とある花
Forget-me-not……
日本では、忘れな草って呼ばれている花の名前だ。
忘れな草には、ある伝説があるんだ。知っているかい?
もしも、きみが知っているのならこれ以上、読む必要はないのかもしれない…。
その昔、場所はドイツのドナウ川。
あたたかい日、昼下がりの午後…。
そのドナウ川のほとりに一組の若い男女がいた。 ふたりは恋人どうし、やわらかい光のなかで仲良く話をしていた。
とてもとても、ふたりは愛し合っていて将来を誓い合う仲であったという…。
「ねえ」
「なんだい?」
「このまま、ずっと一緒にいましょうね」
やわらかな午後の光を受けて、宝石のようになった彼女の瞳をやさしく見つめて、彼は静かに答えた。
「ああ…」
ふたりは、ドナウ川のほとりで草の上に腰をおろして、日がなそうやって話をしていた。
「ねえ」
「なんだい」
「言って…」
「なにを?」
「わかっているくせに」
「だから、なにを…」
「いじわる」
そんなふうに、ふたりは午後の日差しに揺れながら、あまく語り合っていた。
彼女がふと、何かを見つけ指を差して言った。
「あ、見て。あそこ、とっても綺麗な花が咲いているわ」
「え、どこだい?」
「ほら、もっと右よ」
「…ん、ああ、あの花か」
彼女が指差したその先には、いままでに見たことのない可愛らしい、小さな青い花が咲いていた。
「なんていう花かしら?」
「見たことのない花だ。そうだ、きみに取ってきてあげる」
「でも…、あそこは危ないわ」
その花が咲いているところは急斜面になっている場所で、そのうえ下は川の流れが激しくなっている。
もしも、落ちたら川岸に上がってくることはとても出来そうにない。
「あはは、大丈夫さ。きみの髪にさしたら、きっと似合うよ」
彼は笑いながらそう言って、彼女が止めるのをきかず、その花を取りに急斜面に向かって歩いていった……。
……その急斜面で体をななめにして、右手で落ちないように草につかまって、彼は彼女のために小さな青い花に左手を伸ばす。
下ではドナウの激流が、ごうごうと渦をまく。
「ああ、あぶない…、もうやめて」
彼女はハラハラとして、マリアに祈るようにそう言った。
だけど、彼は体をいっぱいに伸ばして、額に汗をかき、指で花をつかもうと必死になっている。
「あと…、少し…、そらっ、つかんだ!」
彼が花をつかんだ瞬間!
「ああっ!だめえ―」
彼女は叫んだ。
けれど、彼女の声もむなしく、彼はぐらっとなって、右手の草はちぎれて足場を失い、すべり落ちて川の中へ…。
「愛しいきみよ、さようなら、きみを幸せにできなくて…、ごめん…。だけど、ぼくを忘れないでください―」
彼は草の急斜面を転げ落ちながら、ドナウの激流にのまれながら、彼女に最後の言葉をそう言った。
「ああ、どうして…」
茫然として、その場に泣き崩れる彼女…。
泣き崩れた彼女の目の前にはなぜか、小さな青い花が、摘まれた状態で横に置いたようになっていた。
それは、彼が川に落ちてゆくときに最後の力をふりしぼり、彼女に向けて投げていたからだった…。
そうして、ひとり残された彼女の両手のなかで、その花が小さくふるえていた。
ぼくを忘れないでください―
彼の最後の言葉とともに……。
以来、その名もなき花は洋名を《Forget-Me-Not》といい。
和名を《勿忘草》と呼ぶようになったという。
そして―
その花の、花言葉は…。
真実の愛。