ふわふわぴょんぴょん。
ようやく空港を飛び立ったばかりだというのに、
私はすでに「あと何時間で到着するのだろう」などと先ほどから考えております。
老眼鏡を引っ掛け、本を顔に近づけるも、
目はページの上をすべるばかりでまったく内容が頭に入ってきません。
レンズの度数がまた合わなくなってきたのも多少は関係あるのでしょうが、
本の中身とは違う昔話が私の頭の中をぐるぐると回って仕方がないというのが一番の理由です。
開いたばかりの本を閉じて、シートに頭をあずけると、
こらえているものが顔に出たんでしょうね。
隣の席のお嬢さんに、
「どこか具合でも悪いんですか?」
と心配そうな声をかけられてしまいました。
私は首を横に振り、その心遣いにお礼を言うと、
なるべく表情に出ないようにと目を瞑りました。
それから少しだけうとうとして、再び目を開くと、
私はそのお嬢さんの膝の上に広げられている雑誌に目が行きました。
思わず、
「お好きなんですか?」
と私が尋ねると、
彼女は一瞬何のことかと、きょとんとしていましたが、
すぐに私の視線の先に気付き、
「はい」
と答えると、
すぐに少年のような少しはにかんだ笑顔を見せて、
「というか、実は私もやってるんです」
と続けました。
おそらく高校生くらいのお嬢さんでしょう。
私がそれについての知識を持っていると知ると、
彼女は大きな目をさらに大きくして、たくさんおしゃべりをしてくれました。
若さが内側からあふれ出るように話す、力強いその瞳に、
私もいよいよたまらない気持ちになり、
さっきまでひとりで反芻していた昔話を彼女に聞いてもらうことにしました。
あれは私がまだ四十代だった頃ですから、もう二十年以上も前の話です。
昔取った杵柄と申し上げたら聞こえは良いのですが、
早い話、叶わなかった夢への未練と申しましょうか。
当時、私は自宅を改装して子供相手にクラシックバレエの教室を開いておりまして、
その子供たちの中には桃ちゃんという五歳になる女の子がいました。
桃ちゃんは口数が少なく、
他の子ともあまり馴染もうとしない、
踊っているとき以外は常につまらなさそうな顔をしている、そんな子でした。
日暮れの風に、夏の終わりをかすかに感じるようになったある日、
珍しく桃ちゃんはレッスンをお休みしたのです。
私は、風邪でもひいたのかしらと思っていたのですが、
ちょうどレッスンが終わって生徒さんたちがみんな帰ったころ、
桃ちゃんはお母さんに手を引かれ、ガラス戸の向こう、
レッスン場に面した庭に俯いて立っていました。
それを見た途端、「ああ、そっか……」と私はすぐに事情を理解しました。
リビングのソファーに腰かけて二人と向かい合うと、
案の定、桃ちゃんのお母さんは少し申し訳なさそうな顔をすると、
桃ちゃんに教室を辞めさせたい旨を伝えてきました。
ただ、そこまでは私の予想の通りだったのですが、
意外だったのが、桃ちゃんのお母さんが辞めさせたいからではなく、
桃ちゃん自身が、「バレエきらい」「もうやめたい」と言い出したそうなのです。
私は、それならば仕方ないなと思いながら、
お母さんがトイレに立ったときに、桃ちゃんにそっと尋ねました。
「先生気付かなくってごめんね。バレエのどんなとこがイヤだった?」
桃ちゃんは口をあひるのように尖がらせて、しばらく黙っていましたが、
やがてボソボソとつぶやき始めました。
「ふわふわしてるところ……」
それからまたしばらく黙りこんで、
「あと、ぴょんぴょん跳ねるから」
あと……。
その先を桃ちゃんの口から聞く事はできませんでした。
桃ちゃんの大きな目はもうこれ以上ないというぐらいにギュッと閉じられて、
その内側で溢れてくるものを必死で止めようとするのです。
おのずと口も真横にギュッと閉じてしまいます。
でも、どうしてもそれは目の端からポロポロとこぼれてしまって、
そのまま頬から顎へと伝ってポタポタと桃ちゃんの膝の上にこぼれていきます。
ご存じ、バレエというのはお金がかかる習い事です。
うちもなるべくレッスン料は抑えてはいたのですが、
消耗品であるシューズやタイツに加え、
この時期のお子さんは成長も早いのでレオタードも買い替えてあげなければなりません。
発表会ともなると、それこそ目が飛び出るほどのお金が必要になります。
桃ちゃんのお母さんもそういう事情で悩んでいらっしゃったのは私も知っておりました。
そしてそんな母親の姿を見ていた幼い少女も、
どこかで敏感にそれを察知したのでしょう。
ただ、桃ちゃんは自分のうそがとっくにばれてしまっているというのに、
それでも目をきつく閉じたまま、眉の間に目一杯の力を込めます。
止まれ止まれと念じるように。
着ているワンピースのかわいいお花がグシャグシャになるぐらいぎゅっと裾を握って、
小さな体をカチンコチンにして、
それを必死にこらえようとする。
正直、そのいじらしさに参ったというのもありましたが、
たった五歳の女の子の中にこれ程までに強い気持ちがあるのかと私は驚き、
今のこの子を絶対に離してはならないと思ったのです。
そのあと、お母さんがトイレから戻ってくると私たちはもう一度三人で話をしました。
女三人、グズグズと泣きながら日が暮れるまで話したあの日は、
まるで昨日のことのように、私の中でくっきりとした濃い色で残っております。
私がようやく話を終えると、
隣に座っていたお嬢さんは目を大きく見開いて静かに涙を流していました。
他人が聞いてそれほどまでに感動するような話だったかしらと私が内心首を傾げていると、
そのお嬢さんは雑誌のページをパシャパシャと忙しなく捲り始め、
ある一枚の特集記事のページを、
雑誌が割けてしまうんじゃないかと思うくらいに開いて、
震える手で私に見せてくれます。
演目は『ジゼル』。
踊りの好きな村娘の悲恋を描いたロマンティックバレエの大作です。
あのころとは全然違うのに、
あのころと全然変わっていない。
このときばかりが幸せだという顔。
困りました。
飛行機に乗ってからずっとこらえていたのに、
ぎゅっと閉じた私の目の端からそれはこぼれてしまいます。
私が今乗っている飛行機はイギリスに向かって飛んでいます。
先日うちに届いたエアメールの中には、
飛行機のチケットとそれとは別にもう一枚チケットが入っていました。
私は明日、ふわふわぴょんぴょんを観にいきます。