想像がついた。
多分、ほんの少し眦を下げて、頬を上げたんだと思う。
「――ごめんね、無理」
何が無理だ早く下ろせと悪態をつきそうになった私の体を腕の中で滑らせ、彼は私の肩を強く締め付けた。私の顔の横に皇帝の首が見えた。
辛うじて爪先が地面に掠る程度まで体が降りた私は、呆気に取られて固まる。
え、近くない? 近すぎだよね? あれ?
ぷす、と頭から湯気が出たのは私の方だった。猛然と背を反らして皇帝の肩を押し、体を捻って着地すると、すぐさま私は距離を取った。
身を低くして睨みつけてくる私を、皇帝はほの暗い目で見返す。その腕が伸び、避けようと後ろに下がる前に手を取られた。
「僕のことが嫌いになっちゃったんなら、仕方ないよね」
怖気だつ。私はぞわりと駆け上がるような悪寒に身震いした。
「もう一回好きになって貰うしかないか」
「い、ちど、も、好きになったことなんて、」
「どうして? あのときはあんなに言ってくれたのに」
言ってない。あのときっていつ。
痛いほどに分かってしまった。けどずっと前から知ってることだった。
――この人は、私を見ていないのだ。
喉が痙攣したように震える。嫌だった。全くもって心外だ、私がどんなにこの人を守ろうと心を砕いたって、この人の中ではどうせ、助けてくれたのはあの幼い女の子ってことになるんだ。
ロズウィミア嬢が言っていた。私とリアが時を隔てた同一人物であると知らなかった頃の彼女は言っていた。
彼は、昔会った初恋の女の子を私に重ねているだけなんだって。それじゃああなたも辛いでしょうって。
でも大丈夫、私とあの子は同じだから。……本当に?
守らなきゃ、守らなきゃ。あの子が泣いてしまう前に、わたしが壊れてしまう前に。この男はあの子を縛り付ける、けど、わたしはこの人を愛してる。
彼の言葉に応えてはいけないことは、私にも分かっていた。そしたら何か良くないことが起こるって。でもわたしの口は『大好きよ』と紡ぎたがる。口に馴染んだその言葉を。
言えない。わたしには言えない。言わせてはいけない。
呆然と立ち尽くした私は、もはや使い物にならなかった。僅かにからかうような色を見せて微笑んだ皇帝が、足を掬って私を持ち上げた。景色が流れる。
私はそれをぼんやりと眺めた。景色はなおも流れて、そして不意に、遮られた。
「へっ!?」
我に返った私は、血相を変えて周囲を見回した。ここは、狭い室内、いや、……馬車!?
慌てて腰を浮かせ、外に出ようとした私の前に手をついて、皇帝がにこりと笑った。
「どこに行くの?」
「にげ、逃げるんですよ! ほら、皇帝陛下も一緒に!」
私がそう言った瞬間、皇帝は顔色を変える。視線を揺らがせ、戸惑ったように呆然とした。
「皇帝? ……誰が?」
その言葉に、私が、ぐっと息を止めた瞬間、馬車が大きく揺れる。たたらを踏んだ私は、そのまま座席に沈み込んだ。
馬車が動いたのだ。
「タドリスさんはいないんですか?」
「別の馬車に乗っているよ」
私は慌てて窓を開け、外を見た。町外れの森の前のようだったが、
「馬車が、いっぱい……?」
絶句する。パンゲアの兵士たちは、ここまで追ってきて、私たちの乗っている馬車を見失ったらしい。一斉に動き出した馬車の間を縫うようにして、右往左往している。
「道を封鎖しろ!」
聞き覚えのある声に、私は顔を輝かせた。窓から身を乗り出し、声を張り上げる。
「メフェルス! こっち!」
ざわめきが広がった。私の声がした方へ、大勢の足音が近付く。
「クィリアルテ様!」
これまた聞き覚えのある声がして、高らかに蹄鉄の音が響いた。手綱を持つ腕を引いて方向転換したフォレンタが私を見つけ、……フォレンタが馬に乗っているだと!?
馬車は、バリケードを築く兵士たちの列に躊躇いなく突っ込む。ぎりぎりのところで兵士たちは跳んで避け、道を阻むものはなくなってしまった。徐々に速度を上げていく馬車と並走するように、フォレンタが私たちを追う。私も窓を全開にしたまま、どうしようかと歯噛みした。飛び降りようにもある程度の速さが出ている馬車からでは危険すぎるし、フォレンタの馬に飛び移れるとも思えない。
「クィリアルテ様、皇帝陛下は、」
追いついてきたメフェルスが、張り詰めた表情で問う。悪いね、私はフォレンタの乗馬の衝撃が大きすぎて、あなたが馬に乗っていることに何ら驚きを感じない。別のタイミングだったら『すごいね』くらい言ってあげたのに。
「一緒に乗ってる! ちょっと、ほら、メフェルスですよ!」
馬車の中に頭を引っ込めると、皇帝の肩を押して窓際まで押しやる。皇帝は何も危機感のなさそうな明るい表情で手を振った。
「メフェルス、そんなに慌ててどうしたの?」
「こうてっ、……ああもう、くそ、やられた!」
言葉を飲み込んで、メフェルスは珍しく直截な悪態をついた。馬車は更に速度を上げる。フォレンタは無言で馬の腹を蹴り、馬車を追い越そうとするように加速した。
「フォレンタ、何して」
どこからともなく刃物(どこに仕込んでるんだ?)
を出したフォレンタが、大きく身を乗り出して、御者台に向かって腕を振り抜く。馬車が大きく左右に揺れた。
角度が角度でよく見えないが、何度かもみ合うような気配を感じた。私は拳を握って固唾を飲む。
「フォレンタ!」
刹那、私は咄嗟に叫んだ。フォレンタが腰から仰け反ったのだ。泳ぐように腕が空を掻く。そのまま体勢を立て直せず、彼女は落馬した。
「っ!」
既に道は山道、舗装もされていない道にもんどりうって叩きつけられたフォレンタは、頭を抱えて地面に転がった。メフェルスは馬車とフォレンタを数度見比べ、躊躇うような仕草を見せる。
「行って!」
体を起こしざま、フォレンタが鋭く叫んだ。メフェルスは頷き、速度を増す馬車と並走するように身を低く伏せた。
「えーと、追いかけっこ?」
「んな訳ないでしょう、非常事態です!」
何が起こっているのかよく分からないらしい皇帝がこてんと頭を傾げる。私は思わず険しい語調で怒鳴りつけてから、首を竦めた。皇帝は不満げな顔で唇を尖らせていた。
追ってきた兵士たちが視界に入り、私が顔を輝かせた矢先、何かが空を切る音が耳に入った。
すぐ脇で、馬の悲鳴のような嘶きが響く。目を丸くしたメフェルスは、奥歯を食い縛って手綱を強く引いた。
「くそ、射られた、」
体のどこかを矢が掠ったらしい、メフェルスを乗せたその繊細な生き物は、泡を食って暴れ始めた。首を大きく上下し、鼻を鳴らして足踏みする。
一気に速度を落としたメフェルスを見送りながら、私は絶句する。道を往く人間を狙える位置に射手がいて(駄洒落じゃない)、しかもある程度の精度があるときた。厄介である。
すぐ側にいたメフェルスが後退し、未だ兵士たちが追いつかない現在、私たちの馬車の周りには何もいなかった。不意に心細くなり、私は窓枠を握り締めて眉根を寄せる。
不穏な音がしたのはそのときだった。
山道をひた走っていた馬車の両脇には、多くの木が立ち並んでいる。そのいくつかが、みしみしと音を立てながら、根元から道の方へ徐々に傾いていた。近辺の木の枝を巻き添えにしながら、身長の何倍もある木が、いくつも、地面に近付く。
轟音を立てて、とりわけ大きな木が倒れた。土煙が舞い、その中を次々に直線状のシルエットが扇形を描いて横切る。
息を飲みかけ、私は激しく咳き込んだ。
もうもうと舞う土埃が薄まった頃、道を塞ぐように倒れ伏した多くの木の向こうに、なす術なく右往左往する兵士たちが見えた。
「ど、どうしよう」
どう好意的に捉えても、自然現象によるものとは思えなかった。
私は情けないほど取り乱して、口を押さえる。皇帝もようやく異変を感じ取ったらしく、「何の音?」と不安げに眉を顰めた。
馬車はなおも私たちを乗せたまま山道を往く。何か言おうとする皇帝を跳ね除けるように、私はむっつりと唇を引き結んだ。何か思うところがあったのか、皇帝も何も言わず、黙ったまま外を見ている。
どれほど経ったのか分からないが、さほど時間は過ぎていないように思う。やがて私たちは森を抜けた。山中に、森を切り開いた広大な敷地があったのだ。
「お城……?」
私は怪訝に眉を寄せて呟いた。
広い庭園の中央にそびえ立つのは、王都にあるものより余程小さいとは言え、複数の棟が渡り廊下で繋がれ、いくつかの塔を持つ、高さのある城の形をしていた。
皇帝は、私の言葉に何か応えようとしたようだった。しかし、声が出ない。唇を動かすのに、その隙間からは、呻きのような息ばかりが吹き出る。
「…………いやだ」と、ようやく意味を為す音になった声は囁いた。私は聞き返すように耳を傾けた。
「にげ、なきゃ、」
かっと目を見開き、城を見据えて、声は言った。私に対する言葉ではなかった。けれど私はどうしてもその声を受け止めざるを得なかった。
「どういう意味ですか」
私は皇帝を刺激しないように、なるたけ落ち着いた声で問う。皇帝は言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「分からない」
でも、と続ける。私は聞く。
「思い出さなきゃいけない」
皇帝の目が、酷く不安定な色を湛えた気がした。魅入られたように視線を外せない私がいた。
「――僕は、何かを、忘れている」
メフェルスの言葉を思い出した。タドリスに会って退行した皇帝は、家族のことを忘れていると。
つまり、家族の何を忘れているのだろうか。家族が亡くなったこと? どのようにして亡くなったか?
それともあるいは、存在さえ忘れたか。
「思い出さなきゃいけない、のに、……思い出したくないんだ」
頭を抱えて、皇帝が呻いた。怯える子供のように身を竦めているのに、その喉から漏れる吐息はいっそ獰猛ささえ孕んでいた。
手が伸びた。結局何だかんだ言って、私は、私の想像の地平の向こうで苦悩する、目の前のこの人を見捨てられないのだ。
向かいに座る皇帝の肩の辺りを、軽く叩いた。ゆっくりと、何度も。
大きく息を吐いて、皇帝が深く俯いた。頭を抱えていた手が、こめかみを滑って膝に落ちる。
馬車は城に近付きながら速度を緩め、やがて止まった。ややあって馬車の戸が開く。
「ようこそ、ディアラルト。と、……招いてはいませんが、歓迎はしますよ、クィリアルテさん」
タドリスはわざとらしい笑みで言った。私は躊躇いなくその顔を強く睨みつける。
「このようなことをして、どうなるかお分かりですか」
タドリスは「もちろん」と鷹揚に頷いた。
「なに、別に取って食う訳ではありませんよ。本当にただ、少々お話をする為に呼んだのです」
「へえ、そうですか」
ずっと馬車の中に籠城しても仕方ないので、私は渋々外に足を下ろす。下りるやいなや『グサッ』というパターンも考えられたので、皇帝を差し置いて私から。刃物を持って待機している人間はいなかったので、こっそり息をついた。
地面に足をついてしっかりと立ちながら、私はタドリスを強く見据えた。
「たとえ危害を加えないにせよ、これは皇帝及び皇妃の誘拐です。私たちの居場所もすぐに突き止められます。何か皇帝陛下にお話があり、それを達成したとしても、無傷でいられるとは思わない方が良い」
全身の毛が逆立つような錯覚をした。背後でのほほんとしている皇帝を守ることが出来るのは自分だけだと思うと、必要以上の使命感に駆られるようだった。
「今宵は綺麗な満月が見られるそうですよ」
脈絡もなくタドリスが告げる。
「雲がなくて良かったですね」
私は悟られないように、ゆっくりと息を吸った。
「私はあまり好きじゃないです」
うっそりと微笑んだタドリスの顔を、私は再度きつく睨みつけた。