【プ(ロ×4)ーグ】
Xが消えると、白い空間の中心にサイコロ型の立体が出現しました。ボクの五倍いや十倍はあるその物体は、斜めに傾いた状態で宙に浮遊しており、天体もしくはコマのように回転しています。なんだろうこれはと眺めていると、立体の六面全てに【i】という巨大なアルファベット文字が浮かび上がりました。かと思うと文字はすぐに消滅し、次に映像が映し出されました。
…………え?
映っているのはボクがいる場所にとてもよく似たまっしろな空間でした。
そこに一人の女の子の姿がありました。小さいカラダと両腕を使って、両脚を包み込むような体勢で座っています。ワンピース、ドレスとも言えるのかもしれません、それは模様のない赤一色で他には何も身に付けていないようでした。
長い黒髪が前に集まり、顔は見えません。しかし肩が震えています。小さくなって泣いている女の子。何があったのでしょうか。
その時、彼女が顔を上げました。涙に濡れた彼女の目がまっすぐとボクの目を見ました。怒っているような、怨んでいるような、でも悲しんでいるような表情でした。
ポン、【B】は彼女だ……
空飛ぶ動物を見てあれは鳥だと思うように、ボクは思いました。
間違いない、彼女こそがボクにとっての【B】。
確信したのにはわけがありました。それは彼女がとてもかわいくてキレイで美しかったからです。でもそれだけではありません。彼女が泣いていたからです。でもそれだけではありません。何よりも大きな理由は彼女が【B】だと胸の中の声がそう告げているからでした。これがきっとXの言う<ハートが答えを知っている>ということなのでしょう。この確信はきっとどれだけ歩いても考えても覆ることはない。そう信じて疑わない、さっきの“∞を真っ二つにして……”の思いつきとは全く異なるポンでした。
その時、画面の中でカチッと音がしました。
音がすると女の子の姿が消えました。するとコンセントが抜けたかのように、立体は動かなくなりやがて浮力を失って地面に落下しました。
うわっ!
ボクは潰される前にその場から離れました。落下の衝撃で床が上下に揺れ、バランスを崩して前のめりに倒れます。
危なかった……顔を上げて振り返ると、ちょうどボクの正面に当たる一枚の面に小さな文字のようなものが見えました。
【e】
【T】
【e】 【YES】
【K】
【u】
【S】 【NO】
【a】
【T】
これは一体どういう意味だろう。
上の部分にある静止した文字は“たすけて”と読めました。そして中央には“イエス”と“ノ―”を意味する文字がありました。この二つの文字は,水中の物体のように壁の中をゆらゆらと動いています。
彼女を助けろ、ということか。
ボクは壁に近づき、【YES】がボクの手に届くまで下がってきたところで、その表面を指で触りました。
すると壁に新たな文字が現れました。
【?】
【K】
【O】
もう一度【YES】に触れると、【〇】以外の文字が小さくなって消えていきました。
ティラリラリーン。
音がすると【○】の文字が球を描くように縦にクルクルと回転しながら壁から飛びだしました。そして部屋中をグルグルと回りはじめたのでした。
なんだなんだ。
しばらく動き回った後、【〇】は勢いよく天井の壁を破壊して姿を消しました。天井に丸い穴が空き、パラパラと粉が落ちました。
なんなんだ、一体……
わけが分からず呆然としていると、音が聞こえました。天井の穴からでした。バサバサというはばたくような音が少しずつ大きくなっていきます。それは穴の奥から何かがやってくるようでした。天井からパラパラと粉が落ち続けました。
やがて音の正体がこの空間にやってきました。
ありゃなんだ?
現れたのは生き物とも物体とも言えないものでした。それは白いつばさを生やした真っ赤なハートなのでした。一つではありません。握りこぶし大のサイズのそれが群れを成す鳥のように際限なく現れているのでした。
穴から出てきたハートたちは螺旋階段を降りるようにクルクルと円を描きながら下降してきました。つばさから抜けた羽根が空間をヒラヒラと舞っています。
穴から出てきた全てのハートがボクをドーナツ型に取り囲みました。キョロキョロと警戒していると、天井から見下ろしたらちょうどドーナツが広がるように、ハートは一度ボクとの距離を広げ、そして一斉に襲いかかってきました。
抵抗する暇なんて与えてくれませんでした。
わっ!
無防備な城になだれ込む兵士のように、ハートはボクのあらゆる穴を通って、内部へと侵入してきました。鼻や口が塞がれます。呼吸ができなくなりました。目頭からも侵入され、目尻から涙がこぼれます。外部の音が聞こえないかわりに、カラダの中でバサバサバタバタとやかましい羽音が鳴り響きました。
涙で歪んだ視界の端にふと何かが映りました。アゴを上げて上目づかいをすると、ボクの頭上、ちょうど手の届かないギリギリの位置に記号が浮かんでいました。それは二桁の数字でした。ボクが見た時は【53】でしたが、数字は絶え間なく増加しています。あっという間に【60】を突破し【70】を突破し【80】を突破しました。
【90】を確認して間もなく、ハートたちの襲撃はようやく収まりを見せました。
……はあ、はあ。
目頭がズキズキとうずきます。呼吸はできるようになりましたが、喉も荒れて唾を飲み込むと痛みが走りました。ただ、カラダの中は静かになりました。
ボクはあおむけのまま、顔だけを前に起こしました。まだ羽音は止んでいませんでした。ボクの身体に侵入していないハートが一つだけ、目の前にいるのでした。
頭上の数字は【99】で止まっていました。
ボクは立ち上がりました。
最後のハートがボクの元に飛んできました。一直線にやってきて、今度はどの穴も使うことなく、ボクの胸に飛び込んできました。ハートが胸の中に入っていく感触は不思議なものでした。あたかも熱した石がそっと水中に投げ入れられたかのようでした。全身の細胞が目覚め、活発に動きはじめるのを感じました。血液の流れが早くなり、老廃物が汗とともにカラダから排出されていくのでした。
頭上には【―○○】が浮かんでいました。
いつの間にか、立体の壁に一枚の扉がありました。女の子のドレスのように真っ赤な扉でした。
バン!
突然、赤い扉が開かれました。特急列車のように吹き抜けていく突風。目を閉じました。燃え上がるようだった全身が瞬時に冷えていきました。活性化していた細胞が静まり、脈も穏やかになっていきます。
風が止むと目を開けました。まばたきとは違い、完全な自分の意志でまぶたを引き上げました。
立っているのはさっきまでの自分とは違う新しいボク、そう感じました。
ドクン。
新しいハートが動きはじめました。
ボクは彼女を助けると決めたんだ。
たった今ボクは死に、生まれ変わったのだ。そう思いました。
フゥ。
息と一緒に声と笑みが漏れました。すごく嬉しいと感じていました。どうしてこんなに嬉しいのでしょうか。頭を使って考えるまでもありませんでした。【B】を見つけたのです。人生の意味を。自分の使い道がはっきりと定まったのです。あとはその道を歩けばいいのです。どんなに険しかろうが恐ろしかろうが、道を外れずに歩き続ければ必ずその先に【B】があるのです。万が一、道に迷っても大丈夫です。だってボクにはハートがある。ハートに従って行けば間違いはないのです。
ボクは女の子の顔を思い出しました。
がんばるぞ。
赤い扉に向かって、足を前に出しました。
【これまでの内容をセーブしますか? →はい ・ いいえ】