表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
グランキウスの魔女  作者: まんねんゆき
第一部:グランキウスの王女
9/107

七:塔の魔女

 シルマが庵に居ついてから、数ヶ月が過ぎた。

 季節は夏を迎え、沼は生命の熱気で満ち溢れていた。

 マルトの世界は、アンディラの静かな教えと、シルマの騒がしい実践(という名の悪戯)によって、彩りを増していた。


「見てなさいマルト!カエルと友達になる方法よ!」

 その日もシルマは、沼のほとりで泥だらけになりながら、カエルの鳴き真似をしていた。

 そのあまりの音痴さに、マルトはこめかみを押さえる。

「……カエルが、迷惑そうにしているわ」

「えー、これは友好の挨拶なのに!」

 シルマがぷうっと頬を膨らませた、その時だった。


 今までやかましく鳴いていたカエルの声がぴたりと止み、羽虫の音も消え、風の音すら聞こえなくなる。

 まるで、世界から音が奪われたかのような、不自然な沈黙だった。

「……うそでしょ」

 シルマの顔から、さっと血の気が引いた。

 彼女の本能が、捕食者の接近を告げていた。

 庵の前の開けた場所に、いつの間にか一人の女が立っていた。

 音も、気配もなく。黒いドレスを纏った、塔の魔女ドリス。


「なんだい、まだ生きてたのか、その根性なし」

 ドリスは、マルトの後ろに隠れようとするシルマを一瞥すると、心底軽蔑したように鼻で笑った。

 彼女の燃えるような瞳は、アンディラの隣で固まっているマルトを、品定めするように見つめている。

「なるほどな。こいつは、パンパンに膨らんだ水袋だ。このままじゃ、じき破裂するよ」

 その言葉は、マルトとアンディラが抱えていた問題の核心を、容赦なく抉り出した。

 ドリスは、自らの力の片鱗を見せるように、近くの巨大な枯れ木を、指を鳴らしただけで塵へと変えてみせた。

「これが力だ。溜め込んだ水を、ただ流すんじゃない。激流として放ち、障害を粉砕する。決まりだね。アンディラ、こいつを預かる」


 一方的な宣言に、シルマが恐怖を振り絞って叫んだ。

「やめなさい!マルトはこのあたしの妹弟子よ!」

 だが、ドリスはそんな彼女を鬱陶しそうに影の魔術で縛り上げ、無力化する。

「姉弟子なら、妹弟子が強くなるのを黙って見てな」

 その冷たい言葉と、友人の姿に、マルトの中で何かが弾けた。

 彼女は咄嗟に、自分の前に薄い水の膜を張る。ドリスの魔力の前では、無いにも等しい抵抗。

 だが、ドリスはその水の膜を見て、初めて口元に獰猛な笑みを浮かべた。

「ほう……。少しは骨があるじゃないか。気に入った。お前はあたしの弟子にくれてやる」

 アンディラの制止も聞かず、ドリスはマルトを担ぎ上げる。

「鉄を打って、鋼に変えるんだよ。途中で折れるか、名剣になるか……そいつ次第だ」

 なすすべもなく連れ去られながら、マルトは、友人を傷つけられ、自分の運命を勝手に決められたことへの、燃えるような怒りを胸に、決して折れてなるものか、と強く誓った。


 ドリスの塔での修行は、地獄だった。

「アンディラのままごとは忘れろ。力は、乞い願うものじゃない。ねじ伏せ、支配するものだ!」

 最初の数週間、マルトはドリスの教えに反発し、失敗を繰り返した。

 力を解放できず、暴発した魔力が自らの身体を打ち据える。

 夜ごと、孤独と絶望に涙を流すが、ドリスは「泣く暇があるなら力を練れ」と、冷たく言い放つだけだった。


 転機が訪れたのは、一月ほどが過ぎた頃だった。

 消耗しきったマルトは、もうアンディラの教えにすがる余力も残っていなかった。

 目の前の巨大な岩塊が、まるで自分を嘲笑っているかのように見える。

(―――壊したい)

 初めて、彼女の心に純粋な破壊衝動が生まれた。

 ドリスへの憎しみ、自分の無力さへの苛立ち、王家への絶望。

 その全ての黒い感情を、あの岩に叩きつけたい。

 マルトは、アンディラの教えを捨てた。

 ドリスのやり方を模倣し、心の奥底にある負の感情全てを燃料として、魔力を練り上げた。


「―――壊れろッ!」


 叫びと共に放たれた魔力の奔流は、これまでとは比べ物にならない密度と速度で岩塊に激突した。

 耳をつんざく轟音と共に、岩の半分が粉々に砕け散る。

 マルトは、その圧倒的な破壊の光景と、自分の腕に残る魔力のかすかな痺れに、呆然と立ち尽くした。

 そして、感じてしまった。

 恐怖と同時に、背筋を駆け上るような、得体の知れない高揚感を。

 自分は、こんなにも強い。

 こんなにも、恐ろしいことができる。

 彼女は、粉塵に汚れた自分の小さな手を見つめた。これが、私?

 力を得ることは、何かを失うことだ。

 この瞬間、彼女の中で「王女エリザベート」だった無垢な少女が、完全に死んだ。


 そこから、修行の質が変わった。

 破壊の快感を覚えた彼女は、次に、その力を「精密に制御する」技術を学んだ。

 燃え盛る感情を、氷のような理性で支配し、魔力を、災害ではなく「兵器」として扱う術を。


 塔に来て三月が経った最後の日。

 ドリスは、訓練場の中央で一枚の銅貨を高く放り投げた。

「あれを消せ」

 マルトは、無感情な瞳で宙を舞う銅貨を見つめる。

 彼女が静かに指先を向けると、そこから放たれたのはもはや奔流ではなかった。

 ただ、空間を穿つ一条の光。銅貨は音もなく、空中で蒸発して消えた。

「……上出来だ。行け」

 ドリスはそれだけ言うと、マルトに背を向けた。


 夏の終わりの風が、沼の葦を静かに揺らしていた。

 アンディラの庵の前に、一人の少女が音もなく姿を現した。

 数ヶ月前、恐怖と怒りを胸に連れ去られていった時とはまるで違う、その確かで迷いのない足取り。

 伸びた亜麻色の髪が風に流れても、彼女の表情は精巧な人形のように、何の感情も映し出してはいなかった。


「マルト!帰ってきたのね!」

 駆け寄ってきたシルマが、以前のように彼女を力いっぱい抱きしめようとする。

 その腕がマルトに触れる、寸前。

 ドン、と鈍い音がして、シルマの身体が弾かれた。まるで鋼鉄の像にぶつかったかのようだ。

「いっ……たぁ!な、何よマルト、カッチカチじゃない!」

「……ごめんなさい。癖になっているの。危険を感知すると、自動で身体を硬化するように、訓練されたから」

「危険って、なによ!」

 その臨床報告のような口調に戸惑いながら、シルマは突っ込みを忘れない。


 その時、シルマの突っ込みと同時に上げられた尾が、そばにあった薬草を煮込んでいる大鍋の台にぶつかった。

 煮えたぎる薬液の入った重い鉄鍋が傾く。

「あっ!」

 シルマが悲鳴を上げた時には、もう全てが終わっていた。

 マルトは、驚きもせず、ただ倒れゆく大鍋に静かに手をかざす。

 すると、鍋も、こぼれ落ちる液体も、全てが空中でピタリと静止した。

 彼女は、ゆっくりとした動作で鍋を元の位置に戻すと、空中に浮かんだ薬液を、一滴残らず鍋の中へと吸い寄せた。

 それは、世界の法則を捻じ曲げ、自らの意志の下に完全に支配する、ドリスの魔術だった。


 シルマは、その人間離れした光景に、完全に沈黙していた。

 やがて、庵から出てきたアンディラが、静かに口を開いた。

「……ドリスは、あんたに何を教えたんだい」

「生き残るための、力です」

 マルトは、よどみなく答える。

「力がなければ、シルマも、師匠も守れません。……ドリス師匠は、そう教えてくれました」


 アンディラは、その答えに深くため息をつくと、言った。

「その力は、確かに強い。だが、あまりに冷たい。そんな鋼のような力で、この沼に住まう気まぐれな精霊たちの祝福が得られると、あんたは本気で思っているのかい?」

 マルトは、答えなかった。彼女の新たな、そして最も困難な戦いは、今まさに始まろうとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

面白いと思った方は、『ブックマーク』や下記のポイント評価を押していただけたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ