2 愛されたこどもだった
傷心で部屋に籠った私は、必殺技『皇妃権限』を発動して、ロズウィミア嬢を呼び出した。秋の初めに学院を卒業した彼女は、宣言通り城で頑張っているらしい。正直、理系っぽいロズウィミア嬢が文官の道を志望したことは残念な気もするが、まあ元々皇妃になる予定だった訳だしね。同じことか。
すぐさま馳せ参じたロズウィミア嬢は、ベッドの上で蹲り「皇帝怖い」と頭を抱えて呻いている私を発見して、「なんてこと」と呟いた。
私を椅子に座らせて、彼女は私の顔を覗き込む。
「昨晩は大変だったと聞いたわ、大丈夫だったの?」
「昨日の夜は、なんか、子供がえりしてて、……今朝は、なんか、やばかったです」
「お労しい……」
ぐすぐすと鼻をすする私に、ロズウィミア嬢が沈痛な表情を浮かべた。背を撫でながら、彼女が優しく問う。
「一体どんな酷いことをされたの?」
「……おでこに、」
私は口ごもった。
「おでこに口付けられました」
「はい?」
ロズウィミア嬢は呆気に取られたように聞き返す。私は拳を握って力説した。
「メフェルスとお喋りしてたら、なんかいきなり背後に現れて、私を呼び捨てにして、挙句におでこに、私の額に、うぅううう……」
『いきなりのスキンシップ』とでも題して番組を作って欲しい。今まで一緒にカードゲームやボードゲームで楽しく遊んでいた、友達みたいな人に、いきなり過度なスキンシップを受ける私の気持ちを全世界に理解して欲しい。
しかも脈絡がない。なにかラブ系ドキッ系ハプニングによって互いに意識し合うように……とかならまだしも、ただ顔を見ただけなのに初恋の相手だと断定され、あからさまに対応を変えられた私の身にもなって欲しいのだ。
「……それだけ?」
「私のファーストキスですよ!」
「でも額でしょう?」
「私の顔面すべてを合わせたファーストです!」
ふーん、と興味を失ったように白けた顔をしたロズウィミア嬢が頬杖をつく。
「初心なのね」
「そりゃそうですよ」
「既婚者なのに」
「そんな感じは全然しません」
「傍から見てもそうよ」
単純計算で婚約者が亡くなった当時12歳だったはずのロズウィミア嬢を眺めながら、私は唇を尖らせた。
「メフェルスには、いずれ詳しいことを説明すると言われました。……ロズウィミア様も教えてはくれませんか」
「ごめんなさいね」
ロズウィミア嬢は困ったように眉を顰めた。
「メフェルス様に止められているの。私も今となってはメフェルス様の部下ということになるし、迂闊に逆らえなくて」
「やっぱりメフェルスが口止めしてるんですね」
「メフェルス様は皇帝陛下のメンタルケア責任者みたいな人だから……」
メンタルケア全然出来てませんけど、と内心ぼやきながら、私は長く息を吐いた。
「でもね、クィリアルテ様。これでもだいぶ落ち着いたのよ」
「……はい?」
私はロズウィミアが何を言ったのか理解出来ずに、首を捻る。これでも? 落ち着いた?
「昨晩ちょっと暴れたって聞いたわ」
「部屋の中荒らしまくってましたけど……」
「まだマシよ」
ロズウィミア嬢は、言わないでね、というように唇の前に人差し指を立てて、寂しげに微笑んだ。
「ご家族が亡くなってから、ずっとあんな風だったの。昼夜問わず、毎日ね。だんだん落ち着いてきて、今はほとんどそのときの片鱗を見せなくなったと思っていたのだけれど」
「うわ、あれが毎日ってきっついですね」
ロズウィミア嬢が目を伏せる。辛そうな眼差しで、彼女は薄く口元を綻ばせた。
「所詮、私たちは、皇帝陛下の嫌なことに蓋をしただけだったんじゃないかって、今はそう思ってるの」
今はこれだけ、とロズウィミア嬢は笑って、立ち上がった。私の頭を撫でて、静かな声で囁く。
「嫌な思いをさせてごめんなさい。私たちのせいね」
また元通りに戻ったら、土下座でも何でもさせてみせるわ、と冗談めかして言ったロズウィミア嬢に、『実は既にされたことがあります(初夜)』とは言えなかった。
***
思いのほか内に秘めたる闇が激深だった皇帝を思いながら、私はベッドの上でごろごろとしていた。フォレンタがいないので、現在は部屋に一人のみ。まあ特に誘拐の危険がある場所じゃないしね。
フォレンタのことを考えていた矢先に、部屋の扉が開いた。ちゃんと鍵は閉まっているので、フォレンタであることは確かだった。まあ皇帝も城内全ての部屋の鍵を持っているという話だけれど、今の状態だと悪用しそうなのでメフェルスが没収したそうだ。ありがたい。
足音を忍ばせて部屋に入ってきたフォレンタが、静かに扉を閉じた。
「今は天井裏に誰もいませんか」
「うん、夜は流石にね」
私は親指を立てて、勝利の笑みを浮かべる。
「一時期はずっと監視がつけられてたんだけど、夜に裸族のふりをして、部屋の中を下着でうろうろしたら隠密くんは撃退出来たし」
「何をしているんですか」
「やっぱりこういうことが出来る女の人って少ないみたいで、それからも数人入れ代わり立ち代わり来たけど、ちょっと試したらすぐに来なくなったわ」
「何をしたんですか」
「一応、今後も男の人が差し向けられないように下着で過ごしてたんだけど、そのまま部屋で奇声を発しながら踊り狂ってたの。見るに堪えなかったみたいよ」
「ご自分が嫁いだ国の暗部をおちょくって楽しいですか」
「うん、とっても」
フォレンタは、一度天井を見上げ、それから慎重に座ると、スカートのどこかから(見えなかったけどただのポケットじゃないところから)、封筒を取り出した。
「女王陛下からのお手紙です」
私は嫌な顔をしながら、片手を出してそれを受け取る。私がこの世でもトップクラスに嫌いな女からの書面かと思うと、愉快ならざる気持ちになったが、そうも言ってられない。何せ相手は一国の主である。
「ありがとう、ようやく来たのね」
言いつつ封蝋を切って封筒を開くと、便箋を指先で摘んで引っ張り出した。僅かに黄ばんだ紙だ。結構厚い。
「面白い紙ね」
「内密の文書に使う紙です。その紙は少し特殊で」
私はその端を擦りながら、フォレンタを見上げた。
「……とんでもなく燃えます」
「わあ」
取り扱いには気をつけよう、と心に決めつつ、フォレンタに手渡す。残念ながらまだ文字は読めない。
彼女は三つ折りになっていた便箋を開き、息を吸うと手紙を読み上げ始めた。
『手紙を読みました。綴りを誤っているところは15箇所ありましたが、勉強が進んでいるようで何よりです』
初っ端から繰り出された嫌味に、私は鼻白んだ。思わず封筒を持つ手がわなわなと震える。
「な、なんでこんな、最初からフルスロットルで煽ってくるわけ……」
「ふるすろ……?」
「何でもないわ、こっちの話」
うっかり漏らした前世ワードを私が雑に誤魔化すと、フォレンタは咳払いをして、再び手紙に目を落とした。
『ローレンシアにいたときに既に皇帝陛下とお会いしていたという話ですね。もう少し早くフォレンタに相談して欲しかったです。今後は何かあったらすぐに彼女に言うように』
「へー、フォレンタって信頼されてるのね」
「それほどでもございません」
真顔で首を横に振ったフォレンタは、曖昧にどこかを見る。どこか困ったような表情だった。
「……私に仰って頂ければ、内密に女王陛下にご連絡することが出来ますので、ただそれだけのことかと」
「ほんとにそれだけ?」
「はい」
首肯して、フォレンタは真っ直ぐに私を見返す。相変わらず、何を考えているか計り知れない目だった。私を小馬鹿にするときは、あんなに雄弁な表情をしているのに、こうやって何が隠そうとするとき、彼女はいっそ不自然なほど静かな目をする。
「私以上に女王陛下に忠義の厚い人間など、いくらでもおりますゆえ」
「……あなたは女王に忠誠心がないの?」
「多少はございますよ」
フォレンタは、私の目の高さに合わせるように膝を折って屈むと、黙って微笑んだ。
『それで、こちらが伝えていた情報との食い違いが出たそうですね。元々あなたがローレンシア王女であるかの真偽も疑われていたと聞き及んでいます』
うんうん、と頷きながら、私は机に頬杖をついた。この言い方からするに、やはり、フォレンタが定期的に状況を報告していたということだろう。
『ですので、皇帝陛下に直にお手紙をお送りしました』
「はァ!?」
私は目を剥いて立ち上がった。絶句する。
「……あの人、今皇帝がちょっとやばい精神状態だって知ってるの?」
「お伝えはしたはずですが」
実際には『ちょっと』なんてものではない。下手に刺激すると、何がどう跳ねて、いつ自分が被弾するか分からないような状況である。皇帝の中で、突発的に訪れる暴力的な衝動、尋常じゃないほどの幼ごころと、多分に含まれた私への執着が、変な感じで混ざりあってる、この状況で、手紙を送っただと!?
「フォレンタ、これ、まさか、もう、既に届いてるなんてことは」
「……可能性は、なくはないかと」
ダッシュで部屋を出ていきかけた私を押しとどめて、フォレンタが手紙を指さす。
「取り敢えず、行動を起こすのは、最後まで読んでからにしましょう」
「そ、そうね、そんなに長くないものね。軽率は私の欠点だわ」
「まさか、ご自分で理解されていたとは」
フォレンタを無言で少し睨み、続きを促すと、彼女は頷いて手紙を辿り始めた。
『その手紙を机上の剣として用いるもよし。盾として用いるもまたよろしい。どのように話を進めるかは貴女に任せます。貴女が、本当のことを話しても、皇帝陛下が決して貴女を邪険にしないと思えるのでしたら、お好きになさい。貴女の自由です』
その言葉に、私は思わず腕組みをして、低く唸った。
「……どう思う?」
「少なくとも現在の皇帝陛下が、クィリアルテ様についての追加情報を得たとしても、あの執着は揺らがないかと」
「そんな気がするわね」
そう、挙げればきりがないのだ。夏から秋にかけてずっと続いているのでだんだん麻痺してきたが、端的に言えば、明らかに私たちの会う頻度が増している。めっちゃ部屋に来る。今朝でお馴染みメフェルスとの楽しい歓談に割り込んでくる妨害行為など、なんというか、ただただひたすら皇帝が面倒くさい。
「……何て言うの? 実は継母にいじめられてはいましたが、血筋は正真正銘本物の王女です、とか?」
「女王陛下も仰っていますが、それはクィリアルテ様の自由です」
私は少し黙った。まあ、正確に伝えればいいか、と軽い気持ちで結論づけると、私は頷く。フォレンタも応じるように頷いた。
『貴女は正当なローレンシアの王女です。胸を張りなさい』
どの口が言う、と私は舌打ちした。手紙はそれで終わっていたが、予想通り最初から最後まで腹の立つ文面だった。
私は立ち上がり、少し躊躇ったのちに、廊下への扉に手をかけた。
「最初にメフェルスのところに行った方が良いと思う?」
「そうですね。先に皇帝陛下に手紙が来たかお聞きしてしまうと、それで来ていなかった場合、墓穴を掘ることになります」
私は頷き、メフェルスのいそうなところを考えながら答える。
「それが一番怖いわね、皇帝陛下に送った手紙って、一応女王が使えって言ってる訳だし、少しは手助けになるんでしょう? その手紙もなしに特攻は危険だわ」
自分でも冴えてる、と思った。ドヤ顔で言ってのけると、フォレンタは大げさに驚いた顔をして、ぱちぱちと数度手を叩く。
「素晴らしいご慧眼です。何を拾い食いされたんですか?」
「ちなみに言っておくけど、そんなに失礼なこと、あなた以外には今まで言われたことないわよ」
「すみません、正直なもので」
鼻を鳴らしてから、私は扉を開き、取り敢えず皇帝の私室の方へ向かった。メフェルスは常に皇帝周辺のそこら辺でうろうろしているからである。
「もし出てきたら、私は身を隠すからフォレンタが呼んできてね」
「承知しました」
言いつつ、私は皇帝の部屋の前まで到着すると、しばらく様子を伺った。メフェルスが出てきたらすぐに捕まえる構えである。
しかし、ちょうどタイミングよく出てくるなんてことはないだろう。むしろ皇帝と一緒でない可能性もあった。
「……メフェルスの部屋ってどこにあるの?」
「使用人棟にあるはずですが、ここ数日は皇帝陛下のお部屋の隣に陣取って、異常が起きたらすぐに駆けつけられるようにしていると仰っていました」
それを聞いて、私は皇帝の部屋の前で仁王立ちしていたのを、そのまま横移動した。
「ここ?」
「はい」
私は少し躊躇って、ノックしようと腕を振り上げるのをやめる。
「フォレンタが様子を見てきてくれない?」
「そうですね」
脇に避けて、フォレンタに場所を譲ると、彼女は一切の躊躇を見せず、ドアノブを捻った。軽い音と共に扉が大きく開く。
「あら、鍵がかかっていませんね」
「容赦ないわね……」
さっさと部屋の中に入っていったフォレンタを見送り、私は何となく気が引けて、廊下に立ち尽くした。
数秒経って、中から悲鳴が聞こえた。
「ひゃあっ!」
「あ、すみません」
なお、前者がメフェルス、後者がフォレンタの声である。
ドタバタとしばらく騒々しく立ち回る物音が響き、押し問答の声もする。
「何をやっているんですか! 何を!」
「少々訊きたいことがありまして」
私は顔を覗かせて、部屋の中を見た。シーツを体に巻いたままメフェルスが顔を赤くして叫んでいた。飄々とした態度でフォレンタがそれを眺める。
「皇帝陛下に手紙は来ましたか」
「手紙? 何の話ですか」
「手紙ってご存知ですか? 紙に書かれた伝言のことです」
私に比べるとまだまだ全然優しいが、フォレンタはメフェルスのこともだいぶおちょくっているらしい。いつの間にそんなに仲良くなったんだろ。
「だ、そうですよ、クィリアルテ様」
開いたままの扉から顔だけ出している私を振り返って、フォレンタが言った。その言葉で、メフェルスも私の存在に気づいたらしい。ぎょっとしたように仰け反る。
「どうしてこんなところに!」
「んっとね、ちょっと前もって警告しておきたいことがあって」
「やめてください入らないでください来ないでください」
突如としてガタガタと震え始めたメフェルスに、私は「何か変なクスリでもやってる?」と一応訊いておく。
「やってません! は、早くお帰りください、今すぐ僕から離れてください」
「何をそんないきなり対応を変えて……ヒィ!」
音もなく背後に現れた気配に、私は総毛立って立ち竦んだ。肩に手が置かれた。思わずメフェルスの部屋の中にダッシュで逃げたくなったが、本人が鬼気迫る表情で『来るな』と首を横に振っている。その時点で私は背後にいるのが誰か察した。
「クィリアルテ嬢、こんなところで何をしているんだ?」
言わずもながな、皇帝である。
しかし驚いた。いつも通りの立ち居振る舞いである。今は落ち着いているらしい、安心した。
「こんばんは、皇帝陛下」
これはいける、誤魔化せると意気込んで振り返ってから、私は思わずよろめいた。何たること、口調は落ち着いているのに、顔が怖い。まずい。
思わずメフェルスを振り返った。指を2本、――皇帝の精神状態危険レベル2。最近は常にその数値だ。
前に聞いたが、最高は4だそうだ。昨日の夜に部屋を荒らした状態がレベル4らしい。火山みたいな扱いである。
「メフェルスの部屋で何を?」
「えーっと」
迂闊なことを言うとそのまま監禁されそうなほど凶悪なツラで、皇帝は私を捕獲しながら問う。あーそういうのやめてくんないかな……。
「フォレンタが用事があるって言うので、付き添いです」
「貴女がついて行く必要はあったのか?」
恐らく私の論の穴をついただけの反論だったのだが、私はその言葉に目から鱗が落ちるような思いをした。
ほんとだね!
内心、全力で頷く。……確かに! 最初からフォレンタだけに行かせれば万事解決じゃないの……!
「フォレンタがついてきて欲しいと言ったので……」
もちろんそんなことは言えないので、苦し紛れに目を逸らして答える。皇帝の目線が持ち上がり、フォレンタの方を向いた。
「……。」
丸投げするな、という声がありありと聞こえる気がした。フォレンタは冷え冷えとした目で私をじろりと眺めると、一度咳払いをする。すっと音もなく頬に両手を当てた。照れたように目を伏せて呟く。
「……実は、一人でメフェルス様にお会いする勇気がなくて」
「はい?」
メフェルスが信じられないものを見るようにフォレンタを見た。その瞬間、フォレンタは想像を絶するほど上手に、表情のみで小馬鹿にする意思を伝えてのけた。皇帝から顔を逸らしてはいたが、私の位置からはよく見えた。
「……ははは、ソウミタイデー」
平坦な声でメフェルスが頷く。フォレンタも数度首を上下させ、「メフェルス様って素敵な男性ですよね」と一欠片も思ってなさそうな顔で呟いた。
「なんだお前たち、そういう仲だったのか」
意外そうにしながらも、納得した様子で皇帝が頷いた。部屋の中にいる二人から、んな訳あるか、と心の声が揃ったように錯覚した。
「フォレンタ、メフェルスに話があるのよね」
――女王からの手紙について言っておいてね。
目配せしながら言うと、彼女は心得たように頷いた。
「はい、大事なお話がありますので、しっかりお話しします」
――分かりました、代わりに皇帝陛下をどっかに連れてって下さい。
フォレンタもまた私に目配せをした。ちらりと皇帝を目線で指し示す。私は露骨に嫌な顔をすると、表情を戻して皇帝を振り返った。
「あとは二人だけのお話なので、私たちは帰りまーす……」
言いつつ皇帝の腕を引いて、メフェルスの部屋から引き離す。皇帝の部屋の前で腕を離し、そのまま私はそそくさと自室に帰ろうとした。
無論そうはいかない。
「うぐぇ!」
背後から腹に回された手に、私は思わず悪態をつきそうになった。くそ、フォレンタめ、私を人身御供にしやがって……。
「すみません、私は部屋に帰るので放してください」
振り返らずに言う。返事はなく、背中に皇帝の胸が当たる気配がした。放してくんないかな。
「危険だから、貴女の侍女が帰ってくるまで待とうか」
「いえ安全ですので帰ります」
「じゃあ送ろう」
「そっちの方が嫌で……、いや、あの、一人で帰れますので」
一体廊下に何の危険があるんですか!? 20メートルくらいしか距離ありませんけどー!
押し問答しながらも、ずるずると床を引きずられ、気がついたら部屋の中にいた。ちなみに皇帝のだ。
私は酒も飲めないし、夜に紅茶の類を飲む気にもなれなかったので、水差しから注いでもらった冷たい水を啜る。
「すみません、離れて貰えませんか」
隣じゃなくていいじゃん。向かいに座ればいいじゃん。
「嫌なのか」
「嫌かどうかと訊かれると、まあそこまででもないですけど……」
「ならこれで良い」
……私は良くない!
昨日の夜、あんなに荒らされていた部屋は、すっかり元通りになっている。元々大きなものを損壊していないのも理由だろうけど、昨日の夜のうちに誰かが片付けたんだろうな。
そのときに比べて、皇帝はだいぶ落ち着いている。叫ばないし暴れないし退行しない。
「じゃあ、戦盤でもしますか」
私は、皇帝を刺激しないよう、静かな声で言い出した。皇帝はいきなりの発言に、やや虚をつかれたように目を見開いてから、頷く。
戦盤道具一式を持ってきた皇帝が、机の上にそれを並べた。向かい合って座り、それから皇帝は私の思惑に気づいたらしい。
「俺は隣でも出来るぞ」
「でもやりづらいでしょう」
巧妙に(自己評価)、皇帝を机の向こう側に追いやって、私はにやりとした。こういう陣地ものは、向かい合わせでないとやりにくい。
「何だか久しぶりですね」
「何がだ?」
「こうやって、二人で遊ぶのがです」
駒を進めながら、私は皇帝の目を見ないまま呟いた。初めてここに来たのは春だった。この遊びを教えて貰ってから半年が経っていた。
「色々なものを教えて貰いました。ゲームのルールを教えて貰っただけじゃない、人と一緒に何かをするという根本的なものを教わった気がします」
自分で言うのも何だが、私も腕を上げた。やはり経験の差か、ハンデなしではどうも勝てないが、そのハンデも初めに比べればだいぶ減った。つまりそれは、私が何度もこのゲームをしてきたということだ。誰とか。言うまでもない。
皇帝は黙って、自分の駒を進めた。
「だから私は、『そういう相手』だと、あなたのことを思っています。私の世界を開いてくれた人です。それ以上でもそれ以下でもなく」
わたしの唯一のおともだち。わたしに唯一微笑んでくれた人。
私に楽しいことを教えてくれる人。私の唯一のお友達。
「私は、私たちの関係を、友達のようなものだと認識しています」
私はなおも目線を上げないままで告げる。皇帝は静かに息を吸った。
「俺は、多分、分からないんだと思う」
私の陣地に近づいてきた皇帝の騎馬隊が、私の歩兵による守りを見据える。
「ずっと、『リア』という女の子のことを、救わなければいけない存在だと思っていた」
私は、静かに目を上げた。皇帝は手元に目を落としたまま、口をほとんど動かさずに呟いた。
「『クィリアルテ嬢』という女の子のことを、王女として恵まれた環境に囲まれて育った幸福な存在だと思っていた」
実際には違うのだが、私は頷く。女王からの手紙が来たら話すつもりだ。私は幸福な存在などではないと伝えるつもりだ。その必要がある。
「その二つの存在が重なったことに、困惑しているんだ」
皇帝の騎馬隊が、右往左往する私の歩兵を蹴散らして、陣地に入ってきた。
「あーあ、私の負けです」
私はわざとらしく肩を竦めて、駒を手でかき集める。再戦に応じるつもりはない。
「じゃあ帰りますね」
ソファの肘掛けに手をついて、腰を浮かせた。立ち上がり、一度あくびをした。多分フォレンタはもう帰ってしまっているだろう。時間が経っている。
皇帝もつられて立ち上がった。ゆったりした動きなので見送りだろうと思う。捕獲のときはもっと素早いからね。
「皇帝陛下は、リアを救いたいんですか?」
私は部屋を出る直前、振り返りざまに訊いた。皇帝は答えに窮したように眉を顰めた。
「どうして?」
追って問う。皇帝は私を見る。
「初めは、ただ純粋な好意だったと言い切れたんだ」
……その言い方では、まるで、今は違ってしまったみたいじゃないか。
私は、部屋を出て、扉を後ろ手に閉めながら、心の中で呟いた。
大丈夫。私は、幸福な存在などではないから。
わたしは初めから今まで、ずっと、哀れむべき存在だった。