二:三人の魔女
パレードを終えたエリザベートを待っていたのは、王城の大広間を埋め尽くす貴族たちの喝采だった。
百の燭台に灯された炎が天井の水晶細工に乱反射し、広間はまるで昼のような明るさに満たされている。
宮廷楽団が奏でる優雅な祝曲、壁際に飾られた純白の薔薇の甘い香り、そして着飾った貴婦人たちのドレスが擦れる微かな音。
その全てが、グランキウス王国の長きにわたる平和と繁栄を物語っていた。
「エリザベート姫様、万歳!」
誰かがそう叫ぶと、万雷の拍手が広間を揺るがした。
エリザベートはその中心に立ち、完璧な微笑みで応えた。
日中のパレードで体力は限界に近かったが、ここで弱さを見せることは許されない。
彼女は完璧な微笑みの仮面を固く被りなおすと、次々と挨拶に訪れる貴族たちに、淀みなく優雅な言葉を返していく。
「姫様の健やかなご成長、我が国の喜びですな」
「ありがとうございます、公爵。皆様の支えがあってこその私ですわ」
その完璧な振る舞いを、王妃は満足げな表情で玉座の近くから見守っていた。
彼女にとって、この夜会は王家の威光を示すための舞台であり、エリザベートはその最も重要な主演女優だった。
時折、エリザベートのドレスの裾の乱れを直すために近づくが、その手つきは演出家が小道具を直すように的確で、母親が娘に触れるような温かみはなかった。
母の期待に完璧に応える事がエリザベートにとって最大の重要事となっていた。
父王は、そんな華やかな空気から少しだけ浮いていた。彼はしきりに盃に口をつけ、落ち着きなく広間の入り口に視線をやっている。
娘の栄光を祝う席であるはずなのに、彼の小心な心は、常に何か得体の知れない脅威を恐れていた。
やがて、父王とのダンスの時間がやってくる。
エリザベートが父の手を取ると、その指先が微かに汗ばんでいるのが分かった。
父は娘を、まるで壊れ物を扱うかのように、ぎこちなくリードする。
その腕からは、父親としての温もりよりも、娘の身体を案じる不安と緊張ばかりが伝わってきた。
エリザベートはそんな父を安心させるように、一層明るく微笑んでみせた。
ダンスが終わり、祝宴が最高潮に達した頃、楽団の演奏が止んだ。
父王ヴァルド三世が杯を手に、玉座の前へと進み出る。
彼の娘、エリザベートの五度目の誕生日を祝う、最後の祝辞が述べられるのだ。
貴族たちが静まり返り、すべての視線が父と娘に注がれる。
エリザベートは父の隣に立ち、誇らしげに、そして健気に胸を張った。
これが終われば、ようやく退出できるのだから。
気力を振り絞って、だがそれを気取られぬように微笑んで見せる。
「皆、静粛に。我が愛娘、エリザベートの輝かしい未来に――」
父王が杯を高く掲げ、その言葉を続けようとした、まさにその瞬間だった。
どん!
何かを強く叩き潰したような、腹の底に響く籠った破裂音が、祝宴の音楽と静寂の全てを打ち破った。
広間の巨大な扉が、蝶番から弾け飛ぶようにして内側へと倒れ込み、轟音と共に大理石の床に叩きつけられる。
入り口を守っていた甲冑の兵士が宙を舞う。
まるで子供が玩具を投げたかのように。
「何事だ!」
祝宴のざわめきが悲鳴に変わる。
騎士たちが抜剣し、エリザベートと王族の前に壁を作る。
レオンハルトもまた佩いていた儀礼剣の柄に手をかけ、震える妹の前に立ちはだかった。
「エリザベート、下がるんだ!」
兄として、そしてグランキウスの王子として、彼は毅然と侵入者を睨みつける。
だが、その声がわずかに上擦っているのを、エリザベートは聞き逃さなかった。
その人垣の向こうから、場違いなほど落ち着き払った声が届いた。
「おやおや、何をそんなに慌てているんだ? あたしはただ、挨拶に来ただけだというのに」
声と共に、黒いドレスの女が姿を現す。
なぜか右手の拳を小さく回しながら。
塔の魔女、ドリス。
その名が誰かの口から洩れた瞬間、父王の腕が微かに震えるのをエリザベートは感じた。
「…さがれ」
王が、絞り出すような声で騎士たちに命じた。
「剣を、納めろ……。塔の魔女ドリス様が、お見えになった」
その声には、エリザベートが今まで聞いたこともないような、恐怖と卑屈さが滲んでいた。
王の脳裏には、幼い頃に聞かされた曾祖母――王家に嫁いだという魔女の、恐ろしい逸話が焼き付いた烙印のように蘇っていた。
「物分かりが良くて助かるよ。ペネロペも、馬鹿な人間を躾けるのは骨が折れるとよく愚痴っていたからな」
ドリスは揶揄するよう曾祖母の名を口にすると、まっすぐに王座へ歩み寄り、エリザベートの顔を覗き込んだ。
その瞳は、まるで熟練の職人が宝石を鑑定するように、冷徹にエリザベートの奥底まで見透かしているようだった。
「……なるほど。もう兆候が出ているな。顔色が悪い。時折、胸が苦しくなるだろう?」
図星だった。
王妃が息を呑む。
王家の、そして何よりエリザベート本人の心配の種を、魔女はいとも容易く言い当てた。
「グレンダ」
ドリスが呼ぶと、そこに、深い緑の簡素なドレスを着た年齢不詳の女の姿があった。
どこから来たのか、いや最初からそこに居たのか。
だとしたら、なぜ呼ばれるまで、誰もその魔女に気付きもしなかったのか。
「さあ、これをお飲み」
グレンダと呼ばれた魔女はこれもどこから出したのか判らない小瓶をエリザベートの前に差し出す。
エリザベートは、小さな手で小瓶を受取ると、探る様に父母を見る。
小刻みにうなずく父王に違和感を感じながらも、素直に小瓶に口をつける。
「・・」
苦みのある青臭い液体を無理やり飲み込む。
とてもではないが、ここで吐き出す度胸は無い。
「子供の口には合わなかったかね。」
その様子に、グレンダが独り言ちる。
苦みが喉を通り、胸元に届く。
胸元の不快感がふっと消える。
白い肌に血行が戻る。
「これは病じゃあない。あんたたちには分からんだろうが。この子の内にある力が、行き場をなくして暴れ始めている。このまま放置すれば、そうだな……次の誕生日を迎える前に、その力に喰い殺されて内側から破裂する」
ドリスは淡々と、しかし残酷な事実を告げる。
「だから、あたしらがこの子を連れていく。あたしたちの元で、力の使い方を教える為にね」
「そ、それは……王女を、人質に取ると……」
ある貴族が震える声で呟いた。ドリスは心底可笑しいというように喉を鳴らした。
「人質?違うな。これは救済であり、あんたたちへの最後通牒だ」
彼女の視線が、再びヴァルド三世を射抜く。
「いいかい、ヴァルド。もしあんたがこの申し出を断り、この子をここに留め置くなら、この子は確実に死ぬ。それはつまり、あんたが、『一人の魔女を見殺しにした』ということになる」
広間が凍りついた。魔女の言葉の意味を理解した者たちの顔から、血の気が引いていく。
「あんたも知っているだろう?我ら魔女の掟を」
ドリスは、絶望する王に囁きかける。
【一人の魔女の敵は、すべての魔女の敵となる。】
「あんたは、このグランキウス王国を、大陸すべての魔女の敵にしたいのかい?あたしはどちらでも構わないがね」
ドリスの言葉は、王への最終宣告だった。
だが、その声には脅しだけでなく、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「そもそも、なぜ今まで知らせなかった!ヴァルド!お前の曾祖母は、血筋に魔力持ちが生まれた場合の対処法を、口を酸っぱくして王家に伝えたはずだ!医療が進んだだと?人間の小賢しい薬草学で、魔力の奔流が止められるとでも思ったのか!」
殴り込んだ理由――それは、王家が魔女との約束と、自らの血に流れる力の危険性を軽んじたことへの怒りだった。
ドリスの叱責に、王はもはや顔を上げることすらできない。
「ふむ、やはり子供にはラゴラの根の苦みが強すぎたか。次はハチミツと妖精の粉でも混ぜてみようか……」
緊迫した空気の中、グレンダだけが小瓶を覗き込み、ブツブツと研究の続きを呟いている。
そのマイペースさが、逆に場の異常さを際立たせていた。
王が屈辱と恐怖に打ち震え、返答もできずにいると、広間の入り口から凛とした第三の声が響いた。
「ドリス、そのくらいにしておきなさい。王様が気を失ってしまっては、話が進まないでしょう」
いつの間にか、そこに女が一人、静かに立っていた。先に現れた二人とは対照的に、その佇まいには何の威圧感もない。
だが、その声を聞いたドリスは、忌々しげに舌打ちする。
「面倒くさいのが来やがった」
沼の魔女アンディラ。三人の魔女の中で、最も人間社会に近い場所に住まう、穏健派の魔女だった。
アンディラはゆっくりと王の前に進み出ると、優雅に一礼した。
「グランキウス国王ヴァルド三世陛下。我々の無礼な訪問、まずはお詫び申し上げます。ですが、ご理解いただきたい。我々も、新たな同胞が生まれながらに死の危機に瀕していると知り、いてもたってもいられなかったのです。」
その物腰は丁寧だが、有無を言わせぬ響きがあった。
「我々の目的は、この子――エリザベート様の命を救うこと。それ以上でも以下でもありません」
アンディラはそう言うと、恐怖に固まる王と王妃を交互に見やった。
「陛下。あなた様は忘れておいでか、あるいは意図的に無視なさったか。百年前、あなたの曾祖母ペネロペ様と我が盟友たちが交わした約束事を。王家に生まれし大いなる力は、我らが導く、と」
「ですが、ドリスの言うように、王女様をこのまま『連れていく』のは、いささか乱暴が過ぎるでしょう。王女が王城から姿を消せば、国内外に余計な憶測を呼び、陛下の立場を危うくしかねません」
アンディラの言葉に、王はわずかに希望の光を見たように顔を上げた。
彼女は、人間の政治や体面を理解している。
「そこで、ご提案があります」
アンディラは続けた。
「王女様には、私の庵に近い、東のセドリック領主の館へとお移りいただく。表向きは『病気の療養のため』とでもすればよいでしょう。そこから私の庵へ通い、魔力を制御する術を学んでいただくのです。これならば、王家の体面も保たれ、王女様の命も救うことができる。いかがでしょうか?」
それは、拒否権のない提案だった。
脅しではなく、かといって慈悲でもない。
ただ、これが唯一の現実的な解決策だと、冷徹に提示されただけだ。
「……わ、かった……。そのように、取り計らおう……」
王は、絞り出すようにそれだけを答えるのが精一杯だった。
エリザベートは、大人たちの間で何が決まったのか、まだよく分からなかった。
ただ、自分を殴り飛ばさんばかりの勢いで睨みつけていた黒いドレスの魔女、不思議な薬をくれた緑のドレスの魔女、そして最後に現れて父を黙らせた旅人のような魔女の顔を順繰りに見つめているだけでしかなかった。
そして何より、自分を手放すことを決めた父の、震える声と目を伏せた横顔を――。
この日、王女エリザベートの幸福な幼年期は、唐突に終わりを告げたのだった。
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