九:鉄の祠
『ささやきの葦の精霊』の祝福を得た後も、マルトの心は晴れなかった。
ドリスに教わった「支配」の力と、アンディラに教わった「調和」の力。
どちらも、今の自分にはしっくりこない。
二人の偉大な師の教えは、彼女の中で水と油のように混じり合わず、ただ無力感だけが募っていく。
マルトが途方に暮れていると、シルマが石切りをして遊んでいるのが見えた。
「そーれ!一、二、三……やった、五回跳ねた!」
シルマの投げる石は、まるで生き物のように水面を跳ねていく。
そこには何の魔力も、難しい理論もない。
ただ、彼女自身の、天性の勘と身体の動きがあるだけだ。
マルトは、その光景を羨望と、そして新たな焦燥感と共に見ていた。
(ドリス師匠の力は、あまりに強すぎて、物を壊すことしかできない)
(アンディラ師匠の力は、繊細すぎて、今の私にはもううまく扱えない)
(シルマは……シルマ自身の力を持っている。誰かに教えられたものではない、本能の力)
(私自身の力が欲しい……誰かに与えられたものではない、決して私を裏切らない力が)
その無力感を埋めるように、マルトは夜ごとアンディラの書斎に籠るようになった。
埃を被った古文書や、バラバラになった羊皮紙の束。
そこに、今の自分を乗り越えるための、何か別の答えがあるはずだと信じて。
ドリスの「支配」とアンディラの「調和」、二つの間で引き裂かれそうになる自分を繋ぎ止める、何か絶対的な「軸」となる力を。
「またそんな物ばかり読んで……目が悪くなるよ」
ある夜、薬草を煎じていたアンディラが、呆れたように声をかけた。
マルトの目の前には、難解な古代魔術の理論書が広げられている。
「……もっと、強くならなければ」
「焦りなさんな。あんたはあんたの歩幅で進めばいい」
そう言いながらも、アンディラは部屋の隅にある古い木箱を指差した。
「そんなに昔のことに興味があるなら、その中身でも読んでみるかい。あんたの曾祖母、ペネロペが遺した、ただの日記帳だがね。あたしにゃ、ただの退屈な愚痴にしか読めなかったが」
王家の秘密、秘匿された魔女ペネロペ。マルトは、導かれるようにその日記を手に取った。
ペネロペの日記。
その言葉に、マルトの心臓が小さく跳ねた。
王家の秘密、自分と同じ血を引く、伝説の魔女。
アンディラが部屋を出てから、マルトはおそるおそる木箱に近づいた。
鍵はかかっていなかった。
中には、革の表紙が擦り切れた数冊の日記が、静かに収められている。
日記のほとんどは、王妃としての日々の鬱屈と、魔女の本性を隠すことへの疲れが、美しいが冷たい筆致で綴られていた。
マルトは、そこに百年前に生きた、もう一人の自分の姿を見た。
(……この人も、寂しかったんだ)
初めて、マルトは高祖母に親近感を覚えた。
そして、最後の一冊、その最後のページで、彼女は息を呑んだ。
そこだけが、インクが滲むほど熱のこもった、走り書きだった。
『……私は過ちを犯した。孤独を恐れ、王家という檻に自ら飛び込んだ。私は王妃として全てを手に入れ、魔女として全てを失った』
ページをめくると、不鮮明だが詳細な地図が描かれていた。
『西の鉄錆の谷。そこに、我らとは理の違う「鋼の友人」が眠る。王にも、魔女の掟にも縛られぬ、真の自由なる力。……我が血を引く者よ。私にできなかった選択を、お前に託す』
これは、ペネロペが遺した、果たせなかった夢そのものだ。
その夜、マルトは誰にも告げず、館を抜け出した。
懐には、ペネロペの遺言とも言うべき地図。
これは、百年越しの約束を果たすための、巡礼なのだ。
夜が明ける頃、彼女は谷の最奥で、錆びない金属でできた『鉄の祠』を発見した。
祠の試練は、これまで彼女が学んだ全てを試すものだった。
扉にかけられた音の謎を、アンディラの教えで解き、並び立つ守護者ゴーレムの動力源を、ドリスの教えで精密に穿つ。
そして、ついに祠の最奥、広大な円形の部屋へとたどり着いた。
中央の台座には、銀色の液体が静かに揺らめいていた。
『これを覚醒させんとする者よ、汝の生命そのものを捧げよ』
台座の文字に従い、マルトは自らの魔力を注ぎ込もうとするが、液体はそれを弾き返す。
絶望しかけた彼女は、再びペネロペの日記を読み返し、その言葉の真の意味に気づいた。
『……かの者は主の生命力を糧に覚醒する』
(……「注ぎ込む」んじゃない。「飲ませる」の……?)
生命そのものを、糧として。
マルトは、小刀で自らの手のひらを切りつけ、その血を、台座の窪みへと垂らした。
血が窪みを満たした瞬間、台座の溝が赤い光を放ち、液体へと繋がる。
マルトが再び台座に手を置くと、今度は飢えた獣のような力で、彼女の魔力と生命力が吸い上げられていった。
意識が遠のき、身体中の力が吸い尽くされ、その場に崩れ落ちる、その瞬間。
銀色の液体が、主の帰りを待ちわびていたかのように人型を形成すると、倒れゆくマルトの身体を力強く支えた。
無機質な、しかしどこか澄んだ声が、マルトの頭の中に直接響いた。
『―――マスターの生命活動の低下を確認。自己修復モードに移行します。以後、このような無謀は、マスターの安全のため許可できません』
意識を失う寸前、マルトは自分を支える冷たい金属の腕に、不思議な温もりを感じていた。
彼女は、ペネロペの遺言を果たし、決して自分を裏切らない、最初の本当の味方を得たのだった。
祠で意識を取り戻したマルトは、新たな使い魔となったゴーレムに抱えられ、庵への帰路についていた。
『おはようございます、マスター。バイタルは安定。魔力欠乏状態は継続していますが、生命活動に支障はありません』
その無機質な声に、マルトは「……そう。ありがとう」とだけ、か細く答えた。
もう、後戻りはできない。私は、私の道を行くと決めたのだ。
沼の入り口で彼女たちを迎えたのは、何日も眠らずにマルトを探していた、憔悴しきったシルマと、厳しい顔をしたアンディラだった。
「マルト!あんた、どこ行ってたのよ!」
「無事だったかい!」
二人は、マルトを抱える異質なゴーレムの姿に息を呑んだが、それ以上に、マルトの衰弱した様子に胸を痛めた。
ゴーレムが庵の前にマルトをそっと降ろすと、シルマは彼女の掌に残る、まだ新しい切り傷を見つけ、 悲鳴のような声を上げた。
「マルト、その手の傷は……あんた、まさか!」
アンディラが、普段からは想像もできないほど強い力で、マルトの小さな肩を掴んだ。
「マルト。説明しな。一体、何をしたんだい」
師の厳しい視線を、マルトはまっすぐに受け止めた。
もう、俯いて許しを乞う少女はどこにもいない。
「私だけの力が、必要でした」
彼女は懐から、ペネロペの日記を取り出してアンディラに差し出した。
「師匠たちの教えは、私を強くしてくれました。でも、それだけでは足りなかった。これは、私が、私の意志で選び取った力です」
アンディラが日記の頁をめくる間、ゴーレムがすっと一歩前に出た。
『マスターは極度の魔力欠乏状態にあります。休息が必要です』
その、人間味のない介入に、シルマは怯え、アンディラは驚いてゴーレムを見上げた。
アンディラは、日記から顔を上げると、深いため息をついた。
その表情は、怒りよりも、諦めと、そしてある種の畏敬が入り混じっていた。
「……馬鹿な子だよ、あんたは。本当に、死ぬところだったんだ。……それに、とんでもないものを目覚めさせたもんだね」
彼女は、マルトの頭に無骨な手を置くと、ぐしゃぐしゃと髪を撫でた。
「この鉄の塊は、あたしの手に余る。これは、あの変人の専門分野だ。……グレンダを、呼ばなきゃならないね」
シルマは、毅然として師と対峙するマルトと、その傍らに静かに佇む銀色のゴーレムを、ただ呆然と見つめていた。
数日いなかっただけなのに、目の前の妹弟子は、もう自分の知らない、遥か遠い場所へ行ってしまったかのようだった。
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