第2章 仮面の生活
「……俺が全部、背負うよ。何があっても」
そう言ってくれたのは、あの日の午後だった。
震える私の手を、文哉がそっと包み込みながら、静かにそう言った。
その瞬間は、確かに救われた気がした。
けれど。
その言葉が、時間と共に、別の形に変わっていく。
重さに。怖さに。そして、疑いに。
***
その週末。
文哉からの連絡は、なかった。
「今日は無理そう。ちょっとトラブってる案件があってさ」
平日のメッセージも、どこかそっけなかった。
気のせいかもしれない。でも、気のせいじゃない気がした。
私の不安は、じわじわと心を浸食していった。
“全部、背負う”って言ったくせに。
私の方ばかりが、震えてる。
私の方ばかりが、壊れそうになってる。
どうして、あなたは——
***
「……ねえ、本当に“背負う”って言ったの、覚えてる?」
翌週の金曜。久しぶりに会った文哉の部屋。
髪を乾かす彼の背中に、思わず、そう声をぶつけていた。
「え……?」
文哉は、驚いたようにこちらを振り返る。
「私だけなんだよ。毎日びくびくして、夫の顔色伺って、周りの目を気にして……それでも会いに来てるの。あなたのために」
「小夜……」
「でもあなたは? 連絡も遅いし、週末も“忙しい”って、それだけ? 本当に私のこと、守る気あるの?」
止まらなかった。
止められなかった。
溜めこんだ不安と孤独と、ほんの少しの嫉妬が、言葉になってこぼれていく。
「私はね、すべて失う覚悟で、ここにいるの。結婚も、立場も、全部。でも……あなたは? 何も失ってないじゃない」
「……そんなこと、ないよ」
文哉の声が低く、重く響いた。
「俺だって、毎日怖い。バレたら終わりだってわかってる。でも、それでも小夜と会いたくて……今も、こうしてる」
「じゃあ、どうしてもっと言ってくれないの。私がどれだけ不安か、気づいてたでしょ」
「……ごめん」
その一言に、また胸が苦しくなった。
謝ってほしいわけじゃない。
ただ——「大丈夫だよ」って、抱きしめてほしかった。
なのに、私の言葉は棘ばかりで。
彼の目に、わずかな傷を残してしまった。
「ねえ……文哉」
「……うん」
「私、どうすればよかったのかな」
問いかけたその声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
文哉はゆっくりと近づいてきて、私の頬に手を添える。
「俺がもっと、強ければよかったんだと思う」
「……」
「不安にさせて、ごめん」
そう言って、そっと抱きしめてくれた腕は、あたたかかった。
でもそのぬくもりさえも、今の私には、刹那的に思えた。
——永遠になんて、続かない。
それが分かっているからこそ、余計に苦しい。
“好き”の代償が、“壊れる覚悟”なら。
私はこの先、何を差し出せばいいのだろう。
答えのない夜が、またひとつ深くなっていく。
文哉の腕の中にいたはずなのに。
それでも、どこか寒かった。
彼の胸に顔をうずめながら、私は自分の呼吸の音だけを聞いていた。
謝ってしまったこと。
怒鳴るように言ってしまったこと。
本当は、あんなふうに言いたかったわけじゃない。
もっと素直に、「寂しかった」って言えばよかった。
「不安なんだよ」って、ただそれだけだったのに。
私はまた、大切なものを傷つけてしまった。
***
「……小夜」
「……なに?」
「今日は、泊まっていきなよ」
その言葉に、小さくうなずいた。
泊まったからって、不安が消えるわけじゃない。
でも、今夜だけは——誰にも見つからない場所で、ひとりじゃないことを確かめたかった。
真誠の隣のベッドじゃ、どれだけ眠っても満たされなかった「温度」。
それがここには、あった。
***
翌朝、文哉の部屋で目を覚ますと、窓の外はしとしとと雨が降っていた。
静かに流れる天気予報の音。キッチンから香る、インスタントコーヒーの匂い。
何も特別じゃない朝なのに、心のどこかが少しだけ軽かった。
「起きた?」
「……うん」
文哉がマグカップを差し出してくれる。
「昨日のこと、気にしてないから」
そう言う彼は、優しすぎた。
本当に、気にしてないのだとしたら。
それもまた、私を不安にさせる。
「……ありがとう。でも、私、たぶんまた言うと思う」
「いいよ。何度でも聞くよ。俺、そういうの、全部含めて小夜が好きだから」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
嬉しいはずなのに、苦しい。
「……私、ほんとに最低だよね」
「そんなことない。むしろ、俺のほうが——」
「違うよ」
遮った声が、自分でも驚くほど強くて。
「あなたはまだ、何も失ってない」
ぽつり、と本音がこぼれた。
「私はいつか……全部を失うかもしれない」
「……」
文哉は何も言わなかった。
でも、その沈黙が、私の不安をより強くした。
「ねえ、本当に全部、背負える? 私のこと、人生ごと……守れる?」
問いかけた声が震えていた。
重ねるたびに増えていく“嘘”と“罪”。
それでも、彼がそばにいてくれるならと、私は今も願ってしまう。
でも、その願いが本当に叶うかどうかは、まだ誰にもわからない。
それどころか——
誰かに気づかれる日は、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。
それを思うと、背筋に冷たいものが走った。
そしてまた今日も、小夜は仮面をつけて、“社長夫人”としての生活へと戻っていく。
ふたりの秘密を胸に隠したまま。
「おかえり」
玄関に入ると、真誠の声が聞こえた。
その瞬間、心臓がひとつ、跳ねる。
——帰ってくる時間、知ってたの?
いつもなら、会食か残業で遅い時間のはずなのに。
「ただいま。……どうしたの、今日は早いんだね」
「会食、キャンセルになってね。たまには家で、ゆっくりするのも悪くない」
言葉は穏やかだった。
けれど、どこか妙な間があった。
視線も、普段より少し長い気がする。
……気のせい、じゃない。
私は無意識に手元のバッグを握りしめた。
中には、今朝 文哉の部屋で受け取った書類のコピーが入っている。
仕事用。表向きにはそう言えるけれど——
「……そのバッグ、珍しいね。最近、使ってなかったんじゃないか?」
「え?」
何気ない風を装ったその一言に、背筋が凍った。
見られてる。そんな予感が、皮膚の奥を這う。
「……気まぐれ。急いで出たから、近くにあったのを」
「ふうん」
会話はそれ以上、広がらなかった。
でも私は知っている。
この人は、「黙っている」という形で、観察する。
言葉よりも、視線で、態度で、相手の“嘘”を炙り出す人間だ。
***
その夜、ベッドの中で背を向けたまま、私は眠ったふりをした。
真誠の気配がすぐそばにある。体温も、呼吸も。
でも、なぜか、まるで冷たい氷のように感じた。
まるでそこにいるのが、「夫」ではなく、「見張る者」だったかのように。
スマホの通知は切ってある。
だけど、画面を裏返して置いた理由は、自分でもわかっていた。
——怖いのだ。
自分の秘密が、静かに壊されていく音が聞こえてくる気がして。
***
翌朝、食卓に並ぶいつも通りの朝食。
だが、その静けさのなかで、真誠がふと、こんなことを言った。
「藤川小夜としての君は、もう終わったと思っていたけど——」
フォークの動きが止まる。
「たまに、懐かしさに引っ張られることって、あるよね」
「……どういう意味?」
「いや、独り言さ」
口元に笑みを浮かべながら、彼はコーヒーを飲んだ。
その微笑みが、なによりも怖かった。
まるで全部、知っていて、それを楽しんでいるような——そんな顔。
「……行ってきます」
「いってらっしゃい。今日も綺麗だよ、小夜」
微笑み返して、玄関を出た。
背後で、静かに閉まるドアの音がした瞬間、私はその場にしゃがみ込んだ。
どうして、こんなに息が苦しいんだろう。
私が壊れるより先に、この生活のどこかが、音を立てて崩れていく気がする。
でも、それでも——文哉と会うことを、やめられない。
彼だけが、私を「わたし」として呼んでくれるから。
そして、その弱さが、一番の罪なのだとわかっていても。
——密告者
その日、部署内で奇妙な沈黙があった。
会議のあと。誰かが、私の背中をじっと見ていた気がして振り向くと、経理部の後輩・佐伯がすぐ目を逸らした。
「……何か、あった?」
「いえ。別に……」
目は笑っていたけれど、その奥が冷たい。
その違和感を持ったまま、私はオフィスを後にした。
そして数時間後——
社長室で、ある報告が静かに行われていた。
***
「それで……この内容に、偽りはないのか?」
真誠の問いに、女性社員は震える指先でスマホを差し出した。
「……こちらに。社員用通用口の防犯カメラの映像と、同じビル内のカフェでの写真……あと、LINEのスクショもあります」
「なるほど」
真誠は、それをひとつひとつ確認する。
目元に浮かぶのは、驚きでも怒りでもない。
ただ、冷静な受容と、次にとるべき“手”を考える沈黙。
「あなたは、このことを他には話していないね?」
「……はい」
「それが“正しい選択”だったことを、きっとすぐに実感できる」
そう言って、真誠は微笑んだ。
——穏やかな声だった。
けれど、その場の空気は、氷のように張りつめていた。
***
その夜。
私は帰宅して、キッチンでお湯を沸かしていた。
すると、真誠が書斎から姿を見せ、言った。
「小夜。明日、少しだけ予定を空けておいてくれないか?」
「え……なにかあるの?」
「ちょっとした、話があるだけだよ。夫婦としての確認、というやつかな」
その言葉に、背中がぞわりとした。
「……わかった」
笑顔で返しながら、手元のマグカップが震えていた。
見えない誰かの“手”が、確実に私たちの秘密に触れ始めている。
そしてその誰かが、“味方”ではないことを、本能が告げていた。
“密告された”——その確信が、喉の奥に重く沈んだ。
誰なのかは、まだ分からない。
でもきっと、すぐにすべてが暴かれる。
真誠が「話がある」と言うとき、それは“告発”ではなく、“宣告”の意味を持つ。
それを思い出しただけで、視界がかすんだ。
崩壊は、もう始まっていた。
静かに。確実に。
——沈黙の圧
翌日。
朝からずっと、心が重たかった。
真誠の言った「話がある」の意味。
それはきっと、ただの雑談なんかじゃない。
何かを“知っている者”が放つ空気。
あのときの彼の目には、確かにそれがあった。
それでも、私は普段通りの仕草を装った。
朝食を用意し、いつも通りに着替え、笑顔をつくる。
「じゃあ、行ってきます」
「……ああ、今日は迎えに行くよ。オフィスまで」
「え?」
「たまには、いいだろ?」
笑っていたけど、私にはもう、それが“監視”にしか思えなかった。
私の動きを、近くで見ていたい。
そんな意図を、勝手に読み取ってしまう自分がいた。
そしてその通り——会社に着いてからも、何かが明らかに変わっていた。
同僚たちの視線。微妙な距離感。
誰も直接は言わないけれど、何かを“知っている”ような、あの空気。
昼休みの食堂でも、後輩の佐伯がわざとらしく近づいてきて、言った。
「藤川さんって、すごいですよね。社長夫人で、仕事もバリバリで……なのに、プライベートも“充実”されてるって噂、最近よく聞きます」
「……噂?」
「うふふ、まあ、どこからともなく。女の人って敏感なんですよ、いろいろ」
皮肉たっぷりな笑顔に、喉が乾いた。
私は静かに食堂を後にした。
走りたかった。でも走れなかった。
何かを“否定する”ことが、逆に“認めた”ように聞こえる気がして。
***
そして、定時。
真誠の黒い車が、会社のエントランスにぴたりと停まっていた。
運転席から出てきた彼は、いつものように丁寧に助手席のドアを開けた。
「お疲れさま、小夜」
「……ありがとう」
その声に逆らえず、私は車に乗り込んだ。
エンジンが静かにかかり、車内にはしばらく無言の時間が流れる。
やがて、真誠が言った。
「……小夜。君は、自分の人生で“必要なもの”と“守るべきもの”を、ちゃんと区別できていると思う?」
「……急に、どうしたの」
「いや。ただ、最近、君の表情を見ていると——少しだけ、心配になる」
「心配って……何を」
「たとえば。……“過去”に引っ張られていないか、とか」
私は言葉を失った。
それはもう、遠回しでもなんでもない。
彼は、知っている。
そして今、私は“答え”を試されている。
「私は……」
喉の奥で、声が詰まる。
嘘をつくことが、どれほど簡単か。
でも、それがどれほど無力かも、もう知っている。
言わなければならないことと、言ってはいけないことが、紙一重の距離にあった。
真誠の横顔は、笑っていた。
けれどその目は、まるでガラスのように冷たかった。
「……このあとの予定、キャンセルしておいたよ。少し、ちゃんと話そう」
その声に、背筋が凍る。
“話そう”——その言葉の裏には、刃のような緊張が隠されていた。
私は今、試されている。
愛されているのか、それとも裁かれるのか。
もうすぐ、それが明らかになる。
——疑念の向こう側
車は、ゆっくりと高級マンションの駐車場に滑り込んだ。
エンジンが止まっても、しばらくの間、誰も動かなかった。
「……帰ろうか」
真誠の一言で、私はようやくドアに手をかけた。
身体は重たく、足は硬く、でも、戻るしかなかった。
エレベーターの中。
誰もいない空間なのに、息苦しいほどの沈黙が満ちていた。
チン、と電子音が鳴ってドアが開く。
部屋に入っても、真誠はスーツの上着を脱いだだけで、無言のままリビングへ向かう。
私はキッチンに立って、習慣のように湯を沸かし始めた。
——何か、話さなければ。
けれど、何をどう言えばいいのか、わからない。
「座って、小夜」
呼ばれて、私はおずおずとダイニングテーブルに腰を下ろす。
真誠は、グラスに赤ワインを注ぎながら言った。
「……夫婦として、話をしよう」
その声は、どこまでも穏やかだった。
それがかえって怖い。
「最近、少し気になってることがあってね」
彼は、グラスを指先でくるくると回した。
「君が、誰と過ごしているのか。仕事以外の時間を、誰と共有しているのか」
その言葉に、喉がきゅっと締まる。
「……どうして、そんなことを?」
「さあ。直感、かな。あるいは、情報源があるとしたら——君にとっては、どちらが都合がいい?」
私は言葉を失った。
「小夜。僕はね、信じたかったんだ」
「……」
「社長夫人としての君でもなく、美しい妻としての君でもなく、藤川小夜という一人の人間を」
その言葉は、まるで愛の告白のようで——
同時に、告発の宣言のようだった。
「でも、もう答え合わせの時期かもしれないね」
静かに、彼はポケットから一枚の写真を取り出した。
差し出されたのは、文哉と私が並んで歩く後ろ姿。
夜の道。誰にも見られていないと思っていた、あの帰り道。
「これ、なんだと思う?」
問いかける声は、あくまでも優しかった。
だけどその指先は、まるでナイフのように正確だった。
「これは……」
声が出なかった。
嘘をつくことも、肯定することもできなかった。
「君が選ぶなら、今だよ」
真誠は、私の目をまっすぐに見て言った。
「嘘をついてこの場を凌ぐこともできる。でも、僕はもう、どちらでもいいと思ってる」
「……どうして」
「君を“許したい”のか、“壊したい”のか、自分でもよく分からないから」
グラスの中の赤ワインが、わずかに揺れた。
それは、まるで血のようだった。
「ねえ、小夜」
「……なに」
「君は、彼と過ごす時間で、本当に幸せだった?」
その問いに、私はどうしても、答えることができなかった。
“幸せ”だったはずの時間が、いまや自分の首を絞めている。
——私は、もう戻れない場所にいる。
それだけは、はっきりしていた。
——切り離される手
その日、文哉の態度は、明らかに違っていた。
朝、社内ですれ違ったとき。
彼は一瞬、私の方を見た。でも、何も言わずに、通り過ぎた。
まるで、知らない人を見るみたいに。
目が合ったのに、逸らされた。
何も言ってこないどころか、話しかけようとする私の気配にさえ、距離を置いた。
メールの返信も、既読のまま帰ってこない。
前なら、どんなに忙しくても「後で話そう」と一言くれたのに。
今は、何も返ってこない。
怖かった。
何かが起きたことは、すぐに分かった。
***
その日の午後、私は休憩室で、文哉の姿を見かけた。
ひとりでコーヒーを飲んでいる。
私に気づいても、目を伏せたまま。
……もう、限界だった。
私は周囲の目を気にせず、彼の前に立つ。
「……話がしたい」
「……小夜」
彼が名前を呼んだ。その声には、かつてのぬくもりが、もうなかった。
「昨日、何があったの?」
「……君の旦那さんが、俺のところに来た」
頭の中が真っ白になった。
「え……直接、来たの?」
「仕事中だった。だけど、あの人は容赦なかった」
文哉はカップを握りしめたまま、静かに言った。
「俺に、“警告”しに来た。……いや、もっと正確に言えば、“通告”だった」
「なにを……言われたの?」
「“今すぐ妻から手を引け。次は社会的に潰す”って」
「……っ!」
声にならない悲鳴が喉の奥に溜まった。
「俺の経歴も、仕事のことも、家族のことまで把握してた。……調べ尽くしてたよ、完璧に」
文哉の顔は、怒ってもいなかった。
ただ、虚ろだった。
「……ごめん」
私がそう言った瞬間、文哉は顔を歪めた。
「謝るな。そういう問題じゃない。……でも、もうこれ以上は無理だ、小夜」
「なにそれ。……どういう意味?」
「これ以上、続けたら……俺たち、本当に終わる」
「私たちは……もう、終わってるの?」
聞きたくなかった。
でも、どうしても確かめたかった。
彼は何も言わなかった。ただ、立ち上がって、私の横を通りすぎた。
「もう……話しかけないでくれ」
そう言い残して。
私はその場に、崩れ落ちそうになった。
愛しているのに。
想っているのに。
それでも、守ることも、抱きしめることも許されない。
私たちの関係は、今ここで——
“他人”へと戻された。
音もなく、静かに。
誰にも知られずに、確実に。
——あの言葉は、嘘だったの?
「……話しかけないでくれ」
そう言って去っていった文哉を、私は追いかけた。
足が勝手に動いていた。
理性は止めろと言っていた。
でも、心が叫んでいた。
——まだ終わりじゃない。終わらせたくない。
「待ってよ!」
オフィス裏の非常階段。
人目を避けるようにその扉を押し開け、私は彼の背中を呼び止めた。
「文哉、待ってってば!」
彼は、立ち止まった。
だけど振り向かない。
「どうして……! あんなふうに言えるの……?」
「小夜……」
「“全部背負う”って……言ったよね? あの夜、私の手を握って……“何があっても守る”って、言ったよね?」
言葉が、怒りと涙でぐちゃぐちゃになった。
「嘘だったの? 全部、口だけだったの?」
「違う。……違うんだよ、小夜」
「じゃあなんで逃げるの!? 私だけに全部押しつけて、自分は距離取って、それで終わりにするつもり?」
「そうじゃない!」
文哉が振り返った。
その顔には怒りじゃなく、苦しみがあった。
「俺だって、守りたかったよ。何度も思った。お前のこと、全部受け止めたいって」
「じゃあどうして……」
「だけど、現実は違った」
彼の声は震えていた。
「相手は“社長”だ、小夜。何でもできる。会社も、情報も、人も。……俺たちの関係を全部掴んだ上で、脅してきた」
「……そんなの、私には関係ない。怖くても……それでも、あなたがいれば……」
「でも、小夜、俺は“全部”なんて、背負えなかった」
その一言で、心臓が裂ける音がした気がした。
「俺が君を守ることで、君がもっと壊れるのを見たくなかったんだ」
「……壊れたのは、あなたがいなくなったから」
私は絞り出すように言った。
「あなたが、“味方”じゃなくなったから……」
文哉は言葉を失ったように、ただ私を見ていた。
その目の奥に、たしかにまだ“想い”はあった。
でも、それだけじゃもうどうにもできない場所まで来てしまったのだと、私もわかっていた。
「小夜……」
「私ね……あの言葉、信じてたんだよ。“全部、背負う”って」
「……」
「だから、全部壊してまで、あなたに会いに行ったのに」
目からこぼれた涙が、頬を伝って静かに落ちる。
風のない階段の踊り場で、ふたりの沈黙だけが、時間を埋めていた。
そして——
「ごめん」
その一言だけ残して、文哉は階段を降りていった。
私はその場に立ち尽くし、ただ、泣いた。
背負ってほしかった。
けれど、本当に重たかったのは——
私の気持ちそのものだったのかもしれない。