表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/52

第六話「一千万と、十四歳の契約」

週末の朝、萩ノ宮に向かった。


財前さんに「来栖堂の葛饅頭を持ってこい」と言われた。


来栖堂がどこにあるかは調べてあった。萩ノ宮駅から歩いて五分、銀杏通り商店街の中ほどだ。


都環線を降りると、住宅街と古い商店が混在した街だった。


商店街のアーチをくぐった。「銀杏通り商店街」と書いてある。


シャッターが目立つ。でも全部が死んでいるわけじゃない。人の流れを見ると、少数だが「ここに用がある人間」がいる。生きている店がある。


来栖堂は、中ほどにあった。


暖簾が出ていた。紺と白の、シンプルな暖簾だ。


中をのぞくと、ガラスケースに和菓子が並んでいた。


練り切りが、季節の紫陽花の形をしていた。


俺は少し立ち止まった。


花びらが、全部で五枚。全部、きちんと揃っていた。


誰かに見せるためじゃなく、ただ丁寧に作っている。手を抜かない人間の仕事は、こういう細部に出る。


「いらっしゃいませ」


六十代の男性が出てきた。節の太い手をしていた。指先に白い粉の跡がある。毎朝ここで作っている人の手だ。


「葛饅頭を、三個ください」


財前さんへの分と、自分用。せっかく来たのだから食べてみたかった。


包んでもらった。店の中を少し見回した。


古い什器。きれいに磨かれたガラスケース。隅の棚に、使い込まれた和菓子の型がいくつか並んでいた。


店を出て、商店街のベンチに座った。一個取り出して食べた。


甘くて、静かな味がした。


……本物だ。


財前さんが「調査目的」と言った意味が、少しわかった気がした。



萩ノ宮から桐ヶ丘まで、電車で三十分ほどだ。


都環線に揺られながら、頭の中で今日の交渉を整理した。


財前さんが俺を呼んだのは、何かを提案するためだ。おそらく運用の話だ。


どう出るか。


俺がほしいのは金じゃない。今の口座残高で、当面の運用資金は足りている。


ほしいのは「人」だ。


才能があるのに機会がない場所を変えていくには、一人でできることには限界がある。信頼できる大人のネットワーク——それが今の俺に一番欠けているものだ。


電車が桐ヶ丘駅に着いた。



古い雑居ビルの五階。財前光投資事務所。


名刺の住所を頼りにエレベーターに乗った。少し古い機械で、動き出すまでに間があった。


ドアが開いて、廊下を歩いた。すりガラスのドアに「財前光投資事務所」と書いてある。


ノックして入ると、財前さんがソファに座っていた。


コーヒーを飲みながら、視線だけをこちらに向けた。立ち上がる気配がない。


図書室で会った時と同じ目だ。怒っているわけじゃない。ただ、ずっと「確かめている」目だ。


「来たか。座れ」


「葛饅頭、持ってきました」


「置いとけ」


財前さんがコーヒーを一口飲んだ。


「ファルコンテクノロジー、調べたか」


「はい」


「先週、国税局が動いた。CFOの件だ」


「そうですか」


「驚かないのか」


「先週の動きは予測していました」


財前さんが少し間を置いた。


「お前の言った通りになった」


「はい」


「なぜわかった」


「CFOの個人口座への資金移動と、SNSの発言の変化から読みました。隠している人間は、言葉の端に出ます」


財前さんが葛饅頭の包みを開けた。


一口食べた。


黙った。


もう一口食べた。


「……うまいな」


「来栖堂という店で買ってきました。萩ノ宮の商店街です」


「知ってる。俺が言ったんだから」


「……そうでした」


財前さんが二個目を取り出した。


「単刀直入に言う。お前に一千万を預けたい。俺のファンドから出す。運用益の三割がお前の取り分だ。損が出たら全額俺の負担だ」


俺は少し間を置いた。


「条件を変えさせてください」


「断るんじゃなくて変える、か」


「取り分は一割でいいです。代わりに財前さんのネットワークを使わせてもらえる権利をください。俺が必要だと思った時に、人を紹介してもらえる条件です」


財前さんがしばらく俺を見た。


「人脈と金を交換しろ、ということか」


「今の俺に必要なのは、金より人です。一人でできることには限界がある。信頼できる人間が増えれば、動かせる規模が変わります」


「なぜ規模を動かしたい」


「才能があるのに機会がない人間を、放っておけないからです。それを変えるには、一人では足りない」


財前さんが少し黙った。


「……本気で言ってるのか」


「本気です」


「それでいい」


「え」


「条件を飲む。面白い取引には乗る。取り分を自分から下げて人脈を要求する人間は初めて見た。それだけだ」


俺は少し息をついた。


「もう一つ確認していいですか」


「なんだ」


「財前さんのファンド、三本ありますよね。一番調子が悪いのはどれですか」


財前さんが片眉を上げた。


「なんで三本と知ってる」


「公開情報と、業界の人への電話取材で調べました」


「……電話取材をするのか」


「名前と所属さえ言えば、話してくれる人はいます」


財前さんが今度こそはっきり笑った。


「悪いやつから始めたい理由は」


「改善した時の成果が大きいからです。成功がわかりやすい」


「失敗した時の言い訳にもなるな」


「失敗しない予定です」


「予定は予定だ」


「それでも、失敗しない予定です」


財前さんが立ち上がった。部屋の奥のホワイトボードの前に立って、マーカーを手に取った。


三つのファンドの概要が書かれていく。数字、銘柄比率、直近の成績。惜しげもなく書く。


「教えてくれるのは、俺を信用してくれたからですか」


「違う。教えた方が話が早いからだ。それだけだ」


俺はメモを取りながら、笑いをこらえた。


「一つだけ言っておく」


「なんですか」


「お前が何か特別なものを持っているとしたら——それを狙う人間がいる。覚えておけ」


「……どういう人間ですか」


「今は言えない。ただ、何か感じたら俺に先に言え。一人で動くな」


財前さんがコーヒーを飲み干した。


「来週も来い。運用方針を詳しく決める」


「はい」


「葛饅頭、また持ってこい」


「調査ですか」


「継続的なデータが必要だ」


俺はオフィスを出た。


ビルの外に出ると、桐ヶ丘の夕方の空気が当たった。


一千万の運用。財前さんのネットワーク。


そして「特別なものを狙う人間」という言葉。


財前さんがなぜあれを言ったのか、まだわからない。


でも気に留めておく必要がある。


颯爽と、やってやろうじゃないか。


---

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ