第二十五話「一億円と、銀杏通りの春」
十一月の最終週。
朝五時五十分。
アラームより先に目が覚めた。
スマホを取り上げて、証券アプリを開いた。
三週間前、未来視で「年末に動く」と見えた銘柄を仕込んでいた。昨日から動き始めていた。
数字が並んでいる。
総資産:1億243万円。
しばらく、その数字を見ていた。
九歳の時、三十五万円から始めた。父さんの転職の夜があった。財前さんのファンドを任された。来栖堂に関わった。
一億。
でもゴールじゃない。
内訳を整理した。
株式運用が約八千九百万、ソウ・コンサルティングの報酬が八百万、財前ファンドの運用益の取り分が五百四十三万——合計、一億二百四十三万円。
数字を確認して、スマホを閉じた。
起きる。今日は萩ノ宮に行く日だ。
◆
銀杏通りのアーチをくぐった。
様子が変わっていた。
来栖堂の前に小黒板が出ていた。七海が書いた今日の商品一覧。丁寧な字で、冬の練り切りが書いてある。
隣のパティスリー・ミヤシタにも暖簾が出ていた。宮下さんが開けた栗と柿のタルトのポップが貼ってある。
惣菜屋の田中さんが試食コーナーを出していた。先月から始めた商店街スタンプラリーの一環で、木村会長が段取りをした。
池田文房具店は、シャッターが閉まっていた。
来月、正式に閉める。でも財前さんのファンドが物件を借り受けて、若い事業者の出店支援スペースにする計画が動き始めている。
全部が、少しずつ、着実に動いていた。
「颯」
七海が来栖堂の前から手を振った。
「来た」
「来ました」
「今日の月間売上、先月の記録を更新したよ。昨日の時点で」
「良かったです」
「良かったって、いっつも淡泊だね颯は」
「内心では相当喜んでいます」
「絶対嘘だ」
「本当です」
七海が俺の横に並んで、商店街を見た。
「颯、一つだけ聞いていいかな」
「どうぞ」
「颯はなんで、ここまで動いてくれたの。本当の理由」
俺は少し間を置いた。
「本当の理由はいくつかあります」
「全部聞いていいですか」
「一つ目は、来栖堂の和菓子が好きだから」
「それはいつも言ってる」
「二つ目は」
少し考えた。
「日ノ本のビリオネアは、今、五十人しかいません」
七海が少し驚いた顔をした。
「急にでかい話になった」
「聞きますか」
「聞く」
「五十人しかいない理由は、才能がないからじゃない。才能がある人間が、資金と機会と情報を持っていないだけだから。来栖さんはその典型でした」
「お父さんが」
「来栖さんの腕は本物です。でもそれが伝わっていなかった。篠崎みたいな人間に追い詰められていた。才能の問題じゃない。仕組みの問題です」
「じゃあ何をするの」
「才能と機会をつなぐ仕組みを作ります。来栖堂から始めて、全国へ」
七海がしばらく黙っていた。
「……ビリオネアを量産するって、そういうことか」
「そうです。自分だけが金持ちになっても、面白くない。才能がある人間が、ちゃんと機会を得られる世界を作りたい」
「来栖堂が、その最初の場所だった」
「はい」
七海が少し目を細めた。
「……なんか、誇らしい」
「ぜひ誇ってください。七海のSNSがなければ、萩ノ宮モデルは完成しなかった」
七海が「そっか」と言って、少し空を見た。
「颯、一つだけ言っていいかな」
「どうぞ」
「来栖堂、絶対続けるから。颯が高校に行っても、どこか遠くに行っても、ここにある。だから」
「だから?」
七海が俺をまっすぐ見た。
「たまに帰ってきて。ここに」
俺は少し間を置いた。
「帰ってきます。葛饅頭を食べに」
七海が「それだけかよ」と言った。
でも、笑っていた。
◆
来栖堂に入って、来栖さんに報告した。
商工会議所との契約。篠崎の件の決着。田村社長の白紙撤回。
来栖さんは全部、黙って聞いていた。
厨房から、雪の結晶をかたどった白い練り切りを出してきた。
「試食してもらえますか」
一口食べた。
甘くて、静かで、冬の始まりの味がした。
「……うまいです」
「良かった。颯くんに言ってもらうと、確信が持てるから不思議です」
「来栖さんの味は本物なので」
「いつもそう言ってくれますね」
「本当のことなので」
来栖さんが静かに笑った。
「颯くん、一つだけ」
「はい」
「あなたが来てくれて、良かった」
「俺こそ、来栖堂に来られて良かったです」
来栖さんが「これからも、よろしくお願いします」と言った。
「こちらこそ」
◆
来栖堂を出ると、財前さんが商店街の入り口に立っていた。
葛饅頭の袋を持っていた。
「来ていたんですか」
「ちょっとな。颯、今日一億を超えたな」
「はい。朝確認しました」
「どんな気持ちだ」
「ゴールじゃないと思いました」
「そうか」
「出発点です」
財前さんが銀杏通りを見た。
「颯、来年の春から東明高校だ。次の仕込みを始めるぞ」
「もう始めています」
「何を」
「商店街のDBです。萩ノ宮から始めて、帝都全域に広げています。名前、地図、店主の財務概況。Lv3の未来視が使えるデータが揃った商店街が、もう十七件あります」
財前さんが少し目を細めた。
「十七件」
「桜木商店街の染物屋、来週会いに行きます。商工会議所との約束の二件目の候補です」
「……本当に中学生か」
「本当に中学生です」
財前さんが葛饅頭を一口食べた。
「……うまいな、やっぱり」
「350円になりました」
「知っている。その値段で来た」
「調査ですか」
「長期にわたる品質追跡調査だ」
俺たちは並んで、銀杏通りを歩いた。
猫がいつものところに丸まっていた。
「財前さん」
「なんだ」
「財前さんは、ビリオネアになりたいと思いますか」
財前さんが少し間を置いた。
「お前はどう思う」
「財前さんは、お金を増やしたいんじゃなくて、本物を見つけたいんだと思います」
財前さんが黙った。
「それが、俺のやりたいことと同じです」
「……まあ、そうかもしれないな」
「だから一緒に動けている」
「颯」
「はい」
「来年、でかい話をする。準備しておけ」
「します」
「葛饅頭、来年も持ってこい」
「調査のために」
「そうだ」
銀杏通りの先に、商店街のアーチが見えた。
看板の文字が、冬の陽に照らされていた。
「銀杏通り商店街」。
色褪せていたその文字が、少し明るく見えた。
気のせいかもしれない。
でも俺は、気のせいじゃないと思っている。
颯爽と、やってやろうじゃないか。
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【商店街編・完】
(第二十六話「東明高校、入学」へ続く)
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