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第二十二話「篠崎の汚い手と、七海の涙」

水曜日の夕方、来栖さんから電話があった。


「颯くん、今日、保健所の人が来ました」


少し固まった。


「保健所、ですか」


「はい。厨房の衛生管理について、匿名の通報があったと言って。立入検査をさせてほしいと」


「対応しましたか」


「はい。全部見てもらいました。何も問題ないと言ってもらいました。でも」


来栖さんの声が、少し沈んだ。


「七海が聞いていたんです。『匿名の通報』という言葉を」


「今夜、行きます」



来栖堂に着くと、七海が店の奥に一人で座っていた。


来栖さんは厨房で明日の仕込みをしていた。


「七海」


「……来た」


七海の顔が、少し赤かった。泣いていたのか、怒っているのか、わからない。


「聞いた」


「……誰かが、お父さんの店を通報した。何も悪いことしてないのに」


七海の声が、少し震えていた。


「お父さん、表には出さなかったけど、すごく傷ついてたと思う。私にも『大丈夫だよ』って笑って見せてたけど、手が震えてた」


俺は七海の横に座った。


何か言おうとして、少し間を置いた。


「篠崎です」


七海が俺を見た。


「……やっぱり」


「証拠はまだないですが、タイミングと手口がそうです。バズった直後に来た。これが典型的なやり方です」


「なんで、そんなことを」


「追い詰められているから」


七海が少し黙った。


「颯、怒らないの?」


「怒っています」


「全然そう見えない」


「見せても意味がないので」


七海がため息をついた。


「……颯って、ずるいよね」


「どういう意味ですか」


「感情を、自分が必要な時にしか出さない。いつもちゃんとしてて。なんか、人間みたいじゃない感じがする時がある」


俺は少し間を置いた。


「七海」


「なに」


「俺は今、本当に怒っています」


七海がじっと俺を見た。


「来栖さんの厨房を見たことがある。毎朝五時から仕込みをして、花びらを全部揃えて。あの場所に難癖をつけられた。腹が立っています」


「……うん」


「それと」


「なに」


「七海が泣いていたことも、腹が立っています」


七海がまた少し黙った。


少しして「どうするの」と言った。


「準備が整ったら、まとめて終わらせます。一手ずつ確実に」


「それが颯の怒り方か」


「そうです」


七海が、泣きそうな顔で、笑った。


「……わかった。信じる」


来栖さんが厨房から顔を出した。


「颯くん、来てたんですか」


「来ました。保健所の件、確認に来ました」


「何も問題はなかったんですが……颯くん、これって」


「篠崎です。でも、これで終わりにします」


来栖さんが静かに頷いた。その目に怒りはなかった。ただ、少し疲れがあった。


「……颯くん、お願いします」


「任せてください」



その夜、財前さんに電話した。


「保健所への虚偽通報です。匿名ですが、タイミングからして篠崎です」


「…………そうか」


財前さんの声が、珍しく低かった。


「颯、今すぐ動くな」


「わかっています」


「証拠を揃える。篠崎の六件のスキームと、今回の通報。全部まとめて一度に終わらせる」


「記者への連絡は」


「来週、俺が直接会う。お前も同席するか」


「します」


「来栖さんと七海に、もう少し待つよう伝えろ」


電話が切れた。


俺はベッドに横になって、天井を見た。


七海の顔が浮かんだ。泣きそうな顔で笑ったあの顔。


来栖さんの手が震えていたという話が浮かんだ。


一手ずつ、確実に。


そして、終わらせる。


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