第十六話「七海の、最初の一枚」
日曜日の朝八時。
来栖堂は、まだ開店前だった。
でも俺はすでにそこにいた。
「早すぎない?」
七海がエプロンを締めながら言った。
「準備があるので」
「私が準備するって言ったじゃん」
「七海一人に任せると、緊張して変な写真になる」
「……なんでわかるの」
「なんとなく」
七海がむっとした顔をしたが、否定はしなかった。
来栖さんはすでに厨房にいた。朝の仕込みが始まっている。包丁の音と、蒸し器の湯気。店に入った瞬間、甘い香りが漂ってきた。
今日の商品は、紫陽花の練り切りだ。
俺は厨房の入り口から、来栖さんの手元をじっと見た。
白い餡を、指先で丁寧に形作っていく。花びら一枚一枚が、ゆっくりと開いていく。
「……来栖さん、少し撮らせてもらえますか」
来栖さんが顔を上げた。
「写真、ですか」
「手元だけで構いません。顔は映しません」
来栖さんが少し迷った顔をした。
「……仕事中に撮られるのは、あまり」
「一枚だけです。この手が、全部を語ります」
来栖さんがもう一度俺を見た。
七海が横から「お父さん、いいじゃん」と言った。
「七海……」
「颯に任せてみてよ。私も一緒に見てるから」
来栖さんはしばらく黙って、「一枚だけですよ」と言った。
「ありがとうございます」
◆
俺はスマホを構えた。
七海に渡す前に、アングルを確認する。
厨房の窓から差し込む朝の光。それが来栖さんの手元に当たっている。節の太い、でも繊細に動く指。白い餡の上に、少しずつ紫陽花が咲いていく。
シャッターを切った。
一枚。
七海が横から覗き込んだ。
「……わ」
声が出た。
スマホの画面に、来栖さんの手が映っていた。光の角度が良かった。職人の手の「時間」が、一枚に収まっていた。
「これ、すごい」
「来栖さんの手がすごいんです」
「でも颯が撮ったじゃん」
「光と手が全部来栖さんのものです。俺はシャッターを押しただけ」
七海がもう一度画面を見た。
「……お父さん、見て」
来栖さんが手を止めて、画面を見た。
しばらく、無言だった。
「……これが、私の手ですか」
「そうです」
「なんか、知らない人の手みたいだ」
「毎日見てるから、わからなくなってるだけです。来栖さんの手は、本物の手です」
来栖さんが少し目を細めた。照れているのか、感慨深いのか、判断できない表情だった。
「……投稿してもいいですか」
「……好きにしなさい」
「ありがとうございます」
◆
七海がキャプションを考えた。
俺はそこには口を出さなかった。
来栖堂の言葉は、七海の言葉でなければいけない。
「どう書けばいい?」
「七海が、この写真を見て最初に思ったことを書けばいい」
「それだけ?」
「それだけです」
七海がスマホを持って、しばらく考えた。
十分くらい、考えた。
その間、俺は来栖堂の商品ケースを眺めていた。今日並ぶ予定の和菓子が、開店前に一列に並んでいる。
「できた」
七海がスマホを見せてきた。
『父の手。毎朝、同じ時間に、同じ場所で、同じ丁寧さで動いている。三代続いた来栖堂の和菓子は、この手から生まれます。萩ノ宮・銀杏通り商店街』
俺は少し黙って、読んだ。
「……いいです」
「本当に?」
「本当に。上げてください」
七海が少し深呼吸して、投稿ボタンを押した。
◆
その夜、ベッドの中でスマホを確認した。
七海のアカウント。投稿から十二時間。
いいね数:847。
コメント欄には、こんな言葉が並んでいた。
「来栖堂! 懐かしい、昔よく行ってました」
「この手、ほんとうに好き。職人って感じがする」
「萩ノ宮ってこんなお店あったんですね、行きたい」
スマホを置いた。
小さい。まだ小さい。
でも確かに、動き始めた。
……と思ったところで、七海からメッセージが来た。
「颯見た!? 847!!!」
「見ました」
「すごくない!?」
「いい出だしです」
「いい出だしって、もっと喜んでよ」
「喜んでます」
「全然伝わってこないんだけど」
「内心では相当喜んでいます」
「嘘くさい」
「本当です。来栖さんはどうですか」
しばらく間があった。
「……お父さん、さっきからずっとスマホのコメント読んでる。老眼鏡かけて」
「それは良かった」
「なんか、目が赤くなってた」
「……そうですか」
「颯のおかげだよ」
「来栖さんの手のおかげです」
「もう、素直じゃないんだから」
七海がそう送ってきて、会話が終わった。
俺はもう一度、投稿を見た。
847いいね。
来栖さんの手と、七海の言葉が生んだ数字だ。
これが、始まりだ。
でも同時に——これが始まりだということは、篠崎たちが動く理由も生まれ始めるということだ。
スマホを閉じて、目を閉じた。
次の手を、考えなければならない。
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