十六:王国の災厄
初夏の訪れとともに訪れたその報は、王都セントグランクスを震撼させた。
王国の穀倉地帯である西部の平原で、原因不明の魔獣の大量発生が確認されたのだ。
一体一体はさほど強くなくとも、その津波のような大群は、村々を飲み込み、畑を蹂躙しながら、王都へと向かって進撃していた。
「好機だ」
報を受けたレオンハルト王子は、不屈の笑みを浮かべた。
父王の弱腰と、妹の「まやかし」の名声に汚された王家の権威。
それを、自らの手で取り戻す絶好の機会。
「私が、王国騎士団の総力を率いて、この災厄を鎮めてみせる。国民に、真の力と権威の在り処を知らしめるのだ!」
彼の自信に満ちた宣言に、国王は反対できず、貴族たちは賛辞を送った。
その報は、ギルドマスター・ブラントからの緊急伝令によって、館にもたらされた。
「西部の平原で大規模なスタンピード発生。レオンハルト王子、王国騎士団を率いて出撃す」
報告を聞いた館は、緊張に包まれた。
「マルト様、我々も加勢すべきでは!」
マーサが、悲痛な顔で進言する。
シルマも「王子様なんて、どうせろくなことにならないわよ!」と苛立ちを隠さない。
しかし、マルトは、壁に広げられた地図を静かに見つめたまま、動かなかった。
彼女は、ブラントから送られてきた、騎士団の編成と魔獣の規模に関するデータを、カーシャと共に冷静に分析していた。
やがて、彼女は顔を上げると、非情とも思える、静かな命令を下した。
「―――静観します。王子のお手並みを、拝見しましょう」
その言葉の真意を、マーサたちは測りかねていた。
だが、それはマルトにとって、兄と王家の真の実力を査定するための、冷徹な判断だった。
数日後、王都の精鋭を率いたレオンハルトは、平原で魔獣の群れと対峙した。
だが、現実は彼の想像を遥かに超えていた。
地平線の果てまで続く、おびただしい数の魔獣。
騎士団の統率された騎馬突撃も、分厚い盾の壁も、無限に湧き出す獣の波の前には、あまりに無力だった。
レオンハルトは自ら先陣に立ち、狂ったように剣を振るった。
しかし、彼の武勇も、巨大な戦局の前では焼け石に水。
目の前で、忠実な騎士たちが次々と獣の牙に倒れていく。
「退くな!グランキウスの騎士の誇りを見せろ!」
彼の絶叫も虚しく、騎士団の戦線は無惨に崩壊した。
レオンハルトは、屈辱に顔を歪ませながら、壊滅した騎士団の残党と共に、王都へと敗走するしかなかった。
マルトが静観をきめてから数日。
事態は最悪の形で動いた。
彼女の領地の関所に、西部の平原から逃げてきた、おびただしい数の避難民が殺到したのだ。
彼らは、泥と血に汚れ、恐怖と絶望に顔を歪ませながら、口々に騎士団の惨状を語った。
「ダメだ……騎士団は、壊滅した……!」
「王子様は、我々を見捨てて、王都へ逃げ帰られた!」
「魔獣の群れは、もうすぐそこまで来ている!我々は皆殺しだ!」
兵士や民衆の、生の絶望の声。
それは、レオンハルトの、そして王家の、完全な敗北を証明していた。
「王国騎士団は、ほぼ壊滅。魔獣の群れは、三日後にはこの領地にも到達する見込みです」
その報告に、マーサたち侍女は顔を青くし、シルマは短杖を握りしめた。
マルトは、窓の外で炊き出しを受ける、疲れ切った避難民たちの姿を、静かに見つめていた。
目の前で怯える、マーサや村人たちの顔が何もできずに流れに翻弄されたエリザベートに重なる。
「シルマ、カーシャ」
マルトは、静かに振り返った。
「行くわよ」
レオンハルトが敗走した、同じ平原。
そこに、マルト、シルマ、カーシャの三人が降り立った。
彼女は、騎士団のように、無策に突撃はしない。
『マスター。群れは、三体の巨大な地竜を中心に統制されています。あの三体を同時に無力化すれば、群れの統制は崩壊します』
カーシャの戦術分析と同時に、マルトは大地に手を触れ、沼の呼吸を聴くように、平原の声に耳を澄ませた。
大地の悲鳴、魔獣たちの荒々しい生命力、そして、その先に横たわる巨大な断層の気配。
「シルマは、空から攪乱を。カーシャは、私の守り。―――私は、この平原ごと、叩き起こす!」
マルトの右手の甲に、水龍の紋様が青く輝く。
彼女は両手を大地に押し当てると、自らの内なる「泉」の水門を、ドリスの教え通り、躊躇なく全開にした。
轟音と共に、大地が揺れた。
魔獣の群れの足元、マルトが感じ取った断層に沿って、巨大な亀裂が走る。
大地そのものが巨大な壁となってせり上がり、魔獣の群れを分断した。
混乱する獣たち。
その頭上、マルトが天に掲げた手の中に、雷雲が渦を巻く。
三条の巨大な雷の槍が、寸分の狂いもなく、カーシャが示した三体の地竜の心臓を、同時に貫いた。
巨獣の断末魔を最後に、魔獣たちの統制は完全に崩壊し、烏合の衆となって散り散りに逃げ去っていく。
王国騎士団が一日かけて敗北した戦いを、マルトは、たった数分で終わらせたのだ。
生き残った騎士や、遠巻きに見ていた避難民たちは、その光景を、神の御業を見るかのように、ただ呆然と見つめていた。
この日、〈館の魔女〉の伝説は、王国を救った「救国の英雄」としての、新たな神話へと変わった。
そしてその神話は、王都にいる一人の王子の心を、修復不可能なほど深く、絶望の闇へと突き落としたのだった。
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