第二十二話「篠崎の汚い手と、七海の涙」
水曜日の夕方、来栖さんから電話があった。
「颯くん、今日、保健所の人が来ました」
少し固まった。
「保健所、ですか」
「はい。厨房の衛生管理について、匿名の通報があったと言って。立入検査をさせてほしいと」
「対応しましたか」
「はい。全部見てもらいました。何も問題ないと言ってもらいました。でも」
来栖さんの声が、少し沈んだ。
「七海が聞いていたんです。『匿名の通報』という言葉を」
「今夜、行きます」
◆
来栖堂に着くと、七海が店の奥に一人で座っていた。
来栖さんは厨房で明日の仕込みをしていた。
「七海」
「……来た」
七海の顔が、少し赤かった。泣いていたのか、怒っているのか、わからない。
「聞いた」
「……誰かが、お父さんの店を通報した。何も悪いことしてないのに」
七海の声が、少し震えていた。
「お父さん、表には出さなかったけど、すごく傷ついてたと思う。私にも『大丈夫だよ』って笑って見せてたけど、手が震えてた」
俺は七海の横に座った。
何か言おうとして、少し間を置いた。
「篠崎です」
七海が俺を見た。
「……やっぱり」
「証拠はまだないですが、タイミングと手口がそうです。バズった直後に来た。これが典型的なやり方です」
「なんで、そんなことを」
「追い詰められているから」
七海が少し黙った。
「颯、怒らないの?」
「怒っています」
「全然そう見えない」
「見せても意味がないので」
七海がため息をついた。
「……颯って、ずるいよね」
「どういう意味ですか」
「感情を、自分が必要な時にしか出さない。いつもちゃんとしてて。なんか、人間みたいじゃない感じがする時がある」
俺は少し間を置いた。
「七海」
「なに」
「俺は今、本当に怒っています」
七海がじっと俺を見た。
「来栖さんの厨房を見たことがある。毎朝五時から仕込みをして、花びらを全部揃えて。あの場所に難癖をつけられた。腹が立っています」
「……うん」
「それと」
「なに」
「七海が泣いていたことも、腹が立っています」
七海がまた少し黙った。
少しして「どうするの」と言った。
「準備が整ったら、まとめて終わらせます。一手ずつ確実に」
「それが颯の怒り方か」
「そうです」
七海が、泣きそうな顔で、笑った。
「……わかった。信じる」
来栖さんが厨房から顔を出した。
「颯くん、来てたんですか」
「来ました。保健所の件、確認に来ました」
「何も問題はなかったんですが……颯くん、これって」
「篠崎です。でも、これで終わりにします」
来栖さんが静かに頷いた。その目に怒りはなかった。ただ、少し疲れがあった。
「……颯くん、お願いします」
「任せてください」
◆
その夜、財前さんに電話した。
「保健所への虚偽通報です。匿名ですが、タイミングからして篠崎です」
「…………そうか」
財前さんの声が、珍しく低かった。
「颯、今すぐ動くな」
「わかっています」
「証拠を揃える。篠崎の六件のスキームと、今回の通報。全部まとめて一度に終わらせる」
「記者への連絡は」
「来週、俺が直接会う。お前も同席するか」
「します」
「来栖さんと七海に、もう少し待つよう伝えろ」
電話が切れた。
俺はベッドに横になって、天井を見た。
七海の顔が浮かんだ。泣きそうな顔で笑ったあの顔。
来栖さんの手が震えていたという話が浮かんだ。
一手ずつ、確実に。
そして、終わらせる。
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