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蜜の檻  作者: 月影愛
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第1章 再会

「おかえりなさいませ、藤川さん」


受付で交わされたその一言が、どうしようもなく自分を“他人事”のように感じさせた。


三か月ぶりの職場。


——いや、もう“職場”と呼んでいいのかも、少し自信がない。


吉原真誠と結婚してからというもの、私の名前は〈社長夫人〉という肩書きに塗り潰され、誰かと話すときも、歩くときも、どこかで視線の重さを意識するようになった。


「藤川さん、復帰されたんですね。いやあ、旦那さんがウチのライバル会社の社長だって聞いて、びっくりしましたよ」


総務の田中さんが、にこやかに話しかけてくる。


私も笑顔で返したけれど、どこかでずっと、警戒していた。


余計なことを言わないように。気を悪くさせないように。妙な勘繰りをされないように。


「……あれ? 藤川さん?」


廊下を曲がったその先で、懐かしい声が聞こえた。


その声だけで、心臓が跳ねる。


振り向くと、そこにいたのは——


「市野くん……」


——市野文哉。元カレ。元同僚。


そして、いまでも同じ会社に勤める男。


久しぶりに見るその顔は、やっぱり変わっていなかった。相変わらず整った目元、さっぱりとした髪型、そして少し困ったように笑う癖。


「……結婚、おめでとう」


「あ、ありがとう。……知ってたんだ」


「まあ、ニュースにも出てたしね。吉原ホールディングスの社長と結婚って、大きな話題だったよ」


どこか冗談めかして言う彼の声に、私の頬は自然とこわばった。


「うん……びっくりした?」


「うん。正直、かなり。まさか、あの小夜が社長夫人になるとはなあ」


「あの小夜って……何よ、それ」


「いや、ほら、俺の知ってる藤川小夜は、残業嫌いで、コンビニスイーツで元気出すタイプだったからさ」


「今でも、それはあんまり変わってないけど……」


思わず笑ってしまった。


そんな何気ないやりとりが、どれほど懐かしかったか。


その空気感が、胸の奥にひどく心地よくて、同時に、怖かった。


「でも……なんだろうな」


文哉がふと、真面目な顔をして言った。


「元気そうに見えるけど、あのときより、少しだけ無理してるようにも見える」


——その一言に、心がざわめいた。


「そっちは、どうなの? 誰かと付き合ったりとか……」


「うーん、まあ、ぼちぼち。けど、続かないんだよね。……たぶん、忘れられない人がいるからかも」


「……」


言葉が喉で詰まる。


それが誰かなんて、聞かなくても分かってしまうから。


「また会えて、よかったよ、小夜」


その呼び方。


今は誰にも呼ばれないその名前を、彼だけが自然に口にする。


私の中のなにかが、ゆっくりと、静かに軋みはじめた。


——ほんの少し、だけど確かに。


そして私は、この再会が何かを揺るがせるのだと、まだ知らなかった。


けれど、たぶん。


この瞬間から、私はもう「社長夫人」だけではいられなくなっていたのだ。


その日の仕事は、正直ほとんど頭に入らなかった。


慣れたはずの書類作業。よく知った同僚たち。馴染みの会議室。


——それなのに、どこか全部が、違って見えた。


昼休み、オフィスビルの屋上に出て、私はひとり缶コーヒーを開ける。


微かに風の吹く空の下、さっきの会話が何度も脳内でリピートされた。


『また会えて、よかったよ、小夜』


ほんの短い一言だった。


でも、それがまるで、鍵のかかった記憶の扉を開けてしまったみたいで——


私の胸の奥から、古い景色が流れ込んでくる。


ふたりでコンビニスイーツを買って帰った雨の日。


電車の中で彼の肩にもたれて寝てしまった夜。


彼が私の寝癖を、笑いながら直してくれた朝。


「あんなに好きだったのにね……」


誰に言うでもなく、ぽつりと呟いたその言葉が、風に流れて消えていった。


***


「藤川さん、これ、明日までに見ておいてもらえますか?」


午後、仕事の指示を受けながらも、ぼんやりしていたせいで、名前を呼ばれるまで気づけなかった。


「……あっ、はい! すみません」


苦笑いを浮かべながら受け取った資料の束。その端っこに付けられていた付箋には、見覚えのある文字。


《こっちの案件、ちょっとややこしいから、あとでフォロー入れます。——市野》


文字だけで分かる。やっぱり、あの人だ。


仕事上の配慮だってわかってる。特別な意味なんて、きっとない。


でも、こういうさりげない気遣いが、いちばん厄介なんだ。


私の心は、それを“優しさ”として受け取ってしまうから。


***


「今日は遅くなる?」


夜、家に帰ると、真誠が書斎から顔を出した。


「ううん、定時に上がったよ。明日は会食?」


「そう。急に入った。こっちの案件、ちょっと面倒でな。……食事は済ませてきてくれ」


「わかった」


それだけのやりとり。言葉に棘はない。


でも、温度もない。


ダイニングには、テーブルに並べられた高級な皿とグラス。インテリアは完璧で、生活に足りないものなんて一つもない。


けれど、何かが……ここには、決定的に足りていなかった。


それが「ぬくもり」なのか、「安心」なのか、それとも——「愛」なのか。


私にはもう、わからなかった。


***


その夜、寝室の灯りを消しても、なかなか眠れなかった。


ふとスマホを手に取り、SNSを開く。


仕事関連の投稿に混じって、同僚たちのくだらないつぶやき。そしてその中に、ふと目に留まった投稿があった。


《久々の夜景現場。風が冷たい》


投稿主:市野文哉。


添えられた写真には、会社の近くの橋の上。そこは、私と彼が最後に言い争った場所だった。


「……わざと、なの?」


そんなはずない。


偶然、だとわかってる。


でも、私はその写真を、何度も見返してしまった。


そして気づいてしまう。


——私は、いまもあの人を見つめてる。


結婚して、別の名前になって、別の世界に住んでいるはずの私が。


まだ、文哉を忘れられていない。


——それだけは、もう確かだった。


「藤川さん、昼、空いてます?」


翌日の昼休み。


デスクでお弁当を広げかけていたとき、不意にかけられた声に、私は小さく肩を跳ねさせた。


顔を上げれば、そこに立っていたのは——


「市野くん?」


「うん。ちょっとだけ、話せるかなと思って」


彼の手には、コンビニの紙袋。


見慣れたデザインのスイーツと、二本のアイスコーヒーが見えた。


「……タイミング、いいね」


「狙ったから」


冗談めかした笑顔。


けれど、その目はどこか真剣で、まっすぐで。


私は、ほんの少しだけ考えてから、そっとお弁当の蓋を閉じた。


「……じゃあ、屋上にしよっか」


***


「変わってないね。ここ」


ビルの屋上。フェンスの向こうに広がる都会の景色は、以前と何ひとつ変わっていなかった。


「変わったのは、私たちのほうでしょ」


「……だな」


ベンチに並んで座りながら、ふたりで紙コップのアイスコーヒーをすする。


冷たいはずの飲み物が、やけにぬるく感じた。


「吉原さんって、どんな人?」


「……真面目。几帳面。賢い。完璧」


「恋人としては?」


「……厳しいかな」


言ってしまってから、後悔した。


でも、文哉は責めるような顔はしなかった。ただ、少しだけ、寂しそうに目を伏せただけ。


「俺さ、ずっと後悔してた」


「え?」


「別れたあの日。ちゃんと引き止めなかったこと」


「……」


「ごめん、小夜。あのとき、もっと素直になれてたら……」


「やめて。今さらそんなこと言われても……」


口ではそう言いながらも、心のどこかで——その言葉を、ずっと待っていた自分がいた。


「……幸せになってほしかったんだ」


「そう、だね。私も……そう思ってたよ」


言葉は優しい。でも、それは“終わった人たち”が使う言葉だった。


私たちは、もう恋人じゃない。ましてや、私は他の誰かの妻だ。


それなのに。


文哉の言葉も、視線も、コーヒーの差し出し方ひとつでさえ。


全部、私の中に染み込んでくる。


「あのさ……今でも、夢に見るんだ」


「……なにを?」


「小夜のこと。最後に泣いてた顔。俺、それをずっと、どこかで消せずにいる」


「……文哉」


風が吹いた。


その一瞬、彼の指先が、私の手の甲に触れた。


ほんのわずか。けれど確かに。


触れてしまった距離。


心と身体の、境界線。


「忘れられないよ、小夜。たとえ、君が結婚してても——」


言いかけたその言葉を、私は震えるまつげで遮った。


聞きたくない。でも、本当は、誰よりも——聞きたい。


このままじゃいけない。


なのに、もう戻れない。


私の中で、なにかが崩れはじめていた。


静かに。ゆっくりと。


そして確かに、ふたりの関係は、あのときの屋上から——また、動きはじめていた。


——2人の密かな時間


「……じゃあ、また明日」


「うん、お疲れさま」


何気ない会話を交わし、文哉と別れてから、私は駅のホームでしばらく立ち尽くしていた。


人混みの音。アナウンスの声。通り過ぎていく電車。


なのに、私はなぜか、帰るべき場所に向かう気持ちになれなかった。


——このまま帰って、冷えた食事と、静かなリビングと、夫の不在を迎えるだけ。


ふと、スマホを開く。


《今、どこ?》


何気なく打ったそのメッセージに、ほんの数秒で返信が届いた。


《会社出たところ。そっちは?》


《駅にいる。……会えたりする?》


送信ボタンを押した瞬間、鼓動が早くなる。


そして、またすぐに届く短い返事。


《……行くよ》


たったそれだけのやりとり。


それでも、今夜がもう“普通の夜”じゃなくなったことを、私は本能で理解していた。


***


「小夜……」


夜のカフェ。人気のない奥の席。


ガラス越しに街の灯りが揺れていて、それがまるで、ふたりの背徳をやさしく包んでくれているみたいだった。


「急に呼び出して、ごめん」


「呼んでくれて、うれしかったよ」


文哉は、まっすぐにそう言った。


嘘じゃない。そう確信できる目をしていた。


「私、たぶん……弱ってたんだと思う。あなたに会って、いろいろ思い出して。……逃げたくなった」


「いいよ。逃げても」


「でも、逃げても私、あの人の奥さんだよ?」


「知ってる。でも……それでも、いい」


その言葉が、胸の奥に焼きついた。


いけないって、分かってる。傷つける人がいるって、分かってる。


でも、どうしてだろう。


文哉の目を見ると、私は何もかもどうでもよくなってしまいそうになる。


「……ずるいよ、そういうの」


「ごめん。でも、小夜のこと、まだ好きなんだ」


不意に、指先が触れる。


テーブルの下で、そっと繋がれた手。


そのぬくもりに、私は逆らえなかった。


「……私も」


言ってしまった。


もう、戻れない。


***


その夜、ホテルのベッドの中で、文哉は私の髪を撫でながら、何度も「小夜、小夜」と名前を呼んだ。


優しくて、どこか痛ましい声だった。


私は何も言えずに、その胸に顔を埋めていた。


罪悪感も、恐怖も、どこかへ押しやったまま。


ただ、心だけが震えていた。


これは、たった一度の過ちなのか。


それとも、始まりなのか。


——まだ、誰にも知られていない“ふたりだけの秘密”。


けれどきっと、この夜を境に、すべてが変わってしまうのだと、私のどこかが確信していた。


そしてそれでも、私はその腕を、離せなかった。


その日から、私たちは“秘密”を共有するようになった。


週に一度、遅くなったふりをして会社を出る。


待ち合わせの合図は、決まってメッセージ一通だけ。


《今日は……会える?》


短くて、どこか切実なその言葉に、私は毎回“はい”と返してしまう。


夜の静かなホテルの部屋。

少しだけ贅沢なベッド。

触れる指先。交わす唇。

そして、ひとときだけ“夫ではない誰かのもの”になる感覚。


「俺、小夜のこういう顔、ずっと好きだった」


「……どんな顔?」


「少しだけ、甘えたがってる顔」


文哉のその言葉に、心が波打つ。


結婚してから、そんなふうに言われたことはなかった。


真誠は、私を“妻”として丁重に扱ってくれる。

けれどそこには、恋人のような情熱や、無邪気な愛情の言葉は、存在しなかった。


「小夜は、もう十分頑張ってるよ」


そう言って、文哉は私の髪を撫でる。


その手の温度に、私は何度も救われていた。


でも。


でも、ふとした瞬間に——


心に冷たい針が刺さる。


***


「今日は、会食で遅くなる」


夫からの連絡は、それだけだった。


私は一人で食事を取り、一人でお風呂に入り、ベッドに潜り込む。


隣の枕は、整ったまま。


スマホを手に取ると、なぜか指が勝手に動いた。


《今、何してる?》


送信したあと、胸がざわめく。


まるで、無意識が“呼んでしまった”みたいに。


ほどなくして、返事が届いた。


《残業終わったとこ。小夜は?》


《眠れなくて……》


それだけ打つと、しばらく既読がつかなかった。


けれど、十五分後——玄関のチャイムが鳴った。


「……嘘でしょ」


インターホンに映ったのは、傘をさした文哉の姿。


「近くまで来てたんだ。……会いたくなった」


心が揺れた。大きく、深く。


「……入って」


私は、自分でも信じられないくらい自然に、玄関を開けてしまった。


誰にも言えない夜が、またひとつ増えていく。


***


それが、いけないことだとわかっていても——


どうしても、やめられなかった。


彼といるときだけ、私は「愛されてる自分」に戻れたから。


それがどれほど、ひどい願望だったとしても。


——誰にも見せない“ふたりの夜”。


少しずつ、私たちはその深みへと落ちていった。


静かに。けれど、確かに。


「じゃあ、また来週」


「うん。……気をつけて」


そう言って別れる夜が、もう何度目になるのか、わからなくなっていた。


最初の逢瀬は、罪悪感と緊張に手が震えた。


でもいまは、文哉の胸に顔をうずめることも、彼の部屋のソファでじゃれ合うことも、キスをしながら名前を囁かれることも——


「慣れて」しまっていた。


それが、何より恐ろしい。


だけど、それ以上に恐ろしいのは。


「……この時間が、終わること」


そう思ってしまっている自分だった。


***


ある金曜の夜。


文哉の部屋から帰る途中、私はカバンの中で震えるスマホを見た。


《今どこにいる?》


夫・真誠からのメッセージだった。


——何か、いつもと違う。


妙に胸騒ぎがした。


《同僚と飲んでて、これから帰るところ》


ほんの少しの嘘。


でも、いつもはそれで済んだ。詮索されることもなかった。


それなのに、今日はすぐに既読がついて——


《その“同僚”、市野文哉ってやつじゃないよな?》


指先が凍った。


電車の中、まわりの音が遠のいていく。


鼓動の音だけが、ひどく耳に残った。


《……何のこと?》


そう返すのが精一杯だった。


既読はついたが、それ以上、メッセージは来なかった。


ただ、画面を見つめながら私は悟った。


——誰かが、見てる。


私たちの関係を、誰かが“知っている”。


***


「どうした? 顔、真っ青だよ」


翌朝、出勤後すぐに話しかけてきた文哉の声が、やけに遠く感じた。


「……真誠に、バレたかもしれない」


その一言に、彼の顔から血の気が引く。


「昨日、名前を出されたの。“市野文哉”って。……なんで?」


「……わからない。誰かに……見られてたのかもしれない。俺たちが、どこかで」


「そんなはず……」


「けど、小夜。俺は逃げないから。もし何かあっても、俺が全部、背負う」


「文哉……」


その言葉は、確かに優しくて、真っ直ぐで。


けれど同時に、何かを終わらせてしまうほどに、重かった。


***


午後、デスクに戻った私は、ふと誰かの視線を感じて顔を上げた。


——真誠の会社の役員と繋がりのある経理部の女性。私と同じ部署の後輩。


彼女の目が、冷たく細められていた。


「あれ……?」


それはきっと、疑い。


あるいは、確信。


ほんのわずかな油断が、すべてを崩す。


私は今、まさにその綻びの上を、ハイヒールで歩いている。


バランスを崩せば、落ちるのは、私だけじゃない。


そう思いながらも。


夜になるとまた、文哉に会いたくなる自分がいる。


罪と快楽の等価交換。


その等式を壊す勇気は、まだ私にはなかった。



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