表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/52

第十六話「七海の、最初の一枚」

日曜日の朝八時。


来栖堂は、まだ開店前だった。


でも俺はすでにそこにいた。


「早すぎない?」


七海がエプロンを締めながら言った。


「準備があるので」


「私が準備するって言ったじゃん」


「七海一人に任せると、緊張して変な写真になる」


「……なんでわかるの」


「なんとなく」


七海がむっとした顔をしたが、否定はしなかった。


来栖さんはすでに厨房にいた。朝の仕込みが始まっている。包丁の音と、蒸し器の湯気。店に入った瞬間、甘い香りが漂ってきた。


今日の商品は、紫陽花の練り切りだ。


俺は厨房の入り口から、来栖さんの手元をじっと見た。


白い餡を、指先で丁寧に形作っていく。花びら一枚一枚が、ゆっくりと開いていく。


「……来栖さん、少し撮らせてもらえますか」


来栖さんが顔を上げた。


「写真、ですか」


「手元だけで構いません。顔は映しません」


来栖さんが少し迷った顔をした。


「……仕事中に撮られるのは、あまり」


「一枚だけです。この手が、全部を語ります」


来栖さんがもう一度俺を見た。


七海が横から「お父さん、いいじゃん」と言った。


「七海……」


「颯に任せてみてよ。私も一緒に見てるから」


来栖さんはしばらく黙って、「一枚だけですよ」と言った。


「ありがとうございます」



俺はスマホを構えた。


七海に渡す前に、アングルを確認する。


厨房の窓から差し込む朝の光。それが来栖さんの手元に当たっている。節の太い、でも繊細に動く指。白い餡の上に、少しずつ紫陽花が咲いていく。


シャッターを切った。


一枚。


七海が横から覗き込んだ。


「……わ」


声が出た。


スマホの画面に、来栖さんの手が映っていた。光の角度が良かった。職人の手の「時間」が、一枚に収まっていた。


「これ、すごい」


「来栖さんの手がすごいんです」


「でも颯が撮ったじゃん」


「光と手が全部来栖さんのものです。俺はシャッターを押しただけ」


七海がもう一度画面を見た。


「……お父さん、見て」


来栖さんが手を止めて、画面を見た。


しばらく、無言だった。


「……これが、私の手ですか」


「そうです」


「なんか、知らない人の手みたいだ」


「毎日見てるから、わからなくなってるだけです。来栖さんの手は、本物の手です」


来栖さんが少し目を細めた。照れているのか、感慨深いのか、判断できない表情だった。


「……投稿してもいいですか」


「……好きにしなさい」


「ありがとうございます」



七海がキャプションを考えた。


俺はそこには口を出さなかった。


来栖堂の言葉は、七海の言葉でなければいけない。


「どう書けばいい?」


「七海が、この写真を見て最初に思ったことを書けばいい」


「それだけ?」


「それだけです」


七海がスマホを持って、しばらく考えた。


十分くらい、考えた。


その間、俺は来栖堂の商品ケースを眺めていた。今日並ぶ予定の和菓子が、開店前に一列に並んでいる。


「できた」


七海がスマホを見せてきた。


『父の手。毎朝、同じ時間に、同じ場所で、同じ丁寧さで動いている。三代続いた来栖堂の和菓子は、この手から生まれます。萩ノ宮・銀杏通り商店街』


俺は少し黙って、読んだ。


「……いいです」


「本当に?」


「本当に。上げてください」


七海が少し深呼吸して、投稿ボタンを押した。



その夜、ベッドの中でスマホを確認した。


七海のアカウント。投稿から十二時間。


いいね数:847。


コメント欄には、こんな言葉が並んでいた。


「来栖堂! 懐かしい、昔よく行ってました」

「この手、ほんとうに好き。職人って感じがする」

「萩ノ宮ってこんなお店あったんですね、行きたい」


スマホを置いた。


小さい。まだ小さい。


でも確かに、動き始めた。


……と思ったところで、七海からメッセージが来た。


「颯見た!? 847!!!」


「見ました」


「すごくない!?」


「いい出だしです」


「いい出だしって、もっと喜んでよ」


「喜んでます」


「全然伝わってこないんだけど」


「内心では相当喜んでいます」


「嘘くさい」


「本当です。来栖さんはどうですか」


しばらく間があった。


「……お父さん、さっきからずっとスマホのコメント読んでる。老眼鏡かけて」


「それは良かった」


「なんか、目が赤くなってた」


「……そうですか」


「颯のおかげだよ」


「来栖さんの手のおかげです」


「もう、素直じゃないんだから」


七海がそう送ってきて、会話が終わった。


俺はもう一度、投稿を見た。


847いいね。


来栖さんの手と、七海の言葉が生んだ数字だ。


これが、始まりだ。


でも同時に——これが始まりだということは、篠崎たちが動く理由も生まれ始めるということだ。


スマホを閉じて、目を閉じた。


次の手を、考えなければならない。


---



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ