十:仮面の下の共犯者たち
茶会での最初の「試験」を終え、マルトは、エレノアという『魔力のない魔女』が、少なくとも自分で主張するだけの能力はあることを認めた。
しかし、あれでは、まだ足りない。
数日後。マルトは、エレノアを、再びあの石造りの小部屋へと呼びつけた。
「エレノア。貴女に、二つ目の試験を課します」
マルトは、試験官として、挑戦者の次の課題を告げた。
「貴女の『力』は、人の心を動かし、物語を作ることだと聞いたわ。ならば、今、この国が抱える、最も厄介な問題を、その力で解決して見せなさい」
「と、仰いますと?」
「わたくしの民は、わたくしを『天災』としてしか見ていない。ただ、恐れているだけ。恐怖による統治は、脆い。先日、ゲヘナも報告していたわ。経済が、人の心が、恐怖によって死んでいる、と」
マルトは、窓の外、活気のない王都を見下ろした。
「この状況を、覆しなさい。民衆が、わたくしを、ただの恐怖の対象ではなく、希望、あるいは、少なくとも、共に未来を歩むべき『女王』として認識するための、具体的な道筋を、貴女が作って見せて」
それは、エレノアが最も得意とする、しかし、最も難しい課題だった。
エレノアは、一瞬、思案すると、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「…承知いたしました、陛下。わたくしに、お任せを。民は、理屈では動きません。彼らに必要なのは、新しい『物語』ですわ」
次の日、二人は「城下の復興を視察する」という名目で、王都の市場を訪れていた。
もちろん、物々しい警護の騎士たちと、エレノアに付き従うガルドレインの貴族たち(その実、監視役のスパイ)を引き連れて。
「まあ、活気が戻ってきましたのね!これもひとえに、マルト陛下の力強いご統治の賜物ですわ!」
エレノアは、銀鈴を転がすような声で、露店の果物を手に取った。
マルトは、その隣で、ただ黙って、エレノアがどう動くのかを、冷徹な試験官の目で観察していた。
(…物語、ですって?どうやって…)
エレノアは、マルトの腕に、ごく自然に自分の腕を絡めると、親密に囁いた。
「陛下。あそこの布地屋を見てくださいな。…ええ、貴女の瞳の色にもよく似合う緑ですわ。今度、この布で、お揃いのドレスでも作りませんこと?」
その、年頃の少女らしい、他愛もない会話。
しかし、それは、遠巻きに二人を見つめる民衆と、密偵たちの目に、「氷の女王が、隣国の姫君には、心を許している」という、具体的な「絵」として焼き付いていく。
***
市場に隣接した、父の鍛冶場の片隅で、十一歳のリリーは、炉の熱が届く場所で、鉄屑の仕分けを手伝っていた。
内乱の傷跡はまだ残るが、ガルドレインとの交易協定のおかげで、市場は活気を取り戻しつつあった。
市民たちが、血塗られた革命の後に手に入れた「静かな日常」だ。
リリーは、遠巻きに二人の統治者の姿を見ていた。
華奢なエレノア王女が魔女王の腕に絡め、優雅に微笑む一方で、魔女王は少し困ったような戸惑いの表情を浮かべている。
それは、恐ろしい魔女というよりは、奔放な姉に引きずり回される内気な妹のようにみえた。
その姿は、まさに民衆が望む「平和の象徴」であり、市場の他の人々は、その光景を見て、喜びの溜息をついていた。
リリーの視線は、エレノアの微笑みと対照的な、魔女王の横顔に注がれていた。
彼女の瞳は、何を見ているのだろう。
市場の活気や、隣国の王女の笑顔ではなく、彼女にだけ見えている何かなのだろうか。
「父さん、女王様にも仲良しが居るんだね。」
リリーが純粋な気持ちで呟くと、父は、煤けた手拭いで額の汗を拭いながら、静かに、深く頷いた。
「ああ、そうだな。恐ろしく強くて、こわい方だって噂だけど。ああしてると普通の貴族のご令嬢にしか見えないな。本当に。リリー。この平和を、あの女王陛下が守り続けてくれるなら、私たちにはもう、それだけで十分だ」
父の言葉には、この平穏を失いたくないという切実な思いと、魔女王への静かな感謝が込められていた。
リリーは、その言葉に安堵し、他の市民たちと同じように、二人の姿を見つめた。
彼女の胸には、この平和が揺るがないことへの純粋な願いが広がっていた。
***
一通り市場を練り歩き、民衆と密偵たちに十分な「物語」を提供し終えた頃、一行は、王都の郊外へと続く街道を、馬で進んでいた。
やがて、見晴らしの良い草原に出た。エレノアは、ちらりとマルトに視線を送った。試験の第一段階は、いかがでしたか、と。その瞳が、問いかけている。
マルトは、その視線を受け止めると、ふと、口元にかすかな笑みを浮かべた。それは、ドリスの元で、初めて力の使い方を覚えた時の、あの獰猛な笑みに似ていた。
彼女は、エレノアの隣に馬を寄せると、誰にも聞こえない声で、囁いた。
「―――競争よ、エレノア」
エレノアが、驚きに目を見開いた。
その反応を見るより早く、マルトは、馬の腹を強く蹴った。
黒馬は、嘶きと共に、街道を外れ、草原を疾駆し始める。
「なっ…陛下!どちらへ!」
背後で、トマの慌てふためく声が響く。
「待ちなさい、マルト!」
エレノアも、一瞬の驚きの後、すぐにその意図を理解した。
これは、試験の続き。
自分の脚本にはない、マルトからの、即興の問いかけだ。
彼女は、楽しそうに叫ぶと、マルトの後を追って、草原へと躍り出た。
風が、髪を激しく撫でていく。
人々に見られているという、あの息の詰まるような感覚はない。
ただ、風の音と、馬の蹄の音だけが、世界を満たしていた。
(…なるほど。これも、悪くない)
マルトは、この、誰にも縛られない疾走感に、生まれて初めて、純粋な「楽しさ」を感じていた。
やがて、二人は小さな丘の上で馬を止め、眼下に広がる壮大な渓谷の景色を眺めた。
護衛たちの姿は、もうどこにも見えない。
「ふふ…っ。はぁ…っ。…参りましたわ、陛下」
エレノアは、息を弾ませながら、心の底から楽しそうに笑った。
「まさか、貴女の方から、この芝居を仕掛けてくるとは。…ええ、最高の即興でした。わたくしの、完敗よ」
「…効率的な離脱だったでしょう?」
「ええ。最高の報告書が書けますわ。『魔女王は、姫君を振り回し、まるで子供のように、護衛を撒いて駆け出して行った』と」
エレノアは、満足げに頷くと、馬から降りて、草の上に腰を下ろした。
「…たまには、こう、愚かな男たちの居ない処で、道化の仮面を外すのも良いですわね」
不意に、エレノアが、本音とも取れる言葉を漏らした。
マルトは、その言葉に、奇妙な既視感を覚えていた。
彼女は、エレノアの隣に腰を下ろすと、ぽつりと、自分でも予期していなかった言葉を口にした。
「…私も、以前は『完璧な王女』を演じていたわ」
エレノアは、驚いてマルトを見た。
マルトは、遠い目をして、続けた。
「父も、兄も、母も、私を見てはいなかった。彼らが見ていたのは、『完璧な王女』という役割だけ。その役割を完璧に演じなければ、そこにいる価値はないと、ずっと思っていたわ」
一瞬の沈黙。
二人の間を、心地よい風が吹き抜けていく。
それは、友情ではなかった。
ただ、互いが「自分自身」ではなく、「役割」としてしか見られない、孤独な世界の住人であるという、静かな、しかし、確かな共感だった。
仮面の下で、二人の『魔女』は、初めて、互いの素顔に、ほんの少しだけ触れたのだった。
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