第六話「一千万と、十四歳の契約」
週末の朝、萩ノ宮に向かった。
財前さんに「来栖堂の葛饅頭を持ってこい」と言われた。
来栖堂がどこにあるかは調べてあった。萩ノ宮駅から歩いて五分、銀杏通り商店街の中ほどだ。
都環線を降りると、住宅街と古い商店が混在した街だった。
商店街のアーチをくぐった。「銀杏通り商店街」と書いてある。
シャッターが目立つ。でも全部が死んでいるわけじゃない。人の流れを見ると、少数だが「ここに用がある人間」がいる。生きている店がある。
来栖堂は、中ほどにあった。
暖簾が出ていた。紺と白の、シンプルな暖簾だ。
中をのぞくと、ガラスケースに和菓子が並んでいた。
練り切りが、季節の紫陽花の形をしていた。
俺は少し立ち止まった。
花びらが、全部で五枚。全部、きちんと揃っていた。
誰かに見せるためじゃなく、ただ丁寧に作っている。手を抜かない人間の仕事は、こういう細部に出る。
「いらっしゃいませ」
六十代の男性が出てきた。節の太い手をしていた。指先に白い粉の跡がある。毎朝ここで作っている人の手だ。
「葛饅頭を、三個ください」
財前さんへの分と、自分用。せっかく来たのだから食べてみたかった。
包んでもらった。店の中を少し見回した。
古い什器。きれいに磨かれたガラスケース。隅の棚に、使い込まれた和菓子の型がいくつか並んでいた。
店を出て、商店街のベンチに座った。一個取り出して食べた。
甘くて、静かな味がした。
……本物だ。
財前さんが「調査目的」と言った意味が、少しわかった気がした。
◆
萩ノ宮から桐ヶ丘まで、電車で三十分ほどだ。
都環線に揺られながら、頭の中で今日の交渉を整理した。
財前さんが俺を呼んだのは、何かを提案するためだ。おそらく運用の話だ。
どう出るか。
俺がほしいのは金じゃない。今の口座残高で、当面の運用資金は足りている。
ほしいのは「人」だ。
才能があるのに機会がない場所を変えていくには、一人でできることには限界がある。信頼できる大人のネットワーク——それが今の俺に一番欠けているものだ。
電車が桐ヶ丘駅に着いた。
◆
古い雑居ビルの五階。財前光投資事務所。
名刺の住所を頼りにエレベーターに乗った。少し古い機械で、動き出すまでに間があった。
ドアが開いて、廊下を歩いた。すりガラスのドアに「財前光投資事務所」と書いてある。
ノックして入ると、財前さんがソファに座っていた。
コーヒーを飲みながら、視線だけをこちらに向けた。立ち上がる気配がない。
図書室で会った時と同じ目だ。怒っているわけじゃない。ただ、ずっと「確かめている」目だ。
「来たか。座れ」
「葛饅頭、持ってきました」
「置いとけ」
財前さんがコーヒーを一口飲んだ。
「ファルコンテクノロジー、調べたか」
「はい」
「先週、国税局が動いた。CFOの件だ」
「そうですか」
「驚かないのか」
「先週の動きは予測していました」
財前さんが少し間を置いた。
「お前の言った通りになった」
「はい」
「なぜわかった」
「CFOの個人口座への資金移動と、SNSの発言の変化から読みました。隠している人間は、言葉の端に出ます」
財前さんが葛饅頭の包みを開けた。
一口食べた。
黙った。
もう一口食べた。
「……うまいな」
「来栖堂という店で買ってきました。萩ノ宮の商店街です」
「知ってる。俺が言ったんだから」
「……そうでした」
財前さんが二個目を取り出した。
「単刀直入に言う。お前に一千万を預けたい。俺のファンドから出す。運用益の三割がお前の取り分だ。損が出たら全額俺の負担だ」
俺は少し間を置いた。
「条件を変えさせてください」
「断るんじゃなくて変える、か」
「取り分は一割でいいです。代わりに財前さんのネットワークを使わせてもらえる権利をください。俺が必要だと思った時に、人を紹介してもらえる条件です」
財前さんがしばらく俺を見た。
「人脈と金を交換しろ、ということか」
「今の俺に必要なのは、金より人です。一人でできることには限界がある。信頼できる人間が増えれば、動かせる規模が変わります」
「なぜ規模を動かしたい」
「才能があるのに機会がない人間を、放っておけないからです。それを変えるには、一人では足りない」
財前さんが少し黙った。
「……本気で言ってるのか」
「本気です」
「それでいい」
「え」
「条件を飲む。面白い取引には乗る。取り分を自分から下げて人脈を要求する人間は初めて見た。それだけだ」
俺は少し息をついた。
「もう一つ確認していいですか」
「なんだ」
「財前さんのファンド、三本ありますよね。一番調子が悪いのはどれですか」
財前さんが片眉を上げた。
「なんで三本と知ってる」
「公開情報と、業界の人への電話取材で調べました」
「……電話取材をするのか」
「名前と所属さえ言えば、話してくれる人はいます」
財前さんが今度こそはっきり笑った。
「悪いやつから始めたい理由は」
「改善した時の成果が大きいからです。成功がわかりやすい」
「失敗した時の言い訳にもなるな」
「失敗しない予定です」
「予定は予定だ」
「それでも、失敗しない予定です」
財前さんが立ち上がった。部屋の奥のホワイトボードの前に立って、マーカーを手に取った。
三つのファンドの概要が書かれていく。数字、銘柄比率、直近の成績。惜しげもなく書く。
「教えてくれるのは、俺を信用してくれたからですか」
「違う。教えた方が話が早いからだ。それだけだ」
俺はメモを取りながら、笑いをこらえた。
「一つだけ言っておく」
「なんですか」
「お前が何か特別なものを持っているとしたら——それを狙う人間がいる。覚えておけ」
「……どういう人間ですか」
「今は言えない。ただ、何か感じたら俺に先に言え。一人で動くな」
財前さんがコーヒーを飲み干した。
「来週も来い。運用方針を詳しく決める」
「はい」
「葛饅頭、また持ってこい」
「調査ですか」
「継続的なデータが必要だ」
俺はオフィスを出た。
ビルの外に出ると、桐ヶ丘の夕方の空気が当たった。
一千万の運用。財前さんのネットワーク。
そして「特別なものを狙う人間」という言葉。
財前さんがなぜあれを言ったのか、まだわからない。
でも気に留めておく必要がある。
颯爽と、やってやろうじゃないか。
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