七:塔の魔女
シルマが庵に居ついてから、数ヶ月が過ぎた。
季節は夏を迎え、沼は生命の熱気で満ち溢れていた。
マルトの世界は、アンディラの静かな教えと、シルマの騒がしい実践(という名の悪戯)によって、彩りを増していた。
「見てなさいマルト!カエルと友達になる方法よ!」
その日もシルマは、沼のほとりで泥だらけになりながら、カエルの鳴き真似をしていた。
そのあまりの音痴さに、マルトはこめかみを押さえる。
「……カエルが、迷惑そうにしているわ」
「えー、これは友好の挨拶なのに!」
シルマがぷうっと頬を膨らませた、その時だった。
今までやかましく鳴いていたカエルの声がぴたりと止み、羽虫の音も消え、風の音すら聞こえなくなる。
まるで、世界から音が奪われたかのような、不自然な沈黙だった。
「……うそでしょ」
シルマの顔から、さっと血の気が引いた。
彼女の本能が、捕食者の接近を告げていた。
庵の前の開けた場所に、いつの間にか一人の女が立っていた。
音も、気配もなく。黒いドレスを纏った、塔の魔女ドリス。
「なんだい、まだ生きてたのか、その根性なし」
ドリスは、マルトの後ろに隠れようとするシルマを一瞥すると、心底軽蔑したように鼻で笑った。
彼女の燃えるような瞳は、アンディラの隣で固まっているマルトを、品定めするように見つめている。
「なるほどな。こいつは、パンパンに膨らんだ水袋だ。このままじゃ、じき破裂するよ」
その言葉は、マルトとアンディラが抱えていた問題の核心を、容赦なく抉り出した。
ドリスは、自らの力の片鱗を見せるように、近くの巨大な枯れ木を、指を鳴らしただけで塵へと変えてみせた。
「これが力だ。溜め込んだ水を、ただ流すんじゃない。激流として放ち、障害を粉砕する。決まりだね。アンディラ、こいつを預かる」
一方的な宣言に、シルマが恐怖を振り絞って叫んだ。
「やめなさい!マルトはこのあたしの妹弟子よ!」
だが、ドリスはそんな彼女を鬱陶しそうに影の魔術で縛り上げ、無力化する。
「姉弟子なら、妹弟子が強くなるのを黙って見てな」
その冷たい言葉と、友人の姿に、マルトの中で何かが弾けた。
彼女は咄嗟に、自分の前に薄い水の膜を張る。ドリスの魔力の前では、無いにも等しい抵抗。
だが、ドリスはその水の膜を見て、初めて口元に獰猛な笑みを浮かべた。
「ほう……。少しは骨があるじゃないか。気に入った。お前はあたしの弟子にくれてやる」
アンディラの制止も聞かず、ドリスはマルトを担ぎ上げる。
「鉄を打って、鋼に変えるんだよ。途中で折れるか、名剣になるか……そいつ次第だ」
なすすべもなく連れ去られながら、マルトは、友人を傷つけられ、自分の運命を勝手に決められたことへの、燃えるような怒りを胸に、決して折れてなるものか、と強く誓った。
ドリスの塔での修行は、地獄だった。
「アンディラのままごとは忘れろ。力は、乞い願うものじゃない。ねじ伏せ、支配するものだ!」
最初の数週間、マルトはドリスの教えに反発し、失敗を繰り返した。
力を解放できず、暴発した魔力が自らの身体を打ち据える。
夜ごと、孤独と絶望に涙を流すが、ドリスは「泣く暇があるなら力を練れ」と、冷たく言い放つだけだった。
転機が訪れたのは、一月ほどが過ぎた頃だった。
消耗しきったマルトは、もうアンディラの教えにすがる余力も残っていなかった。
目の前の巨大な岩塊が、まるで自分を嘲笑っているかのように見える。
(―――壊したい)
初めて、彼女の心に純粋な破壊衝動が生まれた。
ドリスへの憎しみ、自分の無力さへの苛立ち、王家への絶望。
その全ての黒い感情を、あの岩に叩きつけたい。
マルトは、アンディラの教えを捨てた。
ドリスのやり方を模倣し、心の奥底にある負の感情全てを燃料として、魔力を練り上げた。
「―――壊れろッ!」
叫びと共に放たれた魔力の奔流は、これまでとは比べ物にならない密度と速度で岩塊に激突した。
耳をつんざく轟音と共に、岩の半分が粉々に砕け散る。
マルトは、その圧倒的な破壊の光景と、自分の腕に残る魔力のかすかな痺れに、呆然と立ち尽くした。
そして、感じてしまった。
恐怖と同時に、背筋を駆け上るような、得体の知れない高揚感を。
自分は、こんなにも強い。
こんなにも、恐ろしいことができる。
彼女は、粉塵に汚れた自分の小さな手を見つめた。これが、私?
力を得ることは、何かを失うことだ。
この瞬間、彼女の中で「王女エリザベート」だった無垢な少女が、完全に死んだ。
そこから、修行の質が変わった。
破壊の快感を覚えた彼女は、次に、その力を「精密に制御する」技術を学んだ。
燃え盛る感情を、氷のような理性で支配し、魔力を、災害ではなく「兵器」として扱う術を。
塔に来て三月が経った最後の日。
ドリスは、訓練場の中央で一枚の銅貨を高く放り投げた。
「あれを消せ」
マルトは、無感情な瞳で宙を舞う銅貨を見つめる。
彼女が静かに指先を向けると、そこから放たれたのはもはや奔流ではなかった。
ただ、空間を穿つ一条の光。銅貨は音もなく、空中で蒸発して消えた。
「……上出来だ。行け」
ドリスはそれだけ言うと、マルトに背を向けた。
夏の終わりの風が、沼の葦を静かに揺らしていた。
アンディラの庵の前に、一人の少女が音もなく姿を現した。
数ヶ月前、恐怖と怒りを胸に連れ去られていった時とはまるで違う、その確かで迷いのない足取り。
伸びた亜麻色の髪が風に流れても、彼女の表情は精巧な人形のように、何の感情も映し出してはいなかった。
「マルト!帰ってきたのね!」
駆け寄ってきたシルマが、以前のように彼女を力いっぱい抱きしめようとする。
その腕がマルトに触れる、寸前。
ドン、と鈍い音がして、シルマの身体が弾かれた。まるで鋼鉄の像にぶつかったかのようだ。
「いっ……たぁ!な、何よマルト、カッチカチじゃない!」
「……ごめんなさい。癖になっているの。危険を感知すると、自動で身体を硬化するように、訓練されたから」
「危険って、なによ!」
その臨床報告のような口調に戸惑いながら、シルマは突っ込みを忘れない。
その時、シルマの突っ込みと同時に上げられた尾が、そばにあった薬草を煮込んでいる大鍋の台にぶつかった。
煮えたぎる薬液の入った重い鉄鍋が傾く。
「あっ!」
シルマが悲鳴を上げた時には、もう全てが終わっていた。
マルトは、驚きもせず、ただ倒れゆく大鍋に静かに手をかざす。
すると、鍋も、こぼれ落ちる液体も、全てが空中でピタリと静止した。
彼女は、ゆっくりとした動作で鍋を元の位置に戻すと、空中に浮かんだ薬液を、一滴残らず鍋の中へと吸い寄せた。
それは、世界の法則を捻じ曲げ、自らの意志の下に完全に支配する、ドリスの魔術だった。
シルマは、その人間離れした光景に、完全に沈黙していた。
やがて、庵から出てきたアンディラが、静かに口を開いた。
「……ドリスは、あんたに何を教えたんだい」
「生き残るための、力です」
マルトは、よどみなく答える。
「力がなければ、シルマも、師匠も守れません。……ドリス師匠は、そう教えてくれました」
アンディラは、その答えに深くため息をつくと、言った。
「その力は、確かに強い。だが、あまりに冷たい。そんな鋼のような力で、この沼に住まう気まぐれな精霊たちの祝福が得られると、あんたは本気で思っているのかい?」
マルトは、答えなかった。彼女の新たな、そして最も困難な戦いは、今まさに始まろうとしていた。
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