1 幸せなこどもがいた
頭が鈍く痛んでいた。締め付けられるような痛みは頭だけではなかった。どこもかしこも、全身が、ゆっくりと締め付けられるような感覚に怯えていた。
首に何かが巻きついた。締め上げる。
四肢に何かが絡みついた。締め上げる。
しかし、何より痛むのは、――――この胸か。
今でも忘れてはいない。
あのとき、自分は並んだ家族の骸を見た。物言わぬ骸を見た。
冷たかった。一番上の兄は目をつぶったまま。二番目の兄とその双子の姉は手を繋いだまま。三番目の兄は、……。
忘れてはいない?
自問する。しかし自答出来ない。
自分は全てを覚えているのか。何も忘れてはいないのか。
ならどうして思い出せないのか。どうして。……どうして、今ここに、家族の手の温もりが蘇らない。
家族は馬車の事故で死んだ。崖崩れに巻き込まれて死んだ。全身を覆う布がかけられた遺体が安置された部屋の中で、声を失って立ち尽くした。一番目の兄の婚約者が急いで来て、自分の肩を抱いた。
全ての記憶が飛び飛びだった。誰が何と言っていたのか思い出せない。
誰もが泣いていた。兄の婚約者が遺体に縋りつこうとして制止されていた。乳兄弟が隣で声を殺して涙を零していた。
自分は、どうだったのだろう。
眠るように横たわった兄の顔に、何を思ったのだろう。固く閉ざされた姉の瞼に、一度でも触れたか。
何より不可解なことがひとつあった。
いつの間にか、家族の顔が思い出せなくなった。
肖像画はどこを探してもなかった。その声すら思い出せなかった。表情ひとつすら分からない。
名前は調べれば分かった。どんな人間で、どんなことをしたのか、調べればすぐに分かった。
情報としての家族を得た。生身も感情も思い出も伴わない、かつて存在したひとつの現象としての家族のみを得た。
果たして自分は本当に家族に愛されていたのだろうか。
果たして自分は、家族を愛していたのだろうか。
もし本当に愛していたのだとしたら、こんな風に、すべて手から零れ落ちるはずがないのに。
……温室の空気に包まれた気がした。息苦しさを伴った、液体じみた気体だった。
そこにいた彼女が振り返る。幼い双眸のなかに、常に張り詰めた恐怖を満たしている彼女が、自分を見た。
彼女は自分に縋った。頭を撫でてやったら面白いほど懐いた。名前を呼んでやったら嬉しそうに笑った。
まるで、自分が全知全能であるかのような錯覚に酔っていたのだ。
そのとき自分は確かに、幸せなこどもで、恵まれたこどもで、愛されたこどもだった。彼女はそんな自分を全身全霊で肯定したのだ。ときにはその目に限りない憧憬を浮かべてみたりして、それが高まりすぎて絶望したりして、そうやって手のひらで踊る彼女を俯瞰的に見ている自分は、優位に立つこども以外の何者でもなかった。
何より美しい少女だった。濁ったものの何もない少女だった。その代わり中身も何もない少女だった。
僕は、君を救いたいんだ。
彼女が笑ったところが見たかった。人を幸せにしたかった。
だってそれが、幸せな人間の責務だろう。それが出来れば、自分が幸せな人間である証明になる。
しかし、自分は転落した。幸せな、愛されたこどもから、家族を失った哀れむべきこどもへと堕ちた。
可哀想なこどもとして扱われ、自分でもそれを自覚するたびに、かつての幻想に縋りついた。彼女といたときの自分は、確かに、幸せなこどもだったのだ。自分は幸せなこどもでなければいけない。
ああ、彼女なら、こんな自分でも、幸せなこどもとして扱ってくれるだろうか。
助けて、リア。
僕は幸せなこどもなのに、みんなが僕を哀れむんだ。
可哀想な君なら、きっと、幸福な僕を肯定できる。
再び現れた彼女は、質のいい服に身を包み、綺麗な顔をして、真っ直ぐ伸びた姿勢で立っていた。春の風を伴って、王女として現れた。
「私よ、思い出して、アラル」
その名前を呼ぶ人間は限られていた。
……リアでもない、幸せな人間が、その名を口にするな!
――違う、彼女がリアだったのだ。彼女が、彼女こそが、自分が拠り所とする少女だった。幸せな彼女が。王女として愛され、守られて育ってきた幸福な少女が。
リアは、幸せなこどもだったのか。自分より恵まれたこどもだったのか。
そのことに気づいてから、足元が抜けたように感じた。もうどこにも縋るべきものはなかった。
それでもなお、彼女に縋り続ける自分がいることにも気づいていた。もはや自分は、彼女の不幸を願ってさえいたのだ。
助けて、リア。
まさか君だけは僕を哀れんだりしないで。
不幸な君だけが、僕を救えるんだ。
彼女が初めに言った言葉。
――思い出して、アラル。
その声は半年を越した今になって木霊してきた。
……思い出せ。自分は何を忘れている。何があったのか思い出せ。
両親は死んだ。兄は死んだ、姉も死んだ。……どのようにして?
自分は知っている。何故かそれを確信していた。
知っているはずだ。思い出せ、思い出せ、そうでなくば自分は幸せにはなれまい。
崖崩れ。雨。最期のことば。
御者は黙って城を去った。
思い出せ。自分は何を忘れている?
どうして何もかもこの手からすり抜けてしまったのか。記憶すら残らない。跡形もなく、幸せなこどもは消えた。
……思い出せ。
『アラル、おいで』
思い出せ、『おーい、アラル』『アラル、これをあげるわ』思い出せ『アラル、見ろよ』、思い出せ、思い出せ、『いい子だ』思い出せ『みんなあなたが大好きよ』思い出せ、思い出せ。
思い出せ、今すぐに、思い出せ! ――どうして思い出せないんだ!
激しく頭が痛んだ。突き抜けるような激痛だった。
「駄目だ、思い出すな。思い出してはいけない」
肩で息をして、呟いた。耳から入ってきた音が、脳に染み渡る。その残響が消えるより早く、胸の底から感情が吹き上がる。
「違う。思い出せ、思い出さなければならない」
自分は思い出さなければいけないのだ。しかし思い出してはいけないと何かが告げる。思い出せ。いや、思い出すな、過去に固執せずに前を向け。いいや、過去を片付けることなくどうして前進できる。せめぎ合う。まるで複数の意思がひとつの体に存在しているようだった。
一番目の兄のエイリーンは、安らかな顔をして死んだ。
二番目の兄と姉、双子のユエイムとネフティリエとは、互いに固く手を握ったまま死んだ。
三番目の兄のセユディオルは
……思い出せ。
どこかで警鐘が激しく鳴らされる。頭が割れそうに痛んだ。
咄嗟に目に止まったのは、机の脇に立てかけたままの剣だった。
思い出せ。三番目の兄はどうやって死んだ。
手が剣に伸びる。鞘と剣とが擦れて音を立てる。確かな重みと共に、剣が抜かれる。月の光を反射して剣が煌めいた。思えば今晩は満月だ。
思い出せ、今すぐに思い出せ。これはお前の罪だ。忘れたことが罪だ。幸福を願ったことが罪だ。この恩知らず。この身の程知らず! これは償いだ、思い出せ、思い出せ、思い出せ、
……思い出すことが僅かでも贖罪になるのなら、自分は思い出さねばならない。でも、何かが叫ぶのだ、思い出してはいけない!
思い出せ、思い出せ! どうして三番目の兄は死んだ!
思い出すな。もう戻るな、前を向け。
思い出してはいけない。
しかし自分は思い出さねばいけない。
忘れるな
――――兄様は、僕が殺した。
***
夜分遅くに、男の声で絶叫するのが聞こえた。
私は咄嗟に跳ね起き、目を瞬く。
な、なんだ、なんの騒ぎだ、お祭りか?
どこから聞こえた声だろう。寝惚け眼を擦りつつ、片手で布団を押しのけて床に足をつく。暗い部屋の中、スリッパを足で探して、ようやく発見したそれに両足を突っ込んだ。
またもや軽率伝説を作りかねないことには一瞬あとに気づいたが、私は軽率にも、のこのことベッドを出て、部屋の扉を開けると、体を扉の隙間から出して、廊下を覗いた。
「まぶしい……」
廊下は煌々と照らされている。むにゃ、と言葉にもならない声を漏らすと、私はそのまま部屋を出た。
「なによ、みんな起きてるのね……」
夜なのに、こんなにみんな起きてたの? 大変よね……。
使用人の皆様方が、あちらこちらと慌ただしく走り回っている。メフェルス様を呼べ、と漏れ聞こえたので、なんだ皇帝関係か、と私は皇帝の部屋がある方向へ足を向けた。まあこんな時間に執務室にはいないだろうから、自分の私室だろうな。
少し歩いた程度で頭は徐々に冴えてきて、これがただごとでないということはすぐに知れた。頬を叩いて、目を見開く。
ある程度しゃっきりとした顔をして歩いてきた私に気がついたのか、皆が道を開ける。皇帝の部屋の前で、大勢がどうすればよいか分からないように狼狽えていたのだ。
きりっとして(当社比)、一番近くにいた侍女に問う。
「どうひたの?」
……くそ、口が回らなかった。
侍女は答えた。
「皇帝陛下のご様子が、」
「あらま」
さっきの声、まさか皇帝の声だったとか? 超ご乱心だね……。
「ちょっと見して」と部屋を覗き込むのと、メフェルスが到着したのは同時だった。お、パジャマだ。
「ぱじゃま」と口がよく回らないまま、にやにやしてメフェルスを指さすと、「何寝ぼけてるんですか」と怒られた。
……気を取り直そう。
暗い部屋の中央で、その影は立ったまま、肩で息をして、俯いていた。その手に握られた剣に目を留め、私は息を呑む。
部屋の中は獣が暴れたあとのようだった。机の上に積まれていたらしい書類は床一面に散らばり、棚の上の調度品はなぎ倒され、叩き割られたような花瓶の破片が床の上に広がり、生けられていた花は無残にも転がっている。その花びらは潰れ、床に張り付いていた。……まるで、踏み潰されたかのように。
荒い息の音が聞こえた。部屋の中で立ち竦んだようになっている、皇帝その人の呼吸音だった。
月の光がその横顔に射した。見開かれた目はどこか虚空を見ていた。
「なんてことだ、」
メフェルスが呆然と呟いた。
「……まるで、昔に戻ったみたいな」
私がその言葉の意味を問う前に、音に反応したのは皇帝だった。ぎらついた目がこちらを向いた。入口で固まっていた人間が一斉に退く。
私も喉の奥で「ひっ」と声を漏らし、扉の枠にしがみついていた手を離して、下がろうとした。
ぎゃー! 来るなー!
内心叫んで、私がたじたじと一歩下がる間に、大股三歩程度でこちらまで来た皇帝が、私の肘のあたりを掴んだ。
「ちょ、メフェ」
これやばいって、と言おうと、メフェルスを振り返りかけた瞬間、強く腕を引かれて、暗い部屋の中に引きずり込まれる。
軽く首をぐきっとしたが、どうも様子のおかしい皇帝は、私の脊椎事情を気にも留めない。な、何しやがる……。
私の肩を抱き込んだまま、皇帝が崩れ落ちた。私も上から押されて膝をつく。唖然としたまま、しばらく硬直した状態が続いた。
弱い息で、皇帝が僅かに喘ぐ。
「……いやだ、助けて、助けて、リア、」
呼びかけられた名前に、体の末端が痺れるような感覚に襲われながら、私は動けないまま、皇帝の項から背中にかけての曲線を、呆気に取られて眺めていた。
「思い出したくない。いやだ、逃げたい、助けて、」
手が、勝手に、浮いていた。その背中に、手のひらを、当てる。撫ぜた。私の両腕が、皇帝を抱いていた。
「……私に、どうして欲しいの?」
残念ながら、私は、彼が求めている幼い頃のリアではない。しかしそれでも、そのように振る舞うことは可能だった。7年前と心身共に全く同じ状態である人間など、どこにも存在するはずもないのだけれど、彼にはそれで十分だったらしい。
子供みたいに体を丸めて、皇帝が腕の力を強めた。うぐ、と息が止まりながら、私はその背中を撫で上げる。
「……呼んで、」
皇帝は囁いた。
「もう呼ばないなんて言わないで」
それは、私がおよそ一ヶ月前に放った言葉だった。
私のことはリアと呼ぶな、私もあなたをアラルとは呼ばないから。
数秒逡巡した後、私は細く息を吸った。
「アラル、……ね、もう遅い時間だから、寝ようか」
とん、と背中を叩きながら、落ち着かせるように言う。静かな声で、何度も背を撫でながら。
「アラル」
震えている肩に顎を乗せながら、私は繰り返し言った。
「大丈夫だよ、アラルは大丈夫」
皇帝は、黙って、深く頷いた。私はなけなしの母性をありったけかき集めて、その体をかき抱く。随分大きなこどもだわ。
「いい子、可愛い子、さあ寝ましょう、ほら」
不意に、全身に重みがかかった。皇帝の力が抜けたらしい。耐えきれずに床にひっくり返った私は、それからもぞもぞと床を這いながら皇帝の下から避難する。
皇帝は気絶したような眠りに落ちていた。
「なんか寝ちゃった」
皇帝を指さしてメフェルスを見上げると、思いつめたような表情のまま彼は頷く。部屋に入ってきて、皇帝の脇に屈みこみ、顔を覗いた。
「すみません、ご迷惑をおかけして」
「うーん。いや、私の名前を呼びながら、こうもおかしくなってるのを見ると、私にも責任の一端があるんじゃないかという気がしてきたから、気にしないで」
メフェルスは他の数人の手を借りて皇帝の肩を担ぎ上げると、そのまま寝室の方へ向かった。それを見送ってから、私は頭を掻いて立ち上がる。
「凄いわね、予想を上回る闇の深さだわ……」
***
なんかやばいな、と思い始めたのは、秋の初め頃だった。
ほぼ八割方私に責任がある、例の誘拐事件が収束した頃だった。私は詳しいことは分かっていないが、メイアもその生家も、あとエザール子爵も相当厳しく罰せられたらしい。まあ、要するに、私は詳しいことは聞かないことにしたのでよく知らないのだ。
ただ、唯一、メイアが獄中で意識を失い、もうずっと目覚めていないということだけは聞いた。獄中の環境に耐えられなかったのか(私は結構いけたけど)、メイアが何かを服したのか、神様が天誅でも下したか、それとも何か別の要因か。
全て、言っても詮無いことだ。
メイアをあの凶行に駆り立てた要因を正確に知る手立ては、永遠に失われた。恐らくメイアは二度と目覚めない。
それをざまあみろと高笑いする程クソではないが、可哀想にと涙するほどお優しくもない。
メイアに構っていられない事情があったということもある。
問題は、私の設定に齟齬が生じたことだった。
そう、女王には「母国で大切に育てられた王女ということにしなさい」と言われ、自分でも「病弱で表に出なかったんです」と言っていたにも関わらず、ローレンシアで虐げられていたときの姿を目撃されているのだ。しかも裸足で温室をうろうろしていた。なんと言うか、矛盾しかない。
皇帝はどう考えても怪しんでいた。私の偽物王女説は再び浮上し、なんか皇帝とは微妙な雰囲気になった。元々『銀山が貰えるならちょっと怪しくてもまあいっか』みたいな雰囲気で流されていた、私の素性問題である。だいぶ危ない。
フォレンタには、どういう事なのか全て吐かされ、二人で考えた結果、どうしようもないのでローレンシアの女王に相談しようと結論づけた。
読み書きの練習も兼ねて(ちなみにまだ読みは全然上達しない)自分で手紙を書き、さあローレンシアまで届けてもらおう、と意気揚々と廊下を闊歩しているところを皇帝に見つかったのである。
後ろ暗いところしかないので、ばっと手紙を隠した私をしばらく観察したのち、皇帝は宣った。
「……男への手紙か?」
は?
何を言っているんだ、と私は困惑した。どうやら自分で『お前を愛することはない』と、パンゲア王家史上最大級に小っ恥ずかしい台詞を吐いたことを忘れているらしい。お前は私の彼氏(束縛が強め)かと言いたくなるほど、長時間グチグチネチネチと絡まれた。しかし私はこの手紙を見せるわけにはいかないのだ。
なんとかフォレンタの救出により事なきを得たが、あれは本当に危なかった。私が皇帝の異常を確信した最大の出来事でもある。
ちなみに手紙の中身は、要約すると『あなたに虐められていたときの姿を皇帝に見られていたことが判明しました。皇帝にバラしても良いですか』というものだった。
喋ってもいい? というお伺いを、喋る相手本人に見られてしまっては意味がないでしょう。
……しかし、この分だと、また手紙を出そうとしても検閲が入りそうな予感すらする。
「どうしようフォレンタ」
するとフォレンタは少し思案したあと、嘆息した。
「私が女王陛下に報告書を書いていることはご存知ですか」
言われてみれば、そんなことを言っていた気がする。それに、私が立ち入ると、フォレンタが何か書き留めていた紙をすぐに裏返すこともあった。
「えっと……。時々書いてる、あれのこと? 私の悪行報告書だと思ってたけど……」
「もちろん、そういう側面もありますが」
「あるんかい」
あっさり認めたよ。一体どんな恐ろしいことを書かれているのかと若干の恐怖を感じたが、詳しい内容は聞かないことにする。
「その書類は、女王陛下に直通であることや、場合によっては機密性の高い情報を扱う可能性があることから、特殊な方法で運送しています。詳しいことはお教え出来ませんが」
「わぁ、すごい」
「絶対に誰にも言わないで下さいませ。本来ならクィリアルテ様ご自身にも伝えてはいけないことになっておりますので」
「信頼がないのね……」
フォレンタは腕を組みながら、困ったように眉を顰めた。
「ですが、その特性上、半月に一度しか送ることが出来ないのです。あらかじめ日取りが決まっていて」
「なかなか送れないってこと?」
「そうですね、つい先日提出しましたので……。この手紙を託すにせよ、あと2週間程度経った頃に送り、何か返事が来るのはさらにその次の2週間後です」
つまりは丸々1ヶ月である。私もフォレンタと似たような表情になって、うーんと唸る。
しかし、他に打つ手は考えられない。何せ相手はこの国の最高権力者である。怪しまれる程度で済んでいるのがありがたいほどだ。
こっそり城下町から手紙を出すとしたって、やろうと思えばこの国の郵便システムを全て停止させて私の手紙を捜索することも可能なはず。しないとは思うけど。
むしろ、フォレンタがそんな抜け道を隠し持っていたことに感謝しなければいけない。
「背に腹は変えられないわ。それでお願い、フォレンタ。私はこれから1ヶ月、何とか耐えてみせる!」
これがおおよそ1ヶ月前の出来事である。
それから毎日、妙に頻繁に様子を見に来る皇帝にうんざりしながら、私は内心呟いた。
……これはやばい。
***
皇帝陛下ご乱心の夜から一晩が明けた。
いやー、ここ最近様子がおかしいとは思ったけど、あれは最大級だったね、と回顧する。
昨晩のことを色々と思い返しながら、朝食の席で皇帝を待っているところに、皇帝より早くメフェルスが来る。私の椅子の脇に屈んで、口元を手で隠して言うことには、「皇帝陛下は昨夜のことを何も覚えておられないので、そのことについては触れないで下さい」とのお達しだった。私は思わず目を剥いて、「嘘でしょ」と体を傾けて聞き返す。
「僕もそう思いたいですよ……。あの人本当に何も覚えてなくて、むしろ何か清々しい顔までしてて」
「もしかしてあのとき、酔っ払ってたの?」
「いえ、記憶が飛ぶほどではなかったはずです」
弱りきった表情で、メフェルスがため息をついた。
そのとき、入口の方から足音がして、私とメフェルスは同時に顔を上げた。
「ゲッ、来た」
「ゲッとか言わないで下さいよ、一応僕の主君なんですから」
「だってあの人、この1ヶ月、どう考えてもおかしいじゃないの」
「うーん……。おいおい説明出来たら、必ず説明致しますので」
顔を突き合わせて囁き交わす私とメフェルスを視界に入れた皇帝は、どことなく機嫌良さそうだった表情を一変させ、私たちに冷気のこもった目を向けた。
「何をしている。メフェルス、早く来い」
間髪入れず立ち上がり、風のように去ろうとしたメフェルスの服の裾を捕まえ、私は声を潜めて真剣に訴えた。
「ね、おかしいでしょ、絶対」
メフェルスは血相を変えて、無声音で叫ぶ。
「放してください! あとで怒られるの僕なんですからね!」
「それで怒ること自体がおかしいのよ! 今まで特に関心も払わず、ただのお友達だったのに、何でいきなり、あんな……なんというか、束縛が激しい彼氏みたいになってるの?」
逃げようとするメフェルスをしっかりと捕まえる。皇帝に直接聞くのは何となくまずいのは分かっていたので、何としてでもメフェルスと話がしたかったのである。しかしメフェルスは常に皇帝と一緒にいる。
千載一遇のチャンス。一秒でも長く話をせねば。
とうとうメフェルスは半泣きになりながら口を割った。
「変になったのは、クィリアルテ様が、初恋の人的な立ち位置の人だって判明したからですよー!」
「そう、その『的な立ち位置』部分が気になってるのよ!」
全力の無声音に気を取られて気づかなかった。すぐ後ろに気配を感じた。しかし勢い余って言葉は飛び出る。
「だって明らかにこれ、ただの初恋じゃな、」
言いかけて、何とか私はぴたりと動きを止めた。思わずメフェルスの服を放す。メフェルスは目にも留まらぬ速さでどこかへ消えた。おい逃げるな、私を助けろ、置いていくんじゃない、……助けてー!
「わあ、おはようございます皇帝陛下」
ぎしぎしと首が軋む音が聞こえるような気がした。誰か私の首に油を挿してくれ……。
ぎこちなく振り返ると、背後に皇帝が立っていた。私と目が合うと、にこりと笑う。超こわい。言い方がおかしいとは思うが、私の皇帝じゃない。
「おはよう、クィリアルテ嬢」
笑っているはずなのに冷気が漂っている。何の現象だろう?
こ、こわいよー! 私は半泣きになりながら仰け反った。心なしかフォレンタも引き攣った顔をしている。
目を細めながら腕を伸ばした皇帝が、私の前髪を手のひらで上げた。なんだ、私に熱はないぞ、と無駄極まりないスキンシップに抗議しようと肩を怒らせたそのとき、皇帝が背を屈めた。
私は凍りついた。部屋も一瞬静まり返った。どこかで何かが割れた。
流れるような動きで私の額に口付けた皇帝は、そのまま私の目と鼻の先で微笑んだ。
「よそ見はしなくて良い」
額の上に置かれていた手が、私の顔にかかった髪を耳にかけて離れる。その間際、指先が私の頬を撫で下ろした。
私は椅子を蹴倒して立ち上がる。予想外、予想以上のスキンシップに脳が沸騰した。おかしい、絶対におかしい。ふ、二つの生命体の物理的距離として、これはあまりにも近すぎる!
「こんなの、私の知ってる皇帝陛下じゃなーい!」
イタチの最後っ屁のごとく叫んだ私は、そのまま全力疾走で食堂から逃走した。
3章開始です。
よろしくお願いします。