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転生王女にド定番ロマンスは難しい  作者: 冬至 春化
2 皇帝陛下のおともだち
11/38

6 本当に


 塔の上で待ち構えていた女を、ロズウィミア嬢は「メイア」と呼んだ。本人が否定しないところを見ると、それが名前に間違いはないのだろう。


 に、しても。

「知り合いですか?」

 まあロズウィミア嬢、顔広そうだしね、と首を傾げると、二人がぴしりと固まった。

「クィリアルテ様、それは流石に……」

 ロズウィミア嬢は青ざめた顔で私を見る。何だか私はまずいことを言ったらしい、と悟った途端、メイアの顔が見られなくなった。怖すぎる。もしかして私たち、知り合いだったのか。記憶にないわよ、あなたの顔なんて。

「私、こんな人会ったことないですよ」

 私は、声を潜めてロズウィミア嬢に言い返す。しかし部屋が静かなせいか、多分丸聞こえだった。


 メイアは小さく声を漏らして笑い、再びソファに座って足を組んだ。

「良いわ、少しくらいの無礼は許してあげる。皇妃たるもの、寛大じゃなきゃいけないものね」

「は?」

 皇妃って私ですけど。

 私は思わず、更なる無礼を重ねて聞き返す。ひくりとメイアの目元が震えた気がした。


「メイア、どういうことなの。あなたが私たちをここに連れて来させたということ?」

 事態を何とか進行させるべく、ロズウィミア嬢が真剣な声音で問う。メイアは顔の脇の毛を指先で弄びながら、ほの暗い目でロズウィミア嬢を見据えた。

「はい」

 しっかりと断言したメイアに、私は心底、録音機器が欲しくなった。これ録音出来たらいいのにな、もし助かったら皇帝に提出して、即逮捕だ。

「でもここはエザール子爵領だわ。あなたの生家の侯爵領とは遠く離れているはず」

「あら、場所までお分かりでしたか。流石ですね」

 大体、なんでこの人、ロズウィミア嬢には敬語なのに私にはタメ口なんだ? 一応私の方が偉いことになってたはずなんだけど……。


「簡単に言えば、母方の親戚なんです。エザール子爵の姉が、私の母。叔父と姪ですわ」

「それが、何か関係……」

 ロズウィミア嬢が眉を顰める。メイアは口に手を添えて控えめに笑った。

「私が皇妃になったあかつきには、このたびの失態もフォローして差し上げるし、何ならこれまでより更に高待遇になるよう皇帝陛下に申し上げます、と叔父上に言いましたの」

 は、と今度はロズウィミア嬢まで怪訝な声を漏らす。悦に入っていたメイアは気づかないのか、更に声を高くして続けた。

「そうしたら、よほど困窮していらしたのか、すぐに食いついて下さいましたわ。こんな大きなお屋敷まで貸していただいて」


「あの、ちょっといいですか」

 今にも高笑いしそうなメイアを制止すべく、私は口を挟んだ。メイアは一瞬にして表情を険しくし、鼻を鳴らす。

「皇妃って、私なんですけど……」

 その瞬間、目にも留まらぬ速さでメイアの手が何かを掴み、振り下ろされた。視界の端のガラスが割れた。

「ぎゃあ!」

 壁のガラスの一点に穴が開き、その一瞬あとに、その一面がけたたましい音を立てて崩れ落ちたのだ。


 う そ だ ろ !


 壁落ちましたけど! この塔六角形で部屋の一面は入口のある壁だからガラスは5面だけど、そのうちひとつ消えましたけど!

 知ってる!? ここ、塔の最上階!

 あぶなーい!


「さっむ……!」

 風が吹き込み、私は体を竦めて風に背を向けた。流石高い場所、風の強さと冷たさが半端じゃない。



 メイアは憤怒の形相で立ち上がり、私に歩み寄る。

「……お気に入りの文鎮だったのに、もったいないことをしちゃったわ」

 言いつつ、私の首に掴みかかると、片手で顎の骨の下を締め上げる。殺すようなものではなかったが、息が制限され、私は顎を反らして喘いだ。

「あなたが悪いのよ? 本来ならロズウィミア様を殺すだけで済んだのに、あなたがいきなり割り込んでくるから、あなたまで手にかけざるを得なくなったじゃない」

「やっぱり……殺すんだ、」

 息も絶え絶え、私はメイアを睨みつける。手が自由なら、私だって負けじと応戦しているところだが、如何せん両手が使えない状態ではどうも出来ない。

「やめて!」

 悲鳴のような声でロズウィミア嬢が叫ぶ。メイアの顔がくるりとそちらを向き、にたりと笑った。

「大丈夫ですよ、ロズウィミア様。出来るだけ苦しまないようにしますからね」

「そ、いう、問題じゃなくて、は、はよ、放して……」

 ぎり、と首を締めつけられ、こいつ脛でも蹴ってやろうかと私の頭に不穏な思いつきがよぎったとき、不意に手が離れた。思わず床に崩れ落ちて、私は肩で息をする。

「クィリアルテ様!」

 ロズウィミア嬢が駆け寄って、膝をついて私の顔を覗き込んだ。ぺ、と唾を床に向かって吐き捨てる。立ち上がって、私はメイアを見据えた。


「なに、じゃあ、あなたは皇妃になりたいのね」


 我が意を得たりとばかりに、メイアは目を細め微笑んだ。

「私とロズウィミア様を殺しても多分無理そうだというのはこの際置いておくわ」

 苛立ったようだが、ある程度落ち着いたのか、先程のように無闇に掴みかかることはしない。私はじりじりと距離を取りながら、言葉を続けた。


「どうしてあなたは皇妃になりたいの? その答え次第では、私が皇帝陛下に口添えして差し上げてもいいわよ」

 そんなつもりは毛頭ないが、メイアの目の中に正気の色がほとんど見られないことに賭けて、そう告げる。ロズウィミア嬢も私が本気ではないとすぐに分かったのか、黙っていた。

「私は別に、この地位を退いたっていいのよ。ただ、そのためにはきちんとした後任者を見つけないとね」

 ゆらり、メイアの体が揺れた。その口元が、恍惚の表情を浮かべる。

「ほんとう?」

「ええ、本当よ。私は嘘をつかないわ」

 フォレンタあたりが聞いたら目を剥きそうな言葉を吐きながら、私は悠然と微笑んで頷いた。


「でも、どうしてって言われたって。……ただ、それが当然のことだから、元に戻すだけよ?」

「うん?」

 私は思わず相手を宥めようと穏やかな声を出していたのも吹っ飛んで、本気で聞き返してしまった。しかし、うっとりと指を組んでいるメイアには聞こえなかった様子で、彼女は天井を見上げて呟く。


「初めてお会いしたときから分かってたの、あのお方は私と添うべきお方。私は皇妃となるべく生まれたんだって、すぐに分かったわ」


 なんか、ロズウィミア嬢が言ってたことと似てるな、と一瞥すると、本人も同じことを思ったようで渋い顔をしている。心外そうな表情だ。同類だと思うな、と目が訴えていた。


「何としてでもあの方に近づきたかった。そのためなら、ロズウィミア様、あなたに付き従うこともしてみせました。ああ、でもずっと苦しかったです。さも未来の皇妃かのように振る舞うあなたと、それを持ち上げるサーラの姿をずっと見てるのは、本当に辛かった」


 その言葉に、私は動きを止めた。なんか、今、思い出しそうな感じが……。

 サーラ……。聞いたことあるぞ、ええと。どこで会ったかな、うーんと。


「……ふっ、あはははは! 笑いを堪えるのが本当に辛かったんです! だっていずれは私がディアラルト陛下と結ばれるというのに、二人して馬鹿みたい、滑稽でしょう!」


 あっ! 思い出したー!

 私は自分の記憶力に感動し、その勢いのままメイアを真っ直ぐに見つめて言い放った。

「この人、ロズウィミア様の腰巾着だ!」

 サーラともう一人、喋らない方の腰巾着!



 仰け反り、上を見上げて高笑いしていたメイアが止まる。強制停止させられたような固まりようだった。ロズウィミア嬢がたたらを踏むようにその場でよろめいた。



「腰巾着?」

 裏返った声でメイアがこちらを振り返った。私は明らかな失敗に顔を青ざめさせ、更に距離を取る。この馬鹿! とロズウィミア嬢が口汚く私を罵る声が聞こえた。

「それは誰のこと? もう一度言ってごらんなさい、未来の皇妃様が直々に裁いてあげる」

 何言ってんだこいつ……。私はたじたじと後ろに下がる。ついに背中が壁についた。


 金属が擦れる音がして、私は目を見開いて顔を上げた。私から遠ざかったように見えたメイアは、ベッドに腰掛け、その脇の甲冑の腰から、細身の剣を抜いた。自分が寝るところの枕元に鎧を飾っとくとか、この人センス死んでるのかな?

「落ち着いて、メイア、」

 ロズウィミア嬢が、私から離れたところの壁際まで避難し、押し殺したような声で囁く。メイアはにっこりと微笑み、剣を片手に立ち上がった。

「ご安心ください、私は今までのどのときより冷静で、澄み切った思考をしてますわ」

 そりゃ頭も冷えますよ、こんな、冷たい風に晒された寒ーいところにずっといればね!



 それに気づいたのは今だった。

 ――今日は満月だった。

 この塔は月に近いように思えた。まだ宵の口を少し過ぎたところ。月はまだ高く昇りきってはおらず、山の端から出てきたばかりのそれは、まだ、この部屋より低いところにあるかのように見えるほど。

 月を背負って、彼女は狂ったように笑った。その手に握られた剣が燦然と輝いた。


「可哀想な子! うっかり皇帝陛下の目に留まってしまったばっかりに殺されるのね! 平民らしくお家で大人しくしていれば良かったのに!」


 剣を振りかざして、彼女が床を蹴って走り出す。

 ……私は、何故か、動けなかった。


「クィリアルテ様!」

 その声に、私は弾かれたように身を伏せていた。突進してきたメイアが、狂気じみた笑みのまま、躱した私を見下ろす。

 逃げ遅れた髪が、断たれていた。私の右の髪の一部が、肩までの長さ程度までしか残っていなかった。床に髪が散らばる。……何て鋭さの剣だ。

 壁に突き刺さった剣を勢いよく抜き、彼女は覚束無い足取りで反動を堪えた。

 その隙に私は立ち上がって距離を取る。壁がなくなったところからは出来るだけ離れておこう、落ちたら怖いし。部屋の中央で身を低くして、私は彼女と対峙した。



「本当に、可哀想な子、不幸な子、不憫な子」


 けたけたと彼女が肩を揺らして笑う。


「あなたなんて、お家でお父さんとお母さんと一緒にいれば良かったのよ。この身の程知らず。あなたくらいの容姿なら、平民はみんな優しくしてくれそうなものじゃない」


 黙れ。私は内心で呟いた。腹の底がぎゅっと握り締められたような痛みを感じた。


「どうしてこちらに憧れてしまったの? 平民なんて、優しい家族に恵まれて、困窮はしない、ある程度の生活を送ることが出来れば、それが至上の幸せでしょう?」


 なんで私の恋路に首を突っ込んできたの?

 心底無邪気に、不思議そうに首を傾げた彼女に、私は吐き捨てた。


「その幸せの一つすら許されなかった人間の気持ちが、あなたに分かるの」


 ロズウィミア嬢が息を飲む。


「うーん、分かんないわね。私、恵まれた女の子なの」

「あらそう、良かったわね」

 私は冷ややかにメイアを見つめ、慎重に言葉を選んで、唇に乗せた。


「でも、皇帝陛下は私を選んだわよ」


 正確に言えば、これはただの政略結婚だった。愛さないと宣言もされた。

 でもそんなこと、この子は知らないでしょう。


 かっと頬を赤くして、メイアが剣を握り直す。私はなおも息を整えながら、彼女を見返した。


「もしかしたら皇帝陛下の好みって、恵まれない不幸な子なのかもしれないわね」

 一歩ずつ、メイアが近寄る。私はそれを視界の隅に捉えながら、わざと逆なでするように言葉を運んだ。

「あら、だとしたら、恵まれた幸せなあなたって」


 さあ、来い。私は息を凝らしてメイアの様子を窺った。


「永遠に選ばれないんじゃないかしら?」


 ――かかった!

 前後も分からないように、激昂したメイアが駆け出す。私も負けじと床を蹴って走り出し、身を沈めて足から床を滑った。

 すれ違いざま、メイアの足に思い切り蹴りを入れ、私はすぐに立ち上がって振り返る。足を掬われた彼女は体を浮かせ、一瞬あとに胸から着地した。

「おおー」

 思いのほか上手くいって、私は感心して声を漏らす。その手を離れた剣が離れたところまで吹っ飛び、メイアは絨毯に指を引っ掛けて立ち上がると、剣のところまで一目散に駆けてゆく。それと同時にロズウィミア嬢も走り出し、剣を蹴り飛ばそうと足を伸ばした。

 勝負は一瞬だった。


 メイアの手が、僅かに早く、剣を掴んだ。逆手に柄を握った彼女は、そのまま腕を引き、ロズウィミア嬢の胸ぐらを鷲掴みにする。



 その剣先が、ロズウィミア嬢に向かって振り下ろされる。

 助けは来ない。物語のようにちょうどよく助けは来なかった。

 私たちは、私は、結局、自分は自分で守るしかないのだ。自分で幸せになるしかないのだ。



「やめんかー!」

 私は歯を剥き出しにして叫ぶと、メイアの脇腹に飛び蹴りを食らわせた。


「でやぁ!」

 力の限りメイアを蹴り飛ばす。彼女は呆気なく吹っ飛んでいった。着地してから、崩れ落ちたロズウィミア嬢を一瞥する。怪我はしなかったらしい。


「メイアは? ……まさか、死ん」

 ロズウィミア嬢が蒼白な顔でそう言うので、私もその視線の先を追って、メイアを見る。

 角に頭でも打ったのか、可愛らしいピンク色の本棚の前で、彼女は床に転がっていた。私は顔を引きつらせる。

「え、私……殺した?」

 別に床に血は広がっていない。が、動きもしない。私は慌てて駆け寄り、その顔を覗き込む。残念ながら手が使えないので、その口元に自分の脛をかざす。ごめんね、一日風呂入ってないから臭いかもしれないけど。

 果たして、私の脛は僅かな呼気を感じた。

「生きてる、」

 私は安堵して尻餅をつく。ロズウィミア嬢もよたよたと立ち上がって、私の隣でメイアの顔を覗き込んだ。


「メイアは、ディアラルト陛下に、恋をしていたんでしょうか」

 私は呟く。

「それとも、皇妃という立場を、恋うたんでしょうか」

 目を閉じたまま、気絶した彼女の目の下に、くまが見えた。こんなに見境なく剣を振りかざすほどの狂気を、ずっとその身のうちに秘めていたのか。だとしたらそれは一体どれほど苦しかったろう。


「分からないわ」

 ロズウィミア嬢は応えて、俯く。

「私には彼女が何を考えているのか分からない」

 酷く、苦渋に満ちた表情で、ロズウィミア嬢は呻くように言った。食いしばった歯の隙間から絞り出すように囁いた。


「そうだ、何とかして、あの剣を使って、手の縄を取れませんかね」

 ぱっと表情を明るくして言うと、ロズウィミア嬢は力なく微笑んだ。床に転がったままの剣を、後ろに回したままの手で握る。

「待って、これを固定して、自分で押し当てた方が確実かも」

 言いつつ、ロズウィミア嬢が剣を顎で指した。

「確かに」と頷いて、私は剣の位置を変える。


 しばらく悪戦苦闘したのち、私は手の甲に多くの傷を作りながらも縄を断ち切った。自由になった両手をかざして、肩を回す。丸一日以上手を縛られてたから本当に痛い。手首もだけど、肩とか腕全体もだ。

 私はロズウィミア嬢の背後に回り、縄を切らずに解いた。本人はさっさと解放されたいようで、切ればいいじゃないかと訴えたが、私はそうしなかった。

 彼女に傷をつけずに縄を切る自信がなかったのもそうだし、この縄にはまだ使い道があるからだ。


 解いた縄を数度引っ張って、その耐久性を確かめる。うん、なかなか太くてしっかりした縄だ。

 メイアの腕を後ろに回して、私たちがされていたのと同じように、数度巻き付けて縛り上げる。彼女が縄抜けを特技にしているとは思えないし、多少雑な結び方ではあるが、結構ぎっちりと拘束できたと思う。手が使えないことの不便は私たちが身をもって体験したしね。

 ちゃんと生きているメイアの体を引きずって、ベッド脇まで運ぶ。ベッドの足に縄を巻き、手首と一緒に二周ほど巻いて、縄を絡ませると、端を手の甲側に突っ込んだ。

「厳重ね……」

「だって、何だか今にも起きて叫びそうで怖いじゃないですか……」

「否定はしないわ」

 ロズウィミア嬢は呟いた。


 残念ながら扉は外からしか開かないようで、朝になったらあの見張りの男達が来ることはメイアの言葉で分かっていた。多分あれは雇われただけの人間だ。ボスが拘束されて役に立たなくなったんだから、案外言うことを聞くかもしれない。

 それに、私たちに出来るのは助けを待つことだけだった。最終的には、私たちは無力なのだ。


 私たちはなくなった窓から一番離れた床で、二人並んで横たわった。普段のロズウィミア嬢なら床に寝そべるなんて無作法、絶対にしないと思ったけれど、彼女も相当に憔悴していたらしい。


「抱いてもいい?」とロズウィミア嬢が囁いた。私はぎょっとして上体を起こし、ガラスに張り付いて彼女から距離を取る。

 あら、違うわ、と彼女は笑った。

「人肌が恋しいの」

 ロズウィミア嬢は言って、私の腰に手を伸ばして、黙って抱きついた。特に変な意味ではなさそうなので、私も窓ガラスに寄りかかったまま、ぼんやりと部屋の中を眺める。



「誘拐される前にしていた話の、続きをしましょうか」

 ロズウィミア嬢はほとんど息のような声で告げた。私に聞き咎めて欲しくなさそうな、微かな声だった。

 私は正確にその言葉を拾い上げた。

 はい、と頷くと、彼女は瞼をもたげて、私の隣でガラスに背を預け、乱れた髪をかき上げる。


「私は、次期皇帝の妻になることが、ずっと前から決まっていたわ」

 それを、世間では婚約者と言うのだろう。どうしてその婚約が、そのまま婚姻と流れていかなかったのか。何かがなければ、そうはならないのだ。

「言い方によっては、……そうね、婚約は破棄されたとも言えるかもしれない。私はそうは思ってないけれど」

 もしもこれがロマンス小説の類だったのなら、ロズウィミア嬢が、ヒロインの前に立ち塞がる悪役令嬢なんだろうな。私は頷きながら考えた。


 そうか、婚約破棄された悪役令嬢なんだ、彼女は。

 これを定番として喜ぶことは出来なかった。彼女の感情はあくまでもここにあった。


「どうして次期皇帝の婚約者の私が、皇妃とならなかったと思う?」

 ロズウィミア嬢の敬語が取れていることに今更気づいた。何だか対等の立場まで、私が引き上げて貰えたような気がして嬉しかった。私はそもそも、彼女と同じ土俵に立ってすらいなかったのだから。

 薄ら笑いすら浮かべて、彼女は再度私に問うた。

「どうして私の婚約が無効になったと思う?」


 やけに部屋が暗いとは思っていた。月に雲がかかっていたせいだった。

 雲が、風に流される。


 煌々と輝く月光を受けて、ロズウィミア嬢は泣いていた。声を出さずに、目尻から絶え間なく流れる雫を拭いもせず、ただ、壁に頭をつけて泣いていた。



「――――あの人は死んだ」



 疲れ果てたように彼女は囁いた。まるで何度も口にした言葉のように、その唇は滑らかに動いた。

 真実、その一言は、彼女に染み込んだ言葉なのだろう。深く刻まれた過去の一点が、今も尚続いているのだろう。

 なんどもなんどもなんどもなんども、彼女はその言葉で自分の傷を抉って、決して癒えないように晒し続けて、そうやって生きてきたのだろうと、唐突に理解した。

 彼女が存在する方向には、必ず人の目が向けられていた。決して好意的ではない囁きもあった、でも声高に彼女を非難する人間はいなかった。どうして皆が彼女にそれほど気を払うのか。



「そうではないかと、思っていました」


 冷たい硝子に頬をつけ、彼女の方を向いて私は応えた。

「きっと、あなたは次期皇帝の婚約者として存在したのだろうと、推測したときから、ずっと」

 私の知る、あの皇帝は。ディアラルトと名を持つ皇帝は、どうして、ロズウィミア嬢を拒むのか。決して退けもしないのに、決して迎え入れる様子も見せない、一線を引いたようなあの皇帝の様子に、違和感があった。


「だって、ディアラルトは第四皇子だ」


 ロズウィミア嬢が。……皇妃となるべきだったロズウィミア嬢が、彼の婚約者であったはずがないのだ。





 彼女は儚く笑った。馬鹿な女だと思う、と投げかけられた問いに、私は適切な答えを持っていなかった。

「皇妃になって、この国を支えることでしか、私は、あの人に報いる方法を知らなかったの」


 彼女も私と同じように、頬を硝子につけて、目を伏せる。

「私にとって、ディアラルト様は弟みたいな人でね、……ううん、言わなくたって分かってる。私の方が年下ではあるんだけれど、ええと、何て表現したらいいかしら」

 まるで楽しいことを思い出すように、彼女の唇が緩く弧を描いた。

「みんなの弟みたいな人だったの。ほら、あの人、末っ子でしょう。前皇帝陛下にも、皇妃様にも可愛がられて、3人のお兄様と、1人のお姉様にもお世話されて、本当に、ちょっと我儘で、でも憎めないような人で、甘え上手で、」

 彼女の瞳が、再び潤んだ。零れ落ちる寸前まで下睫毛に這い、震えた涙が、頬を伝う。

「それで、あるとき、みんな亡くなったの」

 唇が戦慄いた。彼女は私の頬に手を伸ばし、私という物質を確かめるように指を這わせた。

「ディアラルト陛下を愛したその家族が、全員、事故で、亡くなったの。誰より甘やかされて育った、末の子を置いて、皆が」


 胸が冷えた。この期に及んでこんなことを訊く、自らの浅ましさに心底身震いしながら、私は口を開く。

「それは、……それは、いつのことですか」

 彼女は瞼をもたげ、私の目の奥をじっと見た。私の薄汚い根性を見透かされたようで、心臓が変な方向に跳ねた。

「そうね、もうすぐで、……7年が経つわ」

 静かに息を飲んだ。7年前は、だって、まさしく、かつて少年時代の彼に逢った年だった。

「そういえば、その直前、ローレンシアに行ったのよ、彼一人だけで。本当にただの偶然だったの。あんまり甘ったれに育ったから、一人で隣国の訪問くらいさせてみようって」

 初めてのおつかいみたいなものだったんだって。そう囁いて、彼女は目を閉じた。

「帰ってきて、少しした頃に、家族皆で旅行に出かけたの。でも何故かディアラルト様だけ別荘の屋敷に残って、残りの方々が馬車に乗って出かけて、その道中で、崖崩れの事故が起こったのだと聞いたわ」


 彼女はこれまでの曖昧な表情から、一瞬にして、壮絶な笑みを浮かべて、どこか遠くの虚空を見るようにした。

「エイリーン様は、そこで死んだ」

 エイリーン。それが、かつて彼女の婚約者として生きていた、皇太子の名前であることは容易に想像がついた。

「唯一ディアラルト様だけが生き残った」

 ……知らなかった。

 私が知っているあの人は、カードゲームの手札を見てにやにやしながらこちらに目配せをするような人だ。基本的に私より何でも出来るけれど、たまに負けるとムキになって再戦を申し込んでくるような、子供じみたところを持つ人だ。……その反面、楽しげな表情は、どこか怪しい不安定さの上に成り立っていたと言えるかもしれない。

 そんな過去を抱えていたなんて、知らなかった。知るよしもなかった、誰も教えてくれなかった。

 ――でも、知ろうとしなかったのは私だ。


「いつもね、エイリーン様が言ってくれたの。ロズは良い皇妃になるねって」

 回顧するように遠い目をして、彼女が唇を噛んだ。

「私の世界は、エイリーン様の素敵なお嫁さんになって、パンゲアの良い国母になって、幸せになることを指向して形成されてきたの。

 でも、叶わなくなった。実現可能なのは一つだけになった」

 彼女の涙は既に止まっていた。未だ乾いていない筋が、頬に描かれているのみだった。

「……私もメイアと同じだわ。取り憑かれてるみたいに、ずっと、自分が、皇妃にならなくちゃいけないって、そう思っているの。今もね」

 それが、当然だから。あるべき姿だから。戻さなくちゃいけないから。

「分かってるの、無駄な足掻きだって」

 ロズウィミア嬢は、自嘲するように口の端を歪めて吐き捨てる。

「見ていれば分かったわ、ディアラルト様はあなたを離す気はないし、私を選ぶこともないって。だから私は決して皇妃にはならない」

 彼女は疲れているのだ。どうしてこんなに疲れているのか。過去に固執しているからだと切り捨てるのは簡単だった。

 彼女は追い詰められていた。でも、逃げ道を塞いだのは、自分自身の手にも思えた。



「ねえ、言って下さい、皇妃様。あなたの目指した世界はもう実現不可能なんだって、お願い、そう言って」

 彼女は、私の前に頭を垂れ、肩を震わせながら啜り泣いた。



「……ロズウィミア様にとって、幸せとは、皇妃にならねば手に入れられないことなのですか?」

 私は彼女の肩に手をかけて、起き上がらせながら問う。彼女はきょとんとして私を見た。


「エイリーン様と結婚する。皇妃になる。幸せになる。先程ロズウィミア様が仰った、指向していたという未来は、全て独立したものです」

 もちろん、それら全てが繋がっていることが望ましいに決まっている。けれど。

「もう実現可能なのは一つしかないって、言いましたよね」

 彼女は頷く。私が何を言おうとしているのか、その内容に怯えたようにその視線が揺らいだ。


「でも、二つあると思うんです。

 ……ロズウィミア様、あなたは幸せになることができるじゃないですか」


 ロズウィミア嬢は、何か、否定の言葉を返そうとしたように、口を開く。それを言わせぬうちに、私は言葉を続けた。

「使い古された陳腐な言葉ですが、ロズウィミア様、そのエイリーン様って、うっかり遺して亡くなってしまった婚約者の不幸を、化けて出てまで望むような人だったんですか? まあ、お会いしたことがないので私には何とも言えませんけど……」

 私は首を傾げつつ、ロズウィミア嬢の頭を撫で下ろして、微笑んだ。


「でも、そんなわけありませんよね。

 だって、このロズウィミア様が、こんなに愛した人なんですから」


 ロズウィミア嬢の体を抱き寄せて、私はその背中を手のひらで優しく叩いた。彼女は私の肩に顎を置いたまま硬直していたが、やがて、背を丸めて、私の肩口に顔を埋めた。荒い息は、いつしか嗚咽に変わっていた。




 落ち着いてから、ロズウィミア嬢は疲労困憊したようにまたガラスにもたれかかり、ぽつぽつと話し始めた。

「あなたと一緒にいる皇帝陛下を見て驚いたわ。時折、何だか昔みたいに、ちょっと子供らしく振る舞うんだもの。皇帝に擁立されてからは、夜に一緒にカードゲームをしようって誘いに来るような人じゃなくなったから」

 そして彼女は瞼を上げ、私の顔を真っ直ぐに見つめる。いっそ怖いほどに食い入るような目付きだった。

「……あなたは、彼の、初恋の人に、そっくり」

 彼女は剣でざっくりと切られた私の髪に触れた。目の色を確かめるように眦に指を置いた。

「ううん、あれは初恋なんて綺麗なものじゃないかしら」

 ロズウィミア嬢は虚しさを湛えて頬を緩めた。


「あの人は、『リア』に執着してる」


 その名が出てきたことに、私は少なからず動揺した。その様子をどう捉えたか、ロズウィミア嬢はため息をつく。

「酷なことを言うようだけれどね、クィリアルテ様。あなたは、ただ、彼の初恋の女の子に重ねられているだけなのよ」

 だから、私は、あなたたちにどうしても反対してしまう、と、彼女は続けた。

「そして、皇帝陛下は、あなたといると、無意識かもしれないけれど、リアを思い出して、過去に引きずられる。それがいいことなのか悪いことなのか判断出来ない今、私はあなた達に反対せざるを得ないわ」


 ロズウィミア嬢は、長い息をつく。言いたくなさそうに、彼女は顔にかかった髪を払いながら首を振った。

「前にも言ったわね。このままでは、誰も幸せになれないわ。あなたも辛いでしょう」

 思いつめたようにそう言うロズウィミア嬢に、よっぽど、その『リア』が自分だとバラしてしまいたくなった。しかし、私が不用意に発言したせいで何か問題が起こったら嫌だ。ロズウィミア嬢も無闇に言い触らすタイプではないけれど。


「えっとですね」

 私は言い淀みながら言葉を選ぶ。

「あんまりそういう危惧をする必要はないと言いますか、別に恋愛結婚ではないと言いますか」

「えええ!?」

 ロズウィミア嬢は仰け反って驚いた。

「あんだけ人前でイチャついておいて!?」

「いや、あれはただ単に友達だと思われているだけなので……」

「あんまり女性とお話することが得意じゃない、あの皇帝陛下とあんなに仲良くしているのに!?」

「ほんとに友達みたいなものなので……」

 ロズウィミア嬢は唖然としたように私をまじまじと見つめ、それから思い出したように人差し指を立てた。

「じゃあ初夜は?」

「一緒に戦盤しました!」

「馬鹿」


 そろそろ疲れてきた私は、ごろんと床に寝転がる。絨毯が敷かれた部屋なので、さして背中は痛くない。見習って、私の隣にロズウィミア嬢が転がってくる。

「あそこ、壁ががら空きで寒いですからね、一緒に寝てあげてもいいですよ」

 私は言って、腕を広げた。くるりと転がってきたロズウィミア嬢が私の腕の中に収まり、そのまま目を閉じた。

 少し見ている間に、彼女はすぐに眠りに落ちた。つられて私も目を閉じ、空腹に耐えながらも眠気に引っ張られると、そのまま陥落した。

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