表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/52

第十七話「篠崎の、気配」

月曜日の朝、登校しながら頭の中で状況を整理していた。


七海の投稿から三日が経った。いいね数は今朝の時点で二千を超えていた。フォロワーも四百人増えた。コメントには「萩ノ宮に行きたい」「来栖堂、行ってみます」という言葉が増えてきている。


数字は順調だ。


でも、気になっていることがある。


篠崎が、静かすぎる。


来栖さんから「一週間待ってほしい」と連絡を入れてもらった後、篠崎からの返答がない。普通なら何らかの返事が来るはずだ。


それが来ない。


焦っていないのか、あるいは——別の手を考えているのか。



放課後、財前さんのオフィスへ向かった。


来栖堂で葛饅頭を二個買ってきた。


「来たか」


「来ました。葛饅頭、持ってきました」


「置いとけ」


「調査用に二個です」


「わかってる。座れ」


財前さんがホワイトボードの前に立っていた。


「萩ノ宮開発の社長に連絡した」


「どうでしたか」


「会うことになった。今週木曜日」


「早いですね」


「向こうも俺のことは知っている。断る理由はないだろう」


財前さんがコーヒーを一口飲んだ。


「ただ、一つ問題が出てきた」


「なんですか」


「篠崎が動いている」


俺は少し身を乗り出した。


「どういう意味ですか」


「俺が萩ノ宮開発の社長に連絡した翌日、篠崎が来栖さんに電話したそうだ」


「来栖さんから聞いたんですか」


「ああ。七海さんからお前に連絡が来る前に、先に俺のところへ来た」


俺は少し考えた。


「篠崎は、財前さんが社長に接触したことを知った」


「そういうことだ。社長の秘書か、社内の誰かから漏れたんだろう。義理の兄弟だからな、連絡が早い」


「篠崎は何を来栖さんに言ったんですか」


財前さんが少し目を細めた。


「『今なら条件を緩和できます。今週中に返事をもらえれば、前倒しは取り消す』と言ったそうだ」


俺は黙った。


アメとムチだ。


「来栖さんの返答は」


「『颯に相談してから』と答えたそうだ」


「……来栖さん、ありがとうございます」


「颯」


「はい」


「篠崎は焦り始めている」


俺は顔を上げた。


「財前さんが動いていることがバレた、ということですか」


「完全にバレたわけじゃない。ただ、財前光が萩ノ宮開発に接触しようとしている——それだけでも、篠崎には十分な警戒信号になる。これまで来栖堂の周りにこういう人間はいなかった。突然現れた」


「篠崎が条件を緩和してきた、ということは……来栖さんを手放す気はまだない、ということですよね」


「そうだ。追い詰めてから、最後に『助けてあげる』という形で取り込もうとしている。来栖さんが感謝して判を押せば、それで終わりだ」


俺は腕を組んだ。


「篠崎の条件、今すぐ断らない方がいいですよね」


「そうだ。断れば別の手を打ってくる。『検討中』のまま時間を稼げ。木曜日に俺が社長と話す。そこで筋道がつけば、篠崎は自然に動けなくなる」


「……木曜日、同席させてもらえますか」


「お前が来ると社長が驚くぞ」


「驚かせていいです。印象に残ります」


財前さんが口の端を上げた。


「……来い。十四時にここへ来い」


「ありがとうございます」


財前さんが葛饅頭の包みを開けた。一口食べた。


「……うまいな、やっぱり」


「来栖さんの手ですから」


「ああ」



来栖堂に着いたのは夕方の五時過ぎだった。


七海が店番をしていた。来栖さんは厨房で明日の仕込み中だ。


「颯、来た」


「篠崎さんから電話があったと聞きました」


七海の顔が少し曇った。


「うん。昨日の夜。お父さんが受けてた」


「来栖さん、今どんな気持ちですか」


「……正直に言うと、迷ってると思う。条件を緩くしてくれるならいいんじゃないかって」


「七海は?」


「私は信用できないと思ってる。でもお父さんに面と向かってそれは言えなくて」


「なんで」


「長い付き合いだから。私が『信用できない』って言ったら、お父さんを否定することになりそうで」


俺は少し間を置いた。


「七海、俺が来栖さんに話してもいいですか」


「何を言うつもり」


「篠崎の条件を、すぐに受けないでほしい、ということだけです」


七海がしばらく俺を見た。


「……お父さん、傷つかない?」


「傷つかせません」


「約束できる?」


「できます」


七海がため息をついた。


「……わかった。呼んでくる」


七海が厨房に入っていった。


俺は店内を見回した。ガラスケースの中の今日の商品。壁に貼ってある白黒の写真。若い頃の来栖さんが和菓子を作っている。


この店は、三代分の時間が詰まっている。


「颯くん」


来栖さんが前掛け姿で出てきた。


「突然すみません。篠崎さんのことで、少し聞いてもらえますか」


来栖さんが椅子に腰を下ろした。俺も向かいに座った。


七海は少し離れたところで、棚を整理するふりをしながら聞いていた。


「篠崎さんから条件の緩和を提案されましたよね」


「はい。正直、助かると思って」


「来栖さん、その条件の中に、土地を担保に入れる話はありましたか」


来栖さんが少し固まった。


「……ありました。今の担保と変わらないと言っていたので」


「今の担保と変わらない、というのは、篠崎さんの言葉ですよね」


「……そうですね」


「書類はまだもらっていませんか」


「電話だけで」


「書類が来たら、署名する前に見せてください。それだけお願いします」


来栖さんが俺を見た。


「……颯くん、何かあるんですか」


「はっきりしたことはまだ言えません。ただ、あと一週間だけください。一週間後には、別のルートが開けるかもしれない。財前さんが動いてくれています」


来栖さんが少し驚いた顔をした。


「財前さんが」


「はい」


来栖さんはしばらく黙っていた。


「財前さん……葛饅頭を、本当においしそうに食べてくれましたね。あの顔は、嘘をつかない顔だと思いました」


「そう思います」


来栖さんが、ゆっくり頷いた。


「……わかりました。一週間、待ちます」


「ありがとうございます」


「でも颯くん」


「はい」


「もし一週間後に、どうにもならなかったとしても……それはそれで、仕方ないと思っています。三代続いたことは、誇りです。でも四代目がいるわけでもないし、七海に継がせるつもりもない。もし潰れるとしたら、それはこの店の寿命だったということで」


七海が、棚の整理の手を止めた。


俺は来栖さんを見た。


諦めじゃない。ただ、長い時間をかけて受け入れてきた、何かがある顔だ。


「来栖さん」


「はい」


「七海は、継ぎたいと思っているかもしれません」


来栖さんが、少し目を細めた。


七海は棚を向いたまま、動かなかった。でも、耳が少し赤かった。


来栖さんが、小さく笑った。


「……一週間、待ちます」


俺は頭を下げた。


店を出て、駅に向かいながら、今日のことを整理した。


篠崎が焦り始めた。財前さんが木曜日に動く。来栖さんは一週間待ってくれる。七海の投稿は伸び続けている。


駒は揃っている。


あとは、木曜日だ。


都環線のホームで、夜風が吹いた。


秋の始まりの匂いがした。


---

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ