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第2話

 目がちかちかするほどの美形が、楠緒子へ舞姫になってほしいと――求婚している。

 不比等。彼はそう名乗った。ならば彼こそが物部家現当主であり、当代の花太夫「物部不比等」なのだ。

 彼のいう舞姫とは、花太夫の舞の相手で、唯一無二の存在。公私ともに花太夫を支え、妻となるということを指す。

 舞を生業とする六家の娘なら、一度は物部家の「舞姫」になることを夢見るものだ。

 楠緒子も、中設楽の娘として教育を受け、舞姫候補としてあの場に臨んでいたなら、求婚も無邪気に受け入れていただろう。


――わたしは、明子様とはちがう立場だ。


 楠緒子でも、多少なりとも世間を知っている。不比等が楠緒子を花嫁に選ぶことは「予定外」だ。人は予定外の出来事を嫌う。

 これは、祝福のない結婚。だれからも望まれていない。


「わたしは、突然、屋敷内でいなくなった明子様の代わりとして舞競べに出ただけの身です。舞は我流で、正式に習ったことはございません」


 舞競べの最中、明子は控室から突然いなくなった。

 楠緒子の目の前で、控室に入った彼女の後ろに続いて入ったはずなのに、明子の姿がない。

 代わりにきれいにたたまれた装束一式と、仮面があった。

 呆然と座り込む楠緒子の背中に声がかけられた。


『明子様、時間が押しております。早くお仕度をしてください』


 楠緒子は正直に話そうと思ったのだ。明子がいなくなった、探してほしい、と。

 だがその前に叱咤の声が浴びせられる。


『早く! 舞ってくださいませ!』


 ――楠緒子は振り返る。だれもいなかった。足音さえも聞こえなかった。

 だから楠緒子は「人ならざる者」が明子を隠したのだと悟った。その者は楠緒子に舞ってほしいのだろう。

 幼いころから、楠緒子の耳と目は「人ならざる者」を感じ取る能力に長けていたから驚かなかった。この場合、言うとおりに舞えば、明子は返されるのだろう。

 楠緒子は仮面を手にとった。紙を貼り付けて作られた仮面は、陰鬱な表情をしていた。哀しげで、救いを求めているように見えたのだ。

 この時、それまで一点の曇りもなかった楠緒子の心に、魔が差した。――天下の物部家、それも花太夫の前で舞を披露できたらどんなに名誉なことだろう。

 ……楠緒子は完全に体を起こし、不比等の前で平伏した。


「明子様の代わりに舞ったことで、舞競べの秩序を乱しました。軽率な真似をいたしました。この罪はわたしひとりが負うべきものです。どうか中設楽の方々にはお咎めのなきようにお取り計らいいただけたらと……」


 不比等はしばらく思案していたようだ。沈黙が続く。やがて、楠緒子の頭上から降ってきたのは静かな問いかけの声だった。


「すなわち――舞姫にはならない、と」


 心苦しい気持ちになりながらも、楠緒子は平伏したまま「申し訳ございません」と言葉を絞り出す。


「わたしのような卑賎の身には過ぎた申し出でございます。当時は無我夢中で、記憶もおぼろげではありますが、花太夫様にお気に召していただけたのなら、その舞は会心の出来だったのでしょう。わたしにはそれだけで十分な名誉です」


 誇張ではなく、楠緒子はそう思っていた。

 この先の人生がつらいことばかりでも、その一夜の出来事だけで、己を誇ることができるのだと。

 それだけでいい。身の丈に合わない願いを抱いて、互いに不幸になる道を選ぶ必要などないのだ。


「……顔を上げなさい」


 楠緒子は、不比等の指示に従って、上半身を起こした。


――まただ、また、この目。


 楠緒子に向けられる強い感情が見える。堰を切ってこぼれだしそうな心を押し戻そうとしている。


「あなたは……私を見て、何か思い出しはしないか……?」

「え……?」


 楠緒子は不思議に思いながらも、正直に首を振る。


「どこかで、お会いしたことがございましたか……?」


 不比等の眼が伏せられた。深く呼吸した後、「いいや」と否定した。


「あなたは一度、倒れている。しばらくはこの邸で静養していなさい。その後のことはまた別の機会に話し合うことにしよう」


 そう言い残した彼は部屋を出ていった。

 ひとり残された楠緒子は、布団の傍らに置かれていた風呂敷の包みを解いた。思っていた通り、彼女が物部家へ持ち込んだ荷物や着物、履き物がまとめられている。


――明子様はカンカンに怒っていらっしゃるわね。


 中設楽の家人たちも似たようなものだろう。戻れば折檻が待っている。

 それでも楠緒子には、中設楽家に帰らなければならない理由があった。

 先ほどの様子を見ると、不比等はまだ楠緒子を屋敷へとどめておきたいようだが――。

 中設楽に帰るなら早くしたほうがいい。不比等が何も言わなかったのなら、明子は無事に中設楽に帰り着いているのだろう。

 楠緒子は粛々と、元の着物へ着替え始めたのだった。



 楠緒子は手早く支度を整え、縁側から庭に出た。

 広い庭園に巡らされた小道を頼りに外へ出ようというのだ。

 彼女はだれにも見咎められることなく、常緑の小道を進んでいったのだが、やがて足が止まる。

 これほど歩いてもなお、同じ景色ばかり続くのはおかしい。

 門、庭、屋敷。楠緒子が昨日屋敷を訪れた時、互いの距離は今の感覚よりも遠くなかったはずだ。

 さらに物部家の屋敷には大きな池もあった。これすら見えてこないのはますます変だ。

 これは明子の神隠しと同じで、「人でない者」の仕業だろう。

 カサ……と傍らの繁みが動いたのはその時だった。

 何かの塊が楠緒子の身体に勢いよくぶつかってきた。

 少女だ。楠緒子のお腹のあたりに顔を押し付けて、ぎゅううっと抱きついて離れない。

 目にも鮮やかな赤い着物。黒髪は肩口で切り揃えられている。


「うう~うう~」


 くぐもった声が下から響く。


「い……か、ない、で……」


 辿々しい言葉遣いで言う少女は、頑なに顔を上げなかった。

 少女からは、獣臭がした。


「あなたが、わたしをここから出られなくしているのね?」


 沈黙の後、こくん、と少女は首を縦に振る。

 人を迷わすモノだが、悪意はない。少女から漂う匂いからして……その正体は。


「この屋敷に入って、案内された際に――こちらを見ているタヌキがいたのだけれど」


 草陰から楠緒子を見つめるいじらしい視線が、印象に残っていたのだ。

 物部家の屋敷は広大で、霊力に満ちている。棲みつく動物もいれば、霊力に当てられてあやかしに近い存在となるモノもいるのかもしれない。


「もしかして――あなたはあの時見たタヌキ?」


 ぱっと少女は顔を上げた。かわいらしい顔立ちの頬の部分には――ぴょこんとヒゲが生えていた。

 頭から飛び出るふさふさの耳。着物から飛び出た太い尻尾。

 少女はみるみる間に姿を変え、楠緒子から離れるとタッタッタッ、と近くの繁みへ飛び込んだ。


 ――どうして、わたしを迷わせたのかしら。


 単に悪戯をしたかったわけではなさそうだが、理由がわからない。

 行かないで、と懇願されるのもおかしい。一瞬、不比等に命じられたのかとも思うが、高貴な物部家当主があやかしと繋がりを持つだろうか。

 少女に化けていたタヌキがいなくなると、見覚えのない道が現れる。あそこを辿っていけば屋敷から出られそうだ。

 ほっとして歩き出そうとすれば。


「どこに行こうとしている?」


 背中に苛立ちを抑えた声が投げかけられる。

 振り返れば、白銀の髪を持つ美しい人がいる。


「……花太夫様」


 楠緒子は一礼した。





 静かに物部家を去るつもりだった。

 そのために部屋には帰る意思とお礼の言葉を記した書き置きを残していったのだが、タヌキに化かされているうちに、不比等の目に入ってしまったのだろう。

 不比等の手には楠緒子の書き置きが握られていた。

 

「少し、道に迷っておりました。ご心配をおかけして申し訳ありません。もう出て行けそうですのでご安心ください」


 不比等は眉を顰めた。


「……私は、しばらく屋敷で静養するように伝えたはずだが」

「恐れ多いお言葉でございます。ですが、明子様もお待ちでしょうし、早々においとましたいと思います。帰らなければ」

「私が、舞姫に選んだとしても……?」


 楠緒子は首を振った。


「なぜだ」


 不比等の口調が厳しいものになる。


「あの家に帰る理由など、どこにもないだろう? 明子という娘はあなたを軽んじている。あの様子では屋敷の家人たちも似たようなものだろう。それよりも舞姫として物部家に引き取られたほうがあなたは幸せではないか?」

「……明子様となにか、お話しされたようですね」


 不比等は否定しなかった。

 彼の言いようが確信めいているのは、楠緒子が倒れた最中、明子と言葉を交わしたからに違いない。散々、楠緒子の悪口を吹き込んだことだろう。

 楠緒子は息を吐いた。


「明子様は不器用なところがおありです。花太夫様の前で、わたしを気にかけるそぶりでもすれば、まだ関心をひけたでしょうに、それもできない方ですから」


 あれはあれで可愛げがあると楠緒子は思っていた。

 怖いのは、普段親切にしていても、内心で足を引っ張ることしか考えていない人々のほうだ。


「花太夫様、わたしは己の幸せよりもやるべき役目のために生きているのです」

「その役目が、中設楽家にはあると?」

「はい。わたしの役目は中設楽家の方々を支え、明子様が嫁がれるか、婿を取られるまで見守ることです。そのように幼少から躾けられてきましたから」


 分を弁えることこそ、中設楽家で生きるために身につけた処世術だった。当主を含めた一族は、仕えるべき主人である。自分のような者とは違うのだ。

 ただ、「舞」だけは、手放せなかった。自分も舞いたいと思った。体が、魂が、欲していた。


「他の生き方は、できますまい」


 ざわ、と初夏の風が木々を揺らした。

 楠緒子は目を細めた――その瞬間。

 身体が、真後ろの木に押し付けられていた。


「舞いたいのだろう?」


 密やかな声音が耳朶を打ち、楠緒子はその場に縫い止められたように動けなくなる。

 楠緒子の顔の横に、不比等の腕が伸び、幹に手が触れている。

 至近距離で見つめあう男は、息を呑むほど整った顔立ちをしていた。

 舞うことを宿命づけられた一族の長は、眼光までも魅惑的だった。睫毛まで美しい銀の光を宿している。


「神がかりまで到達するほどの舞を披露したのだ。あなたの目には少しでも見えなかったか? あなたを賛美し、賞賛する物部家の者たちが。そして、イザナミの神があなたを認めた」


 男の指摘は核心をついていた。

 国家の舞を司る頂点にいる物部家。――あの舞競べの場には厳しい目を持つ物部家の重鎮たちが揃っていた。

 彼らに認められるということは……舞い手としてどれほどの意味を持つことか。


「舞う気持ちよさ――快楽を知りながら、これまでと同じように日陰の身で我慢できると思うか……? 本当に、忘れられるとでも?」


 楠緒子は目の奥が熱くなるのを感じた。

 あの時は夢中で舞っていたが……あとになって、楠緒子の耳にも観客の驚きと感心の声が聞こえていたことに気づいた。

 だれも観る者もいなかった舞を観てもらえる喜びに気づかなかったと言えば、嘘になる。

 神がかりとなるほどに神に気に入られたことが、嬉しくないわけがない。


「おやめください……!」


 そのつもりもないのに、声が震える。両手で顔を覆う。泣きたいわけではなかった。取り繕う時間が欲しいだけだった。


 ――わたしは、花太夫様を何も知らない。そして、花太夫様もわたしを知らない……!


 不比等が楠緒子の奥にある「欲望」を強いて揺り動かそうとしているのだとわかっていても、心が乱れるのを止められなかった。

 楠緒子は諦めなければならないのに。


「舞は神へ捧げるものです。『わたし』自身はただの器。国の加護を得られるよう、ひたすらに、真摯に我が身を差し出さなければなりません。花太夫様、試すような物言いをなさらないでくださいませ……!」

「試してなどいない」


 不比等の唇が自嘲気味に歪む。


「これでも翻意を促している。せっかく見つけたわたしの舞姫をみすみす手放したくない。やっと……やっと出会ったのに」


 不比等の懇願が、楠緒子の胸にも響く。本心から彼はそう告げているのだろう。

 あの舞競べでもっとも力量を示したのは楠緒子だったとしても、彼の思いにはそれ以上の感情も含んでいるように思えた。


「どうして、わたしなのですか」


 楠緒子は尋ねていた。


「わたしは、初めてあの場で花太夫様にお会いしただけの身です。いくら良い舞をお見せしたとしても、それだけで……。それにわたしはとうに……」


 その先の言葉を飲み込んだ。

 彼は少し身を離し、視線を彷徨わせた。

 やがて決意したように口を開いて、実は、と動いたが。


「にげて……!」


 突如、少女の声とともに、不比等と楠緒子の間に茶色い塊が飛び込んだ。

 楠緒子は金縛りが解けたように我を取り戻した。

 これ以上、この場に留まるべきではないと思った。


「失礼いたします」


 楠緒子はすぐさま一礼し、開けた道を小走りで行く。

 門から出たところで、一息ついた。

 不比等は追いかけてこなかった。

 楠緒子は息を整えてから足を踏み出し……まただ、と呟く。

 歩いているけれど、地面を踏み締めている感覚がなくなっている。

 仕方なく、足元を確認しながら前屈みで行く。

 すれ違う人の足が、立ち止まっては避けていく。

 楠緒子は先ほど口から滑りかけた「秘密」を思い出した。


――それにわたしはとうに『死んでいる』身なのです。


 死人が「舞姫」になれるはずもない。

 楠緒子はひそやかに唇を噛んだ。

 

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