第十七話「篠崎の、気配」
月曜日の朝、登校しながら頭の中で状況を整理していた。
七海の投稿から三日が経った。いいね数は今朝の時点で二千を超えていた。フォロワーも四百人増えた。コメントには「萩ノ宮に行きたい」「来栖堂、行ってみます」という言葉が増えてきている。
数字は順調だ。
でも、気になっていることがある。
篠崎が、静かすぎる。
来栖さんから「一週間待ってほしい」と連絡を入れてもらった後、篠崎からの返答がない。普通なら何らかの返事が来るはずだ。
それが来ない。
焦っていないのか、あるいは——別の手を考えているのか。
◆
放課後、財前さんのオフィスへ向かった。
来栖堂で葛饅頭を二個買ってきた。
「来たか」
「来ました。葛饅頭、持ってきました」
「置いとけ」
「調査用に二個です」
「わかってる。座れ」
財前さんがホワイトボードの前に立っていた。
「萩ノ宮開発の社長に連絡した」
「どうでしたか」
「会うことになった。今週木曜日」
「早いですね」
「向こうも俺のことは知っている。断る理由はないだろう」
財前さんがコーヒーを一口飲んだ。
「ただ、一つ問題が出てきた」
「なんですか」
「篠崎が動いている」
俺は少し身を乗り出した。
「どういう意味ですか」
「俺が萩ノ宮開発の社長に連絡した翌日、篠崎が来栖さんに電話したそうだ」
「来栖さんから聞いたんですか」
「ああ。七海さんからお前に連絡が来る前に、先に俺のところへ来た」
俺は少し考えた。
「篠崎は、財前さんが社長に接触したことを知った」
「そういうことだ。社長の秘書か、社内の誰かから漏れたんだろう。義理の兄弟だからな、連絡が早い」
「篠崎は何を来栖さんに言ったんですか」
財前さんが少し目を細めた。
「『今なら条件を緩和できます。今週中に返事をもらえれば、前倒しは取り消す』と言ったそうだ」
俺は黙った。
アメとムチだ。
「来栖さんの返答は」
「『颯に相談してから』と答えたそうだ」
「……来栖さん、ありがとうございます」
「颯」
「はい」
「篠崎は焦り始めている」
俺は顔を上げた。
「財前さんが動いていることがバレた、ということですか」
「完全にバレたわけじゃない。ただ、財前光が萩ノ宮開発に接触しようとしている——それだけでも、篠崎には十分な警戒信号になる。これまで来栖堂の周りにこういう人間はいなかった。突然現れた」
「篠崎が条件を緩和してきた、ということは……来栖さんを手放す気はまだない、ということですよね」
「そうだ。追い詰めてから、最後に『助けてあげる』という形で取り込もうとしている。来栖さんが感謝して判を押せば、それで終わりだ」
俺は腕を組んだ。
「篠崎の条件、今すぐ断らない方がいいですよね」
「そうだ。断れば別の手を打ってくる。『検討中』のまま時間を稼げ。木曜日に俺が社長と話す。そこで筋道がつけば、篠崎は自然に動けなくなる」
「……木曜日、同席させてもらえますか」
「お前が来ると社長が驚くぞ」
「驚かせていいです。印象に残ります」
財前さんが口の端を上げた。
「……来い。十四時にここへ来い」
「ありがとうございます」
財前さんが葛饅頭の包みを開けた。一口食べた。
「……うまいな、やっぱり」
「来栖さんの手ですから」
「ああ」
◆
来栖堂に着いたのは夕方の五時過ぎだった。
七海が店番をしていた。来栖さんは厨房で明日の仕込み中だ。
「颯、来た」
「篠崎さんから電話があったと聞きました」
七海の顔が少し曇った。
「うん。昨日の夜。お父さんが受けてた」
「来栖さん、今どんな気持ちですか」
「……正直に言うと、迷ってると思う。条件を緩くしてくれるならいいんじゃないかって」
「七海は?」
「私は信用できないと思ってる。でもお父さんに面と向かってそれは言えなくて」
「なんで」
「長い付き合いだから。私が『信用できない』って言ったら、お父さんを否定することになりそうで」
俺は少し間を置いた。
「七海、俺が来栖さんに話してもいいですか」
「何を言うつもり」
「篠崎の条件を、すぐに受けないでほしい、ということだけです」
七海がしばらく俺を見た。
「……お父さん、傷つかない?」
「傷つかせません」
「約束できる?」
「できます」
七海がため息をついた。
「……わかった。呼んでくる」
七海が厨房に入っていった。
俺は店内を見回した。ガラスケースの中の今日の商品。壁に貼ってある白黒の写真。若い頃の来栖さんが和菓子を作っている。
この店は、三代分の時間が詰まっている。
「颯くん」
来栖さんが前掛け姿で出てきた。
「突然すみません。篠崎さんのことで、少し聞いてもらえますか」
来栖さんが椅子に腰を下ろした。俺も向かいに座った。
七海は少し離れたところで、棚を整理するふりをしながら聞いていた。
「篠崎さんから条件の緩和を提案されましたよね」
「はい。正直、助かると思って」
「来栖さん、その条件の中に、土地を担保に入れる話はありましたか」
来栖さんが少し固まった。
「……ありました。今の担保と変わらないと言っていたので」
「今の担保と変わらない、というのは、篠崎さんの言葉ですよね」
「……そうですね」
「書類はまだもらっていませんか」
「電話だけで」
「書類が来たら、署名する前に見せてください。それだけお願いします」
来栖さんが俺を見た。
「……颯くん、何かあるんですか」
「はっきりしたことはまだ言えません。ただ、あと一週間だけください。一週間後には、別のルートが開けるかもしれない。財前さんが動いてくれています」
来栖さんが少し驚いた顔をした。
「財前さんが」
「はい」
来栖さんはしばらく黙っていた。
「財前さん……葛饅頭を、本当においしそうに食べてくれましたね。あの顔は、嘘をつかない顔だと思いました」
「そう思います」
来栖さんが、ゆっくり頷いた。
「……わかりました。一週間、待ちます」
「ありがとうございます」
「でも颯くん」
「はい」
「もし一週間後に、どうにもならなかったとしても……それはそれで、仕方ないと思っています。三代続いたことは、誇りです。でも四代目がいるわけでもないし、七海に継がせるつもりもない。もし潰れるとしたら、それはこの店の寿命だったということで」
七海が、棚の整理の手を止めた。
俺は来栖さんを見た。
諦めじゃない。ただ、長い時間をかけて受け入れてきた、何かがある顔だ。
「来栖さん」
「はい」
「七海は、継ぎたいと思っているかもしれません」
来栖さんが、少し目を細めた。
七海は棚を向いたまま、動かなかった。でも、耳が少し赤かった。
来栖さんが、小さく笑った。
「……一週間、待ちます」
俺は頭を下げた。
店を出て、駅に向かいながら、今日のことを整理した。
篠崎が焦り始めた。財前さんが木曜日に動く。来栖さんは一週間待ってくれる。七海の投稿は伸び続けている。
駒は揃っている。
あとは、木曜日だ。
都環線のホームで、夜風が吹いた。
秋の始まりの匂いがした。
---




