5 そのこどもは果たして本当に幸福だったか
ロズウィミア嬢と楽しい楽しいパジャマパーティに興ずる予定だったのに、すっかりその興が削がれた。
言わずもがな、原因はあの失礼な来客である。たまたま席を外していたらしいロズウィミア嬢は、事の経緯を後で人から聞いたらしく、憤懣やるかたなしとばかりに険しい顔をしている。
「結局、タドリスさんと皇帝陛下って何があったんですか?」
私は顎に指先を当てながら眉を顰めた。元凶、諸悪の根源である雰囲気は何となくするのだが、何が何だか分からない。けれど、皇帝のあの豹変ぶりと、客人にはあまり隙を見せないはずのメフェルスの態度からしても、よっぽど凄い何かがあったんだろうなと推測はついた。
ロズウィミア嬢は「うーん」と眉間に皺を寄せて難しい顔をした。
「それが分からないのが問題なのよね」
「ロズウィミア様も分からないんですか? メフェルスは?」
「誰も知らないわ。タドリス様と皇帝陛下ご本人はもちろんご存知なのでしょうけど」
うへぇ、と私は両手を上げた。お手上げのポーズである。
「皇帝陛下、タドリスさんと目が合った瞬間、変わったんですよ。何だか……子供みたいになって」
私は夜会でのことを回顧しながら呟く。ロズウィミア嬢は、聞き及んでいる、と頷いた。
「昔からそうなのよ」
「昔からなんですか」
ロズウィミア嬢は腕を組む。答えづらそうに口をもごもごさせ、視線を逸らす。
「……だから、私たちは、タドリス様が怪しいと、そう断定している」
私は取り敢えず雰囲気を読んで、はっと息を飲み、口元を手で押さえてから、首を傾げた。……どういうことだ?
「ど、どうして?」
「うーん、一応クィリアルテ様の身元もしっかりした訳だし、言っても良いのかしら」
「そんなぁ、ここまで言ったんだから言ってくださいよぉ」
私がロズウィミア嬢の肩を掴んで、わさわさと前後に揺すぶったところで、扉がノックされた。部屋の隅で控えていたフォレンタがすぐさま立ち上がる。
扉を薄く開け、こちらを振り返った。
「メフェルス様でございます」
「メフェルス? 良いわよ、入れても」
ロズウィミア嬢も堂々たる風格で頷いたので、フォレンタが扉を開き、体を傾ける。
「失礼致します……。すみません、取り敢えず誰かがいるところにいたくて」
疲れきった表情で、妙によれよれとしたメフェルスが、私の部屋に押し入り、そのまま行き倒れた。ばた、と見事な音が出た。
「ちょっと、死なないで」
「死んでませんよ」
大体、土足文化のある世界観で床に倒れるってのがちょっと汚い。私はその方が楽なので部屋ではスリッパを履いているけれど、みんながみんなそうではないでしょう。
「ほら、起きて。皇帝陛下はどうしたの?」
「寝かしつけました。こういう、ちょっと不安定になった日は、すぐに寝るんですよ、あの人」
「消耗してるのかしらね」
よたよたと椅子に座り、メフェルスは膝に肘をついて頭を抱えた。髪を指で強く掴み、深いため息をつく。
「……守れなかった、」
大きな声ではない。けれど、大量の息とともに吐き出された言葉は、強く床に打ち付けられた。私は返す言葉もなく、背を丸めて肩を震わせるメフェルスを見下ろしていた。
「……クィリアルテ様、今日、皇帝陛下はおかしくなったでしょう」
俯いたまま、前髪の隙間からメフェルスがこちらを見た。自然と半眼になり鋭くなった目付きに、やや怯みながらも、私は頷く。
「僕はあの状態の皇帝陛下を見たくないんです。あれはあまりに歪だ、無理やり子供のときに引き止められているかのような気持ち悪さを感じます」
めっちゃ分かる、と軽いノリで同意するような問題ではなさそうだった。神妙な顔で私は何度も首を上下する。
「その原因となるものは全て排除したいんです、これ以上皇帝陛下が傷つくのは見たくない。でも駄目なんです、無理なんです。何をやっても……」
メフェルスが唇を噛んだ。下唇が白くなるほど強く。
「タドリス様が現れると、全てが元通りだ。どんなにそれまで落ち着いていても、タドリス様が一言話しかけるだけで、皇帝陛下はまた大きく揺らぐんです」
メフェルスの目元が赤くなっているのを見て取って、私は思わず、取り繕うように口を開いていた。
「でもね、皇帝陛下ね、タドリスさんに呼びかけられる前に言ったのよ。『メフェルスを呼んでくれ』って」
メフェルスが顔を上げた。呆然としたように半開きになった口から、「え」と声が零れる。
「皇帝陛下がご自分で言ってたの、タドリスさんを見るといつも変な気持ちになるって。それが嬉しいって訳でもなさそうだったわ」
肩を押して、きちんと背筋を伸ばさせた。メフェルスは唖然としたように私を見たままだった。
「普段の皇帝陛下を、正常なものとして考えても良いのよね? それなら、正常な皇帝陛下は、ちゃんと分かってるのよ」
ぽん、と肩を叩くと、メフェルスの表情がようやく動いた。目に色が戻る。
「何か困ったことがあれば、メフェルスに助けを求めれば良いって、分かってるんだわ」
決まった、と内心拳をぐっと握りながら、私は独りごちた。
……まあ八割方推測なんですけどねー!
「クィリアルテ様、」
メフェルスは感極まったように私の手を両手で掴んだ。うわ、びっくりした。やはりちょっと好みの顔をしているので変な気持ちになる。
「ありがとうございます」
私は特に何もしていないがお礼を言われた。取り敢えず私も微笑んで頷いておく。
「――じゃあそのお礼ついでに、持ってる情報を洗いざらい吐いて貰おうかしら」
足を組んでふんぞり返ると、メフェルスはぽかんとして固まった。
「……いい笑顔ね」
ロズウィミア嬢が小さく呟いた。否定はしない。
「……7年前の話です。現皇帝陛下のご家族が亡くなりました」
「あ、それはロズウィミア様から聞いてるわ。馬車の事故でしょう」
重い口調で語り出したメフェルスに、私は片手を上げて言った。メフェルスは一度ロズウィミア嬢をちらりと見て、「……まあいいか」と呟いた。こえー。
「隠していた訳でもありませんし、調べればすぐに分かりますしね」
確かに、それもそうだ。何故第四皇子だったはずのあの人が皇帝になっているのか、私が面倒くさがって知ろうとしなかっただけだし。
「ただ、あくまでもそれは公式発表ということになります」
突如厳しさを増した声に、部屋の中の空気が一気に締まった。私はそれっぽくはっと息を飲む。何が「ハッ」なのかは自分でもよく分かっていない。
「ご理解頂けたようですね」
昏い目をしてメフェルスが言った。……ごめんね、勘違いさせて。実は全然理解してないの。
「話は飛びますが、前皇帝陛下が亡くなった直後、次の皇帝の座に誰が就くか、世論は第四皇子派と皇弟派に二分されました。平民や上位貴族においては皇子派が優勢であるのに対し、ほとんどの下位貴族は皇弟側についた。タドリス様がかねてから親交を深めていたことに由来します」
「ほぇー」
いきなりの長文解説に思考が停止しかけながら、私はうんうんと頷く。
「でも、皇位継承権に順位とか決まっているんじゃないの? その通りにすれば揉めるはずもなさそうだけれど」
「その順位に従えば、次期皇帝となるのはタドリス様でした。パンゲアの皇室法には、皇位を継げるのは15歳からとありますが、ディアラルト様がその年齢に達するまでにはおよそ2週間ほどしかありませんでした。もし15歳まで達していれば、継承権はディアラルト様の方が上位です」
「ふんふん」
要するにタッチの差で継承権負けてたわけね。でも現状あの人が皇帝についてるってことは、何とか上手いことやったんだろう。
「揉めました。それはもうめちゃくちゃ揉めました」
「だろうね」
「ですが、ディアラルト様はご家族が亡くなってからずっと塞ぎ込んだままで、とても皇帝という重役を任せられるような状況でもなかったこともあり、次期皇帝はタドリス様に決まりかけたんです」
「ほぉ」
ロズウィミア嬢は、恐らくその様子を実際に見ていたこともあり、同意するように頷いている。あまり愉快ではない表情である。
「……そのご報告に伺ったとき、ディアラルト様は、『タドリス様』という名前に、過剰な反応を示しました」
「あー……。それは怪しいわね」
「そのときは、名前だけでも、あのようになったんです。タドリス様のことを考えるだけで、妙に無邪気な、……まるで、ご家族が亡くなる前のような様子になって」
要するに、今日の夜会みたいな感じになったのだろう。その様子は容易に想像がついた。
「そして、実際、その状態になったディアラルト様は、ご家族のことを忘れていた」
ぞわっとした。何故だかは分からない、ただ、その事実に必要以上に戦慄したのは確かだ。
目を見開いて、竦んだようにメフェルスを見ていた。メフェルスは私の様子に気が付かないまま続ける。
「訊きました。ご家族が亡くなったということを覚えているか訊きました」
メフェルスのその眼差しに、一筋の恐怖が覗いた気がして、私は怪訝に眉を顰めた。
「覚えていないというあの人が恐ろしくて、何度もしつこく訊きました。そうしたら、突然、剣を向けられて」
あの皇帝に、突然剣を向けられた経験なら私にもある。あれは確かに怖かった。何が怖いって、無表情で剣を抜くところですよねー。冷静に排除しようとしてるみたいでほんとに怖い。
「それが決定的な異常でした。ただ家族が亡くなってから塞ぎ込んでいるものとは明らかに違った」
皇帝に剣を向けられて慄くメフェルスの姿が目に見えるようだった。そのことにショックを受ける様子も。
「だっておかしいんです。あの人はそんな人じゃないでしょう、それなのに、何の躊躇いもなく、剣を抜いたんです」
私は初対面(実際は二回目)で剣を向けられたので、そんな人じゃないと言われても『ああ、うん……』といった感じだが、しかし、約半年一緒にいたのだから、皇帝の為人もおおよそ分かっている。確かに、平静では暴力的な衝動の見せない人だった。恐らくそれが本来の皇帝なのだろうし、いきなりの凶器はビビるよねぇ。わかるわかる。
フォレンタが水差しからコップに水を注いで、メフェルスに手渡した。受け取ったメフェルスは、それを一気に流し込むと、大きく息を吸う。幾分か冷静さを取り戻したような顔をして、左の膝を鷲掴みにしたまま再び視線を鋭くした。
「それから数日経って、タドリス様とディアラルト様が対面しました。そのときもまだ、元に戻らないままで」
メフェルスは苦しそうな顔だった。私も、あまり楽しくない思い出を語らせている自覚はあったので、茶化さずに真剣な表情で受け止める。
「楽しそうでした。とても嬉しそうにタドリス様にじゃれついている様子は、本当に、事件の前のようで、」
前髪をかき混ぜて、メフェルスが歯噛みした。あんまり辛そうなので、わざわざ正面切って尋ねたことを少し後悔する程だった。
「でも、震えてたんです。ずっと、タドリス様の顔を見ているあいだ、絶え間なく、ずっと。さも怯えているかのような態度で、それなのに、タドリス様に甘えてるんです」
気味が悪い。そう吐き捨てて、メフェルスは俯いてしまった。
「ディアラルト様とタドリス様の間に何かがあったことは明白でした。タイミングからして、それが前皇帝陛下の崩御に何らかの関連性がある可能性も非常に高かった。
……そんな人間を、皇位に就ける訳にはいかない」
「そうね」
力強く頷き、同意を示す。メフェルスは再び顔を上げて、口を開いた。
「それに、もしタドリス様が皇帝となれば、ディアラルト様を守りきることが格段に難しくなることも目に見えていました。だから、僕たちは、その意思を確認することもなく、無理やりに」
私はふと背中にピリつく何かを感じて、ゆっくりと振り返った。メフェルスは重々しく告げる。
「まだ幼いディアラルト様を、皇帝という座に就けたのです」
感じたのは人の気配だった。
息を飲み、私は立ち上がって窓際に寄った。メフェルスは言葉を止め、私の動きを目で追う。
「どうしました」
部屋の隅でひっそり立っていたフォレンタが、私の側に来て問うた。私は窓の外に目を凝らしたまま、迷いながら口に出す。
「……誰か、来たわ」
「嘘」とロズウィミア嬢は立ち上がって私の肩越しに外を見る。あまり晴れてもいない夜なので、外は暗く、見通しは利かない。
「見えないわ」
「見えませんけど……。何か、気配があったというか」
「野生の勘ね」
心なしかどこか失礼な感想を吐いて、ロズウィミア嬢は窓ガラスに顔がくっつきそうなほど身を乗り出して外を眺める。
「何かあったんですか?」
メフェルスが私たちに近寄って、やや首を伸ばして窓を覗き込んだちょうどそのとき、モルテ公爵家の門の灯りの下に、人影が浮かび上がった。
濃い色の毛並みをした馬を走らせてきたその人は、手綱を引いて、門の前に止まった。なかなかの勢いだったのに、全く上体がぶれない。何故かって?
「レゾウィル様……!」
あれが、我らが筋骨隆々宰相のレゾウィルだからね!
「な、何でこんなところに!」
メフェルスは目を剥いて卒倒しかけた。フォレンタに容赦ない一撃をその背中に食らわされると、すぐさま正気を取り戻して窓に張り付く。
「本当にレゾウィル様なの? 遠くて分からないわ」
ロズウィミア嬢はさりげなく庭の広さを自慢しながら(邪推である)首を傾げた。確かに、屋敷から門まではなかなかの距離があり、顔まではっきりと見える訳ではない。しかし。
「いや、多分あれは」
「レゾウィル様ですね」
「ね」
私とメフェルスは頷き合って、確信を深める。あの僧帽筋はレゾウィルだ。そんなに見慣れてる訳じゃないけど。
「隠密」
メフェルスは天井を見上げて呟く。
「はーい」と頭上から明るい声が聞こえ、そのせいでロズウィミア嬢が腰を抜かした。私は当然隠密くんがずっと天井に潜んでいることには気付いていたので、別に今更驚くこともない。
「ちょっと待ってくださいね、ここのお屋敷、なかなか天井が外れなくて」
何やらがさごそと身じろぎする音が少し続き、「うんしょ」と気合いを入れた声と共に、壁の一部がずれて、隠密くんの顔が覗いた。ロズウィミア嬢は再び「ひっ」と声を漏らして尻餅をつく。
「お呼びですか?」
きょろ、と目を動かして、床に転がっているロズウィミア嬢を見ると、「ごめんなさい」と隠密くんはやや申し訳なさそうな顔になった。
ごほん、と咳払いひとつ、メフェルスが上を見たまま言う。
「レゾウィル様が門のところまで来ている。内密にここまでお連れしろ」
「モルテ公爵家の人にも知らせずですか?」
「公爵には僕が今から伝えてくるよ。出来るだけ目立たないように頼む」
軽く身支度を整えて部屋を出ていこうと歩き出したメフェルスに、隠密くんが微妙な顔をした。
「それはちょっと、レゾウィル様の体格を鑑みると……」
「難しいか……」
メフェルスも額を押さえて、眉間に皺を寄せる。
「じゃあ、レゾウィル様に大声を出させないようにして連れてきてくれるかな」
「それなら何とか!」
ぱっと表情を輝かせて、隠密くんの顔は消えた。
「ハードル、下がりすぎでしょ……」
私は呆然とそれを見送り、ロズウィミア嬢は部屋を猛然と出ていったメフェルスの背中を眺めながら呟いた。
「……理解が追いつかないわ」
扉をばたーんと開けて、レゾウィルは姿を表した。
「おお、クィリアルテ様、こんばんは!」
「レゾウィル様、大きな声を出さないでくださいってばぁ!」
「ロズウィミア嬢もおられたとは! 久しぶりにお会いしましたな、ますます美しさに磨きがかかっているようで何よりですぞ」
「大声出さないでくださいって何回も言ってるじゃないですかぁ!」
「む、メフェルスはどちらへ? あれに用があって、こうして急いで馬を走らせて来たのですが」
「もう! 静かにしてくださいってば!」
縦も横も大きな体躯の周りを、小柄な隠密くんがぴょんぴょん飛び回って、その口を塞ごうとする。必死の形相の隠密くんを、レゾウィルはじゃれつく子犬を避けるように適当にあしらい、意にも介さない。
「レゾウィル、静かにして。今は夜よ」
あまりにも隠密くんが可哀想なので、私も口添えした。するとレゾウィルは豪快に額を叩き、「なんと、失念しておりましたぞ」と高笑いする。
私は思わず半目になって、隠密くんを見た。『でしょう』みたいな顔で見返してきた。
控えめな音を立てて(レゾウィルを見たあとだと尚更そう感じる)メフェルスが部屋に戻る。憮然とした顔で隠密くんを見、「僕のところまで聞こえたよ」と低い声で呟いた。隠密くんは心外だと言わんばかりに頬を膨らませて、レゾウィルを指さす。
「ぼくが何を言っても大声出すんですもん」
「なに、大声など出していない。言いがかりはやめてくれ」
「言いがかりじゃないですぅ……」
メフェルスは一瞬で納得したように目を細めて私を見た。『でしょう』と言うように頷いておいた。
「レゾウィル様、あまり騒ぐと皇帝陛下が起きますよ」
メフェルスのその一言で、レゾウィルははっとしたように目を見開き、すぐさま口を閉じた。
な、何だ、今の魔法の言葉は!
「何のご用事か聞く前に申し上げておきます。タドリス様が今日の夜会にいらっしゃって、皇帝陛下を拐かして帰っていきました」
メフェルスの言葉に、レゾウィルは血相を変えた。ただ驚いただけではない、焦りのようなものがその顔に浮かび、メフェルスも眉を顰める。
「それで、一体どのようなご要件で、わざわざこのようなところまで」
ロズウィミア嬢が「よくも『このようなところ』とか言ってくれたわね」と小さな声でぼやいたが、レゾウィルは聞こえなかったように、暗い顔で逡巡する。
「御者が、見つかった」
ややあって、レゾウィルが口を開いた。私とフォレンタは首を傾げたが、メフェルスとロズウィミア嬢は揃って目を見開く。
「ど、どこで」
メフェルスは動転したように声を裏返らせながらレゾウィルに掴みかかった。それを振り払わずに、レゾウィルが低い声で応える。
「北オルデ山脈の谷底の村だ。周囲から隔絶された、閉鎖的な村で、地図にもなかった」
眼光鋭く、レゾウィルは虚空を見据えた。愕然としたように、メフェルスが口を押さえた。
「では、生きて、いたと」
「そういうことだ」
とうとう崩れ落ち、床に膝をついたメフェルスが、両手で顔を覆う。その肩が震えていた。レゾウィルはそれを咎めるでもなく、黙ったまま立ち尽くしていた。
「ぬん?」
私は腕を組んで、首を傾げた。何だかメフェルスとレゾウィルは二人で気分が高まっているようだが、私はさっぱり、蚊帳の外である。
「フォレンタ、分かる?」
「いえ、私にもさっぱり」
分からないですね、とフォレンタも腕を組みつつ、「これは推測ですが」と口を開いた。
「確か皇帝陛下のご家族は馬車の事故で亡くなられたとか。崖崩れだそうですね。ということは、御者も巻き込まれたと考えるのが道理でしょう。しかし、先程レゾウィル様は『御者が見つかった』と仰った。つまり、これまで御者は見つかっていなかったのです。その御者が見つかったということは、皇帝陛下を乗せた馬車は崖崩れには巻き込まれていなかったことになり、馬車の事故があったか否かの真偽さえ揺らぎかねません。ですので、この発見によって事態が大きく変わる、そういうことではないでしょうか」
「もしかして当時一部始終見てらした?」
そばにいたロズウィミア嬢は、気味の悪いものを見るようにフォレンタを眺めた。
ようやく落ち着いたレゾウィルとメフェルスの二人は、空いていたソファに並んで腰掛けた。……レゾウィルがいる側だけ妙に軋んでない?
背の低いテーブルを挟んだ反対側に、私とロズウィミア嬢も揃って座る。フォレンタは私の斜め後ろで黙って立っている。あれ、隠密くんがいつの間にか消えてる……。
「最近見ないと思ってたら、ずっとその御者を探してたってこと?」
私は首を傾げた。思えば、レゾウィルはここ最近、ちっとも姿を見せなかった。体格も声も大きいから、いたら気付きそうなものだし、多分お城にいなかったんだろうと思う。
「そうですな。何年も探してはいましたが、有力な情報を得たため、夏頃から城を離れて捜索をしておりまして」
「宰相がそんなでこの国大丈夫?」
「大丈夫ですぞ、元々宰相としての仕事はほとんどしておりませんゆえ」
「駄目じゃないの」
胸を張って言い切ったレゾウィルに、私は渋い顔をした。それをフォローしてメフェルスが言うには、「上が多少難ありでも、優秀な部下が多くいれば組織ってのは回るんですよ」とのこと。……ねえ、それって本当にフォローしてる?
「要するに、御者は、生きていたんですね」
念を押すように、メフェルスがゆっくりと問う。レゾウィルは重々しく頷き、メフェルスの言葉を肯定した。
「口説き落とすのに一週間も要した。余程強く口止めされていたようでな」
唸るようにレゾウィルが呟いて、それから、逡巡するように視線を彷徨わせた。
「……結論から言いましょう」
全体に向けて、レゾウィルが告げる。私も居住まいを正して、奥歯を噛み締めた。
「前皇帝陛下とその家族における馬車の事故は、存在しない」
私は、ゆっくりと息を吸った。詳しい事情を知らない私でさえ、これが大問題であることは容易に理解出来たのだ。
「すなわち、あれは、れっきとした暗殺ということに他なりませぬ」
事故ではなく、暗殺というものがあったのなら、そこには被害者だけでなく、もう一人の当事者が存在せねばならないだろう。……誰にだって分かることだ。
暗殺は、それを企て、実行する加害者が存在しなければ、決して成されないのだ。
その加害者が誰なのか、私は既に知っている気がした。この場にいる全員が同じ人を思い浮かべているはずだった。
「……タドリスさん」
誰も口に出さないその名を、私は恐る恐る唇に乗せた。誰も答えはしなかったが、決して否定もしなかった。
「御者が言っておりました」
レゾウィルは私の言葉を引き継がず、まるで関係のない話を始めるかのように、口を開いた。そうではないことは分かっている。
「『馬車の事故が起こって、皇帝陛下が亡くなった』。そう告げた人間がいた、と。姿を隠すことを強制し、家族を人質に取ってまで囁く人間がいたと」
ですから、自分でさえ、どのようにして皇帝陛下が亡くなったかは知らぬと、そう言っておりました。
足元から冷気が忍び寄るような錯覚を起こした。私は身じろぎひとつ出来なかった。
「恐らくどれも同一人物でしょう。
誰が御者にそう言ったか。誰が御者を誰も知らぬ間に隠したか。誰が皇帝陛下の死をいち早く知ることが出来たか。
――――誰が皇帝陛下を弑することを企てたか」
この場の誰もが知っている人。皇帝をおかしくしてしまう人。
「御者が教えてくれました」
昏い目をしたレゾウィルが低く囁く。憚るように、忍ぶように、何よりおぞましい呪文を唱えるかのように、そっと。
「タドリス・イル・パンゲア」
やはり、と、味気ない感想が、私の中に浮かんだ。
***
問題は、証拠がないことらしかった。物的証拠は、7年も経った今では何も残っていないはずだし、御者を連れてきて証言させても、ぽっと出のおじさんの発言では、タドリスに退けられる可能性があるのだそうだ。
タドリスの地位はどうも不安定で、地位は高いが爵位は無いし、王族かと言われると微妙で、それでもそこらの貴族よりは力を持っている状態らしい。現在皇位継承権を持つ、唯一の直系だそうだ。タドリスより順位が下の人達は、数世代前に皇女が降嫁したどこかの公爵家に繋がるらしい。
ともあれ、そんなことは関係なかった。議題に上げるべきは、タドリスは簡単に排することの出来ない程度に力を持っているという事実である。
しかし、標的をタドリスに定めることが出来たというのは、大きな進歩だった。これまではもっと多角的に調査を進めていたのが、タドリスの周辺のみで済むのだ。天井で隠密くんが「任せてください!」と気合い十分な宣言をしていたし、案外何か見つかるかも知れない。
***
……タドリスが、前皇帝一家を殺害したとして、それが解明されたとき、この人は幸せになるのだろうか。救われるのだろうか。
傷つきはしまいか。
タドリスと面したとき、まるで事件の前に戻ったかのように退行するのは、きっと、この人なりの自己防衛だ。こどもに戻ってまで忘れようとした事実を突きつけられたとき、この人は果たして自分を維持出来るのだろうか。
「ね、皇帝陛下」
皇帝はベッドに身を沈めて、静かな寝息を立てている。その脇の床に尻をつけて座り込んだ私は、その顔を覗き込んだ。
布団の外に出ている片手を撫で、低い声で囁く。
「あなたが幸せじゃないと、わたしが、困っちゃうんですよ」
手が、動いた。私の指先を握り込み、皇帝が細く瞼をもたげた。
「クィリアルテ嬢、」
灯りのない部屋で、皇帝が、薄らと笑みを浮かべたように見えた。私は膝立ちになり、視界に入り込むように首を伸ばす。
「俺は、幸せな人間だと思うか」
咄嗟に、息が出来なくなった。私は答えに窮して、唇を噛む。皇帝は急かさずに、掌を合わせて私の手を握り直した。
「……分かりません」
ややあって、私は小さな声で答えた。皇帝は声もなく笑うと、寝返りを打って私の方を向いた。その赤い色をした目が、私を写して、緩く細められる。
「でも、幸せな存在であって欲しいと、そう思っているのは、絶対ですよ」
甘やかすように囁いてやったら、酷く嬉しそうに笑った。何故か、握られていない方の手が伸び、気が付いたら皇帝の髪をかき混ぜていた。
「そうか」
唇をほとんど動かさずに応じた皇帝は、私の手を振り払わなかった。それを黙認として、私はなおもその髪を握り込むようにして頭を撫でた。
「ありがとう」
肘をつき、皇帝が体を捻って上体を僅かに起こす。頭の位置が動き、自然と手が落ちた。息がかかりそうなほど近くで目を合わせて、皇帝は穏やかに微笑んだ。
「貴女は俺を縛った癖に、俺を救うんだな」
どこか苦笑する響きがあった。責めるような調子で言った皇帝が、布団から手を抜いて、短くなった私の髪の先を摘んだ。首筋に指の腹が触れ、首を竦めると、皇帝はくすりと笑みを深めた。
「あの、……いきなりこんなこと言うのも変かもですけど、元気出して下さいね」
今日、レゾウィルが来たことを皇帝は知らない。レゾウィルも明日、人目につかないように(多分無理)城へ帰ると言っていた。
だから、私の言葉の意図がよく分からないと言わんばかりに皇帝は首を傾げ、それから、私の顔に指先を伸ばした。
「むひぃ」
いきなり頬を摘まれて、私は目を瞬いた。
「生意気な。……言われなくても元気だ」
声を出して笑った皇帝が、悪ガキめいた表情で私を見る。私は憮然として唇を尖らせた。
「もう夜も遅いだろう、早く寝なさい」
口角を釣り上げて笑って、皇帝が数度、私の頬を軽く引っ張った。ふぎふぎと声を漏らし、私は皇帝の手を叩いて抗議する。
「やめてくらはい」
「ははは」
きつく手を叩いたら、ようやく皇帝の指が離れた。頬を擦りながら睨みつけると、皇帝は肩を揺らして笑っていた。
「じゃあ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
そそくさと部屋を辞し、扉の隙間から手を振ると、皇帝もひらりと手を振った。