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太陽の半分が西の地平線に隠れ始めた頃、神殿へと向かう一行はペトラ村を出発した。
空は夕陽で禍々しいまでに朱く染まり、フェリアの着物や髪、肌までもが薄紅色に色付くほどだった。
神殿へ祈祷を頼みに行くのは長老を始めとする村の男たち十人だ。長老以外はフェリアの輿を担いだり、食べ物や酒、山羊や鶏などの供物を運ぶ役目を担っている。
輿に乗せられたフェリアは薄い布を頭から被り、雨を乞う歌を唄う村人たちに見送られながら村を離れた。
行列の先頭は松明を持った男だ。次第に薄暗くなる周囲を警戒しながら、一行はヒュエトス神殿へと向かった。
プラシノ山へと近づくにつれて、葉の茂ったオリーブの木が増えてくる。
石混じりの山道は足場が悪く、フェリアが乗った輿は男たちが「おっと」と声を上げる度、左右に大きく揺れた。輿とはいっても板の下に長柄をつけただけの簡単なものなので、乗り心地はよくない。傾斜がきつい山道に入ってから、フェリアは板の両端を手で掴んでいなければ輿から滑り落ちそうなくらいだ。自分の足で歩かせて欲しい、と長老に頼んでみたものの、巫女は輿で神殿へ入るのが習わしだ、と一蹴された。
西の空にも星々が輝き始めた頃、神殿の篝火が遠くに見え始めた。
同時に、遠くからどうどうと耳慣れない爆音が聞こえてくる。
あの音はなんだろう、とフェリアが耳を澄ませていると、輿を担いでいた男のひとりが「メガロ滝の水が流れ落ちる音だ」と教えてくれた。「もうすぐ水の匂いが漂ってくるぞ」と別の男が嬉しそうに告げる。
月明かりと松明の炎だけが頼りの暗がりの中では辺りの様子がおぼろげにしか見えないものの、フェリアの目にもプラシノ山がペトラ村とはまったく異なる風景であることはわかった。
一行は途中で休憩を挟むことなく、ただひたすら神殿を目指す。
歩き続ける男たちの呼吸が荒くなり始め、「あと少しだ」と足を止めずに振り返った長老が彼らを励ましたときだった。
突然、山の上からごろごろと雷が轟いた。
「まずい。にわか雨がくるぞ」
空を見上げた長老が慌てた様子で男たちに告げる。
「雨だって? 凄いじゃないか。是非、その雨雲を村に持って帰りたいものだ」
男のひとりが声を弾ませたが、長老は舌打ちをした。
「この山のにわか雨は激しすぎて、まともに雨粒を浴びると痛いくらいだ。ひとまず、その辺りの木の下にでも避難するんだ」
フェリアを輿から降ろすと、一行は道端のオリーブの木の群生の陰に逃げ込む。
厚い雨雲で頭上が覆われ星が見えなくなったと思った途端、桶をひっくり返したように雨が降り出した。
激しい雨で男のひとりが持っていた松明の炎が消える。
ごうごうと音を立てて雨粒が落ちる様に、フェリアは目を瞠った。
山道は一瞬にして泥川のような様相となり、斜面を勢いよく水が滑り落ちてくる。
「神の手荒い歓迎かもしれんな」
フェリアの隣で果物が入った籠を背負った男がぼやく。
この雨雲がペトラ村に向かってくれますように、とフェリアが祈り始めて間もなく、降り出したときと同じく唐突に雨は止んだ。
山道ではまだ水が上から流れ続けていたが、雷鳴は遠退きつつある。
「やれやれ。ヒュエトス神がこの辺りを散策されているようだな」
ぬかるむ道に目を遣り、長老が零す。
ヒュエトス神は雨を司る神でもあるため、通り雨のことを『ヒュエトス神のお渡り』と呼ぶ。プラシノ山周辺では、雨が降らないということはヒュエトス神が立ち寄らない場所を意味しており、神にないがしろにされる地域は信仰心と神殿に捧げる供物が足りていないからだと考えられていた。
そのため、ペトラ村のように日照りに見舞われている地域は、神への貢ぎ物を携え、巫女として捧げる娘を連れてヒュエトス神殿へ祈願に向かうのが、長年プラシノ山周辺の集落の慣習となっていた。
「こうも暗いと、輿は危険だ。お前もここからは歩きなさい」
仄かな月明かりで浮かび上がる山道に目を凝らしつつ、長老がフェリアに告げる。
一行はぬかるみだらけの山道を、神殿へ向かって慎重に歩き出した。
誰かが水たまりに足を突っ込むたび、じゃぶじゃぶと水を掻き分ける音が響く。
それに混じって、後方から歩くにしては早い速度で水たまりを駆け抜ける音が近づいてくることに、一行のひとりが気付いた。
一行が振り返ると、馬に乗った男が、片手で自分の乗る馬の手綱を握り、もう片方の手で別の馬の手綱を持って走り寄ってくる。よくよく見れば、ペトラ村の男だった。
「どうしたんだ? なにかあったのか?」
一行の最後尾の男が、馬の男に尋ねる。
「イアニスは現れなかったか?」
馬の男は、馬上から一行を見回して尋ねた。
「あの男は貯蔵庫に閉じ込めておいたはずじゃなかったのか?」
イアニスの名を耳にした途端、長老は馬の男を睨み付けて聞き返す。
「日が暮れた後、イアニスを解放して、家に戻るのは見届けたんだが、しばらくして家を訪ねたら姿が消えていたんだ。その後、長老の家の馬が一頭消えていることがわかったものだから、あいつは馬を盗んで神殿に向かったに違いないと追い掛けてきたところだ」
「その馬は?」
「すぐそこの木に繋がれていたのを見つけたんだ。雷は鳴るわ雨は降るわで馬が怯えたものだから置いていったのかと思ったんだが」
「我々に追い付いたなら、真っ先にこの娘を連れ去ろうとするはずだろうに」
険しい表情を浮かべ、長老は首を傾げた。
「馬が繋がれていたすぐそばで、小さな土砂崩れが起きていたから、もしかしたらそれに巻き込まれて崖から落ちたのかもしれない」
馬の男が複雑な顔で呟く。
「え? ……そんな!」
両手で口元を覆ったフェリアが絶句する。
プラシノ山は神殿へ向かう道こそ整えられているが、斜面は険しい崖だ。オリーブの木が植えられていないところは剥きだしの岩ばかりで、山道から一歩でも足を踏み外して滑り落ちれば無傷では済まない。
「生きて見つかることはないかもしれないな。生贄を奪おうとしたものだから、ヒュエトス神の怒りに触れたに違いない」
輿の長柄持ちの男のひとりが、沈痛な面持ちで同意する。
(イアニスが……死んだ?)
男たちの会話をぼんやりと聞いていたフェリアだったが、次の瞬間には意識を失った。
*
気がつくと、篝火で昼間のように明るい部屋にフェリアはいた。
「目が覚めましたか?」
瞼を開けて身じろぎしたフェリアに気付いた黒髪の巫女が声を掛ける。
「ここは?」
白い石の柱で囲まれた広い室内は、寝台と篝火の他はなにもなかった。
「ヒュエトス神殿です。あなたは気を失った状態で運ばれてきたので、祈祷の刻限までこの部屋で休ませるよう神官長から仰せつかりました。かなりお疲れの様子ですね」
白い着物姿の巫女は、慈愛に満ちた眼差しをフェリアに向けた。
「神殿……そう、ですか」
上半身を起こしたフェリアは、卒倒する前に聞こえたイアニスの姿が消えた話を思い出し、空ろな表情を浮かべた。
「……イアニス」
喉の奥から声を絞り出して幼馴染みの名を呼んでみるが、感情が麻痺してしまったのか、不思議と哀しい気持ちにはならなかった。
「間もなく祈祷をおこないます。あなたはこれに着替えて待っていてください」
寝台の上に畳んで置かれた衣を示すと、巫女はフェリアの両手を包み込むように握る。
「大丈夫。なにも心配はいりません。儀式といってもただの形ばかりのものですから」
まだ放心状態のフェリアに、巫女は微笑みながら優しく諭した。