3 愛した大人がいた
皇帝の執務室の前に陣取り、腕組みをして仁王立ちしているメフェルスを、私たちは少し離れた廊下で見ていた。
「恐らく女王陛下からの手紙が到着するのは、もうそろそろでしょう」
「皇帝の手に渡る前に、何としてでもメフェルスに回収して貰わないといけないのよね」
フォレンタがおおよその事情を話したのか、メフェルスもこの事態は全く承知だ。皇帝へ直通で来るであろう手紙を彼が途中で奪い去り、私たちで検閲をする予定である。皇帝の精神状態が揺らぐような内容があれば黒塗りにする構えだ。
待つこと数分。毎日、皇帝へ提出される書類が来る時間になった。
「もうじきね……」
「あ、足音がしましたよ」
身構えた私に、フォレンタが気軽な調子で言う。私は拳を握って、足音がする方を見つめた。
「ろ、ロズウィミア嬢……!」
颯爽と紙の束を抱えて歩いてきたロズウィミア嬢に、思わず私の腰が引けた。私からロズウィミア嬢が見えるということは、向こうからも私が見えるということである。ロズウィミア嬢は、フォレンタと一緒に廊下に立ち尽くしたままの私を発見して、怪訝な顔をする。
「クィリアルテ様、そのようなところで何をむごごご」
「ちょ、ちょっと静かにしていて下さい」
彼女は当然のごとく、ある程度離れたところにいた私にある程度大きな声で呼びかけようとした。それを咄嗟に阻止しようと、メフェルスがロズウィミア嬢の口を塞いで必死の形相をする。
「いいですか、静かに聞いて下さい」
ロズウィミア嬢は、いきなり断りもなく顔面に触られるという恐怖体験に、どうやらパニックに陥っているらしい。
「その中に皇帝陛下への手紙はありますか」
目を白黒させながら、ロズウィミア嬢が手の中の紙をめくって確認する。どうやら種類ごとに分けられていたようで、紐でまとめて括られた封筒の束はすぐに見つかった。
「むごご、むごごごご」
「これが手紙ですか」
「むごぉ」
「ありがとうございます」
片手でロズウィミア嬢の口を押さえたまま(そろそろ放してあげて欲しい)、メフェルスが封筒を受け取る。片手で器用に束を繰り、メフェルスは目的のものを見つけたらしい。
こちらを向いて、唇で「ありました」と言う。私は拳を握り、メフェルスを手招きした。私が前に立っているこの空き部屋で女王の手紙を検分する手はずである。このためにわざわざ理由をつけて開けさせた。いつもは会議とかで使う部屋らしい。
廊下をダッシュで走ってゆくメフェルスを見送ったロズウィミア嬢が、呆気に取られたまま立ち尽くす。呆然としたまま皇帝の部屋に向き直り、礼儀正しくノックをすると、そのまま扉を開けようと、取っ手を押しかけた。
「わっ」
「ロズウィミア嬢、今メフェルスがここにいたか」
しかし空振り、ロズウィミア嬢は哀れにもつんのめって床に紙の束を落とす。皇帝が扉を開けたせいだ。皇帝は何か異変を感じて出てきたらしく、怪訝な表情をしている。
慌てて床に屈み込み、紙の束を拾い始めたロズウィミア嬢を見下ろし、それから皇帝は、ゆっくりと顔を上げ、……こちらを見た。
走り終え、部屋にそそくさと入ろうとしていたメフェルスと、早く入れと言わんばかりにその背を押していた私は、同時に固まった。
「まあ、体調がお悪いようで」
フォレンタが聞こえよがしに大きな声で呟くと、さりげなく皇帝から目を逸らす。私もそれに習って顔を背け、そのままメフェルスの背中を押した。
「そんなに体調が悪いなんてー」
「そうなんですよー」
「じゃあぜひそこの部屋で休みましょー」
「お言葉に甘えてー」
棒読みで言いながら、私たちは一列になって部屋に入り、そのまま扉を閉じた。
……今、何が起きた?
「さっき皇帝陛下いなかった?」
私は念の為メフェルスに訊いておく。メフェルスは首を傾げ、「さあ」ととぼけた。
「でも何ででしょう、悪寒が止まりませんね」
「奇遇だわ、私もなの」
現実逃避ここに極まれり。フォレンタはばっさりと「目撃されましたね」と呟いた。
「ぎゃー!」
叫んだのは私だけだった。メフェルスはもはや一言も発さず、窓を開け、高さを確認していた。
「飛び降りて逃げるには少し高いですが、どうせ死ぬなら」
不穏なことを呟き始め、窓枠に手をかける。私は蒼白になってそれを止めようと追いすがり、肩に手をかけた。それを慌ててメフェルスが振り払おうと身を捻り、私はよろめきながらも踏ん張る。
扉が開いた。
窓際で押合いへしあいしている私たちを数秒見て、それから皇帝は呟いた。
「……無理心中か?」
違ーう!
***
「要するに、ローレンシアの女王陛下から手紙が来ることをあらかじめ知っていて、不都合な点がないか俺に見せる前に確認しようとした、と」
「まあそう言えばそうなんですけど……。これには深いわけがあると言いますか……」
そのまま皇帝の部屋まで連行され、私たちは壁際で直立したまま、汗を垂らしていた。拭いたいが、腕を少しでも動かすと逃走の意思ありと取られて怒られるので、迂闊なことも出来ない。
「メフェルス」
皇帝がメフェルスの前に立ち、片手を差し出す。私は必死に横目でメフェルスに目配せし、彼は苦悶の表情を浮かべながら震え始めた。
「じ、自分の意志と皇帝陛下の命令との間で揺れ動き、ついに物理的に揺れ始めた……!」
解説役の三下ザコキャラのような言葉を吐きながら、私は固唾を飲んでメフェルスを見守る。
「うぐぐ」
その手が、ゆっくりと、上がる。手紙を持った手だ。
「駄目、耐えて!」
「うぐぐ」
メフェルスの手がぷるぷると震えている。皇帝はこの茶番に付き合う気になれなかったのか、中ほどまで上がった手から手紙をさっさと回収すると、まじまじと封筒を見る。
「女王陛下は字が綺麗だな」と皇帝は感心したように呟いた。
「悪かったですね、王女の方は字が下手で」
感心した様子の言葉に反射で噛み付いてしまった。私の前であの大嫌いな女王が褒められていると嫌な気分になる。
「ほぁ!?」
私が顔を顰めた瞬間、部屋の隅から素っ頓狂な声が響いた。
私たちは全員凍りつく。
「……ろ、ロズウィミア様」
私は後ずさりしかけ、背中から壁に激突して止まった。やってしまった。狼狽え、口を手で塞ぐ。
「お、王女?」
「なな、何でここに」
「王女? ローレンシアの?」
「きか、きかれた、聞かれた」
「王女様? まさかクィリアルテ様が?」
「違いますぅ!」
どうやら皇帝に書類を届けたあと、そのまま仕分けでもしていたらしい。椅子に座ったまま、ロズウィミア嬢が唖然として私を見る。
「貴女という人はどうしてそう周囲を確認せずに……!」
皇帝が崩れ落ちた。でもロズウィミア嬢がいることを言わなかったの皇帝じゃん。それに結構ギリギリな話してたじゃん。
「ぎぎ銀山、ナツェル銀山が」
メフェルスが壊れる。おい。真っ先に銀山か。貴様の目には私を通して銀山しか見えていないのか。
しかしまあ気持ちは分かる。何せ今の私の失言で、契約不履行(私が王女ってことは黙っててね契約)で銀山譲渡の話がなくなるかもしれないからだ。……何かごめんね。
フォレンタは少し迷ったように腕を組んでから、片手を挙げる。
「女王陛下からは、『クィリアルテにお友達が出来たそうですね、信頼出来そうならある程度の事情は話しても良いです』と仰せつかっております」
「およ?」
私は首を傾げた。そんな話は聞いていない。
「聞いてないわよ、そんなの」
「申し上げていませんでしたから」
「言ってよ」
「今言ったじゃないですか」
二人で床に手をついて落ち込んでいた皇帝とメフェルスは、がぜん元気を取り戻して顔を上げた。希望に満ちた表情である。
「『恐らくクィリアルテはお友達に対してそのうちぽろっと漏らしてしまうと思うので、もしそのような事態が起こった場合、誤解を招く前に弁明しなさい』とのことなので、これはクィリアルテ様の失言を前提とした許可でございます。まさにこの状況と合致するかと」
「素晴らしい英断だ」
「なんと聡明な」
「何だか全員失礼よね……」
私は不服を前面に表した表情で腰に手を当て、そのまま壁際から逃げるように離れると、ロズウィミア嬢の隣に座った。
「ロズウィミア様、黙っててごめんなさい」
ぺこりと頭を下げると、ロズウィミア嬢はまだ動転したように私を見たまま硬直し、口を開閉させる。
「クィリ、お、王女様、え、あの、」
「そういうのいらないです」
「ローレンシアの、えっと、出身で、えっ、平民じゃなくて、」
「王女です」
「嘘よ……」
私の肩を掴んだまま、ロズウィミア嬢が絶句した。それはそれで悲しいものがある。ほら、なかった? 例えば内側から滲み出る隠しきれない気品とかさぁ……。
「全然気付かなかったわ……」
「…………。」
あ、そうですか。
ロズウィミア嬢を落ち着かせるのに数分を要した。そうだよね、ただの平民出身だと思ってたらちゃんとした出自だったからね、驚くよね。うんうん。ごめんね気品がなくて。
「つまり、ええと、クィリアルテ様はローレンシアの王女様で、なおかつ皇帝陛下の初恋的な何かで」
「盛りだくさんですよね!」
頭痛がするというように額を押さえて、ロズウィミア嬢は目を瞑った。頑張って考えているらしい。
「ちょっとすぐには受け止めきれないわ、混乱してしまって」
「だから俺も最近ずっと混乱しているんだ」
何だか申し訳なくなるほど、うんうん唸っている皇帝とロズウィミア嬢を眺めて、私は頬を掻いた。
「簡単に言うとですね、……皇帝陛下は実際に見たからご存知だとは思うんですが、私、ローレンシアにいた頃は王女としての待遇を受けていた訳ではなくて」
そうなんですか、とロズウィミア嬢が皇帝を向く。皇帝は記憶を浚うように斜め上を見上げながら頷いた。
「訳ありの使用人か何かかと」
「実際に使用人として働いてたから事実ではありますけどね」
ぴし、と皇帝が固まった。ロズウィミア嬢はまだ飲み込めないようで、「ん?」と呟いている。
「まあ取り敢えず女王陛下のお手紙を見てみようじゃないですか」
私は言って、皇帝の手から封筒を取ると、そのまま背後のフォレンタに渡した。フォレンタは何の抵抗もなく手紙を受け取り、封筒から便箋を取り出す。数度その目が文字を追うように斜めに降りた。
「大丈夫そう?」
「……はい」
フォレンタは頷き、再び手紙を皇帝の元へ戻した。一瞬、何か言おうとしたように唇がぴくりとしたが、結局彼女は何も言わなかった。
読んでみてください、と促すと、皇帝は未だ茫然自失の様相を残しながらも、便箋を手に取った。
「ええと、しばらくは挨拶が続いて、……ここからか」
挨拶をざっくり読み飛ばす。まあ、らしいと言えばらしいと言うか……。
『私のとある思惑により、クィリアルテは王女としてではなく、一介の使用人に準じた立場で育てて参りました』
「要するにいじめですよ、いじめ。あの人継母ですからね、私のこと嫌いなんですよ」
私も嫌いだけど、と鼻を鳴らす。たしなめるようにフォレンタが咳払いした。
『ですがまあ何か色々とありまして』
私は目を剥いた。
「あ、アバウトすぎる!」
一国の女王が隣国の皇帝に送る手紙とは思えないほどアバウトである。濁しすぎだ。いきなりごにょっとした。
『急遽、縁談を打診させて頂き、今日に至ります』
まあ嘘はついてないよね、と私は頷く。まあ……。全然何が言いたいのか分からないけど。
『本日このようにお手紙をお送りさせて頂いたのは、そのクィリアルテの身元が少々危ぶまれているとの話を聞いたことに由来します。元より存在を隠していた彼女を何も言わずに引き取って下さったことは、本当にとてもありがたい。ですが、今この段で王女であるかの真偽を問題とし、こちらへ送り返されては、私としても困るのです』
私は首を傾げた。皇帝もそこまで読んで、釈然としないものがあったのか、眉を顰める。
「王女が祖国に帰って何の不都合があるってのよ……」
そうまでして追い出したかったか、と私は唇を引き結んだ。何せ、領土の一部を明け渡してまで押し付けたかった王女である。
『クィリアルテは正真正銘、ローレンシアの第一王女です。――と、この場で私が申し上げたところで、さしたる証拠にはならないでしょう。むしろ問題を大きくしかねません。
証拠を同封致しました。必ず返却して欲しいとは申しませんが、もしよろしければ、また送り返して頂きたく存じます』
皇帝が、もう少し先まで読んでから、怪訝な顔をして封筒を手に取った。傾ける。
「絵、か……?」
ハガキ程度の大きさの紙を手に持ったまま、皇帝が首を傾げた。私はテーブルに手をついて身を乗り出すと、首を伸ばして皇帝の手元を覗き込んだ。
幼い赤子を抱いた夫婦の絵。見覚えのある色彩だ。
「……これ、お城の玄関にあった絵だわ」
私は呟いて、唖然として瞬きを繰り返す。
でも、どうしてそんなものが、ここに?
「それに、あの絵はもっと大きかったはずなのに」
「誰かに写して描かせたのか?」
「そうかもしれません」
それにしては、妙に、古いと思った。この事態を終結させるための証拠として提出する用途で描かせたのだとしたら、変に、古びて……。
「わぁ、クィリアルテ様にそっくりですね」
皇帝の後ろに立っていたメフェルスが驚いたように漏らして、私の顔と絵を見比べる。
「クィリアルテ様のお母様? ほんとう、よく似てるわ」
皇帝は私の方に見えるよう紙を裏返すと、絵を見せた。
「一応聞くが、これは誰の絵だ?」
私はゆっくりと息をした。脈拍が変に高鳴った。
「――前王夫妻と、その、娘。つまり、私の、……お父様、と、おか、さまの」
フォレンタはそれを肯定するように頷き、「ぜひご覧下さい」と絵を裏返させた。
立ち上がって皇帝の方へ移動したロズウィミア嬢が、その絵をまじまじと眺めて呟く。
「前妃殿下、本当にクィリアルテ様にそっくりね。驚くほど血の繋がりを感じるわ」
私には絵の裏側しか見えないが、メフェルスと皇帝も食い入るように絵を見つめていることは分かった。
皇帝は納得したように絵をテーブルに戻すと、再度私の顔を見た。
「これでは血の繋がりを疑いようもないな」
苦笑して言った言葉に、ロズウィミア嬢は人差し指を立てて反論した。
「でももしかしたら、実はとてもそっくりな影武者だとか。絶対にないとは言い切れませんわ」
言いつつ本人も真剣に言っている様子ではなく、その目は笑っている。
「いや、それはありえませんよ」とメフェルスはいきなり口を開いた。腕を組んだまま、楽しそうに肩を揺らす。
「だってフォレンタさん、命を賭してまでクィリアルテ様をお守りしようとしたでしょう」
私は「は?」とフォレンタを振り返った。彼女はごほんと咳払いをすると、「はて、何のことでしょう」と首を傾げた。
「なにそれ」
フォレンタの服を引きながら問うも、彼女は頑として口を割るつもりはないようで、無言のままだ。
「パンゲアに来たばかりの頃、あんまりにもクィリアルテ様が怪しいので、フォレンタさんに少しカマをかけたと言いますか」
「ふーん」
面倒臭い奴だなぁと適当に頷くと、メフェルスは「あれ?」と首を傾げた。
「覚えてませんか?」
「え? 知らないわよ……」
フォレンタは再度大げさに咳払いをすると、話を逸らすように「ところで」と言いかけたが、メフェルスはそれに乗らない。
「婚姻の儀の朝にすったもんだあったでしょう」
「……あ、痺れ薬事件!」
皇帝とロズウィミア嬢は「何だそれ」「その頃私はまだ面識がないですわ」と囁き合っているが、それにはこの際取り合わないことにする。
そう、忘れもしない(今ちょっと出てこなかったけど)メフェルス腹黒案件の痺れ薬事件である。婚姻の儀の日程をフォレンタだけに知らせ、彼女に痺れ薬を渡して私に飲ませろと命じたあれである。薬は本物じゃなかったし、結局今でも何をしたかったのかよく分からないが、あの一件でメフェルスが面倒臭い人だってのはよーく分かった。
なお私のポンコツぶりによって、フォレンタが私に全てをバラしたことがメフェルスに知れたのだ。今思い返すとあのときの演技は酷かったわね。ははは。
メフェルスは肩を竦めながら続ける。
「クィリアルテ様は、事前情報の怪しさもさることながら、言動も一切意図が読めず、本気でミラクルを起こしているのか、全て計算ずくであれなのか分からなかったので」
「何か今ちょっと馬鹿にするニュアンス感じたんですけど」
「フォレンタさんの方がむしろ分かりやすいかと思って」
フォレンタはもはや話を逸らすことを諦めたようにため息をつき、不服そうな顔をしたままメフェルスをじっと見据えていた。
「ただの無害な粉を渡して、『これは痺れ薬だ、王女に飲ませなければお前を殺す』と仰りましたね」
鼻を鳴らしてフォレンタが呟いた。それを聞いたメフェルスを除く全員は、目を剥いて彼を見た。
「お前、そんなゲス発言してたのか」
「見損ないましたわ」
「それはやばいわ……」
慌てたのはメフェルスである。
「いや、そこまでどぎついことは言っていないというか……。『どうなるか分からないぞ』程度しか」
「似たようなものです。とてもではありませんが主君に輿入れしてきた王女の付き人に対する態度ではありませんでした」
冷え冷えとした目をしてフォレンタが吐き捨てる。何故か優勢になったのはフォレンタだ。力強く腕を組んで、鋭い表情でメフェルスを睨めつけた。
「でも、フォレンタ、私に飲ませなかったね」
私は思わずにこにこしながらフォレンタに言った。
「婚姻の儀の日程も口止めされてたんでしょ? それも私に教えてくれたし、薬を飲ませるように言われたってのも全部教えてくれたし」
フォレンタは動きを止めた。普段通りの真顔が、若干崩れた。唇の端が引き攣り、気まずそうな表情になる。
「自分がどうにかなる覚悟で私を守ってくれてたの?」
追って質問すると、フォレンタの頬にじわりと赤みがさした。その目線が、すいっと私から離れる。
「……私はローレンシアの侍女ですので」
私はにやにやして、肘でフォレンタの脇腹をつついた。酷く不満げな顔になったのでこれ以上はやめておこう。
「何はともあれ、侍女がそのような覚悟をもってお守りする人間が、ただの影武者とは思えません。フォレンタさんが女王陛下と懇意であるというのは聞き及んでいたので、女王陛下に隠し事をされているということもないかと考えまして」
メフェルスは雑にまとめて、肩を竦める。フォレンタはじろりとメフェルスをもう一度睨むと、よそを向いた。
「取り敢えず、クィリアルテ嬢はちゃんとローレンシアの王女と断定して良いわけだ」
「そういうことになりますね」
失礼ね、最初から王女だって言ってるじゃない……。
私が内心で文句を言っていることも知らず、皇帝はまた絵を見ながら感心したように唸った。
「……となると、ローレンシアでは、正当な王家の血を引くクィリアルテ嬢を、」
「こき使ってました」
私は淀みなく答えた。慣れた事実なので迷う余地もない。声は思いのほか強くなり、その硬さに皇帝は意表をつかれたようだった。
「……ここに来る前に、私は、ローレンシアで愛されて育った王女であると言え、と。そう言われました」
私は、手持ち無沙汰にテーブルの天板を指でつつきながら呟く。声に険が含まれないように。ただ、事実だけを述べるように。
「私の両親は私が小さい時に亡くなって、……お母様が先に。そのあとにお父様が」
正直言って、ここにいる人はみんな、そんなこと知っているとは思ったけれど、それを自分の口から出すことに意味があるように思えた。
「お母様が亡くなってから、新しい王妃様が来ました。現女王陛下です」
洗い直せ。何かがそう囁く。何が起こったのか、見つめ直さなければならない。
「それから、腹違いですが、私の弟が生まれました。現在の女王陛下を見ても分かる通り、ローレンシアにおいて王位継承権は男女のどちらにもあります。しかし、私の王位継承権は剥奪されて、……弟にそのまま流れました」
王がいて、その次の王位継承権。順位で言えば、その配偶者である王妃が一位で、その次が王の子供。未成年だったからね、これで成人していれば子供の方が優先される。
ただ、その場合、姉である私の方が上にいたはずなのに、私は王位継承権を剥奪されて、第二位になったのが弟。その決定が議会で承認されたということは、何ら違反性もないってことだ。国のシステム的にはね。
「……あれ?」
私ははたと言葉を切り、動きを止めた。何かが引っかかったのだ。
「それで、それから、お父様が亡くなっ、て……」
立派な葬式だった。誰もが悲しみにくれていた。金糸がふんだんにあしらわれた法衣を纏った司祭が列をなした。継母の腕に肩を抱かれた小さな弟が、身を竦めて泣いていた。その傍らに立つ継母は、あまりにも鋭い目をして、国王の肖像画を見据えていた。
そのとき、わたしは、父を、『殺された』のだと断定した。思えばそう感じたきっかけは何だったのだろう。父の葬儀でのことだった。
わたしは参列を許されなかった。会場に入ることすら出来なかった。わたしは父を見送らなかった。見送れなかった。駄目だったのだ。最低だ。最低だ。
どうして許されないのか。……わたしが、王位継承権を剥奪されるような、欠陥のある王女だから。
「……わたしの王位継承権が剥奪されたとき、お父様は、まだ、生きてたんだ」
今、それに気が付いた。足元が抜けたように感じた。目の前が暗くなった。
「私、てっきり、全部あの女王陛下がやったものだとばかり思ってました。でも違う。違うんですね」
視界が戻った。気遣わしげな表情の皇帝が目に入った。
「……わたし、」
呆然と呟く。
「実の父親にも厭われるような、不出来な王女ですけれど、それでも、私を、……追い出さないでいてくれますか」
足が震えた。どうすればいい。私はどうすればいい。
「だってお父様、亡くなる直前まで元気だった。政治の最終的な決定権もお父様にあった。
でも私、王位継承権を奪われたんです。そう決まったんです、お父様が生きているうちに。……つまり、お父様の意思で」
言うな。口を塞いだ手は、情けないほどに揺れた。力が入らない。
「わたしを厭うていたのは女王陛下だけじゃなくて、」
誰かの手が私の肩を抱いた。大きな手だった。温かさが浸透するように伝わった、けれど何故か、体は凍りついたように動かなくて、
「……わたし、誰からも、愛されてなかったんだ」
どうしてそんな勘違いをしていたんだろう。
お父様はわたしを愛してくれていて、ただ継母だけが私を嫌っているだけなんだとか、そんな。
だってそれが定番でしょう。かつて幸せだった少女が両親の死によりどん底に突き落とされ、しかし様々な苦難の末に再び幸福を手に入れるんでしょう。
「私、幸せだった時期なんてないんだわ」
お母様はどうだったんだろう。もう記憶が無い。お母様の顔が思い出せない、思い出そうとしても、もうあの絵しか浮かばない。
そんなの存在しないも同じだ。
フォレンタが何かを言っている。「そのようなことはございません」と張り詰めた声で言っている。でもそんなの口先だけだ。詭弁だ。ローレンシアの人間の言葉だ。――わたしを愛さなかった国の人間だ。
肩に置かれたままだった手に、力がこもった。背に腕が周り、静かに引き寄せられた。頭を撫でられた。甘やかすように優しく囁く。
「それなら、俺が貴女を救いたい」
救うってなに。どの状態を救われたと判断すればいいの。わたしわかんない、わかんない。だってわたし幸せだったことなんてない。わたしは不幸せなんかじゃないわ、だってわたし幸せって何なのかわかんないんだもの。
彼が私の頭を緩く撫でた。その呼吸音だけが、妙な反響を伴って私の鼓膜に染み込んだ。
「それとも僕には無理かな」
手足が重くなる。
彼がわたしを救うって。そうなんだって。どうしてわたしを救うと思う?
わたしが救われる余地のある存在だから。
――それは得てして不幸と呼ばれる状態でしょう。
目の前に光が射したような気がした。
「……救えるとおもう、」
皇帝は体を離して、わたしの顔をまじまじと見るように頬に手を当てた。
「あなたは幸せな人間だから」
わたしがそう囁いたとき、世界には確かに、わたしたちしかいなかった。他の何者も存在し得なかった。
彼は嬉しそうに笑った。嗤った。酷く満ち足りたような表情だった。どこか底冷えする目でわたしを見下ろしていた。わたしの向こうに何かを見ていた。わたしのもたらす『何か』を欲していた。
多分わたしも同じような顔をしていた。その手が慈しむようにわたしの頭を撫で下ろす度に、心が満たされるような錯覚を起こした。わたしが求めているのは彼じゃないのだ、彼が与えてくれる『これ』が欲しいのだ、……
わたしたちの世界には、他の何もいらないでしょう。わたしたちだけがいれば十分でしょう。
ここに、幸福なあなたと、不幸なわたしがいる。
それだけでこの世界は完成する。
突如、ばちんと目の前が弾けたような感覚に襲われた。ぐらりと体が揺らいだ。自意識が宙に浮いた。
「おっと、何か今異世界に飛んでた」
さりげなく皇帝の胸を押して、私は仰け反る。
やばいやばい。何かトランス状態だったよ。うわぁ、クィリアルテお姉さん、びっくりしちゃった。良い子のみんなは真似しないでね。
呆気に取られた様子で立ち尽くしていたメフェルスが呟く。
「えげつない病み方してますね……」
私は「だよね」と同意するように頷いた。ほんとこの皇帝闇が深いというか、何があったんだろ。ただ単に家族が事故で死んだだけとは思えないレベルの闇である。嫌になっちゃうよね。
「一旦出直しましょう」
フォレンタは私を促した。私は横目で皇帝を一瞥すると、そのまま立ち上がる。皇帝は目を見開いたまま固まっていた。
ロズウィミア嬢と一緒に部屋を出て、別れる。ロズウィミア嬢は左へ、私は右へ。
扉を閉める直前に、部屋の中のメフェルスが呟いた。
「……満月の夜でもないのに」
皇帝は狼男みたいな設定でもあるのか? と首を捻る。扉が閉まってから、私はふと思い出した。
皇帝が変になるのって、確かに、夜の方が多い。
思えば、皇帝が私とリアを結びつけた夜も、部屋を荒らして大きく動揺していた夜も、満月だった。
私と皇帝が温室で目覚めた、あの朝の前の夜。あれも、確か。
……どうして私はこんなに満月の日を把握しているんだ? 私はどこかで月の形を意識していたのか。
「おやつの時間にしましょうか」
フォレンタは珍しく自分から言い出した。いつもは私がねだっているものだ。
うん、と応じながら、私は内心で呟いた。
幼い頃に私と皇帝が初めて出会ったあの夜も、満月だったもんね。
……だからあの日わたしは、月の見える温室にいたのだ。