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蜜の檻  作者: 月影愛
3/3

第3章 支配と罰

「服、皺だらけだね。……見苦しいよ、小夜」


その一言に、私はまた一歩、息を詰めた。


朝のリビング。まだ顔も合わせたばかりなのに、真誠の口調は鋭く、冷たかった。


「……ごめんなさい。気をつけてたんだけど……」


「気をつけて“いた”ってことは、結果としてできてないってことだよね」


彼は笑っていた。でもその目に、笑いはなかった。


「“失敗したけど努力しました”なんて、会社なら通用しないよ。家庭でも、同じだろう?」


私の手から、コーヒーカップが滑り落ちそうになる。


けれど私は、ぎゅっと指先に力を入れて耐えた。


これが、「始まり」だということは、もう何度も体で覚えたから。


***


最初に手を上げられたのは、夜だった。


きっかけは、些細な言い間違い。


「お前は人の話を、ちゃんと聞かない」


そう言って、グラスが投げられた。


当たらなかったけれど、壁に砕けた音が今も耳に残っている。


それから、彼は定期的に——

まるで“躾”でもするように、怒りをぶつけるようになった。


手首を掴まれる。


髪を引っ張られる。


肋骨の奥に、鈍い痛みを残すような膝蹴り。


どれも、外には痕が出ない場所ばかり。


「社長夫人としての自覚が足りない」


「誰の金で生きてる?」


「裏切り者は、そう簡単に幸せにはならないよ」


その言葉たちは、刃物のように私の心を削っていった。


でも私は、誰にも言えなかった。


言えば、もっとひどくなるとわかっていたから。


***


外では、私は“完璧な妻”を演じていた。


会社では、いつもと同じように仕事をこなす。


けれど、服の袖の下に隠した青い痣が、痛みを通して現実を思い出させる。


「これが、罰なんだろうな……」


呟いた言葉が、風のない夜の部屋に虚しく溶けていく。


私は文哉を選んだ。


たとえ一瞬でも、心がそちらに傾いた事実は消せない。


その報いが、今、私の生活のすべてに染み込んでいる。


***


「君が何をしようと、僕は君を手放さない」


ある夜、真誠はそう言った。


抱きしめるふりをして、首元に指を這わせながら。


「だって、手放すってことは——君を自由にするってことだろう? それは、僕のプライドが許さないんだ」


私はその言葉に、震えながらうなずいた。


怖かった。


でも、それよりも怖かったのは、

この“生活”が、もう誰にも気づかれないまま、続いていくことだった。


外側から見れば、私は幸せな妻。


だけど、内側では——


毎日が、静かに壊れていく。


そして私は、いつからか、「愛されたい」よりも「壊されたくない」と思うようになっていた。


——逃げたいのに、逃げられない


「痛かったら、ちゃんと言えばいいのに」


そう言いながら、真誠は私の頬に触れた。


触れているのは指先だけ。


でもその指のすぐ下にあるのは、昨夜ついた痣。


わかっているくせに。


わざと、そこに触れてくる。


「……痛くないよ」


そう答える以外に、選択肢はなかった。


逆らえば、もっとひどくなる。


だから私は笑って、首を横に振る。


そうすれば、今日一日は“静かに”過ごせるかもしれないから。


でも、心はもう限界に近かった。


***


最近、鏡を見るのが怖い。


目の下のくま。消えない腫れぼったさ。


頬の色も、唇の血色も、あの頃の自分とは別人だった。


「……これが私?」


呟いた声は、まるで知らない女のものだった。


“社長夫人”の生活。


豪華なインテリア。ブランドものの服。完璧に整えられた部屋。


——でも、どこにも“私”がいなかった。


笑うことも。泣くことも。


何を食べたいかすら、思い出せない。


感情をすり減らしながら、私はただ“壊されないように”生きていた。


***


昼、スーパーで買い物をしていたとき。


ふと見た掲示板に、小さなチラシが貼られていた。


「DV・モラハラ・家庭内での暴力でお困りの方へ」

ご相談は無料・匿名OK。

逃げることは、罪じゃない。


目が離せなかった。


その一文だけが、胸に焼きついた。


——逃げることは、罪じゃない。


心が一瞬、反応した。


でもすぐに、その想いに蓋をした。


「私が逃げたら……何をされるか、わからない」


真誠の冷静な怒りは、“激情”よりも怖い。


彼は、理性的に壊してくる。


証拠を残さず、周囲に悟られないように。


もし逃げれば、私はただ“消される”。


社会的にも、人生的にも。


そういう“能力”が、あの人にはある。


「だから、今はまだ……」


私は足早にスーパーを出た。


その手には、誰も見ていないチラシが一枚、握りしめられていた。


捨てようと思った。


でも、なぜかそれだけは、どうしてもできなかった。


***


夜。

ベッドの中で、目を閉じても眠れなかった。


隣には、静かな呼吸を立てる真誠がいる。


その寝顔は、穏やかで、まるで“善良な夫”そのものだった。


でも私は知っている。


この人は、眠っている間以外は、

ずっと私を“所有物”として見ていることを。


私には、もう自由も、選択も、名前さえもない。


けれど。


チラシを隠した引き出しの中に、ひとつだけ“まだ私が握っている未来”がある気がした。


ほんのわずかでも。


あの紙切れが、まだ私を“誰か”として繋ぎとめてくれている。


——逃げたい。


心の奥底で、確かにその声が生まれていた。


今はまだ、口に出せないけれど。


でも、確かに“その日”は近づいている。


それだけが、今の私の、たったひとつの希望だった。


——助けを求めてはいけないと、わかっていたのに


夜。


リビングの明かりを落とし、私はソファに膝を抱えて座っていた。


真誠はまだ帰っていない。


「会食」とだけ告げて、夜の外へ消えていった。


けれど私は、もう知っている。


遅くなる夜ほど、彼は“理由を探している”のだ。


些細な粗探しをして、私に怒鳴るための口実を。


それは、ある意味で“予定された暴力”だった。


私は、その予兆に、ただ怯えるしかなかった。


震える手で、スマホを取り出す。


何度も、開いては閉じたままの画面。


名前だけが、そこにあった。


——市野文哉。


本当は、かけてはいけない。

でも、かけたい。


“背負えない”と告げて離れていった人。


でも、私はまだ、彼の声を必要としている。


「……お願い、出て」


そうつぶやきながら、私は通話ボタンを押していた。


着信音が鳴る。


1回、2回、3回……

ああ、出ない。やっぱり。


諦めようとした、そのとき——


「……小夜?」


その声が、耳元から流れてきた瞬間、私は涙がこぼれた。


「……文哉……」


「どうしたの? こんな時間に……声、震えてる」


「ごめん……本当は、かけちゃいけないって思った。でも……でも、もう無理で……」


「何があったの?」


私は、少しずつ、ぽつりぽつりと言葉をこぼした。


何が“あった”か。何が“続いている”か。

どこまで伝わったのか、自分でもわからない。


でも、文哉は何も言わずに、ただ黙って聞いていた。


「……ねえ、お願い」


「……」


「私を……助けて」


その言葉が、出てしまった。


喉の奥が痛くなるくらい、震える声だった。


「君を……?」


文哉の声もまた、揺れていた。


「……俺に、できるかな。今さら……」


「文哉じゃなきゃ、ダメなの……。あなたじゃなきゃ、怖くて……壊れそうで……」


それは懇願だった。


自分でも恥ずかしくなるほど、弱くて、情けない声。


だけど、それでも私は、彼の声だけが欲しかった。


電話越し、彼が何かを押し殺すように息を吐いた。


そして——


「場所は? 今、どこにいる?」


その言葉に、私は泣き崩れた。


もう、何もかもが限界だった。


「……家。いつもの部屋」


「わかった。すぐ行く。……だから、もう泣くな、小夜」


その言葉は、救いだった。


でも同時に、私は知っていた。


この電話を境に、またひとつ、壊れてしまうことを。


それでも——


もう誰かにすがらなければ、生きていけないほどに

私は、追い詰められていた。


——触れられたくなかった傷に、触れられて


「……小夜」


扉を開けたとたん、文哉は固まった。


玄関の灯りの下に立つ私の姿を見て、言葉を失ったのだと思う。


すぐに言葉を発しなかったのは、

きっと「ひどいな」と思わせないための配慮だったのだろう。


でも、目が語っていた。


“……こんなに”と。


私は、うつむいたまま、彼をリビングに通した。


部屋の中はきちんと片付いていたけれど、それが余計に苦しかった。


どんなに整っていても、この場所は私を少しずつ壊していく場所だった。


「……ごめんね。急に呼び出して」


「小夜……痣、ある?」


その問いに、私は思わず肩を震わせた。


まるで、その言葉が合図だったかのように、

張りつめていた感情が、決壊する。


「……あるよ」


小さく、かすれた声だった。


「腕にも……背中にも、足にも……」


震えながら、私は言葉を継いだ。


「見えないとこ、ばっかり。外に出てもわからないようにって……」


涙が、ぽとぽとと膝の上に落ちた。


「……優しいんだよ。普段は。誰にでも礼儀正しくて、冷静で……だから、誰にも信じてもらえないと思ってた」


文哉は何も言わなかった。


でも、その沈黙は“逃げ”じゃなかった。


私の言葉を、ちゃんと受け止めようとしてくれているのが、わかった。


「でも、ほんとは違うの。あの人は、私を“モノ”みたいに扱う」


「……」


「失敗すれば怒鳴られる。何も言わなくても睨まれる。髪を掴まれて、壁に押しつけられて……それが“躾”なんだって」


声が震えすぎて、喉が痛かった。


でも、止められなかった。


「いつからか、“愛されたい”じゃなくて、“殴られたくない”になってた」


「……」


「私、もうどうやって生きていいのかわかんないの。逃げたいのに、逃げられないの……」


絞り出すような言葉。


何度も口の中で折れた想いを、やっと形にして吐き出した。


文哉は、そっと私の肩に手を置いた。


その手があたたかくて、優しくて、

どこまでも「人間の手」だった。


「……よく、言えたな」


そのひとことに、私は堰を切ったように泣いた。


「怖かったんだよ……ずっと……」


「わかってる。もう大丈夫。……もう、大丈夫だから、小夜」


彼の声が、深く染みてくる。


安心とか、救いとか、そういうきれいな言葉じゃなくて。


“味方”という、たった一つの確かな存在が、今ここにある——


それだけで、私はようやく「泣いてもいい」と思えた。


——その瞬間、すべての空気が凍った


「荷物は最小限でいい。とりあえず、今日はうちに来い」


文哉はそう言って、私の手を握った。


その手が、あたたかくて、震えた心をようやく落ち着かせてくれる気がした。


「ありがとう……」


「礼なんていい。俺はもう、見て見ぬふりできないから」


心のどこかが、ようやくほっとした。


この人なら、もう一度信じてもいいかもしれない——

そう思った、その時だった。


「……へえ、なるほど」


玄関の方から、落ち着いた、けれど異様に静かな声がした。


その声を聞いた瞬間、心臓が止まりそうになった。


「ずいぶん楽しそうな時間を過ごしてるね、僕の“妻”と」


振り返ると、そこには真誠が立っていた。


黒いコートを脱ぎかけたままの姿。

落ち着いた足取り。

そして、いつものように“笑っている”口元。


けれど——その目だけは、笑っていなかった。


「……吉原さん」


文哉が一歩、私の前に出る。


「すぐに出ていく。彼女はもう、これ以上あなたの元には戻らない」


「へえ。本人の口から聞いてもいないのに、よく言えるね」


「小夜は怯えてる。あなたがどんな人間か、もう誰よりも知ってるんだ」


「……怯えてる?」


真誠がゆっくりと歩を進めてきた。


「それは、君の“想像”だろう? 彼女はここに“自分の意思”でいた。これまでずっとね」


「意思をねじ曲げられたんだよ。恐怖で」


その言葉に、真誠の目が細くなった。


その奥に、冷たい光が宿る。


「なるほど。脅す気か。会社に言うかい? それとも、メディアにでも?」


「俺は、ただ彼女を——」


「守りたい? その台詞、以前にも聞いたね。『全部、背負う』って」


文哉の顔がわずかに引きつる。


「結局、背負えなかったくせに。途中で投げ出した男が、いまさら何を——」


「やめて!」


その言葉を遮ったのは、私だった。


震える声。膝が抜けそうだった。


でも、それでも叫んだ。


「もう、誰も責めないで。私が選ぶ。……私が、自分で、決めるから」


静寂が落ちた。


真誠も、文哉も、動かない。


ただ私の言葉だけが、空間に落ちていく。


そして——


「……じゃあ、決めてもらおうか」


真誠がそう言った。


「このまま、彼と出て行くなら、今後の人生、君は“吉原小夜”ではいられない。社会的にも経済的にも——全部、消える」


脅しでも誇張でもない。


この人には、それができる力がある。私は知っている。


「それでも、出ていくのかい?」


私は、震える手で、文哉の袖を掴んだ。


迷いはあった。でも、その迷いさえ、文哉は包み込んでくれた。


「……私は、あなたの所有物じゃない」


やっと、それが言えた。


真誠は静かに目を伏せた。


「……そうか」


一拍の沈黙。


「なら、“対価”は支払ってもらう」


その言葉は、判決のように重く響いた。


文哉は私の手を強く握り返した。


「来い、小夜」


私は、頷いた。


玄関に向かって、一歩、また一歩。


その背後から、真誠の声が聞こえた。


「小夜。壊されるのは、僕じゃない。君だ」


その言葉に振り返らず、私は扉の外へと足を踏み出した。


——それが、始まりだった。


自由のようでいて、何かが終わる音が確かに聞こえた夜。


——自由の代わりに失ったもの


夜の街を、私は走っていた。


文哉の手に引かれて。


それは、確かに“救い”の手だったはずなのに、

なぜか、胸の奥ではずっと重たい何かが疼いていた。


タクシーを拾うわけでもなく、まっすぐ目的地があるわけでもなく、

ただ、あのマンションから距離をとるように、私たちは無言のまま歩き続けた。


ヒールの音だけが、冷たいアスファルトに鳴り響いている。


途中、コンビニの前で文哉が立ち止まった。


「……ここで少し休もう」


「うん……」


私はベンチに腰を下ろし、震える指でペットボトルの水を開けた。


何もしていないのに、喉がカラカラに渇いていた。


「小夜……大丈夫か?」


「……わからない」


正直、それが本音だった。


「自由になれた」と言うには、あまりに何かが失われすぎていた。


この先、どこで眠るのかも。

明日、どこに行けばいいのかも。

あの人が、本当に“追ってこない”のかも。


何ひとつ、確かなことがなかった。


「全部、失ったんだよね……」


口にしたその言葉が、夜風に紛れていく。


「名前も、家も、立場も……私という“存在”を保っていたもの、全部」


文哉は何も言わず、ただ隣に座っていた。


その沈黙が、責めていないとわかるからこそ、苦しかった。


「これでよかったのかな……」


「小夜」


彼は、そっと私の肩を抱いた。


「よかったかどうかなんて、今すぐ答えを出さなくていい」


「……」


「でも、間違いなく言えるのは、お前は“自分で選んだ”ってことだ」


その言葉に、胸がじわりと熱くなる。


「自分で選ぶことを、怖がってた小夜が……自分の足で、そこから出てきたんだよ」


「……でも、怖い」


「怖くて当然だよ。逃げるって、壊すことだから。けど、もう誰にも“壊されない”」


文哉の手が、少しだけ力を込めて私を抱き寄せた。


「これから一緒に、“作る”んだよ。お前の人生を、取り戻していくんだ」


その言葉に、私はようやく涙を流せた。


悔しさも、不安も、哀しさも——全部。


静かな夜の街で、ようやく本当の意味で泣けた気がした。


自由は、想像よりも冷たくて。


でも、その隣には、かつて手放したはずの温もりが、確かにあった。


私は今、ようやく“生きている”と感じていた。


たとえ、何も持っていなくても。


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