第三十六話「財前さんの、心臓の話」
財前さんのオフィスに着いたのは、六時過ぎだった。
いつもと違うことが一つあった。
コーヒーが、テーブルにない。
財前さんが窓の外を見ていた。俺が入っても、すぐには振り向かなかった。
「来たか」
「来ました」
「座れ」
俺はソファに座った。葛饅頭はなかった。財前さんもコーヒーを飲んでいない。
「白鷺が言ったことを、全部話せ」
俺は順番に話した。百億規模のファンド。「財前さんはそばにいる時間が長くないかもしれない」という言葉。断ったこと。
財前さんが黙って聞いていた。
「財前さん」
「なんだ」
「白鷺が言った、健康問題のこと。本当のことですか」
長い沈黙があった。
窓の外で、帝都の夜が始まっていた。
「……精密検査を、受けた方がいいと言われている」
「心臓ですか」
財前さんが少し驚いた顔をした。
「なんでわかった」
「未来視で見えたわけじゃないです。財前さんが最近コーヒーを控えていること、健診の話を避けていること、たまに右手が左胸に行くこと——見ていればわかります」
財前さんが少し、目を細めた。
「……気づいていたのか」
「いつ話してくれるか、待っていました」
また沈黙があった。
「大したことじゃない」と財前さんが言った。
「白鷺が知っているくらいの話です。大したことないとは思えません」
「颯」
「はい」
「俺のことを心配するな。お前の仕事じゃない」
「してもいいですか」
財前さんが俺を見た。
「……勝手にしろ」
「検査、一人で行くつもりですか」
「当然だ」
「俺が一緒に行きます」
「お前に関係ない」
「関係あります。財前さんが倒れたら、葛饅頭の調査が止まります」
財前さんが「……ふん」と言った。
でも、断らなかった。
「白鷺の件、どう対処しますか」
「今すぐは動かない。三億の運用を進めろ。結果を出すことが、白鷺への一番の牽制になる」
「わかりました」
「颯、一つだけ言っておく」
「はい」
「白鷺は焦らない。じっくり観察する。お前を欲しいと思っている間は、危害は加えない。でも——」
「でも?」
「諦めた時に、何をするかわからない」
俺はその言葉を頭に入れた。
「わかりました」
「三億、週次報告を忘れるな」
「はい」
財前さんが立ち上がって、コーヒーメーカーに向かった。
「飲むか」
「いただきます」
財前さんが二つカップを出した。
コーヒーの匂いが部屋に広がった。
「財前さん」
「なんだ」
「医者に怒られるんじゃないですか、コーヒーは」
「うるさい」
「調査目的ですか」
財前さんが少し間を置いた。
「そうだ」
俺は少し笑いをこらえた。
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