四:名前を捨てる日
王家の紋章が刻まれた馬車が、東のセドリック領の館へと向かう道を静かに進んでいた。
あの日、祝宴が恐怖と混乱に変わった後、エリザベートの運命は、彼女の意志とは無関係に決定された。
出発の朝、見送りに来た家族の姿は、彼女の記憶に焼き付いている。
父王はやつれた顔で、何度も意味もなく頷いていた。
娘を救うために魔女に委ねるという決断を下したものの、その顔には無力感と、娘を手放す悲しみが色濃く浮かんでいた。
「マーサ、ゲオルグ……姫を、頼む……」
従者へと掛けるその声は、王としての威厳を失っていた。
母である王妃は、完璧な微笑みを浮かべたままエリザベートの肩にそっと触れ、「お身体を大切になさい。王女としての務めを、ゆめゆめお忘れなきように」と、母親ではなく女王としての言葉をかけた。
兄王子は、最後まで黙ったままだった。ただ、馬車に乗る直前のエリザベートの手に、小さな木彫りの騎士の人形をそっと握らせた。言葉にできない「守ってやれなくてすまない」という想いが、その不器用な仕草に込められているようだった。
エリザベートは、窓から遠くに見える沼地の森を眺めた。黒く沈んだ森は、これから始まる先の見えない未来そのもののように思えた。
セドリック領の館での生活は、奇妙な静寂の中で始まった。
王城からついてきた侍女たちは、主を気遣い、これまでと何一つ変わらぬように完璧な日常を再現しようと努めた。
朝は決まった時間に起こされ、豪奢だが一人には広すぎる食卓で食事が用意され、日中は刺繍や読書といった王女としての「お勤め」の時間が設けられた。
だが、肝心の主が、以前とはまるで別人になっていた。
エリザベートは、まず笑わなくなった。
あれほど健気に、どんな時も浮かべていた完璧な微笑みが、彼女の顔から完全に消え去っていた。
侍女がどんなに明るく話しかけても、彼女はただ、ガラス玉のような瞳で静かに相手を見つめ、小さく頷くだけだった。
「姫様、本日はお庭の散策はいかがですか?美しい薔薇が満開でございます」
侍女頭のマーサが提案しても、エリザベートは力なく首を振るだけだ。
「……いいわ。一人にして」
その声には、かつての張りのある明るさは欠片もなかった。
侍女たちは戸惑い、自分たちの間で囁きあった。
「姫様は、あの日以来すっかりお変わりになられた…」
「無理もありません。あのような恐ろしい出来事があったのですから」
「ですが、お身体の調子はむしろ良いように見えませんか?夜中に咳き込まれることも、胸を押さえて苦しそうになさることもなくなった…」
侍女たちの言う通りだった。
あの日、緑のドレスの魔女がくれた苦い薬を飲んで以来、エリザベートを生まれながらに苛んできた胸の痛みや息苦しさは、嘘のように消え去っていた。
身体は驚くほど軽く、痛みがないということが、これほど自由なことだとは知らなかった。
しかし、皮肉なことに、身体の痛みが消えたことで、彼女は心の拠り所を失っていた。
彼女の「から元気」も、「完璧な王女」の仮面も、すべてはこの痛みと戦い、それを周囲に隠し通すために身につけた鎧だったのだ。
戦うべき敵がいなくなり、仮面を被って見せるべき観客もいなくなった今、自分はどうすればいいのか。
ここには誰もいない。
父の不安も、母の冷たい期待も、兄のぎこちない優しさも、もうない。
完璧な王女を演じる必要は無い。
もっとも、演じるための原動力でもあった胸の奥の痛みや苦しさは、あの日以来消え去っていたが。
完璧な王女を演じる必要が無い自分はどうふるまえば良いのか、エリザベートにはよくわからなかった。
がらんとした豪華な部屋の中心で、彼女はただ立ち尽くす。
それはまるで、役を降ろされた主演女優が、がらんとした舞台の上で途方に暮れているかのようだった。
エリザベートは窓辺に歩み寄り、遠くに見える黒々とした沼の森を、ただぼんやりと眺めて時間を過ごすようになった。あの森の向こうに、自分をこの奇妙な空白に追いやった魔女たちがいる。
侍女たちは、そんな主の姿を、ただ不安げに見守ることしかできなかった。
館での生活が始まって数日後、アンディラが庵へとエリザベートを迎えに来た。
「ここがあんたの仕事場だ。王女様のお遊びじゃない、魔女の仕事場だよ」
庵の中は、乾燥した薬草と焚き火の煙の匂いが混じり合っていた。アンディラは暖炉の前の椅子に腰かけると、エリザベートをまっすぐに見た。
「エリザベート。お前はこれから、二つの世界を生きることになる。館に戻れば王女、この庵に来れば魔女の弟子。だが、幼いあんたが二つの名前と役割を背負ったままでは、いずれ心が引き裂かれるだろう」
アンディラはエリザベートの前にしゃがみこみ、その目を見た。
「だから、知恵を授けてやる。この庵の敷居をくぐる時、お前は一つの名前を脱ぎ捨てな。王女の名も、それに伴う期待や体面も、すべて館に置いてくるんだ。それは、お前が自分を守るための、最初の魔法だよ」
彼女はエリザベートの亜麻色の髪を優しく撫でた。
「この庵にいる間、あたしがお前に新しい名前をやろう。『マルト』だ」
「まると……?」
「ああ。この沼のほとりに咲く、小さな花の名前さ。白くて、飾り気もない。だが、根を深く張って、どんな嵐や洪水にも流されない強い花だ。お前も、そうなれ」
その名に込められた意味を語った後、アンディラの表情がすっと厳しくなった。
「そして、その強さが本物かどうか、試させてもらうよ」
アンディラは壁に掛けられた古い暦を指差した。
「一人前の魔女は、その力を示すために土地の大精霊と契約を結ぶ。この沼においては、それが偉大なる水龍様だ。いつか、お前もあの方と相対することになるだろう。だが、今のあんたが謁見を願っても、あの方の息吹一つで魂ごと消し飛ばされて終わりさね」
アンディラはマルトの前にしゃがみこみ、その目をまっすぐに覗き込んだ。
「だから、お前に最初の試練を与える。二年後の、お前の八歳の誕生日までに、この沼に住まう三体の『名のある精霊』から祝福を得なさい。それができなければ、お前には魔女の世界にいる資格はない。約束通り、人間たちの元へ、あの王家へ帰すことになるだろうね」
二つの名前、二つの世界、そして、あまりにも過酷な試練。
「帰される」という言葉が、マルトの胸に重く突き刺さる。
あの冷たい愛情の演技と、期待外れの自分を見る目に満ちた城へ?
それならば、この得体の知れない沼の方が、ずっといい。
「……やります」
マルトは、震える声で、しかしはっきりと誓った。
「祝福を、得てみせます」
その日から、マルトの二つの生活が始まった。
昼は沼の庵で魔女の弟子「マルト」として世界の声を聴く修行をし、夜は領主の館で孤独な元王女「エリザベート」に戻る。
彼女の長い二年間が、静かに幕を開けたのだった。
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