4 愛されたかった大人がいた
女王のお手紙騒動から数日。
あれから皇帝の精神が安定した。何でだ?
「おはよう」
不穏な様子なく言って、皇帝が私の向かいに座った。朝食の席での話である。
「おはようございます」
私も返して、小さくあくびを漏らした。
食べ始めて少ししたとき、皇帝はふと思い出したように顔を上げた。
「どうしました?」
私が促すと、皇帝は頷いて口を開く。
「モルテ公爵領の収穫祭がまた開催されるが、行くか」
「……夜会はありますか?」
「ある」
私は黙り込んだ。モルテ公爵領の収穫祭ってことは、あれだ、夏に行ったのと同じやつだ。ロズウィミア嬢の実家のやつでしょ?
美味しいものが食べられるし、外に出るのは嫌いじゃないから是非とも行きたいところだが、問題は夜会である。前回はロズウィミア嬢に対してびびっていたせいでろくに覚えていないが、あまり愉快な思い出はない。散々緊張した。
「うーん、どうしようかしら」
腕を組んで悩む。夜会は嫌だ。何故なら私のマナーがなっていないからである。ロズウィミア嬢のように、それこそ息をするように優雅な動きが出来るのならまだしも、私は全身に緊張を走らせながらおしとやかに歩かねばならない。悪かったね気品がなくて。
「是非行ってみてはいかがですか」
フォレンタが珍しく明るめの声を出して言った。皇帝も頷く。
「秋の収穫祭って何が食べられるの?」
フォレンタを振り返ると、彼女は少し考えてから答えた。
「穀物と、果物ですね。収穫したての小麦を使ったお料理と、ぶどうやりんごなどの果物狩りが楽しめるそうです」
「行くわ」
「決断がお早いことで」
「楽しそうだから」
私は皇帝に向き直り、「行きたいです」と宣言した。皇帝は鷹揚に頷き、分かったと応じる。
やっぱりこういう季節イベントがないとね!
拳を握って、私はよだれが垂れないように口を閉じた。
***
そうと決まれば日が経つのは早い。
馬車に揺られながら、私は外を眺めていた。
「秋って空気が良いですよね、澄んでるように感じます」
馬車の窓を全開にし、そこから顔を出しながら私は言った。涼しい風が頬に当たる。
「んー、涼しいですねぇ」
そう呟いた私の隣で、自身の体を抱きしめながら震えている皇帝が漏らした。
「……寒いぞ」
何を隠そう、二つある窓を全開にしたこの馬車の中、風がびゅんびゅん通り抜けるのである! それは寒い。悪かったね。
「私もそろそろちょっと寒くなってきました」と窓を閉めると、目に見えて同席者たちがほっとした。あ、今の、別に暖かいの意のホットとかけてる訳じゃないですよ!
「今日行ったら、夕食が夜会なんですよね」
「確かそのはずだ」
うーん。心底逃げたいが、食べ物は食べたい。二律背反ってまさにこのことよね。
「クィリアルテ様、今、夜会には出たくないけど夕食は食べたいとか思ったでしょう」
フォレンタは何気なく私の内心を言い当て、ちらりと私を見た。
「駄目ですよ」
「うへぇ……」
夜会において皇帝が役に立たないことは実証済みだし、何だかんだ私たちに話しかけにくる人が多いのもまた事実である。
「大丈夫ですよ、今回はロズウィミア様も味方ですから」
メフェルスが根拠もなく言う。適当なこと言いやがって。でも確かにそうよね。
「そうね、ロズウィミア様と仲良くなったことだし、前回のあのアウェイ感は軽減されてるはずだわ。そうでしょ」
勢い込んでメフェルスに問うと、「だといいですね」と返された。流石にそこら辺は適当なことは言えないらしい。
「しかしモルテ公爵家の収穫祭は、何せ料理が旨くてな」
腕を組んで、皇帝がしみじみと呟く。あれは多分、脳内に何かしらの食べ物の味を召喚している顔だ。
「今回はパンにパスタにピザから始まり採れたての果物までありますからね」
メフェルスが頷いた。う、腹が減ってくる。食べたい。
「そのためなら夜会も苦じゃないですよね」
とどめを刺すように、フォレンタが私をしっかり見ながら、ゆっくりと言う。念を押すように全員から見られ、私は最後の抵抗として「うむむ」と唸ると、それから深くため息をついた。
「喜んで参加させて頂きまーす……」
片手を上げ、私はがくりと項垂れた。
王都からモルテ公爵領へは直通の道路もあるので、ある程度距離はあるもののあまり時間はかからないし快適だ。道中休憩したかったらすぐに街があるしね。宿場町ってやつかな。
そろそろ屈託したので、馬の休憩だったり馬車の点検も兼ねて一旦馬車を降り、私たちは街に降り立った。
「いいですか、勝手にうろちょろしないで下さいよ」
怖い顔をしてフォレンタが言う。私は大人しく頷いておいた。外にいるときは大人しくする。これ私が得た教訓ね。大事なこと。
大人しく広場のベンチに皇帝と二人並んで座りながら、私たちは特にすることなく道行く人影を眺めていた。背後は兵士たちでがっちり固められており、どちらかと言えば私の側に偏っている。
何となく思うところがあったので、試しに座り直す風を装って腰を軽く浮かせた瞬間、背後の気配が一瞬にして張り詰めた。やっぱり。
「……そんなに警戒しなくても、いきなり走り出したりしないわよ」
後ろを見るともなく呟き、私は不貞腐れて唇を尖らせた。ベンチを囲んでぴりぴりしている兵士たちをちらりと振り返りながら、皇帝が小さく笑った。
「はは、すっかり危険人物扱いされてるな」
「誤解を招く表現はやめてください……」
肩をすぼめて拗ねる。なんだなんだ、みんなして……!
「何なんですか、この厳戒態勢。私がそんなに暴れん坊だとでも思ってるんですかね」
「前科があるからな」
「否定はしませんけど」
こんにちは、きっちり護衛を遠ざけた上で攫われる、誘拐被害者のプロみたいなことをやらかしたわんぱく小僧です、どうぞお見知りおきを……。ちぇっ。
「クィリアルテ様、いい子にしてましたか」
「馬鹿にしてるでしょ、ねぇ、あなたやっぱり私のこと馬鹿にしてるでしょう」
颯爽と現れたフォレンタが問う。ちょっと、失礼なんですけど。
「大丈夫だ、ちゃんといい子にしてたぞ」
「それならよろしゅうございます」
「何で普通に答えてるんですか」
私はぶすっとして腕を組んだ。周りの対応が完全に引率の大人みたいだ。ははーん、要するに、これは私の遠足ですかね? これはまたえらい大勢引率の先生を付けていただいて……。くそぉ。
「いい子にしてましたか?」
「お、お前もかー!」
ひょっこりと顔を出したメフェルスに、今度こそ耐えかねて私は地団駄を踏んだ。
「いい子にしていたようなのでご褒美をあげましょう」
言って、メフェルスは私の前にしゃがんだ。背中に隠していた手を出して、何かを私に差し出す。
「何これ」
「ここの名産です」
受け取って、私はそれをまじまじと眺めた。小さい紙袋だ。温かい。ほかほか。
口が二回折られているだけの紙袋を開き、中を覗き込む。卵大の黄色い塊が見えた。
「……イモ?」
「イモです」
皇帝も同じ紙袋を受け取り、手の中で転がしている。私は傾けて中身を半分ほど出し、まじまじと眺めた。
「イモを潰して固めたのをふかしたの?」
「そのようです」
フォレンタが頷き、私はどうやって食べようかと思案した。
こ、ここは、『かぶりつくなんて出来ません!』とカマトトぶるべき局面か!? 結構、道行く市民の視線も感じますけど!
「なんだ、食べないのか」
私が固まっている間に一口食べたらしい皇帝が、私の手元を覗き込む。皇帝のイモの形を観察し、そこに歯形を発見した私は確信した。
なーんだ、かぶりついていいんかーい!
大喜びで大口を開け、イモにかぶりついてから、若干静まり返った雰囲気に気付き、私はイモを咥えたまま固まった。
「いささか、……一口が、大きい……ですかね」
言葉を選んだ様子でフォレンタが呟く。
「……思い切りの良さが素晴らしいな」
励ますように背中を叩かれ、私は憮然として頷いた。
「この、イモ潰しふかしが名産なの?」
「いや、イモの方ですね」
メフェルスは即答すると、街並みを片手で指し示した。
「見ての通り、イモスイーツでいっぱいです」
「ほんとね」
建ち並ぶ土産屋も、あちらこちらに見える看板も、どれもイモの絵が描いてある。どうやらサツマイモに似た何かみたいだ。
「その中で、どうしてこれ?」
半分ほどまで食べ終えたふかしイモを掲げて問うと、当然のことのようにフォレンタが答える。
「作る過程が単純で、異物混入が難しいからです」
「異物混入って」
もうちょっと言い方を取り繕って欲しい。ほら、安全確認が容易だから、とかさ……。
「蒸し器から取り出したあとに作業がないのも理由ですね」
「あー、確かに」
最後に『ソースをおかけしますね』とか言って、変なものをかけられてはたまったものじゃない。まさか自分の店に皇帝が食べるものを調達しに来るとはあらかじめ予想出来ないしね、その段階での混入はそんなに心配しなくて大丈夫だろう。この分だと毒味も済ませてきた感じがする。
「結構気を使ってるのね」
「ええ、もちろん」
再びイモを(控えめに)齧って、私は柔らかいそれを口の中で転がし、舌で押し潰した。そのとき鼻から抜けた匂いが、どこかで嗅いだもののような気がして、首を捻って考える。間もなく答えは見つかった。
「これ、蜂蜜が入ってますね」
既に食べ終わっていた皇帝は、味を思い出すように斜め上を見る。少し黙ってから、「言われてみれば」と頷いた。
「リンゴの蜂蜜ですね」
フォレンタは看板に目を留めながら呟いた。視線の先には、なるほど、ハチとリンゴの絵が描いてある。あいにくその脇の文字は読めない。
「リンゴでも蜂蜜って採れるんだ」
「案外、色々な花から蜂蜜は採れますよ」
ふぅん、と呟いて、私はイモの最後の一欠片を口の中に押し込んだ。
「美味しかったです」
紙袋を折り畳みながら皇帝に言うと、彼は素直に頷いた。
「手頃な大きさで軽食にも良い」
「私は結構お腹いっぱいになりますけどね」
中身のない会話をしながら馬車に戻ってからも、モルテ公爵領への道はまだ続いた。
***
モルテ公爵の屋敷に到着したのは、昼下がりだった。タイミングを逃して昼食はまだ食べていない。お腹が空いて力が出ない。
「クィリアルテ様、しゃきっとなさいませ」
ぼうっとして突っ立っていた私の両肩に勢いよく手を置き、大きな声を出したのはロズウィミア嬢だった。
「はいっ」
な、なんでこんなところにロズウィミア嬢が!
一瞬にして背筋を正し、気をつけをした私は、それから目を瞬く。
「あ、ご実家ですもんね、そりゃいますよね」
「私がいることに驚いてらしたのね」
呆れたように腰に手を当ててロズウィミア嬢が嘆息した。
「ようこそおいで下さいました」
モルテ公爵がさりげなくロズウィミア嬢を押しのけて前に出た。不満げな顔で脇にずれたロズウィミア嬢も、一緒になって礼をする。
「昼食がまだだとお聞きしました。ご用意させて頂いたのでどうぞお入り下さい」
その言葉に、俄然目を輝かせて私は公爵を見上げた。不躾だったか、と気付いたのは、気まずそうに公爵がそっと目を逸らしてからだった。
案内された食堂で、隣に並んで昼食が運ばれてくるのを待っている間、私は微妙な気持ちでいた。
「……夜会に出なくてもお料理が食べられるんですね」
ぼそっと呟くと、モルテ公爵とロズウィミア嬢は首を傾げたが、皇帝は目に見えて動きが鈍くなった。
「……夜会は出ると約束したはずだよな」
「出なくても良いなら出たくないですけど」
「俺もだ」
ごほん、とメフェルスとフォレンタが同時に咳払いをした。
「失礼ですよ」
「少々口を噤んで下さいませ」
……確かに、主賓二人が主催者の目の前で夜会に参加したくないと表明しては、あまりにも申し訳ないというものだろう。
「ごめんなさい」
「悪かった」
取り敢えず素直に謝り、背後の二人が満足げに鼻を鳴らしたところで、料理が運ばれてくる。
「わぁ、美味しそう」
湯気が立ち上るトマトのスープに、色鮮やかなサラダと、あと温かそうなパン。絶対焼きたてだ。
「昼食ですのでそこまで重たいものは用意させませんでしたの」
ロズウィミア嬢は既に食べ終えた後のようで、私の正面に座って、どこかほのぼのとした笑顔を浮かべている。……前に来たときとは大違いだ。
「こちらにいらっしゃるということは、ロズウィミア様は有給を取ったんですか?」
「あらかじめ日取りが分かっている行事ですもの、ずっと前に取っておきましたわ」
鼻息荒く胸を張ったロズウィミア嬢に、メフェルスが「よく言うよ」とげっそりした顔で呟いた。
「あら、私、ロズウィミア様が直属の上司に手土産を持って前日にお願いしに行くところを目撃したのだけれど……」
聞きかじった情報を白々しく口に出すと、目に見えてロズウィミア嬢は顔を引き攣らせた。傍らのモルテ公爵の顔がゆっくりと彼女の方を向く。
「……ちゃんと仕事はしてますわ」
言い訳のように呟いて、ロズウィミア嬢は気まずそうに縮こまった。
「メフェルス殿」とモルテ公爵は重々しく口を開く。かしこまってメフェルスが応じ、モルテ公爵は険しい表情で問うた。
「ロズウィミアは職場でうまくやっていますか」
見るからに答えづらそうな顔をして、メフェルスが目を逸らす。言葉を選ぶように視線をうろつかせ、何とか絞り出した答えは「存在感があります」だった。
絶対褒め言葉じゃないじゃん。私が抱いたものと似たような感想をモルテ公爵も持ったらしい。
「……そうですか」
どこか哀愁漂う表情でモルテ公爵は深く頷き、しばしの沈黙が落ちた。
「まあ、ロズウィミア嬢はなかなか強烈だからな」
悪意のなさそうな皇帝の言葉に、メフェルスと私から同時に肘鉄が入った。
「……強烈、」
詳しく、と促されて、メフェルスが渋々語り出す。本人とその親(しかも公爵)を前にして職場での評価を語らされるとは、なんか、ちょっとした罰ゲームである。
「まず、文官のほとんどが男性であるうえ、城で働く文官には平民出身の者も多く、貴族家の出としても、もう少し爵位の低い家からの者が多くてですね」
しどろもどろに解説を始めたメフェルスに、恐らく既にそんなことは知っているであろう公爵は、真面目な顔で頷く。
「伯爵家や侯爵家以上ともなると、下級文官といった実務的な仕事と言うよりは、もう少し上の管理職になると言いますか」
公爵家は言わずもがな最高位の爵位である。まあ確かにそこのご令嬢が下積みから始めるって珍しいわよね。
「しかしロズウィミア様たってのご希望で、下積みから始めたいとのことでしたので、そういった背景も込みで目立ちがち、ということです」
そう締めたところで、モルテ公爵は片手を挙げてメフェルスの言葉を遮った。怪訝な顔をするメフェルスに、公爵は当然のことのように告げた。
「メフェルス殿、城では貴方が上司でしょう。ロズウィミアに敬語は必要ありません」
「え、えーっと……」
メフェルスが目を白黒させて、黙り込む。気持ちは分かる。とても分かる。何故なら王女で皇妃の私がロズウィミア嬢に敬語だからだ。メフェルス、その気持ち、めっちゃ分かる。ロズウィミア嬢には敬語だ。なんかそんな感じがする。
「こ、ここは、モルテ公爵への敬意の現れとして、これまで通りにしてはどうでしょう」
私は拳を握って力説した。メフェルスも一緒になって頷いた。
モルテ公爵は何か言いたげな顔で私を一瞥し、それから苦笑した。
「そういうことに致しましょう」
そう言ってから、横を見る。
「ロズウィミア、随分幅を利かせているみたいだな」
低い声で呟かれた言葉に、ロズウィミア嬢がぴくりと揺れた。私とメフェルスは顔を見合わせて、頬を引き攣らせる。
「……そ、そのようなことは」
ロズウィミア嬢は、いっそ冗談かと思うほど上擦った声で目を逸らした。毛先をくるくるし始める。
メモメモ。ロズウィミア嬢の弱点はお父さん。
***
秋晴れの空を見上げ、それから私は、土の色の見える畑を眺め回した。嫌味なほどに澄んだ青だけがやけに目についた。
窓を開け放ち、半分ほど体を乗り出して、口を開けて息を吸う。不快でない冷たさの気配を孕んだ空気が喉元に絡んだ。
……さあおいで、いい子だから、こっちへおいで。
みんながあなたを望んでいるんだ。あなたの慈悲を願っているんだ。
――そう、そこへ立ちなさい。それでいい。すぐ終わるからね。ああ、すぐだ。少し痛いかも知れないね。でも大丈夫。これはみんなが幸せになるために必要なんだ。
一瞬、目の前が拭われたように錯覚した。
夏にここに来た。私はここにいた。小麦の穂が揺れ、生の気配が濃厚な、腹の底に染みてくるような暑さに晒された大地に立っていた。
背筋が冷えた。全身を覆うように冷気が襲ってきた。指先が悴む。皮膚が痺れるように鈍く痛み、視線は情けなくうろついたあと、一点に吸い寄せられた。
あのとき、その人は目の前にいた。
あれはわたしの罪だ。課された罰だ。
誰かが嗤った。その人は毅然と顔を上げたままだった。ふとわたしの姿に目を留めて、愕然としたように唇を戦慄かせた。
いい子。かわいい子。
いつもそう言ってくれたその人は、金輪際、わたしに優しく語りかけることはなかった。
「クィリアルテ様、支度を致しましょう」
音もなく背後に立っていたフォレンタが告げた。私は一瞬体を強ばらせてから振り返り、頬を緩めた。
「分かった」
……胴体を締め付けられて悶絶したのはそれから数分後のことである。
「良いじゃないか、可愛いぞ」
控え室、疲労困憊して背もたれに体を預ける私に、皇帝が腕組みをして言う。私は「ありがとうございます」と息も絶え絶え返すと、身をよじった。
『全然強く締めてませんよ、普段楽な格好ばかりしているからそうなるんです』とフォレンタは容赦なく私にドレスを着付けたのである。後半部は強く否定しないが、『全然強く締めていない』は嘘だと思う。
「こんなに締めたら食べ物が入りませんよね」
ぼやく。恐らくその辺りにも狙いがある気がしないでもないが、不満は不満である。
「俺にはよく分からないが」と答えあぐねたように皇帝は言葉を濁した。まあ、皇帝がドレスを着てるのを目撃なんかしたら卒倒しそうな人を一人知ってるので、そりゃそうだよなと頷く。
「それでも、入るだけ詰め込みますよ。食べるのを楽しみに来てるんですから」
「その意気だ」
決意を込めて鼻息荒く宣言すると、私は立ち上がった。背筋を伸ばして、きりっとした顔を作る。
「さあ、行きましょう」
これより往くは魑魅魍魎渦巻く戦場である。生半可な気合では突破出来まい。
そこまで気合を入れなくてもいいぞ、と皇帝の言葉を背後に聞きながら、私は颯爽と歩き出した。
***
「むり……」
会場の隅にいたかったのに、あれよあれよと主賓席に座らされた。前回の反省を生かして私たちの分の席をわざわざ用意してくれたらしい。わあ、ありがとうございます。余計なことしやがって。
会場の入口からそのまま直進、突き当たり。大丈夫? 主催者はモルテ公爵なのに、一番目立つところに客を置いて大丈夫? ちょっと礼儀作法が怪しいのが一人いるけど、本当に大丈夫?
「そ、そもそも、私って正体がばれちゃ駄目なんじゃないでしたっけ」
ローレンシアの王女であるというのは最高機密だったはず。そんな私がこんなところで大々的に座っていていいものか。
皇帝は事も無げに「そもそもローレンシアの王女の顔があまり割れていない」と答えた。……そうですか。そりゃ写真のない世界観ですからね……。肖像画も大量印刷して配るような代物ではない。
「それに、ここにいれば、あまり変な手合いが近寄ってくることもないだろう。目を引くからな」
「確かに」
前回の反省を生かすんなら、まずそこを対処すべきよね。ほら、お金を掠めとってたどっかの子爵とか、そういうのが来ないように。
私たちだけ指定席だったことのいい点はと言えば、料理が自動的に運ばれてくることである。いや、もちろん手動ではありますけど。
食べ切れる量、全ての種類の料理が順次運ばれてくる。これで食べ漏らしがないって訳だ。いいねえ。
「……入らないって言ってなかったか」
「そんなこと言いましたっけ?」
食べ終えた皿の山の横で、私はしらばっくれた。
焼き立ての匂いがするパンを、しっかりちぎってから食べる。分かってますよ、それくらい。イモは齧ったけどね。
「パンをちぎっただけでそう威張るんじゃない」
「……それもそうですね」
ほら見ろと胸を張っていた私は、そのまま静かに小さくなった。食事作法はきっちり女王に仕込まれたので、それだけは何とか取り繕えるが、どうもそれ以外の作法となるとなかなかに厳しいものがある。歩き方とか話し方とかその他諸々。皇妃が平民出身だって噂が出回るのも分かるってもんよね。ありがたいような切ないような……。
ぼんやりと会場を眺めていた私は、ふと入口に目を留めた。足早にそちらへ歩いていく公爵の姿を見つけたからである。
「皇帝陛下、」
剣呑な表情で会場を横切る公爵に、ただごとでない匂いを感じた私は、声を潜めて呼びかけた。顔は入口を向いたまま、唇もほとんど動かさないまま。
私の視線を追って、皇帝もそちらを向いた。何か言おうとしたように半開きになった唇が、そのまま動きを止める。ややあって、その隙間から言葉が零れ落ちた。
「……叔父上」
あまりに低く小さな声だったので、初めは空耳かと思った。けれど皇帝は確かにそう言ったのだ。会場の入口で、公爵と対面している人影をはっきりと目視しようと、私は目を凝らす。
おーっと、見たことはあるが思い出せないぞー……!
頑張れ私の記憶力、あれは一度会った顔だ……。
ふむ、叔父なのか。道理で何となく皇帝に似ている。雰囲気を鋭くした皇帝が年取ったみたいな感じだ。……どこかで会った気がするな……。
皇帝は入口から目を離さないまま言う。
「メフェルスを呼んできてくれないか」
このタイミングで!?
会場の雰囲気がやや戸惑い混じりのものに変わりかけているこのときに、主賓の私が席を立ってうろうろするのは流石にはばかられた。
ちょいちょい、と給仕の青年を手招きして、「メフェルスを呼んできて貰える?」と囁いた。どう考えても管轄外の仕事に、彼は困惑したように目を瞬いてから、それでもすぐに頷く。
「メフェルス様ですね」
「どこにいるか私も分からないのだけれど……。出来るだけ早くお願い」
分かりました、と真剣な表情で、給仕の青年はその場を立ち去った。まあ公爵家で働いてるってことはきっと優秀なんだろうし、迷う様子もないあの歩き方からするに、すぐ見つけて来そうな感じがする。
「自分で呼んでくださいよ」
大して責めるつもりもなく軽く詰ると、皇帝はこちらを見ないまま「悪い」と呟いた。
「叔父上を見ていると、いつも変な気持ちになる」
「……恋でもしてるんですか?」
「してない」
せっかくのボケもただの否定で受け流され、若干拗ねながら私は再び前を向いた。
公爵はなおも皇帝の叔父に対面して何か言っているが、その背中は困りきったように強ばっている。とうとう会場内の会話はほとんど消え失せ、皆が入口に注目する事態へと達した。
「……ですから、招待状をお送りしていませんので、」
「たまたま通りかかっただけですよ、久しぶりに甥っ子の顔でも見ようと思って」
静まり返った会場に、二人の声が通る。どうやら予期せぬ来客らしい。皇帝の叔父はなかなかに不遜な態度で肩を竦めた。
「ディアラルト、調子はどうだ」
唐突に手をひらりと振る。公爵を無視するかのような、あまりに失礼な態度に、私でさえ鼻に皺を寄せた。私でさえだ。この私でも、あれが失礼だってことくらい分かる。
当然、皇帝はそれを軽く非難するものとばかり思っていた。公的な場において、そういうのを気安く許すような人でもない。
しかし皇帝は、ぱっと表情を変え、頬を緩めて頷いた。
「元気ですよ。お久しぶりです、叔父さん」
人が変わったかのようだった。思わずぞっとした。
肘掛に手をついて、腰を浮かせた皇帝が、明るい笑顔を浮かべる。そのまま立ち上がり、机を回り込んで歩き始めた皇帝に、私は慌てて追いすがった。
「ちょ、ちょっと待って下さい。せめてメフェルスが来るまで」
腕を取られて歩みを止めた皇帝が、振り返って私を見下ろす。きょとん、と言いたげな表情で、彼は首を傾げた。妙に子供じみた仕草で、唇を尖らせる。
「メフェルスが何か関係あるっけ」
「関係あるっけって……。ご自分で呼べと言ったのに、」
私は顔を引き攣らせて口ごもった。そんな私を不思議そうに眺めて、それから皇帝はおもむろに私の手を取った。なんだいきなり!
「そうだ、リアはまだ叔父さんに会ったことがなかったね。紹介するよ」
あるよ! 誰だったか、どこで会ったか思い出せないけど会ったことあるよ!
私が内心叫んでいるうちに、皇帝から表情が抜けた。楽しげだった頬が、落ちる。
「いや、……あるか」
戸惑ったように、視線が宙をさまよった。どこかに飛んでいきそうな思考を引き止めるように、掴まれたままの手を引いた。
「……まあいいや。ほら、行こうよ」
「え、いやあ……それは」
是非とも遠慮したいなー、なんて……。
完全に腰が引けた私を、半ば引きずるようにして皇帝が歩き出す。メフェルスはまだ来ない。全力で厄介事の気配を主張してくる叔父の方へ、否応なしに近付いていきながら、私は心底逃げたくなった。
「叔父さんもお元気ですか?」
小首を傾げて、叔父の元へたどり着いた皇帝が言う。私は見るに堪えず目を逸らした。なんか、その……。成人済みの男がにこにこきゅるんとしているのが、ちょっとキツいっていうか、しかも知り合いなのがまたツラいっていうか。
「元気だよ。ディアラルトも息災で良かった」
皇帝の方が僅かに背が高いのに、それなのに何故か皇帝の方が小さく見えた。まるで家族に甘える子供のようにさえ思えたのは、きっと錯覚だと信じたい。
「さ、入って下さい、叔父さん」
……待ってー! 主催、公爵ですけどー! 主催者が入れるのを嫌がってた予期せぬ客人ですけどー!
問答無用、悪意なさそうに叔父を招き入れて、皇帝は再び席に戻った。私も仕方なく追従して隣に座る。
公爵は苦い顔で、しかし、皇帝に尊厳を傷つけられて気分を害したとかそういう感じでもなさそうだった。あくまで険しい目を向けている先は皇帝の叔父の方だ。皇帝に対してはむしろ気遣わしげな表情をしている。やっぱりこれ何かあるな。
会場の奥、目立つところに机を置かれてそこに座っているかたちなのだが、皇帝の斜向かいにその叔父が座っているので、私からもよく見えた。勘弁してくれないかな。
「こんばんは、クィリアルテさん」
目立たないように小さくなっていたのに、わざわざ私の存在を掘り返して微笑む。ちょっと殺意に似た感情が湧いた。
「こんばんはー……」
名前を思い出せないので、それだけ返すと、相手は「おや?」と顎に手を当てた。
「私のことは忘れてしまいましたか」
「いやいやそんな滅相もないです」
顔の前で手を振って目を逸らすと、にこりと微笑まれた。普通に見ていれば悪い人には見えないが、私の本能が告げる。これは悪役顔だ、と。嫌な予感を全身から醸し出す相手が、口を開いた。
「タドリスといいます。ディアラルトの父の弟ですよ。婚姻の儀のあと、晩餐会でお会いしましたね」
「ばんさんかい……。あ……ああー!」
お、思い出した! 私は仰け反って口を押さえた。そう、タドリス、会ったことある! 晩餐会、結婚式のあとの晩餐会に不意に現れ、メフェルスを初めとした皇帝の周りの諸々を緊張させまくっていた、あの人だ!
自らの記憶力を褒め称えるあまり、あからさまにたった今思い出したような反応を示した私に、タドリスが目を細める。
「……クィリアルテ・シーア・フアフローティエ」
私を真っ直ぐ見据えて囁いた、その言葉はとても小さな声で紡がれたので、今この席に着いている者以外には聞こえなかったようだった。すなわち、私と、皇帝と、タドリス自身である。
……何言ってんだ?
「かつてローレンシアからパンゲア東部にかけて広く使われていた言語です」
何で今それを? 何を意味する言葉だ?
けれど私はその響きに覚えがあった。昔、意味も知らないまま学んだ、古詩による歌の一節だった。
「春の花揺らす東風」
皇帝が言った。私を見た。こっちを見るんじゃない。
妙にくっさい現代語訳ですねと言おうとしたけど、やめておいた。そういう場面ではなさそうだし。
「……私の名前の話ですか?」
意図せず少し面倒くさそうな対応をしてしまったが、タドリスは意にも介さず頷いた。
「古語は後置修飾が多いので、この場合、先程の一節は風・春の・花を揺らす、という順になります。ですから、あなたの名前は風を意味している。――あの詩においては、詠まれた場所が明白ですので東風と訳されますが」
「へぇ……」
知らんがな、という気持ちと、教えてもらえて嬉しい気持ちが同居した。微妙である。
「ご存知でない?」
「そうですね、」
何か探るような目で、タドリスが私に確認した。正直が美徳(自称)の私は素直に首肯する。タドリスは何か納得したように微笑んだあと、皇帝に目を移した。
……なんだ? 今、私、学識チェックでもされたんだろうか。これじゃ絶対失敗ね……。
「ディアラルト、今度、一緒に出かけようか」
身を乗り出して、タドリスは親しげな口調で語りかけた。私は思わず目を剥いてタドリスを見る。策略の匂い以外、何もしない。
「いいですね」
よ、よくなーい!
私は心中で総ツッコミを入れ、皇帝をタコ殴りにした。無論、現実の皇帝は無傷である。
何考えてるのよ、よくないでしょう。万が一これが実現なんかしたら、メフェルスの胃に穴が開く。絶対にだ。
「いつ行きますか?」
「それはおいおい考えようか」
考えなくて良いから! 私は鼻息荒くタドリスを睨みつけた。あまり正面きっては出来ないので、上目遣いと判別が難しい程度である。下手すれば熱い視線に取られかねない。
案の定、こちらを振り返った皇帝が、やや不機嫌そうな顔で私の手を引いた。別にあなたの叔父に夢中になってた訳じゃありませんけど。
「じゃあ、約束だな」
タドリスは腰を浮かせた。頬を緩めて、皇帝の顔を覗き込む。
「はい」
嬉しそうに大きく頷いて、皇帝も立ち上がる。私はそれを呆気に取られて見ていた。……そんな簡単に、施政者が、約束なんて取り付けて良いんだろうか。
「私たちは家族だ。そうだろう、ディアラルト」
その言葉のあまりに無神経なことに、私は唖然とし
た。皇帝のご家族が亡くなったことはロズウィミア嬢から聞いてるし、それからずっと心が荒れてたってのもこれまたロズウィミア嬢から聞いている。……私の情報源、ほぼほぼあの人だな。
そんな皇帝に向かって、自らを家族と呼称する? いや、まあ人によっては叔父、三親等も家族と呼ぶかもしれないけど、でもやはりメインは父母と兄弟でしょう。皇帝の場合は兄姉か。
悶々と考える私の傍らで、皇帝が朗らかに笑った。何のてらいもなく、まるで教えこまれた習慣のごとく、当然のように笑ったのだ。
「はい、叔父さん」
このタドリスと対面する前まで、皇帝が、彼を『叔父上』と呼んでいた声が、ふと私の耳に蘇った。
「皇帝陛下!」
見苦しくない程度に猛然と歩いてきたメフェルスが、タドリスの姿を見つけて目を剥いた。彼がばっと公爵の方を振り向くと、公爵も苦り切った表情で肩を竦める。結構あからさまなジェスチャー示すのね。
「では私はこれで」
メフェルスと入れ違いになるように、タドリスは自然な動作で席を立ち、会場を去ろうとした。すれ違いざま、メフェルスがその横顔を鋭く睨みつける。タドリスはつと立ち止まり、今気付いた素振りでメフェルスを見た。
「ええと、君は」
首を傾げたタドリスに、メフェルスは唸るように応じる。
「メフェルスと申します。皇帝陛下の側近です」
「ああ、そうだったね」
白々しい。私の知る限り、少なくともこの二人は、私がタドリスに会ったのと同じ晩餐会で、今みたいに殺伐としたやり合いをしているはずなのだ。忘れるはずもない(私は忘れてたけれど)。
何故だか分からないけれど、タドリスはいけ好かなかった。理由はないが大嫌いだ。この人は悪い人の目をしている。根拠? ……ま、ヒロインの勘ってやつかな!
「ディアラルトがいつもお世話になっているね、ありがとう」
「僕が皇帝陛下にお仕えしたくてお仕えしているので、タドリス様にお礼を言われるような筋合いはございません」
メフェルスはにべもなく切り捨てた。それから、胡乱げな表情でタドリスを眺めると、口を開く。
「ところで、本日はどのようなご用事で? 参加者名簿にはおられなかったようですが」
き、切り込むなあー! 剣呑さを表面に出したメフェルスの言葉にも、タドリスは飄々とした態度を崩さない。
「可愛い甥っ子の顔を見に来てはいけないのかい」
「公爵家にも用意というものがございましょう。招待もしていない客人に来られては予定が狂うというもの。
そもそも皇帝陛下は既に成人された立派な大人です。タドリス様がそのように世話を焼かれる必要はないのでは」
タドリスは一瞬虚を突かれたような顔をして、それから肩を揺らして笑った。
「はは、そうか。私にとってはいつまでも、……小さな、甥っ子のままのように見えてね。ついつい甘やかしてしまうんだ」
全身の毛が逆立つ、とはこのことを言うのかもしれなかった。メフェルスの四肢が一瞬にして強ばるのが見て取れた。大きく目を見開いたメフェルスが、身体の脇に下げた拳をわなわなと震わせながら、頬を引き攣らせて何とか微笑みのようなものを形作る。
だれのせいで、と、食いしばったその奥歯の隙間から、獰猛な呻き声が漏れたような気がした。
「そう、ですか、」
しかし、ようやく明確な輪郭を伴って吐き出された言葉は、その表情とは裏腹に、友好的なまでの明朗さを保っていた。
「素敵な家族愛ですね」
恐らく、痛烈な皮肉だったのだろう。しかしメフェルスは言った自分が傷ついたような顔をして、それきりただ押し黙った。
そんなメフェルスを一瞥して、最後に「ありがとう」と微笑むと、タドリスは悠然と会場を横切り、その場を去った。
「行ってしまったね」
皇帝が残念そうに私に言った。それに答えることが出来ず、私は曖昧に頷いた。
(唐突に出てきた古詩に関しては、1章1話目の初っ端でもちょっと触れてます)コソッ
2018/03/19 言い回しを一部変更